Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

レナータ・テバルディ/アメリカのいかりや長介/子どもの救急サイト/格差社会

2006-02-28 10:09:54 | 雑記
昨日。『プーシキンとの散歩』読了。作者はソルジェニーツィンらによってずいぶん批判されたらしい。ソルジェニーツィンといえば日本ではソ連体制に反抗した反骨の知識人という感じだが、現代のロシアではいわばロシア・ナショナリズムの偶像となっているらしい。プーシキンの「聖性」を否定したと言う咎でこの作者は批判されているのだが、文学と政治の隠微な関係というのは果てしないと思う。

午前中は原稿を少し書き、昼間に出かけて銀座の山野楽器でCDを3枚購入。「ショーソン交響曲・マニャール交響曲3番」と「レナータ・テバルディのアリア集」、「ムソルグスキイのオペラ、ボリス・ゴドノフ」である。3枚の欲しかった起源はそれぞれ違う。ショーソンは『全生』の前号の巻頭で野口晴哉師がこの時期はショーソンばかり聞くと書かれていたこと、テバルディは以前見たテレビ番組で90歳を超える日本のテナー歌手がカラスを貶しテバルディを絶賛していたこと、ムソルグスキイは言うまでもなく原作がプーシキンだからである。それぞれうなずけるところがある。

ショーソンは19世紀終わりごろのフランスの作曲家だが、後期ロマン派とでも言うのだろうか。非常に瞑想的な曲想で、マーラーなどとも通じるところがある。同じ時期、いや少し違うがヨハン・シュトラウスなどがウィーンローカルという感じがするのに対し、こちらは世界性を感じる。19世紀というのは音楽の中心もウィーンからパリに移った時代、といえるのかもしれない。テバルディの歌声は陳腐な表現で申し訳ないが、まさに天上の歌声としか言いようがない。カラスのような引っ掛かりが全然ない。情感はあっても情念はないというか。芸術至上主義の一つの鑑という感じで、最近こういうものに強く魅かれるようになって来た。ムソルグスキイは3枚組で今も聞いているが聴ききれない。しかしロシアものというのはやはりいいな。無条件に懐かしい感じがしてしまう。なぜなのかよくわからないが。

山野楽器を出て教文館を冷やかしに歩いてみるが、岩波文庫の復刊でネクラーソフ『デカブリストの妻』をつい買ってしまった。あまりプーシキンに関係してくるとも思えないが、デカブリストには何か惹かれてしまうものがある。それにしてもこの3日間でずいぶん散財した。あとが怖ろしい。

友人と電話で話していてヘプバーンの『パリの恋人』がいい(今考えてみたらこの題名、『ローマの休日』の二番煎じだ。原題は"Funny Face"である)という話をしたらまた見たくなり、もう一度見直してやはりいいなと思った。ワンシーンワンシーンをうなずき味わいながら見直すが、自分の中でケイ・トンプソンがいいという気持ちがどんどん膨れ上がっていく。でちょっとネットで調べると、1911年生まれで97年になくなっている。ヘプバーンより長生きである。アステアは1899年生まれ、ヘプバーンは1929年生まれということも分かり、やはり既に歴史というべき時代の人々なのだなと再確認。トンプソンはやはり何でもこなすおそるべき才能であったということが分かったが、終いには「エロイーズ」シリーズと言う絵本までいくつも出していて、ネットの情報ではむしろそちらの方で評価されているらしい。何というか、アメリカの「いかりや長介」みたいな人だなと思ったが、顔が長いという点しか似てないかも知れぬ。

朝なんとなくNHKをつけていたら子どもの救急というサイトの紹介をしていた。子育て経験のない親の増加と少子化による小児科医の減少などによる小児科医の過酷な勤務が問題になっているが、こうしたサイトを活用できれば親も医者も少しは肩の荷が下りるかもしれない。ニュースでこのサイトを紹介した直後は物凄くサイトが重くなっていたが、今はそうでもない。しかしそうとうアクセスが集中したのだろうと思う。

続いての生活ほっとモーニングでは「格差社会」を取り上げていた。若年層の低所得化という問題の深刻さは確かになかなか認識されにくい問題だと思う。今のところ、親の世代に頼るという日本社会の懐の広さというか、そうした安全弁が働いているから表に出てきていないのだが、これは時代が進むにつれてどんどん深刻な問題になっていく可能性がある。今からでも職業教育というものをもっと実用的に徹底していくことと、確実な雇用をどのように生み出すかといった企業と行政側の姿勢の問題があるだろう。意欲がある人たちを生かす仕組みがもう少し出来てこないとなかなかどうにもならないとは思う。本人たちの自己責任だけでは解決しない部分はやはりあるだろう。






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荒川選手の殊勲を除きメダルを取れなかったオリンピック

2006-02-27 08:33:38 | 時事・国内
トリノ五輪閉幕。今大会はなかなか日本選手の活躍は難しいのではないかと思っていたが、結果は荒川選手の金メダルが燦然と輝くものの、そのほかは惜しい4位入賞がいくつかあった以外、表彰台に上れた選手はいなかった。このことについてはさまざまに問題点や対策が指摘されている。

ひとつには多くの競技においてこの大会が選手の端境期に当たったということだろう。前回、前々回にメダルをとった多くの選手が今回も出ていてうまくいかず、新しい選手はまだ大舞台に対応できない、といったところか。女子フィギュアに関しては端境期といっても厚い端境期で、まだまだ前の世代が頑張っている中でもう次の世代が世界レベルに成長している、という激しい世代交代争いが国内でも展開された。どの競技でもそのような形で世代交代が行われるといいのだが。

もうひとつは、先日荒川選手を取り上げたNHKスペシャルを見ていて感じたことだが、次々と出て来る場面がほとんど日本ではない。アメリカであり、モスクワであり、パリであり、北京である。つまり次々に遠征し、合宿し、練習し、外交人コーチを交替させ、そうやって丹念に丹念に仕上げていき、それでようやく金メダルなのである。その費用負担がいったいどのくらいかかり、そして誰が負担しているのか、ほとんどはスポンサーと競技団体だと思うが、一見するだけでも膨大な金額である。つまりそれだけ冬季スポーツというのは金がかかる競技だと言うことであり、レベルの高い一流のコーチも外国人が多く、条件の揃った練習場も国内にはなかなかないということだろう。

ここで考えられるのは資金面の援助、コーチや練習場を含む競技インフラの整備ということになろう。またそうした海外の厳しい環境で伍していく精神力のようなものも求められるだろう。そういうもろもろのものが今の日本で十分ではないと言うことなのだと思う。

どこにどういう統計があるか分からないが、強化費などもグラフにしてみれば冬季ではやはり長野五輪が突出しているだろう。ということはつまり正直言って金をかければメダルは取れる、という側面は否定できないということである。逆に言えば、金をかけられなかったために取れるメダルを逃した、という面もあるかもしれない。

やはりオリンピックは諸国民の祭典であり、そこでいかに日本選手が頑張るか、日の丸が掲揚される(メダルを取れる)か、君が代が演奏される(金メダルを取る)かということは、国民全体のモラールに関わることだし、世界の人々に対して純粋に誇れることでもある。(本当はもっと沢山のことがあるのだが、萎縮している日本人にとっておどおどせずに胸を晴れる数少ない事柄だろう)

競技における全体の底上げやそれぞれの競技における勝負意識の向上、国民の期待を背負い国民の資金的な協力をも得ながらその競技がやれているのだという自覚を強く持ってもらうのはもちろん、どの競技のどの選手にどのくらいお金をかけるのがもっともリーズナブルなのか、なかなかそう簡単に結論は出まいが、そのあたりのことをきちんと計画性と厳しさと寛大さをもって関係者にはリードしていっていただきたいと思う。




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2・26事件から70年/マルコムXとアメリカの知性

2006-02-26 11:50:36 | 雑記
今日は雨。70年前の今日は雪だった。首相官邸ほか都内各地が襲撃され、高橋是清蔵相をはじめとする何人かの重臣が暗殺された。あれから70年。日本にはテロもクーデターもないが、フィリピンもイラクもパレスチナも状況は怪しい。

昨日なんとなく放送大学を見ていたらマルコムXについてやっていて、非常に興味深かった。アメリカにおけるイスラム、ブラックムスリムの運動はもともとは虐げられた黒人こそが選ばれた民であると言う一種のメシア思想から成っていたのだが、マルコムXはメッカに巡礼に行くことによってその教義に疑問を覚え、人種や国籍によって差別されない本来のイスラムの思想に目覚めたと言う話が面白かった。それにしても彼が暗殺されたのは1965年、つまりキング牧師やロバート・ケネディよりもずっと早いのだ。「私は牢獄にいた。しかしそれは特別のことではない。皆さんも牢獄にいる。アメリカは自由の国だというが白人だけの自由だ。」という彼のレトリックの使い方は非常に巧みで、アメリカの知性の質というものを考えさせられる。

今日は雨。外は寒い。家の中にいてもしんしんと冷えてくる。一番やばいと思うのは心が冷えてきていることだ。それを自覚することは出来たので、そこから抜け出すために心を燃やさなければならないと思う。2月ももう終わる。『プーシキンとの散歩』を読み続ける。





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荒川選手の「イナバウアー」/『プーシキン全集』を買う

2006-02-25 22:42:31 | 雑記
昨日帰京。昨日は忙しくて日記を書く暇がなく、今日は精神的にアップダウン(ダウンダウン?)が激しくて日記を書く気分にならなかった。夜になってからようやく気持ちが回復してきたのでちょっと書こうかと思う。

昨日は『プーシキンとの散歩』を少し読む。帰りの特急の中でも結構読み進めたが、最初はとっつきにくかったけど結構面白い。実際、プーシキンの作品のほとんどを読んだ今だからこそ結構面白いのであって、何も知らずに読んでも何がなんだか分からないだろうと思う。しかしいろいろな問題提起があっていろいろ考えられてとても刺激になった。

今日はあまり調子が上がらずプーシキン関係の読書はほとんどしていない。荒川静香の関係の番組を何度も見る。特に今夜のNHKスペシャルは荒川選手がどういうところでどういう苦労をして新採点方式に対応し得点の挙げられる、それでいて美しい演技を作り上げてきたかというところに本当に密着して描き出していて、非常に好感が持てた。フリーの演技の前あたりから荒川選手に関するそういう番組を見ていて、ずいぶん感じ入っていたせいか、今まであまり好感がなかったのに、金曜日の朝、バロックの森が終わったあとのNHK-FMのニュースで荒川が金メダルを取ったことを聞いてなぜか感動で震えて涙ぐんでしまった。

いろいろ書きたいことはあったのだが、あれこれ書くのは止めにする。ただ、今日の昼間にやっていたエキジビジョンのイナバウアーを見ていて「ああ、これは瀕死の白鳥なのだ」と思った、ということだけは書いておこうと思う。当たり前と言えば当たり前なのだけど、フィギュアにもバレエの要素はずいぶん入っている。

お昼前に出かけて駅前で鰻丼。しかしこの店はいつ来てもすいている。テレビで変な殺人事件の番組をやっていたが、客が入っているときは違う番組にしたほうがいいような気がする。東西線で日本橋に出、銀座線に乗り換えて上野。京成上野まで歩き、足立区の駅の商店街に。ネットで調べて『プーシキン全集』を置いてある古本屋にメールで連絡してあったので、今日とりに言ったのだ。全6巻、ちょっと重かったが23,000円。ネットのほかの本屋でも神田の一誠堂でも40,000円ほどのものだったから、大満足。それも取りに来たから消費税はサービスしてくれると言うことで、1150円も浮いた。それでいい気になって帰りは青砥から押上に出、半蔵門線で住吉まで行ってそこからタクシー820円で帰った。ちょっと重かったし。

しかし帰り着くとなぜかどっと疲れが出、しばらく寝入ってしまった。どうも精神的に疲れが酷い。しかし夕食の買い物の途中で自分の人生に起こったさまざまな辛かったことや転機になったときの自分の選択、主にその選択の失敗について思い起こしていたらなんだかすっきりしてきてしまった。まあ人生なんてものは失敗の繰り返しなんだよなあと思ったら、多少の辛い状況は我慢できる、かもしれない。そういう経験があるからこそ、いろいろなことが理解できると言うこともあるのだし。

『プーシキン全集』、状態はかなりいい。今手元にある図書館で借りた本はもうだいぶ茶色くなっているのに対し、まだ真っ白だ。月報がないのが残念だが、それでも23,000円はやはり掘り出し物だったと思う。

NHKスペシャルで荒川選手のライバル、ロシアのイリーナ・スルツカヤ選手も取り上げていたが、この人も本当に魅力的な人だと思う。ロシア人の顔というのはヨーロッパ系であってもどこか懐かしい感じがするのはなぜなのだろう。そんなことを考えながらプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」を聴く。モスクワ、ペテルブルク、ツァールスコエ・セロー。プーシキンのたどった後を尋ねて、一度ロシアに旅行してみたいとぼんやりと思う。





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誠実な研究/ライブドア・フィギュア・竹島の日

2006-02-23 08:29:31 | 読書ノート
空き時間はここのところいつものようにプーシキン関係の読書。ウェブ上でもPDF化された論文等を始め、かなりの情報が入手できる。先日北大スラブ研のサイトからいくつかDLし、昨日はそれも読んだりした。やはり最近はPC(といってもポリティカル・コレクトネス)系、すなわちポストコロニアリズムやカルスタ・フェミ系の論文が流行りだなと思う。基本的にそうした方法論が文学の「読み」を豊かにすることが可能なのか、ということに強い疑問を感じるのだが、きちんとした研究はそれなりに啓発されるところがある。それにまずそうした系統の理論的・学説史的背景が整理されて提示されているとそうしたものにどう対処していけばいいかという戦略も考えやすいので、やはり誠実な研究というものはどんな思想に基づくものであれ大事にすべきだなと思う。

『プーシキン全集』1巻には彼の抒情詩150編が訳出されているのだが、研究書等を読んでいるとそこにない詩がよく出てくる。これが他の巻に納められているのかそれとも未収録なのか手元に他の巻がないからわからないのだが、そうした書誌的な部分もまた調べる必要が出てくるかもしれない。ロシア語では全集がCD-ROMに収められているようなのだけど、一応10年位前には学部レベルのロシア語のテキストはどうにかこうにか読んでいたのだけど、とてもそれを駆使するというところには行かない。時間が出来たらもう一度きちんとロシア語をやり直して、プーシキンの詩を原語で味わってみたいと思う。今更ながら、語学能力はすべての基本だと思う。(日本語ももっとうまく使えるようになりたいが!)

ライブドアは熊谷氏も逮捕され、にっちもさっちも行かなくなってきている。現社長も、実際には弥生会計をグループから離脱させたいと思っているのではないかという気がするが、社長を引き受けた以上そうも行かないだろうし、困っているだろう。落し所はどこにあるのか。

フィギュア女子、昨夜のニュースではじめてSPの映像を見るが、荒川の演技は華やかだし、村主の演技は表情と情感が豊かだったし、安藤はキュートだった。ぜひフリーでもすばらしい演技を期待したい。

昨日は日中の与党会談があったり竹島の日だったり。首相の靖国参拝はもうデフォルトだと中韓に納得させるまで頑張るしかなかろう。「竹島の日」もぜひ全国で開催されるべきだろう。主権の根幹である領土問題を一地方自治体が担うのは変な話だ。安倍官房長官は穏健な発言をしていたが、何か深謀遠慮がありそうにも見える。見えるだけでないといいのだけど。頑張ってもらいたい。






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作者への支払い

2006-02-22 10:05:38 | 読書ノート
フィギュア女子。ショートプログラムで荒川が3位、村主が4位、安藤が8位。まあまあの滑り出しだろう。まだ映像を見ていないのでネットの記事を見ただけで書いているが、荒川は演技構成が新しい採点基準に適しているという話だったのでそういうところがプラスになっているのかなと思う。村主は代表選考でも最後で逆転した土壇場の表現力があるから、フリーでは得点はかなり伸びるのではないかと思う。安藤は4回転があまりうまく行かなかったのかな。3選手ともぜひフリーでもすばらしい演技を期待したいもの。

昨日昼帰郷。夜は鉄道ダイヤの乱れなどで人員配置が難しくなってちょっとどたばた。昨日は朝からホントいろいろな局面でどたばたした。終わってみれば問題はほとんど残っていないのだけど。

帰郷の特急の中で藻利佳彦『プーシキンへの誘い』を読む。出版者から作者への支払い等が前近代的だった当時のロシアで当然支払われるべき作者への支払いの近代的な関係を確立したのがプーシキンだったという話はへえと思う。プーシキンは作品の中でもロシアの詩人は西欧とは違い、自分自身が貴族なのだ、ということを言っているのでそういうところは鷹揚だと思っていたのだが、自分が受け取るべき金額についてきちんと主張するとともに、出版者が費用をかぶって恩恵的に作者に支払うことにも強く反対している。もちろんプーシキンの作品は「売れた」ので主張通りに契約を結ぶことが出来るようになった、という側面もある。しかし現在でも日本では詩の書店が売上をきちんと預託した詩人に払わないとか、画廊でも個展を開いた画家に支払いが滞るということはよく聞く。中小出版社でもそういう話はよくある。プーシキンのこの話はなんだか複雑な思いがする。

今朝はなんとなく曇りっぽかったが、10時前になってあかるい日差しが戻ってきた。空も青いし、雲も白く小さい。こちらは数日前に雪が降った。屋根の雪が融けて軒下に滴る音が先ほどから快い。






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フィリピン大統領府で爆発/残念!女子カーリング/「天使ガブリエルの歌」と筋金入りの自由主義

2006-02-21 09:24:32 | 読書ノート
フィリピン。レイテ島で大規模地滑りが起きて大変だと思っていたら、マラカニアン宮殿で爆破があったそうだ。フィリピンに注目しているわけではないのでよくわからないが、アロヨ政権も揺れていると言う印象だ。社会構造的な矛盾や政治的な対立などさまざまあるのだろうが、今までそんなに物騒な印象はなかったのだが。

関係ないが、アロヨという人を頭の中で思い浮かべようとすると、コンドリーザ・ライスになってしまう。似てるのは髪形(分け目?)くらいなのだが。

カーリング女子。スイスに第8エンドで圧倒的な差をつけられ、ギブアップ。残念ながら4強はならなかったが、トリノの大会で今のところもっとも印象に残る競技になった。この大会でカーリングというもののルールや試合の見方を知った人も多いのではないか。主将の小野寺の意志の強い表情が印象に残る。人間と人間の戦いという感じで、この競技は面白かった。

昨日はプーシキン全集を読んだり、気分転換に出かけたり。読むものはたくさんあるので新しい本は買わなかったが、カルヴィーノというイタリアの作家の『なぜ古典を読むのか』という本を立ち読みしたら面白かった。大人にとって古典とは「初めて読む」ものではなく「読み返す」(と発言する)ものだが、実際には古典と呼ばれるものを全て読んだ人などいない、というのは絶対的な真実だなと思って面白かった。何という人だったか、大学の講義でゾラについて質問があまりに多いので腹を立ててゾラ全集を全て読んだらゾラの作品の巨大な宇宙論的な構造に気がついて批評の名著を残したと言う例が上がっていたが、初めてであれ読み直しであれ、「大人」が古典を読むということは青年時代の自己形成のための読書とは違う意味で非常に生産的であるということにはプーシキン漬けになっている自分自身を省みて非常に賛同できる。彼のプーシキン論があれば買おうかと思ったのだが、なかったのでまたの機会ということになる。でもカルヴィーノ、覚えておきたい(なんか私にとって覚えにくい名前なのだ)。

『プーシキン全集』は主に1巻の物語詩、『コーカサスの捕虜』と『天使ガブリエルの歌』を読む。『コーカサスの捕虜』は文学史的にはバイロンの影響やロシア文学の主要な題材になる「余計者」の原初的な性格、南方幻想、自由な民の幻想などさまざまな要素が入っていて検討課題としては面白いのだろうが、作品としてはあまり面白いと思えない。人物の造形が中途半端だし、主題も錯綜し、また『ルスランとリュドミーラ』的な伝奇的要素と人物造形とバイロン的な自我放出とが衝突しあってしまっていて、結果として何を描きたいのか分からない作品になっている。

それに対し、『天使ガブリエルの歌』はすごい。読み終わったあとに放心してしまった。何を考えているのかプーシキンは。内容的にはちょっと書くのがはばかられるが、(いや、「天使ガブリエルの歌 プーシキン」で検索すればどういう内容かはすぐ分かるけれども)時まさにムハンマド風刺画問題で世界中大騒ぎの現在から見ると、聖母マリアや創造神そのものを虚仮にしたととられてもおかしくない内容を19世紀の頭に書いているのだから呆然としてしまう。もちろん出版はされていないし、現在でも西欧諸語には翻訳もされていないと解説には書いてあるが、うーん、『ゴダールのマリア』である。って実はこのゴダールは見てないんだけど。

プーシキンという人は無神論者だとは思えないが、勢いでこういうものを書いてしまう人なんだなと寝て起きて考えてみると思うのだが、だからといってやはりそういうものを書くのはそういう「時代の雰囲気」のようなものがあったと考えるべきだろう。すぐに思い出されるのはヴォルテールに代表される啓蒙思想、プーシキンも影響を受けていたらしいフリーメーソンの自由思想、そういう18世紀のリュミエールの時代の影響だが、ドイツ神秘主義に傾いていったアレクサンドル1世に対する批判という意味が考えられているらしい。

原稿はプーシキン自身が焼き捨てたと言うが、筆写で相当出回っていて、ニコライ1世もどうやら目にしたと言うから、プーシキンも観念しただろう。このあとニコライ1世がじきじきに検閲すると言う展開となり、プーシキンの「検閲との戦い」が始まるわけである。でもこんなもの読まされりゃ検閲したくもなるよな、というかこれでシベリアに送られなかったのだからロシアとはいえヨーロッパの世俗主義、冒涜の自由さえ認めるヨーロッパの表現の自由、自由主義というものの筋金を認識せざるを得ない。ムハンマド風刺画問題もこれはそうとうな亀裂を生み出しそうだと改めて思った。





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プーシキンめぐり/恥多き青春

2006-02-20 11:26:30 | 読書ノート
朝方は晴れそうで、薄日も射していたのだが、だんだん雲が厚くなってきて、今日も一日曇り空になりそうだ。暦が確かめられないのではっきり分からないが、二十四節気の雨水が昨日あたりではないかと思う。雨水を含む月が旧の正月である。極寒は抜け出したがまだまだ寒い、しかしちらほら春の気配がある、そういう季節が旧の正月で、まさに初春というのが今くらいなのだろう。暦の不一致から今は初春でなく早春というわけだが、まだまだ春は名のみの風の寒さである。

こういうことは毎年この季節、一度は書いてみたくなるな。

昨日は一日プーシキン漬けで全集を読み、本を探しに行き、ネットでも情報を探る。かなりいろいろな情報を得るが、この辺りを見ると、世界中のロシア人にとってプーシキンがいかに特別の存在かということが分かって思わず襟を正される。

4時前に出かけて丸の内丸善で本を探そうと思ったのだが、忘れていたのだけど昨日は丸の内オアゾが全館休館だったのだ。大手町の駅で降りてからそれに気がつき、地下道経由で八重洲ブックセンターまで行って外国文学の棚と歴史・地理・世界情勢関係の棚を探す。購入したのは『世界歴史大系 ロシア史 2』(山川出版社、1994)、藻利佳彦『プーシキンへの誘い』(東洋書店ユーラシアブックレット24、2001)。それだけ買って京橋まで歩き、日本橋の丸善に入ってちょっと本を物色し、クロポトキン『ロシア文学の理想と現実・上』(岩波文庫、1984)を購入。コレドまで歩き、地下のプレッセで夕食の買い物。カヴェルネ・ソーヴィニョンを謳う小瓶のワインを買ってみる。

それぞれ少しずつ読んでは見たけれど、基本的には『プーシキン全集』の1巻と5巻を前のほうから読んでみる。1巻、抒情詩は南方への追放前までのところを読み終わり、同時期に書かれた物語詩「ルスラーンとリュドミーラ」を読む。このあたりまでプーシキンも若書きというか、さまざまな先行者の形式を借りたり、よく使われているモチーフやテーマを使ったり、つまりある意味でステロタイプを駆使してパッチワークで自分の作品を組み立てているような感じがする。そのパッチワークの部品には、自ら書いた「抒情詩」(白骨化した死せる騎士のイメージなど)も使っているのだが。

抒情詩では「ツァールスコエ・セローの思い出」がいい。ツァールスコエ・セローに離宮を建設したのはエカチェリーナ2世だが、その後継者を持って自認するアレクサンドル1世とその時代の祖国戦争=ナポレオンのロシア遠征における輝かしいロシアの勝利を溌剌と歌っていてとてもさわやかである。プーシキンにとってツァールスコエ・セローのリツェイ(フランスのリセに当たると考えてよかろう)がいかに青春の思い出の地であるかを髣髴とさせる多くの詩もいい。私なら大学の教養学部のあった都内某所の思い出、ということになるか。恥多き青春を思い出すが、プーシキンを読んでいてもそのあたり微苦笑を誘われる部分もあり、青春とは恥多きものと今更ながら思わずにはいられない。

「自由」「農村」などプーシキンの南方追放の原因となった詩についてはなんとも評価が難しい。ただ、読み直してみるとそれほど拒否感もないので、また改めて読んでみて書くなら書こうと思う。

評論も最初は読みにくかったが、だいぶ慣れてきた。






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ブログのありがたさ/文章を読む態度/女子カーリング

2006-02-19 12:20:06 | 読書ノート
金曜日の夜に上京した特急の中でその日の昼間に買った『文学界』を読んでいた。最近、ユリイカ・新潮と続けて文学系の雑誌を読んだのだが、文学界が一番肩がこらずに読めるような気がする。車谷長吉がピースボートに乗った体験記を書いているのが面白いのだが、車谷とピースボートという組み合わせ自体がミシンと蝙蝠傘の出会いより珍品という感が深い。船上で繰り広げられる人間模様にあまり関心を持たず、船上から見渡せる風景を記述するさまざまな描写に車谷という人の真骨頂を感じる。船内での読書でさまざまな作家に対する感想が述べられているのも面白い。寺田透について否定的な見解を述べていた。あまり良く知らないがどんな人なのだろうと思う。

土曜日は寝坊。9時前に友人から電話がかかってきたときは寝呆けていた。しばらく話をして気付いたら11時を過ぎていた。昼食の買い物がてら江東図書館に出かけ、『プーシキン全集』の3・4巻を返して1・5巻を借りる。隣のイオンで昼食の買い物をし、古本屋のたなべ書店をのぞいて帰宅。あまり調子が上がらず、横になったりいすに座ったりの繰り返し。本を読もうとしても続かず、テレビを見たり何したり。暖房で足首を暖めたまましばらく寝入ったり。手早く片付けなければならない仕事がいくつかあったのでそれだけやってしまったのだが、まとまった読書などは出来ず。

そういえば今週は日記にもプーシキン全集のどこを読んだ、ということしかほとんど書いていない。読んでない人、関心のない人、つまりはほとんど全ての読者にとってあまり面白くないだろうと思う。自分の覚書とするなら別にアップして公開する必要もないのだが、きっと面白くなかろうと思う文章までアップしているのは自分にとっての緊張感が欲しいからなのかもしれない。書いたけれどもアップしていない文章ももちろん山のようにあるが、正直言ってそれはハードディスクという大海の谷間のどこに沈んでしまったのか分からないものがたくさんある。こうしてブログにアップしておけばあとで検索するのも容易だし、もし誰か興味を持ってくれる人があったらそこで何かが起こるかもしれない。そんな薄弱な根拠でアップしてはいるのだが、以前からウェブ日記を書いている人で過去ログ整理の大変さについて全然かんじたことのない人はおそらくいないのではないかと思う。ブログの全ての記述を一括ダウンロードできると言う昨日だけでも、ブログというものはありがたい。

プーシキン全集、1巻は詩、5巻は評論などのいわば論理的な(つまり小説でない)散文。1巻で一番有名なのは物語詩「ルスランとリュドミーラ」、5巻では歴史叙述「プガチョーフ叛乱史」であろう。そのほかは実に数の多いこまごました詩作品、批評・評論作品がてんこ盛りで、あまりにぶつぎれなので一気に読むのは結構大変だ。創作性の、つまり虚構性の高い作品を読むのは背景など考えないで一気にその世界の本質に迫るように感覚と感性と言葉をとらえる捜索能力というか、そういうもので読んでいけばいいのだが、誰かに何かを伝えようとして書かれたメッセージのある詩や、公表して意見を表明することを前提とした批評・評論作品はプーシキンの外部との関わりやその作品が書かれた状況をある程度理解する必要があるので、創作を読むのとは読む態度がかなり変わってくる。機能はちょっとそのギャップを乗り越えるのに苦労したのだが、今日は割合自然にそういう気持ちで読んでいる。しかし、創作を読んでいるときはあまり気にしていなかった伝記的な事実や歴史的な分析が気になってくるから、他の本もまた読まなければという気がしてくる。

***

テレビで女子カーリングを見る。これはじっくり見るとかなり面白い。あのコンクリの塊(あの投じる玉のことは何というのだろう)がどのように滑り、どのように相手の玉に当ててはじき出すか、という計算をしながら投げたり擦ったりするあの競技は撞球の要素が強い。的は射的のようだし、相手の投じたいコースを妨害するようにわざと玉をショート(?)させるやり方とか、高度に知的な計算をしたり性格の悪さも必要な感じでへえと思う。見事カナダに勝利したのはめでたいが、何とか頑張って次の段階に進んでもらいたいもの。






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「未完の作品」の持つ魅力

2006-02-17 10:13:16 | 読書ノート
午前中(昨日)は松本へ。午後は立ち会わなければならない用事があり、夜にかけてずっと仕事。それなりに忙しい。

「ドゥブローフスキイ」。資産家の貴族と貧乏貴族の友情が些細なことで崩れ、資産家の策略により貧乏貴族は破滅する。その息子は復讐を近い、手練の盗賊となって…というロマン主義的なストーリー。神出鬼没、変化自在の主人公の造形は魅力的。最後はヒロインが「オネーギン」のタチヤーナと同じせりふを口にすることになる。それですべてが終わるところがまた格好いい。キューブリックの映画で見た『バリー・リンドン』を思い出したり。この小説は未完と見られているようだが、ここで完結するからいいのではないか、と私は思う。

まあいろいろな事情が解説では語られているが、そのためか非常に未整頓な印象があり、カオス的にさまざまな魅力が横溢している。貧乏貴族が破滅する裁判の場面の長大な判決はさすがにろくに読む気にならなかったが、解説によるとこれは実際の判決を名前だけを変えて引用したものらしい。歴史をやるものならこういう文章の方により興味を覚えなければならないのかもしれないが、ちょっとだめだ。

「キルジャーリ」。これも盗賊の話。これは貴族出身ではなく正真正銘の大盗賊。大変短い話で、とにかく痛快ならよい、という感じ。最初読んだときはちょっともたもたしている感じを受けたが、うまく語り口にのれなかったからだろうという気がする。まあ痛快だからいい、ということではないかと思い返す。ギリシャ独立戦争などに触れている部分が歴史的な意味での興味をそそる。この盗賊と独立戦争の関係は完全に創作であるようだが。

「エジプトの夜々」。「詩人の魂」がテーマの短編で感動した。ロシアに詩人という職業はない、詩人は皆誇り高き貴族である、というプーシキンの誇らかな宣言。クレオパトラが一夜の快楽をともにした男性を処刑するという話をテーマにした即興詩人(が歌ったという設定の)の詩と、詩人は風のように、荒鷲のように、乙女の心のように、掟のない自由な存在であると宣言する詩と、その額縁のようにロシアの貴族詩人とイタリアの即興詩人をめぐる交渉の小説部分から成る。詩と小説それぞれが別の成り立ちを持っているということに驚くくらいこのアマルガムはよく出来ている。これもいわば未完であるが、こうなってくるといったい何が完成で何が未完なのかよくわからなくなってくる。文学における完成とは何か、未完とは何か、ということについて小一時間くらいは議論を聞いてみたい気がする。

「別荘の客」。ロシアの上流社会、社交界に関するストーリーで、これまたプーシキンの貴族観がよく現れた作品。これはまあそれこそ未完なのだが、「社交界の不文律として、もっともらしさは真実同様に通用する」とか、警句として面白いなと思うくだりが見られる。プーシキンは本当にたくさんのものを未完のままあの世に持っていってしまった詩人・作家だなと思う。それでいて『ロシアの国民詩人』なのだ。完成したものの持つ均整の取れた魅力と、未完のものの持つ暗示力。やはり小一時間くらいではすまないかもしれない。私はよく知らないが、きっとこれは文学においては一つの大きな議論の中心になっているのだろうなと思う。

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男子フィギュア、高橋は8位。女子パシュートも転倒で拾った僥倖を転倒で失って4位。まあ仕方ないだろう。しかしニュース映像を見ただけだが、スノーボードクロスという種目はすごそうだ。スノーボードでモトクロスをやる、ということらしいが、これはわくわくする。野蛮である。





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