Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

荒川選手の殊勲を除きメダルを取れなかったオリンピック

2006-02-27 08:33:38 | 時事・国内
トリノ五輪閉幕。今大会はなかなか日本選手の活躍は難しいのではないかと思っていたが、結果は荒川選手の金メダルが燦然と輝くものの、そのほかは惜しい4位入賞がいくつかあった以外、表彰台に上れた選手はいなかった。このことについてはさまざまに問題点や対策が指摘されている。

ひとつには多くの競技においてこの大会が選手の端境期に当たったということだろう。前回、前々回にメダルをとった多くの選手が今回も出ていてうまくいかず、新しい選手はまだ大舞台に対応できない、といったところか。女子フィギュアに関しては端境期といっても厚い端境期で、まだまだ前の世代が頑張っている中でもう次の世代が世界レベルに成長している、という激しい世代交代争いが国内でも展開された。どの競技でもそのような形で世代交代が行われるといいのだが。

もうひとつは、先日荒川選手を取り上げたNHKスペシャルを見ていて感じたことだが、次々と出て来る場面がほとんど日本ではない。アメリカであり、モスクワであり、パリであり、北京である。つまり次々に遠征し、合宿し、練習し、外交人コーチを交替させ、そうやって丹念に丹念に仕上げていき、それでようやく金メダルなのである。その費用負担がいったいどのくらいかかり、そして誰が負担しているのか、ほとんどはスポンサーと競技団体だと思うが、一見するだけでも膨大な金額である。つまりそれだけ冬季スポーツというのは金がかかる競技だと言うことであり、レベルの高い一流のコーチも外国人が多く、条件の揃った練習場も国内にはなかなかないということだろう。

ここで考えられるのは資金面の援助、コーチや練習場を含む競技インフラの整備ということになろう。またそうした海外の厳しい環境で伍していく精神力のようなものも求められるだろう。そういうもろもろのものが今の日本で十分ではないと言うことなのだと思う。

どこにどういう統計があるか分からないが、強化費などもグラフにしてみれば冬季ではやはり長野五輪が突出しているだろう。ということはつまり正直言って金をかければメダルは取れる、という側面は否定できないということである。逆に言えば、金をかけられなかったために取れるメダルを逃した、という面もあるかもしれない。

やはりオリンピックは諸国民の祭典であり、そこでいかに日本選手が頑張るか、日の丸が掲揚される(メダルを取れる)か、君が代が演奏される(金メダルを取る)かということは、国民全体のモラールに関わることだし、世界の人々に対して純粋に誇れることでもある。(本当はもっと沢山のことがあるのだが、萎縮している日本人にとっておどおどせずに胸を晴れる数少ない事柄だろう)

競技における全体の底上げやそれぞれの競技における勝負意識の向上、国民の期待を背負い国民の資金的な協力をも得ながらその競技がやれているのだという自覚を強く持ってもらうのはもちろん、どの競技のどの選手にどのくらいお金をかけるのがもっともリーズナブルなのか、なかなかそう簡単に結論は出まいが、そのあたりのことをきちんと計画性と厳しさと寛大さをもって関係者にはリードしていっていただきたいと思う。




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