Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

大掃除/自分の世界を持つことと無私であること/終わりよければすべて良し

2005-12-31 08:33:06 | 雑記
昨日は3時まで仕事をした後、実家に戻る。妹が来ていて、しばらく世間話の後、掃除。昨日は仏壇と玄関・廊下。仏壇に限らないが、こまごましたものが露出して置いてあるところは掃除が手間がかかるけれども、こんなふうにおいてあるのかとか、こういうものが置いてあるのかということがわかって面白い。日蓮宗なので、お題目の札があったり日蓮上人の坐像があったりする。お位牌も、江戸時代からのものから平成になってから亡くなった祖母のものまで。羽箒で掃除してお線香を上げるとご先祖様も心なしかご機嫌が麗しくなったような。廊下と玄関は暗くて手間がかかる。明るい時間は外回りを、と思ったがあまり強い電灯がないところも明るい時間にやらないとよくわからない。長押の上の埃がかなり積もっている。

夜は妹の一家と一緒に夕食。下の男の子が喋れるようになったと思ったらすごい腕白坊主でびっくり。上の女の子がお姉さんらしくなっていて、それもちょっとびっくりした。人は変わるのだなということが子どもほどはっきり表れるものはない。

早めに自室に戻る。ラジオをつけたらワーグナーをやっていて、ドイツ語を少しやった後そのまま寝てしまった。目が覚めたらラジオで何か日本人の歌手のライブみたいのをやっていて、私の意識ではもう6時なのになぜバロックをやっていないのだろうと不審に思ってでも起きなきゃなあと思っていたら時報を聞いたら3時だった。何か勘違いしたらしい。寒いのでお茶を飲み、ストーブに給油してつけたまま寝る。起床したら7時を回っていた。

自分の身の回りから自分の世界を広げていく、という考え方と仏教の「空」の思想、というかもっと日本的な「無私」といってもいいか、の思想とは矛盾するのだろうかと考えてみる。禅僧のエピソードなどを聞くと自分の世界をしっかり持っているという印象が強いし、禅寺の掟などを考えると明らかに世界を構築していくしっかりとしたシステムを持っているように感じるので、それと「無私」の思想とはどのように関係するのだろうか、と思ったりしたのである。

あらあら考えただけだけれども、"Think global, act local."という言葉があるが、世界のさまざまなことを考えに入れるという面では「無私」といっても良いのだけれど、行動を起こす時は自分が動く、という意味では行動するための自分であるために自分の基地としての「自分の世界」というものが広く豊かなものでなければならないということなのだろうと思う。そう考えれば、「無私」というのは身の回りのことに無頓着なことではなく、それにしっかり支えられて初めて無私であり得るのではないかと思ったのだった。

大晦日、おそらくはこれが今年最後の更新。卦を立てると地天泰の九二、「泰中の泰」である。終わりよければすべて良し。皆様良いお年を、ご機嫌よろしゅう。
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オードリー『パリの恋人』/ドイツ尽くし/庭仕事の愉しみと文房具の楽しみ

2005-12-30 07:59:53 | 雑記
昨日は仕事の日程が変わって朝から午後3時までだった。飛び込みの仕事などもあった。上がってから実家に戻って大掃除。今年は人手がないので二人でやっていたが、ずいぶん埃が溜まっていて驚いた。まだ二部屋やっただけだが、だいぶスッキリした。早めに夕食、入浴。就寝も10時ころだったか。寝る前に、水道の水をほんの少しだけぽたぽた出して寝たら、朝起きても凍っていなかった。洗面器一つ分も溜まっていなかった。これだけで凍らないで済むなら、全然いいなと思う。聞いた話では、地下の温かい水が流れ出るから水の流路が零度以下にならないため凍らないのだという。どのくらいの水量が必要かと思っていたが、本当にごくわずかでいいということがわかったのでちょっと嬉しくなった。

もらったギフトコレクションのカタログを見ていたらオードリー・ヘップバーンが取り上げられていた。知らなかったが、彼女は『パリの恋人』でフレッド・アステアとダンスを踊っているのだ。まだ見ていないので、東京に戻った際にでもDVDを探してみようと思う。

寝る前にヘッセの『庭仕事の愉しみ』を少し読む。FMで何かやっていないかと(そう、ラジオは直ったのだった。しかしスイッチのカバーは取れてしまったのだった。スイッチの部品に直に触って電源を入れることになってしまった。)ラジオをつけてみると、なんとワーグナーの『タンホイザー』をやっていた。この曲は昔芝居でつかったことがあるのでどうしてもそのシーンを思いだしてしまう。それにしても壮大な曲だ。ヘッセのひそやかな庭の話とはどうもギャップが大きすぎる。で、読書は止めてドイツ語を少し勉強することにした。図らずもドイツ尽くし。そんなことはめったにないのだが。ほどほどにして就寝。

6時ころ起きたときはまだそんなに寒く感じなかったのだけど、今(7時半)しばらくネットを見たりしていたらだいぶ寒くなってきた。ストーブをつけていても、じっとしているとやはり寒い。

上海領事館員の殉職問題、中国側はいろいろ言っているが、もういつもの不可解な理屈という感じだ。北朝鮮などもそうだが、共産主義国の外交上の罵倒というのは本当に口汚いなといつも思う。人間として何か大切なものを失わせるものが思想のどこかにあるんだろうなという気がする。

和田哲哉『文房具を楽しく使う・筆記具編』読了。「趣味としての文房具」というテーゼは私はあまり意識していなかったが、しかしこういうものから身の回りのものに意識と価値観を持つことはいいことだなと思う。頭の中に妄想が渦巻いているよりも、身の回りのもの一つ一つの存在の生命というか輝きというかそういうものを感じ取る力のほうが人間にとって大切なのではないか、と思う。自分の体調を感じ取り、自分の中の気のめぐりを感じ取る力の延長上に、自分の周りの気の健やかな動きを感じ取る力はあるのだなと思う。自分の力を大きくするためには、自分の中を整え自分の周りにもまた自分の気を十分に行きわたらせて、自分の気の範囲をだんだんに大きくしていくことが必要なんだなと思う。

庭仕事を楽しんだり、文房具を楽しく使ったりすることは、そういう自分の世界を広げていくことなのだと思う。世界を広げるというと観念的な印象があるが、もっと物理的に自分のテリトリーを広げる側面から見たい。自分の家の中を、十分に自分の意識が行きわたっていれば、相乗効果で自分自身の命も大きくなる。それが世界中に行きわたればパラダイスだが、少しでもそういう範囲を広げていくことは大切なことだなと思う。

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上海総領事館員の殉職/子どもをひき逃げした女性米兵の釈放/2005年の教訓

2005-12-29 09:19:16 | 時事・国内
さて年の瀬も迫ってきた。報道関係も年末年始の特編が多くなり、いつもと同じペースではものが進まない感じである。この時間はいつもはFMでクラッシックを聞いているのだが、何か朗読をやっている。確認のためにトランジスタラジオをつけようとしたらスイッチが壊れていた。先ほどコートにブラシをかけたときに間違って落としてしまったからだろう。直さなくては。

年の瀬になると最近はえっと思うようなニュースが飛び込んでくる。上海総領事館員の殉職も、尖閣諸島がらみの情報を取ろうとした中国側工作員の脅迫によるものらしい。外交の現場の厳しい情報戦が思いやられるが、中国側の荒っぽさもまた目に付く。『こういうやり方をする国』という印象が、中国を友好的とみなさない国民を増やすのは当然である。日本国内でせっせと日本を悪し様に言うことに精励している人々と、機密を守るために命を投げ出した人と。人間にはいろいろいるものだと思う。

八王子で子ども三人をはね、重軽傷を負わせて逃走した女性米兵が日米地位協定に基づいて釈放されたという。改めて日米関係の不平等性を思い知らされる。

こうした事件を見聞きすると、日本が米中露という超大国に取り囲まれた難しいポジションにあるということを改めて思い知らされる。明治の先人たちが一念発起して日本の独立を守りつづけたことがいかに大変なことだったかということも。日本は中国と戦い、ロシアと戦って勝利して、再度中国と戦って勝てないうちにアメリカと戦って負けた。「アジア」という「弱者」に対する行き過ぎばかりがクローズアップされるが、周辺超大国と言う「超強者」との戦いが本当は日本の近代史だったのだ、ということは押さえておくべき事である。昔も今も日本の置かれたポジションは変わらない。冷戦構造の崩壊後は日本周辺は再び古典的なバランスオブパワーの状態に入っている。そのもっとも弱い輪の一つが日本であるならば、どこの国も日本に攻勢をかけてくるのはある意味当然のことになる。

そうした国際社会の現実を見失わないようにすることが、2005年の教訓だろう。


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大阪にふさわしいキャラクター/ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』

2005-12-28 11:23:13 | 読書ノート
昨日帰郷。やはり信州は寒い。ストーブの上に乗せた薬缶に水を入れたままにしておいたら中の水が凍っていた。家の中も零下まで下がっていたということだ。今朝も起きようとしてもなかなか起きられない。サッシは凍り付いていてあけられない。この時間になってようやくとけたが、これから長い長い冬が続くのだなあと思う。

清原はオリックスのユニフォームが案外似合う。なんというか、清原というキャラクターは基本的に大阪ローカルのものという感じがする。新庄は全国区になるために阪神の12億円を蹴って2000万のメッツに行き、北海道にも渡ったというが、新庄のように浮遊感のあるキャラはそういう行動が似合う。中村もメジャーへの挑戦も懲りたようだし、来期は二人で大阪らしい野球をやってもらいたい。清原に一番似合っていたのはこっそり言うとPLのユニフォームだった。

今回の郷里滞在のスケジュールははっきりしないまま移動してきたのだが、1日に上京して3日にまたこちらにくるということにした。やはりお年取りと正月の雑煮はみなで膳を共にしたいものだと思う。

ちょっと歴史からあたまを切り離そうと思い、今回はそういう本は持参せず。読みかけの『文房具を楽しく使う』とヘッセの『庭仕事の愉しみ』。文房具の本は万年筆のところを読んでいたのだが、メーカーごとの考察があるかと思ったらそういうのはなくちょっと拍子抜け。私は以前も書いたが昔はモンブランを使っていて今はウォーターマンを使っている。パーカーは使ったことがない。今のウォーターマンは割と気に入っている。

『庭仕事の愉しみ』を読む。いいなと思う言葉が多い。読書の楽しみというのは、そのように愛すべき言葉に出会うことが一つ大きなウェイトを占めていると思うのだが、最近はそういうフレーズに余り出会う努力をしていなかったなと思う。芝居を書いていたりしたころはそういうことに一番関心があった。小林秀雄を読んでいて心が充実するのはそういうところにあるのだなと思い当たる。

  私から去れ 太古からの人間の苦しみよ!
  たとえすべてが苦しみであり
  すべてが悩みと影であるにせよ――
  この甘美な日の照るひとときだけは
  そして赤ツメクサの香りだけは
  私の心の中の この深い優しい幸福感だけは
  苦しみでも悩みでも影でもない。

「草に寝て」という詩の一節。幸福というものを歌うことは難しいが、このように逆説的に語ることで何が確かなものであるかをはっきりさせる表現方法はあるなと思う。

「木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱みのためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている。その梢には世界がざわめき、その根は無限の中に安らっている。しかし木は無限の中に紛れ込んでしまうのではなく、その命の全力を持ってただ一つのことだけを成就しようとしている。それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分自らを表現することだ。」

木の立ち姿を自己表現であるととらえるとらえ方はいいなと思う。ドイツ人たちがこうした巨木の群だとしたら、日本人たちはやはり照葉樹林の雑木林だろうか。木を人に喩えるのもいいが、人を木に喩えるのもなんだか楽しい感じがする。

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新しい手帳/勝ち負けの心理/「国を売ることは出来ない」という遺書/「新しい教科書」不採択運動

2005-12-27 10:02:57 | 時事・国内
今年もあとわずか。昨日は一日かかったが年賀状を書き終えて投函し、友人とわりと深く突っ込んだ話も電話だが出来たので充実した一日だった。今朝はスケジュールの手帳を新しい年度のクォ・バディスに予定を移し変えて、いよいよ新年という感じだ。よく見るとこの手帳は12月5日に始まっているのでもっと早く替えようと思えば替えられたのだということに気がつく。しかしまあ、気分的に12月の最終週にやるってもんだよなあと思う。

手帳をどういうものを使うのかは毎年悩むところなのだが、2005-2006はクォバディスで二年連続。今年はなんだか手帳ブームでさまざまな手帳が売られているが、やはり帯に短したすきに長しという感じでちょうどいいなと思うものはなかなかない。クォバディスのビジネスは日曜日の書く欄が少ないのと朝夕がもう少しタイムテーブルが欲しいのが難だが、サイズと言いてに収まる感じと言い、ちょうどいい。今年のは明るいブルー出ちょっと落ち着かない感じもあったが来年のはネイビーで見た目も落ち着く。スケジュール表が活躍するように頑張りたいものである。

人間にとって心理というものは大きいなと、言うことは、もちろん分かってはいたつもりだったが、最近その「大きさ」の意味がよりはっきりと分かるようになって来たなと思う。素直に行動することが大切だ、ということは分かっていたつもりでもどうしてもいろいろな意味で素直になるのは難しいところがある。それは、一般に人間がプラスになることをしたいと思うよりもマイナスを避けたいと思う気持ちの方が強いからだ、ということが分かってきた。

マイナスに直面するとそれをうまく受け止められなくて、急に強気になってもっと傷口を広げてしまったりするのに、プラスが出てくると落ち着かなくなり、あまりプラスが大きくならないうちにやめてしまったりする。マイナスをきちんと認識してそれに対処するならいいのだが、マイナスを見ないようにするために無謀に行動したり哲学的な思考に突入したりもしてしまう。プラスの局面では落ち着かなくて居心地が悪く、マイナスの局面では不安で情緒不安定になる。結局は、局面を冷静に認識して、苦あれば楽あり楽あれば苦ありというか、もっと高いところから見られるようになったらそういうこともないのだなと思う。

株式相場の本を読んでいて思った。株で成功するのは5パーセントくらいの人で、残りの95パーセントの人は失敗するとよく言うけれども、それは漠然と技術のある人は5パーセントくらい、その技術を身につけられないほとんどの人は失敗すると言うことなのだろうと思っていた。しかし、株式相場はほかの相場と違い必ず利益を出せる、なんていう人もいる。で、いろいろ考えたのだけど、結局はつまり、人間の心理、投資家の心理、というものが相場を大きく動かすからなのだなということが分かった。つまり、損をしたくないという心理とか、得をすると落ち着かないと言う心理とかは誰にでもあるのだが、それに縛られてしまうのが95パーセントの人で、5パーセントは人間のそういう心理をよく理解していて、「その心理を利用する」ことが出来る人なんだな、ということである。こうなるとある意味「酸いも甘いも噛み分けた」、というか人間の心理の綾というものを良く呑み込んでいる人が強いと言うことになる。もちろん相場というものは心理だけで動くものではないから違う成功の仕方もあるのだろうけど、投資家心理がよくわかる人、というのは相場で成功するのだろうなと思った。奥が深いなと思う。

年末に国際社会の非情さを示すニュースが一つ。上海の日本領事館の館員が昨年自殺していて、それが中国側の情報担当者と思われるものから秘密漏洩を強要されたことが原因だったと言う話である。遺書に「国を売ることは出来ない」と書いてあったと言うが、痛ましい事件だけれども、こうした気概のある外交官(領事は外交官では本当はないのだけど)がいると言うことは心強いし、中国が日本を根本的に畏れているのもこうした日本人の気概にあるのだろうと思う。靖国参拝の中止をあれだけヒステリックに求めるのも結局こうした日本人の人間性をいかにして堕落させるかという外交攻勢なのだと思うし、まさに堕落した日本人が多い中でこうした話は一服の清涼剤ではある。外交や通商に携わる人々には襟を正して欲しい。ご冥福をお祈りしたい。

「新しい歴史教科書」の不採択運動は相当酷いものだという話はよく聞いていたが、特にそれに重点的に関わっていたのが中核派であったらしい。いわゆる過激派の人々がこの運動の中核にいると言うことはいろいろな情報から知ってはいたけれども、採択に関わる教育委員にテロや脅迫まがいのことが行われていたのは事実である。実際フェミニズムやその他さまざまな運動の中にこうした人々が紛れ込んでいることは少なくない。まあ拉致問題の集会に行くと明らかにいわゆる行動右翼と思われる人々がいることも事実なのだが。

主張が過激化してくるとどうしてもこういう職業革命家のような人々が運動の中心になってしまい、一般人が遠ざかると言う傾向が出てくる。教育問題は特にさまざまなしがらみが多すぎて機能不全に陥っているところが多いのだが、なかなか票にもならないのでいわゆる左翼の巣窟と化しがちで、きちんとした制度改革が出来ないのが現状である。教育を立て直すためにはイデオロギーではなく理想が必要なのだが、理想がすぐにイデオロギーに絡め取られてしまうのが現状なのである。この二つの分離に戦後の日本ほど苦しんでいる国もまた、ないだろうと思う。

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年賀状を書きまくる/夢幻のごとくなり

2005-12-26 18:59:13 | 雑記
昨日はなんとなく有馬記念を見ていたらディープインパクトが負けてびっくり。ハーツクライって言う名前もすごいがディープインパクトも映画のぱくりだよなあと思う。馬の名前の付け方には特にルールはないのだろうか。

女子フィギュアの代表は村主、荒川、安藤。男子は高橋。まあ妥当なとこか。中野に入って欲しかったな。NHK杯を制した織田と中野は結局オリンピックに出られない。すごいレベルだよなあと思う。一度は手にした優勝がふいになった織田を評して「夢幻のごとくなり」というデイリースポーツの見出しはちょっとかっこいい。人間五十年、というわけではないが。

今日は朝から年賀状モード。何しろ、まず去年の住所録の整理からはじめなければならない。(笑)ずいぶん住所が変わっている人が多くて驚く。毎年使っている年賀状のソフトを5月に買ったPCにはまだインストールしておらず、そういうこともしなければならない。古いPCの住所データを吸出し、編集。枚数を決定して、用事に出た郵便局で100枚購入。多少ミスをしても大丈夫なくらい。

まず住所の印刷をしよう、と思ったらいつも使っているカラープリンタのドライバもまだインストールしていなかった。探すのが面倒なのでエプソンのサイトからダウンロード。ようやく動いたが、もちろん念入りなヘッドクリーニングが必要。もうこのあたりは毎年同じように手間がかかるのでお約束という感じになっている。しかしこのあたりでちょっと飽きが来て友達に電話。お昼を食べたりして、さて戻る。

とにかく住所をがんがん印刷。黒インクが足りなくなるかと思ったが大丈夫。裏のデザインは、ネットで見つけたのを採用。ご挨拶を入れて住所も入れ、一言文の場所を確保して印刷。数十枚刷ったら黒の出が悪くなった。もうなくなったかと思ったのでカートリッジを交換。しかし数十枚するとまた出が悪くなり、どうもインクの補給の問題らしいと言うことに気がつく。古いインクに付け直したら十分きちんと出る。あちゃあ。新しいのを開封してしまったよ。来年まではもたないだろうなあ…

そんなこんなで時間が過ぎ、ようやく印刷は終わる。その間を利用して一言を書いていくが、何と何と今年一度も会っていない人がほとんどだ。一言の文句にも頭を絞っても何も出て来ない。まあしゃあないか。あと30枚ほど、というところでちょっとダウン。で、日記を書いている。

それにしても、羽越線の列車事故は酷かった。ああいうことって起こるんだな。冬の日本海側の天候はやはり侮れない。しかし、おそらくは車体が軽かったんじゃないかなと思う。最近は軽量化が進んでいるから、下からの突風に煽られたときなどには弱いのではないだろうかと思う。エネルギー効率はもちろん軽い方がずっといいだろうが、その辺は十分に計算されていたのだろうか。

イトーヨーカ堂とセブンイレブンジャパンを傘下に持つセブン&アイホールディングスが西武百貨店とそごうを傘下に持つミレニアムホールディングスを買収すると言う。これは小売業界の巨人がさらに巨大化するという感じだ。株価もストップ高のようだし、年末に大きなM&Aの話が出てきたものだなと思う。株式市場は、まだまだお祭り騒ぎが続きそうだ。

さて年賀状に戻らなくては。

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全日本フィギュア男子採点ミスの失態に思う

2005-12-25 09:29:00 | 時事・国内
全日本フィギュア男子は織田の優勝でトリノの選考はさらに複雑になるなと思ったが、何と表彰式後に採点ミスが発覚して高橋の優勝が決まったと言う。そんなことがあっていいものか、と思うが、考えてみれば今年は「そんなこと」の連続だった。

結局は国際規格の採点システムが英語のためうまく使いこなせず独自ソフトを使ったのが不具合であったことが原因らしい。三回転ジャンプを二回跳んでいいのはニ種類まで、という規定があるらしいが、(トリプルアクセル、トリプルトゥーループとか言うあれね)全日本大会などという晴れの舞台で、まさか日本でそんな話を聞くとは思わなかった。

しかし考えてみれば東京証券取引所のミスの連発も同じようなものだ。いわば東証は『審判』のようなものなのだから、その判定や勝負、いや取引の交通整理が最重要の課題であるのに、それがシステムが止まったり明らかな誤注文を取り消せないなどというのはあってはならないことだ。400億円という巨額の穴埋めをどうするか、こちらも深刻だ。

審判と言えばもちろん強度偽装問題のイーホームズや日本ERI、あるいは自治体などの「検査機関」も十分な検査をもともとシステム上していなかったと言うことが判明した。こちらは人命に関わることだし、大変なことだ。

社会的な観点から言えば裁判所の、「司法の喋り過ぎ」だ。原判決では退けながら個人的な意見みたいな形で首相の靖国参拝に文句をつけたり、ジャッジの不明確さが目立った。それを批判して短い判決文を書いた裁判官の再任拒否をしたり、司法への信頼も低下している。

政治で言えば、郵政法案を参議院で否決されたのに衆議院を解散するなどというこれも「公正の感覚」を欠いた判断が行われて、「国民の審判」も圧倒的に小泉自民党を支持するなどこの審判も相当変だった。

スポーツの世界での誤審や採点ミスというのはほかにもあったような気がするがもう思い出せない。大学入試での採点ミスなどはもう年中行事である。食品安全委員会の狂牛病のおそれがある米国産牛肉の解禁などもお話にならない。

日本は、どうも「まともな判断」というものが下せない状態になっていると言うことの、象徴的な現われがクリスマスイブの男子フィギュアの失態だったのかもしれない。そういえば「想定外」な人々が猛威を振るったのも今年だった。

「まともな判断」が下せないと言うのは、判断のもとになる「健全な常識」、「しっかりした専門的な知識」、「あらゆる可能性を考慮して想定外の事態も捌ききる腹の大きさ」のようなもの、それぞれが櫛の歯が欠けるように日本人から失われつつあると言うことなのだと思う。簡単に言えば、日本人から「中庸」の美徳が失われていると言うことになる。

中庸というのはバランス感覚、ということにもなろうが、それも機械的なバランスを取るだけでなく人情の機微を尽くしたものでなければならない。判断に人情が表れてこなければ人情の大切さが人に伝わるはずもない。しかしそれに流されてもいけない。その難しさをよくこなすのが歌舞伎に出てくる「捌き役」と言われる大物の役割なのだが、そうした存在がいなくなった、というか日本人がそうした存在を信頼し、尊重しなくなった、ということなのだろうと思う。信頼や尊重のないところにバランスもなく、中庸もなく、まして健全さや誠実さも育つことはないだろう。まともな判断が出来ないのもそういうことに起因しているのだろうと思う。

「無私な人間」が欠けていると言うこと。「無私な人間」への信頼や期待ができないということ。結局今の日本に欠けているのはそういうことなのだろう。誰もが自分は人より得をしたいと思っているだけでは、社会は動かない。市場の為すに任せよ、といってもその市場を公正に仕切る仕切り役がいなければ絶対に市場もうまく動かない。そういう目に見えない中心になるものを、日本人はあまりにも蔑ろにしてきたのだと思う。今そのツケがはっきりと現れているのだ。

欲望がなければ社会は動かない、というのは本当だと思うが、欲望だけでは社会は混乱に陥る。自らの欲望を制御して社会の混乱を少なく抑えようとする人たちを尊重し信頼する気持ちを日本人はもっと大事にしなければならないのだと思う。

大リーグに比べて日本の球界は審判の地位が低いと言う。大相撲でも行事は進行役で勝負を判定するのは力士上がりの親方の審判委員である。ジャッジに求められる権威や権力というものを剥奪しようという方向にばかり日本人の指向性が強いからだろうと思う。

現代を中世になぞらえる見方があるが、日本の中世というのはまさにそういうものが崩壊した時代だった。自由ではあったが平和ではなかった、といっていいだろう。そういうものを今の日本人が求めているならそれもまたしかたがないことかもしれないが、そうした時代に子どもはたくさん生まれそうにないのはしかたがないことだろう。今「蒙古襲来」があったとしたら、日本人は持ちこたえることが出来るのだろうか。

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雪が降っている

2005-12-24 22:15:20 | 雑記
日記ということで日々起こったこと思ったことを書いているのだが、どうも今日は何を書いてもあまり面白くない感じがする。メリー栗羊羹、と書いてみようかと思ったが、その後が続かない。

昼過ぎに丸の内の丸善に出かけて『公家侍秘録』の4巻と5巻を買う。増刊号にしか掲載されないマンガなので分量が少ないようだ。しかし江戸時代後期の京都の様子がそれなりによく書けているなと思う。政治史を追いかけると江戸が中心になるが、文化財とか「お宝」というようなものを追いかけると、圧倒的に京都なんだなと感心する。煎茶道というものがどういうものか知らなかったが、江戸時代に茶道の俗流化に対抗して文人やインテリの間で流行したと言うことを知り、奥が深いのだなと感心。そういう薀蓄を中心にいくつも話を作っていくのは大変だろうなと思う。作者は私と同郷の人らしく、へえと思う。

昼間はなんとなくテレビをつけたら『談志陳平の言いたい放題』で東條由布子氏が出ていてちょっとびっくり。「人の業を突っ込んで話す」のが仕事の談志師匠と正義感の塊のような東條氏ではなかなかうまくかみ合わないような気もしたがまあなんとなく無事終了。12月12日の談志の国立演芸場での高座風景も流れてああこういう落語を語る人なのかと改めて思う。テレビでいろいろ喋っているときと比べて、一言で言って真剣度が違う。寝てる客に怒鳴りつけたと言う話がいくつもあるが、あのテンションはそうでなければ成り立たないものなのだなと改めて思う。テンションの高い語りを聞きに行くためには、こちらのテンションも高めるのがいわば義務なのだと思う。そうでなければ何も無理して聴くことはないのだ。

夜はこれもたまたま『オーラの泉』を見る。今日は上戸綾、新庄剛、増田恵子の3人。新庄の回が爆笑ものだった。この番組いつも面白く見ているのだが、今日はなんだか見終わった後に考えてしまった。自分がやっていることを振り返ったと言うか、これでいいんだろうかと思ったと言うか。ここの所ちょっといろいろと自分自身に向き合わされることが多いのだけど、今日もなんだか物思いに沈んだ。メリー栗金団。

女子スケート。なんとなく、世界レベルの大会などとは違い、変なバイアスがかかっているような気がしてしまって仕方がなく、あまり見る気がしない。『日本フィギュア界』というものが『選びたい選手』が高得点を挙げるようになっているような気がしてしまう、偏見なのだろうけど。どちらにしても浅田が出ないのならオリンピックも見る気はしないだろうなとは思う。男子は見てもいいな。メリー栗最中。

考えたところで何が出てくるわけでもないのは分かっているのだが、考えてしまう。そんな12月24日。東京は雪は降らないが寒い。散髪をして頭はすっきりしたのだが、中身はしんしんと雪が降っている。
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いろいろ凍結

2005-12-23 11:30:55 | 雑記
昨日は松本に仕事に出かける。仕事先の最寄駅で降りたら改札が自動改札になっていた。そんなに乗降客がすごく多いとも思えないが、施行テストのようなものだろうか。狭い待合室が自動改札の機械でますます狭くなっていて、ちょっと邪魔、と思った。仕事先まで行きはゆっくり歩いていった。すっかり冬の景色だ。仕事の終わりごろになって急に雪が降りだし、仕方がないので帰りはタクシーに乗る。いつもは空いている道が混雑して、タクシー代も五割増だった。帰りの電車も遅延するし、信州は雪に強いとは必ずしもいえないなと思う。

帰ってきて仕事の後始末と別の仕事。夜もまあまあ忙しかった。9時半に仕事が終わってから高校時代の友人と飲む。話が弾んでお開きは2時前。雪はそれほどでもなかった。しかし歯を磨いて寝ようとしたら水道が凍結している。凍結防止用の電熱線は入れてあるのだが。朝も10時過ぎまで水が出ない。手洗いは出たから良いのだが、便器(和式)の水が凍っていた。これを見るのは久しぶり。冬だ。

朝はのそのそと起きだす。朝食も取らず、10時ころまで寝る。今日は天気がいい。昨日は冬至、今日は天皇誕生日、明日と明後日はクリスマス。行事の多い日々だ。平成になってから、仕事を22日までに終わらせる傾向が強まったという。天皇誕生日以後はもうホリデイということか。欧米のクリスマス休暇のような効果が天皇誕生日に生まれたということだ。今週は忙しくて本も読めず勉強も書き物も進んでいない。
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彼は彼、我は我

2005-12-22 08:19:03 | 時事・国内
昨日は午前中松本に出かけ用事。午後から夜にかけて仕事。一つ大きな相談事があってずいぶん時間を使った。結局まだ全体像は見えない。動きの中で動的に把握するしかない、という感じ。人生いろいろ。

中村がバファローズに復帰、あるいはオリックスに移籍。メジャーリーグで通用する選手と通用しない選手と。日本のプロ野球は報酬的にもアメリカに次ぐものだし、何が何でもメジャー、と考えることもないのではないかと思う。それにメジャーが絶対的に強い、というものでもない。超トップレベルではアメリカの方が上だろうが、向うの中くらいのレベルとこちらの一流を比べればこちらの方が上だと言うこともあるだろう。キャラクターとか人間性とかからいって中村はアメリカよりも日本で評価されるタイプの選手だと思うし、そういう文化的な居心地のよさというものも考えたほうがいいと思う。バスケットのようにアメリカが世界に隔絶してレベルが高いケースもあるが、彼は彼、我は我という部分が日本にはもっとあったほうがいいと思う。

昨夜来、雪。今日は久しぶりに松本の方で仕事があるが、こちらでほんのわずか雪が積もっているけれども、松本はどうだろう。西山颪は強いだろうな。
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