Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

イスラム諸国のデンマーク攻撃とアルジャジーラ沈黙の不思議

2006-02-05 09:55:48 | 雑記
イスラム教の預言者・ムハンマドを風刺したマンガの掲載以来、イスラム諸国の反デンマークの抗議行動、あるいは攻撃が強まっているようだ。同じようなことはフランスでもあったようだが、デンマークが特に攻撃されているのはどういう理由があるのか分からないが、おそらくはその伝えられ方が衝撃的であったということ、表現がイスラム教徒側の許容範囲から大きく逸脱したものだったということだろうと思う。

私はこの場合のもともとの落ち度はやはりデンマーク側にあると思う。表現の自由というものが守られるべきであるのは当然だが、やはり表現には節度というものが求められる。これだけイスラム系の移民の多いヨーロッパ社会で彼らの神聖なものに対する冒涜はやはり普通に考えて慎むべきものであろう。これは日本でもそうだけれども、神聖なものに対する敬虔という節度ある感覚そのものが失われつつあることの反映なのだろうと思う。私はそういうものは人類にとって必要なものであると思うから、この件に関してはイスラム側を擁護したいと思う。だからといって放火するというのでは中国や韓国の反日と同じレベルだと思うけれども。

紅海でエジプトのフェリーが沈没したとか、イランのウラン濃縮の問題が国連安保理に付託されたとか、トルコの鳥インフルエンザの問題とか、またもちろんパレスチナ選挙におけるハマス勝利の問題とか、イスラム諸国をめぐる問題は最近かなり多発していて、まるで耐震偽装・ライブドア・牛肉問題・防衛施設庁問題に包囲されている小泉内閣のような有様だが、イスラム諸国を巡るこれらの現象の有機的に統一されたイメージの解説のようなものがあまり表に出てこないのが残念だ。不思議なのは、ライブドアが提供しているアルジャジーラニュースがこれらのさまざまな問題について全然伝えてこないことで、一体どうなっているのだろうと思う。日本のマスコミは、戦争になったりとか日本が関わってくることとかにならないと中東関係のニュースをあまり取り上げないので様相がなかなか分からない。

何というか、世界がどういう方向に動こうとしているのか、今は本当に見極めにくい状態だと思う。
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田中均前外務審議官/敗戦国としての日本の出来ること

2006-02-05 09:31:58 | 時事・国内
報道2001で田中均前外務審議官が出ていた。そうだなと思うところとやはりその考え方はおかしいと言うところと両方感じる。結局議論の行き違いというのは、ヤルタ・ポツダム体制を完全に所与のものとして全面的にそこからはみ出してはならないと考えて身を処することを考えるのか、戦勝国体制としての戦後そのものに異議を持ち、より大きな歴史的視点でものを考えようとするかの二つの立場に分かれてしまうのだと思う。右も左も含めて、ヤルタ・ポツダム体制そのものに対する異議を申し述べるべきではない、という自己規定を意識的にしろ無意識的にしろ乗り越えられない、乗り越えてはならない一線だと考えている人が相当の多数派であることは確かだろう。そういう人からは、それそのものに対する疑義を表明する人が単なる夢想家、幻想家、妄想家に思え、相手の言うことをまともに聞かないということになるのだろうと思う。

現実問題として、戦勝国体制としての5大国の世界支配というのは強固なものだし、中でもアメリカの一国支配が飛び抜けていることも事実である。5大国も現実にはアメリカと、中国・ロシアの専制体制グループ、イギリス・フランスの旧列強グループに分かれている。そしてもちろん、この3極が世界を代表しているのでないことは事実である。どこの国の外交も、この3極の中での綱引きと、イスラム諸国、アフリカ諸国、ラテンアメリカ諸国、東南アジア諸国などと、またインドや日本などの独立勢力の中の点数の稼ぎあい、足の引っ張り合いのなかでそれぞれの国益、グループ共通の利益の実現のために努力していると言うのが原状だろう。日本はその中でもなるべくアメリカと密着しつつ中国・ロシアその他の国を牽制して国際的地位・国際的影響力を高めようというのが基本的な戦略ということになっているだろう。

したがって、戦勝国体制そのものを疑うことはすなわちアメリカ非難につながり日本の国益に反する、という主張そのものを理解できないということはない。しかし、そういう戦略・戦術的なものと、原則論的・思想的なものはまた別に考えるべきだと言う考えも当然あり得るわけで、そこのところを単に夢想的・妄想的と切り捨てるのは返って生産的ではないように思う。そこのあたりは、実務には長けていても思想的な訓練にたりないところがある現代日本人にかなり広範に見られる弱点であるように思う。そして残念ながら、ブログなどを読んでいてもそうした思想的な面で骨があると感じられる人の中にもどうやら現実路線に切り替えたのかなと感じられる人が多く見られて、むしろ不勉強なネット右翼のみががなりたてるという戦後60年に共通した不毛な有様が広がっているという現状である。

日本のあり方を考えるときに、敗戦後の日本の姿勢だけを絶対的なものとして考えるのは返って現実性がない。戦前の日本がなぜそのような行動をとったのか、その抱えている理由というものが、現代にはもう完全にその論拠が失われているかと言えば決してそうではないからである。そして日本の日本としてのアイデンティティというか、まあそういうものを外来語で表現しなければならない私自身の教養の薄さにも苛々するところだが、日本の真髄というか脊柱というか脊髄というか、まあそんなようなものはやはりそんなには変化していないのではないかと思う。それは目には見えないもので、サン・テグジュペリが言うように「大切なものは、目に見えない」というようなものである。

で、そうしたところから立って考えれば、いかに非現実的に見えようと、現在の世界体制そのものが歪んだものであると言うことは見えてくるはずである。それはたとえばイスラムの側からも見えるだろうし、ヨーロッパの側からも見えるだろうし、おそらくはアメリカの伝統を掘り下げている人から見てもその歪みは見えてくるはずだと思う。どこが歪んでいるのか、という見方そのものは違うだろうと思うけれども。そうした意味で、そういう思想的な営為そのものが無意味だと言うことは絶対にない。それは直接的には世界を変えることは出来なくても、その発信がある種の強力な磁力を発生させて、世界を変化させる超長期的な要因になることは常にあるからである。

そうしたことは現実に力を持っている大国にのみ可能なことではない。我々のような敗戦国にあっても十分可能なことである。日本人が日本人の美意識、日本人の真実、日本人の善意に適合した世界に少しでもマッチする世界になることを願い続け、そのための努力を続ける限り、世界はほんの少しだけでも日本化していく。そういうつもりがなければ、世界が我々が願うようなよい世界に近づいていくことは絶対にないと思う。




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ツルゲーネフ/ドストエフスキーの語り口

2006-02-05 09:29:34 | 読書ノート
『ロシア怪談集』。ツルゲーネフの「不思議な話」を読了。聖愚者に一身をささげる清純な若い女性に胸を打たれる挿話だが、編者も言っているがこれを怪談というには無理がある。しかし、描かれているソフィーという女性の献身が一心な信仰によるもので、自らの意志を否定し、神の意志の前に自らを卑下するという信念が、何というかナロードニキ的なものを思わせた。時代的にはそういうころだろうか。最近読んだもので、そうした人を超越した信仰や思想に身をささげるタイプの女性を読んだことがなかったので、ああここにロシアの新しい時代が始まったのだなということを感じた。

しかしそういえば、1960年代から80年代のはじめにかけて、そうしたある種の使命感に燃えていた若い女性というのは少なくなかったのだが、最近はとんとお見かけしなくなった。それもまた新しい時代の変化というものか。最近の若い女性はいったい何に熱中しているのだろう。

ドストエフスキー「ボボーク」。語り口が可笑しい、というか洒落ている。「いまどき、ユーモアとか見事な文体なんて姿を消しているし、悪口雑言が切れ味のいい皮肉にとって代わっている。」なんて台詞は、全く2006年の今日のためにあるような台詞である。ドストエフスキーって、こんなに気の利いた文章の書ける作家だったっけ。どうしても鹿爪らしい印象が強いのだが、こういう資質をもう少し意識して読めば、途中で投げ出した『罪と罰』なども読みきれるのかもしれない、とも思った。
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