Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

埋もれていた天才職人の仕事

2006-10-31 12:20:23 | 読書ノート
急いで帰らなければならない事態が起こったので、今朝は朝8時の特急に乗って信州に帰った。早い時間に動くと感じが全然違う。東京でやるべきことはできないが、こちらに来てからやるべきことをやっても多少の余裕はある。とりあえず何とかなりそうだ。

片瀬平太・池田哲也『ナポリ仕立て 奇跡のスーツ』(集英社、2006)を特急の中で読む。有名な職人にインタビューを重ねる中で、埋もれていたナポリ仕立てを確立した職人・ロベルト=コンバッテンテの存在が浮かび上がってくる過程は非常にスリリングで感動する。まだ半分も読んでいないが、スーツの世界の奥深さに圧倒される思いである。

ナポリ仕立て―奇跡のスーツ

集英社

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ちなみに表紙の写真は、この職人が代々150年以上使いつづけたはさみである。

昨日は疲れていて、突発事態が起こったこともあり、8時過ぎに休んで午前1時過ぎに起きて仕事を片付けたが、思ったより早く終わったので2時半ごろにまた寝た。起きたのは6時くらいで、こういうやり方をしているとどうも調子が狂ってしまう。

今回の事態が速やかに安定化すればよいのだが。





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『吉野の姫』

2006-10-30 10:32:33 | 雑記
わたしの旧友が関係している短編アニメが小津映画祭の短編賞を取ったそうで、おめでたい。その知らせをmixiで読んで、フラッシュアニメを見てとても感動しました。多くの人に見てもらえると嬉しいです。

↓こちらです。環境によっては少々重いかもしれません。
『吉野の姫』
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こういう服が着たい/ネットの現在/就活:ググられる学生たち

2006-10-30 09:52:57 | 雑記
昨日。なんだかいろいろやっていたが、最近前の日の記憶がはっきりしないことが多くなってきたな。「いろいろやる」と言うのがうまく思い出せない原因なのだろうと思うが、PCの前に座っている時間が長いほど、記憶の量が少ない気がする。自分の作業したファイルを振り返ってみたりすると、あとでびっくりするような気もするが。

3時ごろだったか、友人の娘から電話がかかってきて哲学のレポートについて相談されたのだが、さすがにヘーゲルやカント、あるいはデカルトについてはこの本がいいと人に勧められるほど読んでいないので、図書館の使い方や調べ物の仕方、レポートの構成などについて一般的な話をするに留まった。恐いもの知らずのテーマ設定についてはさすがに穏便な方向を言って見たのだが、まあ考えてみれば大学の学部生のころのレポートなど私も大言壮語の山でちっとも地道な調査などせずに単位をせしめていた。これで通用すると思ってしまうから、もっと的確な指導をした方がいいと今では思うんだけどね。ただそういうビビッドで巨大な企てをして見事に失敗するのも若さの特権というべきもの。そういう話を聞いているとなんだか楽しくなってくる。

4時過ぎに家を出て丸の内の丸善に出かけ、すこし本を探す。『王様の仕立て屋』の原作者、片瀬平太による『ナポリ仕立て―奇跡のスーツ』(集英社、2006)が発売されているとネットで見て出かけたのだった。右側に文章、左側に写真という構成で、スーツの作り手でなく着手が読む本だが、そういう意味では骨があると感じた。この本の写真に出てくるスーツはどれもこれも、日本の既製品のスーツを見慣れた目には全く別物のように見える。何でこんなにお洒落なのか、何でこんなに個性的なのか。『王様の仕立て屋』も面白いが、やはりマンガなのでモノの質感を再現するには限界がある。写真を見て、ああこういう服が着たいと溜息をつくようなことは、私にはめったにないのだが、この本を見ているとそう思う。オール手縫いのフルオーダーでもだいたい40万円でできるというのだから、ちょっと凄い話だ。まあその40万円が出ないけれども。読みかけ。

ナポリ仕立て―奇跡のスーツ

集英社

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ついでにパソコン関連書籍のコーナーに回る。『読書三昧』には主にアマゾンのアフィリエイトリンクを張ってみているのだが、どうもその考え方のようなものがわからないので参考になる本を買ってみた。アフィリエイトのことだけでなくさまざまなネットの上に公開されているツールやテンプレートなどについて言及されていて、そういう意味でも大変参考になった。ちょっとあけすけな題名の本なのでリンクを張るのが気が引けるが、ある意味ネットの現在が分かる本。一気に読了した。RSS自動作成、複数ファイルの文字列の一斉変換、csvファイルを使ってのhtmlファイル自動作成など、あれば便利だと思っていても現実にはどこにあるか分からなかったツールがたくさん紹介されていて、そういう意味で非常に助かった。ご興味のおありの方はこちらへどうぞ。

ネットで見ていて面白いと思った記事。『ブログが就職の「落とし穴」?ググられる学生たち』。そりゃあそうだなあと思う。これだけブログや就職活動情報の共有化が進んでくると、企業の採用担当者だって自由に見られるわけだし、情報があればあるだけ学生の査定もできるのだから当たり前だよなあと思う。ただ「はてな」の社長の言うように、「志望者のブログの面白さと採用確率は比例する」という場合もあるだろうと思う。若々しいクリエイティブな企業にとっては、そういういわばコンテンツを作成する才能のようなものが測れるブログの登場は、デザイナーが売り込むための自分のファイルを持ってくるのと同様で、非常に役に立つ査定手段だと思う。

もちろんマイナスにしかならないような内容ならどうにもならないが、こういう自体も前向きに考えると非常に発展性のある話だと思う。それがもっと展開していけば、就職自体を同じ時期にいっせいにやる必要もなくなってくるだろう。中途採用などでも、もちろん企業秘密などについてかいたら人格を疑われるが、アピールの仕方としては面白い。

なんだか世の中がいろいろ変わっていって面白いなあと思うことも多い。







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読書三昧

2006-10-29 14:25:44 | 読書ノート
『読書三昧』に以下の5作品を追加し、登録作品数が80冊になりました。

司馬遼太郎『世に棲む日日』

白洲正子『両性具有の美』

尾崎哲夫『英語「独習」開眼法』

福田和也『作家の値うち』

福田和也『悪の読書術』
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神保町ブックフェスティバル/世界史の必要性/学校は週六日制に戻すべき

2006-10-29 09:23:48 | 時事・国内
昨日はいろいろやっていて、遅くなってから神保町に出かけた。行きがけに地元の駅でちょっとしたトラブル(ちょっと小腹がすいたので自動販売機で買おうとしたスニッカーズが機械の中で引っかかってしまって食べ損ねた)があったが、気を取り直して新御茶ノ水に出る。いつもの道を歩いていたらなんとなく華やいだ雰囲気で、神保町はちょうどブックフェスティバルの真っ最中だったのだった。

全然そういうことを予想して行ったわけではないが、こういうことにはよく出くわす。すずらんどおりにたくさんの出店が出ていてなんだか楽しい。B5判の色ケント紙の束をなんとなく買ってしまったが、さて何に使おう。自家製の詩集の紙にでも使おうかな。

屋台と書店をいくつか物色するが、結局本は買わなかった。鉛筆がほしいと思って三省堂の『自遊時間』という別棟の書店に行ったら、古いCDやLPを売る店が入っていて、ちょっと欲しい感じがしたが、いちおうやめる。ステッドラーの鉛筆を二本と、ポストイットを買う。

どこかで食事をと思ったがどうも食指が伸びず、また新御茶ノ水まで戻って地元の西友で買い物をして帰る。

夜もなんとなくいろいろなことをやっているうちに遅くなり、1時過ぎになってしまった。

朝起きてから近くの志演神社(しのぶじんじゃ)にお参りに行く。この神社のたたずまいがなんとなく好きだ。境内には日本最古の力石があったり、この近郷は江戸時代から堆肥の熱を利用した促成栽培が行われて江戸の初物好きに大好評だったという碑があったりする。朝っぱらから景気よく鈴を鳴らし、拍手を響かせてお参り。短冊型のちらし(何というべきだろう)がおいてあったのでもらって帰る。曰く、

『学を修め 業を習い 以て智能を啓発し 徳器を成就すべし』

「新しい学問を学び、既に得た知識をおさらいし、身につけた力をさらに高めて、人格を磨きましょう」、というような意味になるか。学問の基本だ。単位履修騒動に揺れる教育界に喝を入れるような内容だが、全くみっともないったらありゃしない、としか言いようがない。

41都道府県、399校に 高校の未履修問題(共同通信) - goo ニュース

元世界史教師としては、もっとみんな世界史を、というか歴史を大事にしろよ、と言いたいが、歴史を大事にしない大人たちを育てたのも歴史教育の、ひいては歴史研究者を含めた関係者全員の責任だと言うべきだろう。現在は現在によってのみ成り立っているのではなく、過去の、伝統の大きな蓄積の上に成り立っていると言う当たり前の歴史感覚が、全く身につかないまま社会での発言力を持つ存在になっている人が多いということは空恐ろしい感じがする。ひとつには、日本を強い影響下においてきたアメリカが「歴史のない国」(比喩ではなく、事実として)であり、歴史や伝統よりも圧倒的に現在や机上の空論的な理論にこだわる(でなければイラク攻撃などするわけがない)国で、世論をリードする立場の人たちがそうしたアメリカナイズされた感覚に慣れすぎてしまっていると言うことが多いだろう。また隣に数千年の歴史がある中国があると言っても、中国共産党政権にとっては王朝の歴史は当たり前だが否定すべき歴史なのであって、彼らも結局まともな歴史感覚はないのである。そういう国々に囲まれていては変になるのも致し方ないという面もないわけではない。

世界史が必修になったのはそう古いことではないが、私は個人的には日本史を必修にして世界史は大学に進学する者に対してのみ必修にすればよいと思っていた。大学でのさまざまな学問、特に人文・社会系の学問を学ぶ上で、世界史の知識が皆無のまま入学するということは、生物を全く履修しないまま医学部に入るのと同じで、非常にばかげた教育上の効率の悪い話である。

結局は、「必修科目」と言う制度が中学・高校・大学と教育の連携の上に構築されていないのが問題なのだ。中高一貫で中学生時代に履修した世界史が無効とされるというのもちょっとばかばかしい話で、結局そういう無意味な効率性の悪いことを無駄に主張するから文部省は頭が悪いと言われるのである。発達の程度において中三で世界史をやるのと高一でやるのと絶対的な違いがあると言えるだろうか。数学などでも本来中学でやっていた不等式や確率の期待値を全部高校回しにしたりしているが、正直言ってそんなものは中学のうちに叩き込んでおいたほうが高校数学の履修の上では絶対に楽に決まっている。

この事態の背景にあるのは、ひとつには授業時間の確保が困難であると言うことがある。つまり週五日制(週休二日制)の実施によって、必要な授業時間が確保できないため、必修科目飛ばしや中学学習領域の先送りをせざるをえなくなっているのである。必修科目飛ばしが多発しているのが90年代からだと言うのは、そういう理由だろう。

と、ここまで考えてくると、文部科学省の狙いは土曜授業の復活にあるのかもしれない、という気がしてきた。いわゆる「ゆとり教育」を推進してきた元凶の官僚は既に野に下っているし、『教育の建て直し』の名のもとに土曜授業を復活するということは大義名分が立つ。現場としても、土曜は授業をやったほうがいろいろな意味でうまく回ると私は思う。

今回の事態で、こういう受験体制を組んでいるのは東北地方をはじめとする、高度に発達した受験産業から置き去りにされている地域に多く見られると言う分析が出始めた。大都市圏では受験や時には学習と言うものそのものを予備校や学習塾に『丸投げ』していることが多く、学校は何もやってない、と言うところは結構ある。地方で学校がそれを引き受けざるを得ないところが苦肉の策で必修飛ばしをやっていると言うのは事実だろう。まあ要するにこれはそういう意味での『格差』の問題なのであって、キィーッとなっている人にも鼻白む物を感じるのはそういうところもあるのだろう。

ま、これで原則が強制されるようになれば、(間違いなくなるだろう)ほっとけば最近躍進しつつある地方の公立高校の受験実績もまたどん底に突き落とされ、中学段階から都会の有名進学校に「進学留学」しなければいわゆる有名大学に合格することは不可能、と言う状態がまた促進されていくのだろう。やはり週六日制に戻して地方でもやれることがやれる状態にしなければ、格差は広がるばかりだし、「再チャレンジ」以前に現役合格しなければ進学も出来ないほど親たち自身も経済的に疲弊している層が地方には多いのだから、大都市圏と地方の学歴格差ももっともっと拡大していくことになる。

問題を指摘し、病弊を抉り出すのはそれはそれとして必要なことだけれども、その背後にある大きな問題を解決していくのは、本当の意味で政治の仕事だと思う。






***

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読書三昧

2006-10-28 23:20:25 | 読書ノート
『読書三昧』に以下の2作品を追加しました。

司馬遼太郎『燃えよ剣』

会田雄次『アーロン収容所』
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教育大粛清

2006-10-28 13:27:31 | 時事・国内
昨日。午後から夜は仕事。8時過ぎの特急で帰京。列車の中では『コミック乱』を読んだりアンジェラ・アキを聞いたり。甲府で隣の席に座った人がSAPIOを読んでいた。ほかの人がSAPIOを読んでいるのを見たのははじめたかもしれない。へえと思った。

SAPIOは木曜のうちにもう読んでいたのだが、印象に残ったことを二三。三浦しをん『風が強く吹いている』(新潮社)の書評が増田明美と編集部との対談の形で出ていて、これはとても印象に残った。スポーツの本というのは私は結構好きなものが多いのだが、小説には余り手を出していなかった。しかし、きっと小説でないと表現できない部分もあるのだろうなと思う。そういう意味で期待できそうな本だと思った。

風が強く吹いている

新潮社

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佐藤優「インテリジェンス・データベース」。安倍訪中で何が変わったかということについて、今までは実態のない「友好」外交=「予定調和」外交であったのが、お互いに実務的に実利を追求しあい、協調できる所は協調し、そうでないところではお互いに足を引っ張り合ういわば「帝国主義」外交の幕が開いたのではないかという分析がなされていて、多分それはそうだろうと思った。残念ながら現在のところ、中国共産党政権はお互いに理想を共有できる相手ではない。結局そういう相手とは是々非々で付き合っていくのがもっとも重要なことであって、変にこちらが卑屈になることで誰も信じていない「友好」を演出しても意味がないとお互いに考えるようになったのだと思う。そのあたり、変に贖罪感が強い戦前派に比べて戦後派はお互いをしっかり正面から見据えられるのだと思う。韓国は相変わらず変だが、中国とはその線で普通に丁々発止が出来るようになっていくのではないかと思う。

世界の戦争博物館の紹介。さまざまな博物館やそのサイトが紹介されていて、アメリカ・ロシア・中国の博物館の中には旧日本陸軍の物でももう日本国内にはないものが展示されているところもあるらしい。そういう意味では軍事史的な視点だけでなくもっと広い視点からでもこういう戦争博物館を訪れてみることによって見えてくることがあるのではないかと思う。

中でも凄いと思ったのがアリゾナ州のタイタン・ミサイル博物館。なにしろICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射サイロをそのまま一般公開しているというのだからものすごい。一歩間違えば、ここからモスクワや北京に向かって実際に核ミサイルが発射されていたかもしれな場所なわけである。そのサイロには、もちろん現役ではないだろうが、ミサイルがいまだセットされているのだという。

***

単位未履修問題が広がりを見せている。現場の教員たちは戦々恐々だろう。受験勉強を邪魔されて怒り狂っている多くの受験生に対して何十時間もまじめに勉強してもらえることのほとんどないだろう世界史の授業をぶっ続けてやることなど、考えるだけでぞっとする。

この問題はいろいろな側面から語られていてそれぞれに点で勝手な見解が述べられているからいろいろ物がいいずらいのだけど、ここではひとつだけ政治的な視点から述べてみたい。

政治的な構図で言えば、これは小泉政権の時代の「年金未納問題」や「耐震偽装問題」と同じ構図を持っているということである。年金問題は、以前は政府から年金をもらう意思があるか否かというような視点で、もらう気はないから払わない、というような視点もありえたのに、年金財政破綻という状況を受けて払っていないものは社会的な義務を遁れるとんでもない存在として糾弾されるべきという構図が成立した。そんなつもりはなかったんだけどなあとあとで思っても、もうあとで払うことも出来ず、要するにゲームのルールが変わってしまったのだとしか慰めようのない状態になっている。政治家もずいぶんたくさんの人がそれで恥をかいたが、年金財政問題をクローズアップするにはものすごく効果的な出来事だった。

耐震偽装は安全に関わるだけにもっと深刻な(年金が深刻でないということではない)問題だが、これもなんとなく業界内の雰囲気が出来上がってしまっていて、結局それに粛清のメスが入ったということであろう。この問題も建設業界を震え上がらせるには十分な力を持っていた。

小泉政権で問題になったこれらの問題に対し、安倍政権のテーマのひとつは教育改革であるから、教育界に対する大粛清が始まったなというのが私の感想である。

一番ポイントになるのは、「指導要領」をどうとらえるかという問題だ。指導要領はもちろん法律ではない。また政府が出す政令でもない。文部科学省が出す省令のレベルの存在である。これも出された当初は目安的な意味合いが強かったのが、徐々に強制力を持つ存在に強化されていった(と私は理解している)。現場での影響力は、もちろん現場は原則的にはそれを実行しなければならない立場ではあるのだけれども、どちらかというと国旗国歌などと同様、尊重されていたとは言いがたい部分がある。

私の高校時代なども、じつのところ、今問題になっている単位の読み替えなどは普通に行われていたと思う。家庭科など、男子にも必修化してからも、私立の進学校では実際には授業は行われていないという話もよく聞いた。結局それでまかり通っていたのが、いきなりだめになった、という印象が現場にとっては偽らざるところなのではないかと思う。

ただし、われわれの時代などは「大学受験のため」という名目の学校ももちろんあっただろうが、より教養主義的な立場から科目の軽重を決めて、生徒の教養に資すると考えられるものを重視する、という印象を私は持っていた。だからもし今のような摘発があっても、学問・教育の自由と教養の価値というよりハイブロウな主張を掲げて文部科学省の管理強化と対決する骨のある校長が出る可能性もあったのではないかという気がする。現在とは比べ物にならないほど高い組織率の教員組合、高教組などももっと強い主張を(私が賛成できる視点ではないだろうが)出しただろうと思う。

現在の校長の対応を見るとみな基本的に平身低頭で、往生際の悪いことを言っている校長の主張は「生徒のためを思って」「受験のため」というようなことを言うだけで、それだけでは世間=マスコミや、そのバックにいる文部科学省のコンプライアンス、「遵法主義」の主張にするにはあまりに卑小である。教員組合の動きなどもう瀕死の状態である。そういう意味で、高校教育界の実利主義的な堕落の現状から抵抗は不可能だろうという見通しを得て、今回のような粛清に踏み切ったのだと思う。

文部科学省の狙いは、つまりは指導要領の完全な金科玉条化である。省令であれ、もちろん拘束力のある存在ではあるが、教育権(教育を行う権利)が一体どこにあるかという問題に絡んでくるので、これは法理論上は結論が出ているとはいえない状態なのだと思う。アメリカなどでは教育権は親にある、という見解が強いから、PTAが実際に強い規制力を教育に対して持っている。日本の文部省は教育権は国家にあるという姿勢だから、この騒動を期にそれを一気に強め、教育改革を一気に進めていこうと考えているのだと思う。

まあいずれにしろ大学入試をめぐり、大学側は受験生募集のために受験科目数を減らし、高校側は入試成績をあげるために少数科目に絞り込んで受験対策を行うといういたちごっこが変わらない限り、「健全な日本人の育成」という教育の本来の目的が実行できるはずがない。教育に改革が必要であることは間違いないと思う。

ただし、今回のようなやりかたはちょっとどうなんだろうと思わざるを得ない。年金問題でも恥をかかされたのは小泉首相や菅代表をはじめとして大勢いたけれども、今回実際一番に追い込まれるのは多くの多感な受験生であり、それを日々支えなければならない親たちや現場の教師たちである。受験生たちにとって、この恨みはかなり強烈にあとを引くのではないかと思う。エスカレーターの教育経験しかない安倍首相はともかく、公立校から京都大学を出、大蔵省に就職している伊吹文相は受験の辛さというものをよく知っているはずだと思う。だからこそ遵法を主張せざるを得ないのも確かではあるのだが、これは案外あとに尾を引く問題になるのではないかという気もしなくはない。彼らも2年後には有権者になるのだ。教育や社会に対して、痛烈な問題意識を持つ若者が、何十万人も有権者になることを、要人は認識しているのだろうか。

まあそんなふうに書いてきたが、もちろんこれが政府筋の画策という証拠はどこにもない。ただこの案件によって誰の筋書きが一番うまく運ぶか、という視点から考えたらこうなる、ということに過ぎない。全くの僥倖で教育改革に弾みがつく、というに過ぎないのかもしれない。

しかし、国の根幹に関わる教育の改革の問題が、ある種の不祥事から出発するということについて、どうも私はそういうのは嫌だなという気がする。教育界のどうしようもない硬直化しきった状況を動かすのはこういう機会しかないのだ、という考えも分からなくはないし、本当にどうしようもない教育関係者が多いことも事実なのだが、一罰百戒で膿を出すというような治療の仕方が未来を担う若者たちを育てる教育という営為にふさわしいものなのかという視点から見ると、残念な気持ちにならざるを得ない。

***

今日はいい天気。夜には雨が降ってくるという。光のあるうちに光の中を歩め、とゲーテも言っていた。暖かいうちに散歩に出かけ、太陽の熱を吸収してこようと思う。




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ありがとう、新庄!

2006-10-27 10:14:41 | 時事・国内
そうなったらいいなと思っていた。でも難しいだろうなと思っていた。一つ勝っても、もう一つ勝っても、三つ勝っても、心のどこかで「そんなにうまく行くはずないよ」と思っていた。しかしそれがほんとうに実現した。一つ負けたあと、四つ続けて勝って、ついに日本シリーズに優勝したのだ。それも札幌ドームで。日本ハムファイターズが。

テレビが見られない場所にいたので、ネットでテキスト実況中継を読んでいて、一球ごとにリロードして、戦況を見ていた。この仕組み、何が面白いんだろうと前は思っていたが、こういう状況の中で読んでいるとまさに手に汗を握ってくる。アサヒコムのサイトで読んでいたのだが、最後の打席にフルスイングで三振した新庄に、スタンドからスタンディングオベーション、というのを読んで、じんわりと涙が浮かんできてしまった。そういえば巨人が好きだった頃、末次が逆転満塁サヨナラホームランを打ったのに感動したのはラジオだった。より間接的なメディアの方が、ある意味記憶に残るといえるかもしれない。もちろん江夏の21球のように、テレビで見られてほんとうに幸せだったという記憶もあるのだけど。

家に帰ってきてからニュースで何度も試合を見、インタビューを聞き、ビール掛けを見たけれども、ほんとうにじんわりと嬉しさがこみ上げてくる。ヒルマン監督も板についてきたし、シリーズMVPになった稲葉の活躍も大きかったけれど、やはりこの試合の主役は、なんと言っても新庄だろう。8回最後の打席で涙を流しながら三振したシーンを後で見るとほんとうにゾクっとする。三振で観客を感動させる選手など、ほんとうに長島以来ではないだろうか。成績は確かに長島には及ばないけれども、新庄は長島以来の存在だったのだと思う。

日本ハムが札幌に本拠地を移し、日本ハムは本当の意味ではじめて熱烈なファンを獲得したと思う。私のように1970年代後半以来のファンなど、もうごくわずかしかいないだろう。江夏の活躍でパリーグを制覇し、巨人と後楽園七連戦の日本シリーズになった年。あの年のシリーズは屈辱的だった。後楽園は日本ハムの本拠地でもあるのに、スタンドの9割5分は巨人ファンだっただろう。その雰囲気の中でファイターズは呑まれ、実力を発揮できないうちに敗退した。翌年からも何年も優勝候補になりながら、広岡監督が就任した西武にあっという間に水をあけられ、Bクラスの常連に低迷していった。

だから本拠地が札幌に移転するということを知ったとき、地元東京で応援できない寂しさは感じながらも、チームにとっていいことだろうと思っていた。ホークスが福岡に移転して大阪球場の閑古鳥状態にはない熱烈なファンを獲得したこと、ロッテが千葉に移転してやはり最高のファンを獲得したことを見ていたからだ。

しかしチームには核がない。本拠地移転の話題性だけでファンがつくほど野球は甘くない。そこに現れたのが新庄だった。

はっきりいって私は新庄をあまり高く評価してはいなかった。野村監督時代の阪神で「言ってることが難しくて分らない」と言ったり、敬遠の球を痛打してサヨナラにしたりの意外性の男だとは思っていたが、イチローと同じ年に大リーグに挑戦し、イチローに「ぼくとあの人は目的が違いますから」と言うようなことを言われていて、まあそうだよなあとイチローの肩を持ったりしていたものだった。だからメッツで活躍したことも以外だったし、北海道に来てからもあんまり評価していたわけではなかった。

その気持ちが変わってきたのはいつからだろう。近鉄消滅騒動の中で行われたオールスターゲームで、新庄はホームスチールを敢行し、みごとオールスターMVPに輝いた。その時新庄が言った、「これからはパリーグです!」という言葉が、今思うとその転換点だったかもしれない。その時から、この男は、ほかの野球選手とは隔絶した、何か違うものを持っていて、何か違うもののために野球をやっていると感じ始めたのかもしれない。

プレーオフ制度が始まった年、日本ハムは3位に食い込み、プレーオフに出場することが出来た。それを決めた試合で新庄はサヨナラホームランを打ったのに前の走者の田中幸雄と二三塁間で抱き合い、走者を追い越したとしてアウトになってしまった。しかし、そんなことはほんとうにどうでもいい、チームがプレーオフに進出したことを純粋に喜んでいるその姿が、決まりきった野球の勝負観念をどこかに吹き飛ばしてしまうのを、私は感じていた。

今シーズン、ずっと三位につけながら、終盤の驚異の粘りでついにシーズン1位を獲得した。今シーズンから作戦スタイルを変えたバント重視のヒルマン監督の采配の中で、新庄がバントする場面もずいぶんたくさん見た。最初は新庄も不満そうに見えることが多かったが、だんだんそれも消えて、重要な場面でとてもよいバントを何度も決めるようになった。あの新庄のひたむきさがあればこそ、監督批判騒動でプレーオフ出場を棒に振った金村があのような謝罪を見せ、日本シリーズで普通なら考えられない登板と勝利を実現して日本一に貢献することが出来たのだと思う。

新庄の言葉は今まで迷言の類に分類されることが多かったけれども、今シリーズで最も深みを感じた彼の言葉が、「札幌ドームは空地なんだ」という言葉だった。子どものころ、ただほんとうに楽しくて野球をやっていた、空地。彼はほんとうに子どものように純粋に野球を楽しんで、それを絶大なファンがほんとうに楽しんでいる。心の底からの感動と言うのは、ほんとうは子どものような純粋さからしか生まれないのだと、心のどこかでは思っていたけれども、その新庄の言葉によって、この男はそれを実現できる、ほんとうにたぐいまれな男なんだとほんとうに心の底に響いた。

新庄のプレーは、そういう意味で、ほんとうに勝負を超越していたのだ。そしてだからこそ勝利を呼び込んだのだし、だからこそ泣いて三振しても、泣いて守備についても、見るものすべてを感動させることが出来たのだと思う。

私は、スポーツ選手に「ありがとう」という表現が嫌いだし、「楽しまなきゃ」という表現もあまり好きではない。しかし新庄に関しては別だ。この男が見ているのは個人の楽しみではない。もっともっと大きなものなのだ。

WBCで日本が優勝したとき、それはほんとうに嬉しかった。しかし、松坂ありがとうとか、松中ありがとうとかは思わなかった。彼らにとってはそれが自分のためでもあったし、自分のためにもいいプレーをするのがプロである以上あたりまえのことだからだ。しかし新庄のプレーには、その「自分」がないのだ。自己顕示欲のかたまりのように思うむきもあろうが、それは全く逆で、彼は純粋に自分を楽しもうとしている。そしてそれを「みんな」に楽しんでもらおうとしている。その「自分のなさ」がなければ、あのちょうど派手なパフォーマンスも嫌味な鼻につくものになっていただろう。彼はほんとうに札幌のため、北海道のため、チームのため、パリーグのため、日本の野球のため、そしてそれさえも越えた何かもっと大きな、「楽しむ」ということの無限の可能性のためにプレーしていたのだと思う。

だから最後に、心の底から、ほんとうに心をこめて、こういいたい。




ありがとう、


新庄!




日本ハムが44年ぶり日本一 プロ野球日本シリーズ(共同通信) - goo ニュース

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季節は動く/白洲次郎/日本シリーズの物語

2006-10-26 08:09:18 | 雑記
昨日はよく晴れたが、今日は曇っている。でもだんだん明るくなってきた。晴れると時に暑いが、曇りだと肌寒い。考えてみればもう10月も終わりに近い。季節は動いている。

昨日は自宅のダイアルアップがつながらなくて苦労したが今日はどうか。ネットに接続できないとできないことがたくさんあって大変困る。やれることを探して仕事を片付けた感じ。それでもあまったのでスーパージャンプとビックコミックを買って来て読んだ。『天上の弦』はいよいよクライマックスという感じ。これは実話なのだが、凄い話だと思う。

午後職場に行ってからネットに接続する必要のあるいろいろな仕事を片付け、たのだが、最初はなぜか無線LANがつながらずにびびった。PCを再起動したら動いたのでよかったが。私のノートはまだWIN98。もうすぐVISTAが発売されると、二世代遅れになる。5年使ったが、まだできれば現役でいてほしいのだが。

『その時歴史は動いた』で白洲次郎を取り上げていた。大体は知っている話だったが、通産省の設立をクローズアップしていて、そちらの方はあまり認識していなかったのだが、そこを押さえるとそれまでの白洲の活動とその後の東北電力会長職などの仕事との話がつながるので、なるほどなあと思った。

日本シリーズはついに3勝。金村が勝利投手になり、ちょっとじわっと来ていたが、新庄の引退といい、日本ハムのほうが物語を作って見る人を引き込むのに成功している。そういう部分にストイックなのが中日なのだが、やはり短期決戦は時の勢いというものが作用するから、今のところそれは日本ハムに有利な方向に動いているといえるだろう。今日はダルビッシュだろうけど、ぜひ勝って決めてほしい。

強い日が射してきた。暖かくなるといいな。


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シリーズ/ヘッドホン/嘘話/空の青/アンテナ

2006-10-25 11:02:16 | 読書ノート
昨日帰郷。昨日は雨もよいで、肌寒かった。仕事はそれなりに忙しく、寝不足のせいもあって少し疲れた。仕事を終える前にネットで日本シリーズの勝敗を知り、小さくガッツポーズ。このまま札幌で胴上げまで持っていってほしい。家に帰ってニュースを見て堪能。小笠原も二点タイムリーを打ったし、どんどん行け行け。

電車の中ではアンジェラ・アキを聞いたり川上弘美を読んだり。アンジェラを聞きながら寝入ってしまう。電車の中で音楽を聞いていない頃は、なぜシャカシャカ音が駄々洩れのヘッドホンに聞き入ってだらしなく寝ていられるんだろうとふしぎに思ったこともあったが、自分で聞いてみると、やはりその世界に入ることで安心して寝てしまうということがあるんだなあと思う。その安心感のある音が人によって違うと言うことなんだろうと思う。

川上弘美『蛇を踏む』読書中。「蛇を踏む」という作品自体は読み終わった。なるほどこういう作品か。変化譚でもあり、異種婚姻譚でもあり、最後は疾走しながら終わってしまう。川上は「嘘話」というが、実際嘘話のリアリティと言うのはとても興味深いものがある。つまらないものにころりとだまされることがあるのはなぜか、ということをこれを読みながら考える。嘘がスーパーナチュラルなんだなと思う。リアルとアンリアルを固定して考えないことが、こういう作品を読むときにはポイントなんだろうと思う。そういうスタンスは、たとえば「占い」を楽しめるか、というようなことと似ていて、まあ「当たって」いてもいなくてもいいけど、そういうことってあるかも、そういうことってありそう、というようなリアルとアンリアルの境目を楽しめるかどうかにかかっている。そういうことが苦手な人が、こういう作品をどのように読むのかは少し分らないが、楽しめない人も多いんだろうと思う。

蛇を踏む

文藝春秋

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朝起きて散歩に行く。雲が切れていて、山がみずみずしい。もう少しずつ紅葉が始まっていて、遠くの山に雲とも霧ともつかない白いものが、しかし輪郭がくっきりと立ち込めている。時間がたつにつれて朝の光が強く明るくあたりを照らすと、空の青がとても目に明るく、きれいに映る。秋の晴れた朝の空の色はとてもきれいで、心に染み込んで行く。胸が痛くなるような色である。特に太陽と反対側の西の空の色が青が濃く、私が一番好きな空の色だ。

NHK-FMで『私の名盤コレクション』を聞く。SHO-YAのボーカル、寺田恵子がジャズ・バイオリニストの寺井尚子をゲストに喋っているのだが、この二人に興味を持って、昨日はネットを調べたりした。今日は寺井の作品の作り方の話が興味深かった。何をやるか、というのが「感情」から出てくるのではなく、びびっと来るもの、寺井の言い方で言えば「アンテナ」が動くか否か、というところから出てくるという話で、ああこういう枠のない、自由な発想ができる人が成功するんだろうなあと思う。ハードロッカーの寺田とはそのあたりのものづくりのしかたが全然違うようで、その対比が非常に興味深かった。アンテナの動いたものを題材に、いかに「ジャズる」か、ということで取り組む。「ジャズる」というのはつまりジャズの命である「即興」によって、たとえばカバー曲を演奏するなどの際に、もとの作品と対話する、ということらしい。その対話は、いろいろな仕方があるわけで、オリジナルなフレーズとの対話やそれを使ってのほかのプレイヤーとのやり取りや観客とのコミュニケーションもある、ということなのだと解釈した。

昨日紹介されていたのは私がとても好きなミシェル・ペトルチアーニだったので、ちょっとじんときてしまったが、今日はリー・リトナーで割と軽い気持ちで聞けた。アルバムの名前をちゃんとチェックしてなかったのでよくわからないが、ジャズの曲の好みというのも自分にもあるなあと思いながら聞いていた。

空がほんとうに青くて気持ちがいい。


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