丸山真男を読み終わり、彼の基本的な主張を理解したと思っていたら、しばらくしたら何か理由のはっきりしない不安に付きまとわれるようになった。
散歩しながら自分のこころの中をいろいろ検証しているうちに、この不安が丸山真男を「理解」したと思ったことと関係があることがわかり、なぜそうなるんだろうと考えているうち、そういえばはっきりと認識はしていなかったが、こういうことはいままでも何度もあった、ということに気がついた。何かを理解したり、あるいはずっと考えていてこれはこういうことだという結論に達した、つまりこれもやはり「理解」したときにそういうことが起こるようだと。
そういうことが起こるのが私だけなのか、よくわからないのだが、どうなのだろう。
さらに考えているうちに、それは「理解することは言葉を失うこと」だからだ、と思った。あることを理解しようとしていろいろな概念を駆使してものを考えていくうちに、本質と関係ない言葉はどんどん失われ、本当にテーマに肉薄した言葉しか残らなくなってしまう。そしてそれが最後に解決がつくと、それすら自分から離れていってしまうのだ。だから理解することによって、言葉は失われてしまう。その喪失感が不安の原因かもしれない、と考えた。
丸山真男に限らず、歴史関係の本や社会科学関係の本は読み終わった後にそういう不安に襲われることが多い。その本が面白ければ面白いほど、そういう不安が起こるのである。「理解した」という実感があればあるほど、不安に直結するということだろう。
しかし、文学作品を読んだ後にそういうことは絶対に起こらない。それはなぜだろうと思ったが、要するにそれは言葉が残るからだろうと思った。文学作品は、読み終わった後に言葉やイメージが自分のこころの中に残る。文学を読むということは、少なくとも知性によって理解するということとは違う営みなのだということがわかる。
同じ言葉を読むのでも、「理解」を目指す読書が言葉を、あるいは言葉に付随するイメージを削ぎ落として行くのに対し、「鑑賞」する読書はイメージを獲得していく。読んだあと豊かな気持ちになるのは明らかに後者だろう。
「理解」するとなぜ不安になるのか。このことについて、近いのではないかと思ったのが、囲碁で言う「定石を覚えて下手になり」という格言である。定石を覚えることで理屈は理解するのだが、実践でそれを使う例を見ていくうちに覚えるのではなく、英単語を覚えるように覚えるために広がりがないのだ。だからそれをうまく使おうとして試行錯誤したり、それに振り回されたりすることによって一時的に囲碁が下手になってしまう。そういう混乱と「理解」がもたらす不安というのは似ているのではないかと思った。
「理解」には抽象がつきものだからだ。同じ言葉でいっても、たとえば料理人が先輩の料理をする手際を見てそのコツを盗んだりするのは、明確なイメージがあって模倣することが出来るから、そこに必要以上の抽象はない。しかし社会科学のような抽象度の高い議論は、イメージが伴わないまま頭の中で言葉だけが渦巻くということになりがちである。そういう状態で不安を感じないというのも危険だが、不安の理由がわからないというのも別の意味で危険で、このことについては昨日考えていてちょうど思い当たったのでよかった。
私の場合、この理解した後の不安というのが実際長くて深いことが多い。結局社会科学方面に進まなかったのはこの不安を漠然と避けたということなんだろうなという気はする。歴史だと具体性があるからいい、と思ったのだけど、やはり抽象性は全く避けるわけにも行かないし、避けているとフラストレーションになる面もある。こういう不安の根源を正面から向き合って探ることによってしか、本当に不安を乗り越えることは出来ないのだろうなと思う。
ただ文学について連想しつつ思うのは、要するに社会科学的な理解というのは直接には「表現」に結びつかないからなのだと思う。つまり理解したことが同時に即表現やそのほかの行動に結びつくのであれば、不安など生じる隙間はないだろう。話が頭の中で終わってしまうから、不安が生じてしまうのだと思う。
文学も別種のさまざまな芳しからざる感情が喚起されるものではあるが、まあそれはそれとして、なんだか楽しい、と思う。
散歩しながら自分のこころの中をいろいろ検証しているうちに、この不安が丸山真男を「理解」したと思ったことと関係があることがわかり、なぜそうなるんだろうと考えているうち、そういえばはっきりと認識はしていなかったが、こういうことはいままでも何度もあった、ということに気がついた。何かを理解したり、あるいはずっと考えていてこれはこういうことだという結論に達した、つまりこれもやはり「理解」したときにそういうことが起こるようだと。
そういうことが起こるのが私だけなのか、よくわからないのだが、どうなのだろう。
さらに考えているうちに、それは「理解することは言葉を失うこと」だからだ、と思った。あることを理解しようとしていろいろな概念を駆使してものを考えていくうちに、本質と関係ない言葉はどんどん失われ、本当にテーマに肉薄した言葉しか残らなくなってしまう。そしてそれが最後に解決がつくと、それすら自分から離れていってしまうのだ。だから理解することによって、言葉は失われてしまう。その喪失感が不安の原因かもしれない、と考えた。
丸山真男に限らず、歴史関係の本や社会科学関係の本は読み終わった後にそういう不安に襲われることが多い。その本が面白ければ面白いほど、そういう不安が起こるのである。「理解した」という実感があればあるほど、不安に直結するということだろう。
しかし、文学作品を読んだ後にそういうことは絶対に起こらない。それはなぜだろうと思ったが、要するにそれは言葉が残るからだろうと思った。文学作品は、読み終わった後に言葉やイメージが自分のこころの中に残る。文学を読むということは、少なくとも知性によって理解するということとは違う営みなのだということがわかる。
同じ言葉を読むのでも、「理解」を目指す読書が言葉を、あるいは言葉に付随するイメージを削ぎ落として行くのに対し、「鑑賞」する読書はイメージを獲得していく。読んだあと豊かな気持ちになるのは明らかに後者だろう。
「理解」するとなぜ不安になるのか。このことについて、近いのではないかと思ったのが、囲碁で言う「定石を覚えて下手になり」という格言である。定石を覚えることで理屈は理解するのだが、実践でそれを使う例を見ていくうちに覚えるのではなく、英単語を覚えるように覚えるために広がりがないのだ。だからそれをうまく使おうとして試行錯誤したり、それに振り回されたりすることによって一時的に囲碁が下手になってしまう。そういう混乱と「理解」がもたらす不安というのは似ているのではないかと思った。
「理解」には抽象がつきものだからだ。同じ言葉でいっても、たとえば料理人が先輩の料理をする手際を見てそのコツを盗んだりするのは、明確なイメージがあって模倣することが出来るから、そこに必要以上の抽象はない。しかし社会科学のような抽象度の高い議論は、イメージが伴わないまま頭の中で言葉だけが渦巻くということになりがちである。そういう状態で不安を感じないというのも危険だが、不安の理由がわからないというのも別の意味で危険で、このことについては昨日考えていてちょうど思い当たったのでよかった。
私の場合、この理解した後の不安というのが実際長くて深いことが多い。結局社会科学方面に進まなかったのはこの不安を漠然と避けたということなんだろうなという気はする。歴史だと具体性があるからいい、と思ったのだけど、やはり抽象性は全く避けるわけにも行かないし、避けているとフラストレーションになる面もある。こういう不安の根源を正面から向き合って探ることによってしか、本当に不安を乗り越えることは出来ないのだろうなと思う。
ただ文学について連想しつつ思うのは、要するに社会科学的な理解というのは直接には「表現」に結びつかないからなのだと思う。つまり理解したことが同時に即表現やそのほかの行動に結びつくのであれば、不安など生じる隙間はないだろう。話が頭の中で終わってしまうから、不安が生じてしまうのだと思う。
文学も別種のさまざまな芳しからざる感情が喚起されるものではあるが、まあそれはそれとして、なんだか楽しい、と思う。