Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

内閣改造:いちばん日の丸のにあう政治家は誰か

2005-10-31 21:12:01 | 時事・国内
せっかくなので内閣改造について一言。

10月30日に発足した第3次小泉改造内閣の面々は、

首相       小泉純一郎
総務・郵政民営化 竹中平蔵
法務       杉浦正健
外務       麻生太郎
財務       谷垣禎一
文部科学     小坂憲次
厚生労働     川崎二郎
農水       中川昭一
経済産業     二階俊博
国土交通     北側一雄
環境・沖縄北方  小池百合子
官房       安倍晋三
国家公安委員長・防災 沓掛哲男
防衛       額賀福志郎
経済財政・金融  与謝野馨
規制改革・行政改革 中馬弘毅
科学技術・食品安全・IT 松田岩夫
少子化・男女共同参画 猪口邦子

となった。竹中氏が省を配下に置く大臣に出世したこと、特命大臣で猪口氏を入閣させたことなどが目に付くが、個人的に一番へえと思ったのは麻生外務大臣である。元外交官の吉田茂元首相の孫ではあるが、あの「正直な発言」が吉と出るか凶と出るか。しかし考えてみれば吉田元首相も「不逞の輩」だの「バカヤロー」だの「外套演説」だのとずいぶん面白い発言が多かった。「保守反動」の孫にふさわしいポジションを固めつつある。韓国や中国は早速反応しつつあるが、ここで麻生氏を外相に起用したのも小泉首相一流のメッセージではあるのだろう。サプライズというには燻し銀だが、相変わらず小泉人事は面白い。

北方漁業交渉やBSE問題のある農水相が中川昭一氏というのもなんとなく味だ。今まで経産相で中国相手にあれこれやっていたが、今度はロシアとアメリカが相手だ。しかし実は本当の敵は鈴木宗男代議士かもしれない。こちらの筋書きも風雲急を告げ、to be continued。

与謝野馨氏の金融担当大臣というのも割といいかも。党の政調会長から政府の経済政策担当というのは順当な筋道だ。政府系金融機関の問題でどのような対応を取るか。日本商工会議所は既に廃止反対の声明を出している。中小企業には場合によっては死活的な問題だが、さあどのあたりに落としどころを見つけ出すか。

不在によって存在感を高めたのが福田康夫元官房長官。もともと首相より年長の福田氏をポスト小泉というのはちょっと無理があると思っていたが、今回は党にも内閣にも名前が出てこなかった。もともと路線もいろいろと違うし、首相の路線が行き詰って退陣することでもない限り、もう目はないかもしれない。先発ピッチャーが調子よい試合のリリーフピッチャーのようなもので、出てくるかどうか分からないが、もしとんでもない事態で小泉氏がひっくり返りでもしたら福田さんが出てくるというまあ実は結構重要なポジションかもしれない。

もちろん、内閣改造人事で一番の目玉はやはり安倍晋三官房長官だろう。安倍氏にはいきなり官房長官ではなく、財務大臣あたりをやってもらいたかったのだが、現場を踏まないで党と国家の中枢を歩ませるという小泉氏の戦略か。何をどう意図しているのかいまいちよくわからないのだが、安倍氏が国政全体に見通しをきかせるようになるには最適なポジションではあるだろう。韓国には起用を非難する報道がある、とアサヒコムは「御注進、御注進!」という感じで早速伝えている。しかし安倍氏も官房長官になったからには、もう少し割舌(かつぜつ)をよくするように心がけた方がいいな。まあ竹下元首相の「言語明瞭、意味不明瞭」とちがって、「言語不明瞭、意味明瞭」であるから、あまり明瞭過ぎない方が含蓄があるのかもしれないが。

それにしても安倍氏は、日の丸の似合う政治家だ。官房長官の記者会見でも、日の丸をバックに立って喋るとよりいっそう映える。テレビの角度でちょうど日の丸の赤が安倍氏の顔の後ろに映っていて、なんだか嬉しくなった。小泉首相はどうも日の丸が似合わないし、ほかの政治家でもあまりに会う人は正直いっていない気がする。私自身で考えても、自分が日の丸をバックに立ってたらなんだか笑いそうだし笑われそうな感じである。日の丸の似合う政治家がいるというだけで、日本はまだ大丈夫だという気がする。

しかしそれにしてもなぜアメリカの政治家はみな星条旗が、中国の政治家は五星紅旗が、イギリスの政治家はユニオンジャックが、フランスの政治家はトリコロールが似合うのだろう。どの元首の顔の後にどの旗が一番似合うか、ほかの選択がなさそうだ。最もプーチンには横縞トリコロールはあまり似合わないな。

来年九月まで、またどのような日々が続くのか、小泉劇場もto be continuedである。

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久しぶりの義経千本桜/天皇賞/国学と日本のアンシャンレジーム

2005-10-31 11:53:15 | 雑記
今日は内閣改造だそうで、朝からテレビがかまびすしい。ミーハーとは思いつつもやはり政局のニュースが面白いのはやはり人事好きの日本人だからか、世界共通なのか。安倍さんは官房長官もいいが財務大臣あたりを今回はやって欲しい気がする。重みのあるポストを期待。

昨夜なんとなく3チャンネルをつけたら『封印切り』をやっていた。忠兵衛の役がつっころばしらしい色白の二枚目でこれは誰だろうと思ったら、染五郎だった。なるほど。親父さんと違ってこういう二枚目とか色悪のほうが似合いそうだ。孝夫→仁左衛門路線を進んでもらいたい気がする。梅川は孝太郎か。ずいぶん見ていなかったけど、女形が合う。将来は我童を継いでもらいたい気がする。仁左衛門が誰にいくかはよく分からないが。

これは6月の歌舞伎座の公演のようだが、ネットの劇評を見ると染五郎は前半部分が余りよくなかったらしい。私が観たのはもう封印をきった後からだったからよくわからないが、まあその辺りの上方味はなかなかそう簡単には行かないだろうなと思う。しかし染五郎のニンとしてはこの方向はいい。頑張ってもらいたいと思う。

続いて歌舞伎鑑賞教室でやったという『四の切』。義経千本桜の河連法眼館の場である。これは昔、猿之助で何度も見た。つてがあったときに、舞台稽古も観たことがある。今回は猿之助でなく右近、段治郎、笑也という猿之助一座の若手ー中堅によるもので猿之助の演出。久しぶりに堪能した。昔は場面は覚えていても、その場面がどういう必然性でそういう演出になっているのかいまいち理解していなかったが、最近ようやくそのドラマ性が見えてきた。右近はまだまだ猿之助にはかなわないが、よく頑張ってはいると思う。

猿之助丈の病気療養も長引いているが、何とか復帰していただければ・・・と思う。80歳90歳でもでも芸の花が開くのが古典芸能ではあるが、猿之助は若いころから人の数倍も活躍してきたから、何かこのあたりで休まざるを得ないからだの問題があるのだろう。しかし歌舞伎役者の60代というのはなんとももったいない。先代辰之助の早世も頭を掠めるが、そういえば立川談志もこの間のMXの番組で60代を過ぎたら生きててもしかたがないんじゃないかみたいな面白くなさを感じるようになったというようなことを言っていた。こういう世界で若いころから活躍した人というのは逆にそういうものなのかもしれないとも思ったりする。

日中はいろいろ、語学を勉強したりものを書いたり。初めて両陛下が御臨席の秋の天皇賞のレースも見た。こういう重賞でも百万円を超える馬券がでるんだなあとびっくり。考えてみたら18頭立て14番人気の牝馬が優勝したんだからあけてびっくりというようなものなのだろう。

4時前に家を出る。大国隆正が気になって図書館で『国史大辞典』の該当項でもコピーしようかと思ったのだが、あまりろくな情報は載っていなく、日本思想体系にあることは分かったが借りるのも重いので迷う。気分転換に神保町に出かけてみたら、神保町ブックフェスティバルをやっていてすずらん通りはごった返していた。何か読む気になるものはないかと三省堂や東京堂など見て歩くが、ふと考えてみたらさっきの思想体系が古本屋であるのではないかと思い探し始める。一誠堂に以前思想体系が店頭に積んであったので行ってみたが、目当ての『平田篤胤 伴信友 大国隆正』(日本思想体系50、岩波書店、1973)はない。その後数件の古本屋を回りブックフェスティバルの会場もしらみつぶしに探したが思想体系はあっても50巻はなし。6時にはすずらん通りのワゴンも撤収を始めたので三省堂の店頭に出店しているところを探したがなし。

あきらめかけたら岩波ブックセンター横では8時までやっているということを知り、行ってみる。ここでもなかなか見つからなかったが、電灯の灯に照らされた目当ての本をついに発見。「あったあったあった!」と思わず叫んだら私の前にいたスキンヘッドのお兄さんがびびっていた。申し訳ない。ケースは凹んでいるしパラフィン紙は破れているし美品とはいえないが十分。800円なら御の字というところ。昨日の卦は沢地萃でいわば人の集まるところにいいことがあるという卦だが、まあ当たったといえるだろう。というか、その卦を頼りに粘り強く探したということも一面ではあるのだけど。そういうふうにポジティブにとらえれば占いというのも使いようがあると思う。

それにしても読み始めてもこの時代の人たちの国学の思想性というものをよく理解するのはかなり大変だと思った。まずは小林秀雄の『本居宣長』をきちんと読むところからもう一度やった方がいいのではないかとすら思う。国学というのは近世における日本人のある種の宗教的・倫理的世界だなと思うのだが、こうしたものの中で現代にまでなんとなく受け継がれてきているものと現代から見ると非常に奇異になってしまっているものとが雑然と混在しているような気がする。これを先学の時代の考え方に即して再構成して理解しなおすというのはかなり難儀なことだろう。しかし日本人の考え方の独自性や価値観といったものを国学抜きで理解しようとすることはやはり何かの欠落を抱えることになるだろうと思う。やれやれ、江戸時代というのは大変な時代である。まさに日本のアンシャン・レジームというにふさわしい。

フランスで言えばルイ13世期の絶対主義確立期からルイ14世期のバロック的絶対王政の全盛、ルイ15世紀のロココ的・啓蒙主義的なサロン文化の時代からルイ16世紀の絶対王政崩壊期だけでなく、19世紀前半の革命と王政・帝政の繰り返しの時代までに当たるわけだから江戸時代というのは侮れない。また学問的にも日本の精神的ルーツを探ろうとする国学だけでなく儒学も盛んだし神道・仏教の影響力も強くまた洋学研究も始まっているというまさに思想の花盛りの時代である。よくアメリカを人種の坩堝と読んだりするが、江戸時代の日本は思想の圧力釜のなかにさまざまな材料をぶち込んで高圧で蒸しあげている感じがする。その中で月性や月照、黙霖などの「勤皇僧」であるとか洋学と漢学をともに修めた佐久間象山のような怪物が出てくる。考えれば考えるほどハイブリッドであらゆるところに電線がつながっている理解の大変な時代である。

夜は黙霖と松陰の往復書簡を少し読んで就寝。

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性のエネルギー/ハタラキ

2005-10-30 08:50:17 | 雑記
金曜夜帰京。金曜は日中ものを書いたりラテン語をやったりしていたが、夜は仕事。なんだか妙な加減で夜更かしし、土曜日は一日変なテンションで少しずつ家事はこなしたのだが寝たり起きたり。ここのところの疲れが妙な形で出たようだ。暗くなってからようやく外出し、日本橋へ。

丸善まで歩いて本を物色したが、結局三枝誠『整体的生活術』(ちくま文庫、2005)を購入。買ったのは、性的に受けるエネルギーというものは、男性が女性から受けるものだけでなく女性が男性から受けるものも母性的なものだという記述が自分の経験に照らしてその通りだと感じられたことが大きかったか。著者は野口整体だけでなく合気道に弟子入りしたりしたと経歴にある。

丸善をでて久しぶりに外食。和幸でロースかつ定食と麦酒のグラス。昨日はなぜか、外で食べたい気分だった。一人客でも邪険に扱われない店というのをあまり思い出せなかったが、とんかつ屋というのは最もそういう店かもしれない。いい気分で店を出て八重洲の地下街を歩き、ブックセンターの地下街店をうろうろした後、酒屋に寄ってマッカランを購入。家に帰ってグラスに2杯ほど飲んだが、すっきりしたあまり抵抗のない味。こういう嫌味のない味に慣れるとなかなか日本のウィスキーは飲めない。パッケージの絵柄が先日アールデコ展で見たカッサンドルのポスターだったのもなんとなくよい。よく読んでみると、これは1920年代のマッカランの味を再現したものとのこと。ヴィンテージウィスキーなどは飲んだことがないが、こうして香りを味わって想像してみるのもいいものだと思う。

夜は倒れるように寝てしまい、また3時過ぎに目が覚めたりしてどうもリズムが出ない。『整体的生活術』を少しずつ読む。整体操法の経験から人間のタイプを睡穴=ポジティブローテンション・汚穴=ネガティブハイテンション・互穴=ポジティブハイテンション・閉穴=ネガティブローテンションに分けてみる考え方など、なるほどと思うところは多いのだが、どうもなんとなく自分の感じているところと必ずしも重ならないところがあるような気がする。専門家の感覚と自分の感覚を比較するのもおこがましくはあるが、「自分には良く理解できないがこの人は凄い」と言うところまでは感じ取れない部分がある。それには、自分が理解可能な部分でのある種の凄みのようなものが必要なのだろう。才能の恐ろしいようなきらめき、近づいたら一瞬にして一刀両断にされそうな凄み、といったものが感じ取れないけれども、一つ一つの言葉にはいろいろうなずかされるところはある、という感じの記述が多い。まだ読み終わっていないのでなんともいえないが、そういう印象を受ける。

昨日の朝目が覚めたときに「ハタラキ」ということばが頭に浮かび、日本人の物質観というか生命観というのはモノがあってハタラキがあるという順序ではなく、ハタラキが先にあるというべきものではないかと考えてみる。これは少し前に神道の生命観を考えていてキリスト教のような神の創造により生まれたものではなくもともと混沌としたものの中からひとりでに生まれてきたという「はじめのとき」の生命のあり方のようなものからの発想である。神がクリエイトしたことによって生まれたという創造的生命観では生命は全て神に従属する対象物に過ぎず、僅かに人間だけが神に類似した精神性を持つということになるが、自ら生まれてきたという初発的生命観では全ての存在は生物も無生物も自らに内在するハタラキにより存在し活動する、というふうに考えられるのではないかと思ったのである。

生命、あるいは全ての生命体には、生まれる、生きる、死ぬというハタラキがある。存在よりもそのもののハタラキによってものを見るという見方はありえるのではないかと思う。ハタラキを機能といってしまうと矮小化する気がするが、考えてみると本来は機能の機はハタラキという意味だからハタラクチカラとでもいうべきで、あまり「機械」ということばの連想に引っ張られるべきものではないなと思った。

そんなまあ浮世離れしたことを考えているとどうも日々の日課が進まないのだが、こういうところから新しい発想が生まれてくるので大事にしたいところでもある。

***

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信濃川水系/いたみ去り、おそれ出づ/政権の安定性をいかに生かすか

2005-10-28 09:25:47 | 時事・国内
昨日の朝は雨が降っていて寒くなりそうだったのだが、昼前にはだいぶ暖かくなっていた。松本に用事に出かけるのに、親戚からもらったジャケットを着て行ったらかなり暑かった。仕事は来週は休みなのでちょっと一息つく。7週間連続であると週1回のこととはいえ緊張感がある。それにしても今年は今まで毎回晴れていた。松本平を秋の晴れた日に歩くのは気持ちがスカッとする。途中渡る奈良井川を見ると、いつも北流していることに新鮮な驚きを感じる。郷里は太平洋に注ぐ天竜川水系なので川は南に流れるものなのだ。峠をひとつ越えた松本平は信濃川水系だから、新潟から日本海に注ぐのである。白鷺が、ぴんとした背筋で立っている。

夜は仕事。大体いつもどおり、という感じ。忙しい季節になってきた。しかしまだ暖房を入れない日も多く、今年はやはり暖かいのではないかと思う。空の様子も、微妙に湿気をはらんでいる。よるは少し遅くまで『コミック乱』の新号を読んでいた。

毎朝卦を立てているのだが、今朝の卦は風天小畜の六四、「有孚。血去出。无咎。」であった。「まこと有り。いたみ去りおそれ出(い)ず。咎なし。」誠意を持って助力を得れば、痛みはなくなり、おそれも無くなり、咎なきを得る、という卦である。この「いたみ去り、おそれ出ず」ということばがとてもほっとする言葉でいい卦だなあ、と思う。易経のことばはなるほどと思ったりいいなあと思う言葉が時々あるが、これなどもそのひとつだ。もうひとつ思いつくのは「月望(もち)に近し」ということばで、満月が近づいている、という意味である。荒井由美時代のユーミンに『14番目の月』という曲があるが、今人生の華やかなステージに立とうとするまさにそのとき、という感じがする。

こちらの10月26日の記事を読んで、小泉政権が閉塞感の強い台湾やアメリカからはうらやましがられているという話がちょっと新鮮だった。小泉政権の圧倒的多数で、ある種の閉塞感を感じている人が日本には結構居るだろうと思ったからである。まあ両国やドイツなどの例を挙げるまでも無く、どちらかというと政局は流動化の局面に入っている国は多い。そのなかで与党が絶対安定多数を抱え、政治課題はなんでも処理できそうな日本の状況はやはり少々特殊だろう。その強みを経済の面で積極的に生かそうという人たちもあるようで、まあそれはそれで必要なことだろうとは思う。私も自民党のあまりの優勢は危惧するところが無いではないが、政局安定という強みを生かさない手はないと思う。外交でもその方向でしっかりやってもらいたいものだ。

逆にいえば前原民主党もじっくり時間をかけてきちんと政権戦略を練り上げる猶予を与えられたのだから、前向きにそういうものは生かした方がいい。ブレイクスルーが訪れるのはまだ先だろうが、そのときにどれだけ準備が整っているかでこの政党の将来の命運は決定すると思う。

政治だけでなく、安定政権の時代には文化的にも新しいものが出てくることが多い。そういうタイミングのようなものを、うまく生かせるといいなと思う。

朝方は曇っていたが、今日も晴れになりそうだ。

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日本シリーズの翌朝/皇室典範問題続き

2005-10-27 08:07:38 | 雑記
霧で始まった日本シリーズが終わった翌朝は、雨の音で目が覚めた。大方の予想を裏切って、マリーンズの4連勝で終わった。パリーグがどんどんJリーグ化して野球という概念が新しくなっていく一方で、セリーグはなかなか古い夢にしがみついて変化できないということの象徴のような感じのシリーズだった。これでパリーグシーズン二位のチームのシリーズ二連覇。さまざまな疑問や問題は山積してはいる。しかしアメリカ人監督のシリーズ初制覇を含め、なにかが音を立てて変化しているのだと思う。いつかもこのブログで書いたが、今年はまだこの大きな変化は起こってほしくなかったのだが、時の勢いというものは早く強いものだと思う。マリーンズのシリーズ制覇は新しい時代の到来を告げている。

ホークスファンを呆然とさせた2年連続シーズン一位のプレーオフ敗退をはじめどこかおかしいシステムは、なかなか変えられないプロ野球機構を少しずつ変える弥縫策が生んだ悲喜劇だが、時代の流れの演出には一役買っている。いろいろな形で変則的な姿がまだ数年続くのだろうが、野球は日本人にとって「特別なスポーツ」から「普通のスポーツ」になって、地域に根付いた形で定着していくのではないかと思う。観客動員や中継料など経済原理に沿って変化していかざるを得ないプロ野球からその変化は起こるだろうが、いまだに他の体育機構から独立している学生野球機構などの変革には時間差が生じるだろう。
野球というさまざまな意味で戦後的情念を背負ったスポーツが、21世紀の現代日本という情念薄き時代にどのように適応していくのか、われわれ自身の心性の問題でもあるように思う。

昨日書いた皇室典範問題の続き。天皇あるいは皇室という存在は近代的価値や民主主義よりも古い存在であるから、そうしたものがどこまで近代的価値によって改変されることが可能かということについてはよく考えた方がいいというのが私の主張である。ウェーバーの言うカリスマ的支配・伝統的支配・合理的支配の三形態で言えば、皇室はもちろん「伝統的」な存在であり、その根拠は「血縁カリスマ」によるところが大きいのは言うまでもない。女帝論というのは、つまりは男系を維持するためには相当疎遠になってしまう旧皇族よりも女系による継承の方が血縁カリスマが強いという感覚が明示されてはいないが(「有識者」が旧宮家による皇位継承を否定する議論で「国民感情にあわない」という表現をとっていることはそれをさしているわけだが)主張の根拠になっているわけである。

そう考えていくと分かるように、もともと皇室の存在は合理性に基づくものではない。そうした非合理な存在、敢えて言えば超越的な存在である皇室を合理性を持って割り切ろうとしているところがこの議論の最大の問題なのだと思う。

もうあまりに人口に膾炙しすぎていて新鮮味が全くないが、日本の伝統はさまざまな意味で、またさまざまな場所で危機に瀕しているということは改めて自覚すべきだろう。1946年憲法による天皇の規定がこの60年近くの期間にいろいろな形で浸透することで親愛と崇敬を以って成立してきたさまざまな関係が形骸化し、実質は失われ、情念は観念に変化しつつある。そういう意味で言うと深いところから変わることがないだろうと思われた皇室の存在の正統性というものも人々の心のなかでは相当揺らいでしまっているのではないかと思う。

さまざまな議論はあろうが、日本およびその文化の伝統を支えてきたものの、そのなかの大きな柱の一つは皇室制度であったことは否定することは出来ない。国民の政治や歴史というものはさまざまなフィクションによって補強されつつも一貫性というものを必要としている。高浜虚子*はそれを「去年今年貫く棒のごときもの」と表現したが、皇室制度が日本史を貫く「棒のごときもの」であることは間違いない。

そうした棒のごときものは、それ自身もまた一貫した論理で支えられなければならない。男系男子相続というのはその一つの論理である。もちろん男系女子相続は先例があるが、それについての考察は昨日の記事を参照していただきたい。問題は、国民の心のなかでさえ人によっては揺らぎつつあるものを、有史以来の新たに改変した論理を支えに維持することが可能だろうかということなのである。伝統的な存在を維持するためには、伝統的な論理、伝統的な文脈で説明可能であることが必要であり、また将来にわたって説得力を持つのではないだろうか。皇室は現代だけで占有できる存在ではなく、過去の日本人と、未来の日本人にとっても文化の支えとなる存在であると私は思うし、もしそれが必要ないという人があればいったい何が日本および日本人の文化を支える柱と成り得るのかをはっきり示していただきたいと思う。

現代の日本人の状況を見ていると、靖国神社の存在も、皇室の存在も、今の日本人にはもったいない、ふさわしくない存在なのではないかという気さえしてくる。国と将来の国民のために奮闘した英霊たちも、日本という存在の永続を皇祖皇宗に誓い続けた皇室の存在も、その意義を正しく感じている人がいったいどれだけいるのだろうかと思う。

大切なものを全て失い、無国籍な、無責任な大人と無気力な若者がふらふらしているだけの国が日本であっていいのだろうか。本当に「誇りに足るもの」を失ってみてから愕然としてもそのときにはもう遅い。貫く棒を失った日本人は、歴史の波間に消えて言ったさまざまな民族や国民と同様、深い歴史の海に埋没し、日本語も考古学的な知識がなければ読めない言語となってしまうだろう。

どちらにしても、現代という時代はさまざまな意味で危機的であるということだけは認識した方がいい。危機を承知で転落するのも国民の選択次第だが、私自身は日本という愛すべき存在がいつまでも続いていってほしいと思うし、今ならそうできる道はあると思う。

雨は、上がったようだ。

***

*当初、「去年今年…」の句を斎藤茂吉の作と勘違いしておりました。コメントをいただき、訂正させていただきました。

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秋のさわやかな日/皇室典範問題

2005-10-26 17:01:18 | 時事・国内
昨日帰郷。東京駅日本橋口の丸善で山本七平『日本はなぜ敗れるのか』(角川Oneテーマ21)を購入。しかし列車の中では日経新聞と『業界地図』、『プリニウス書簡集』等を読む。戦争関係のものは読んでいるうちにやりきれなくなってくるものが多いのでどうしてもあとに回しがち。気力を充実させてチャレンジしようと思う。昼から夜は仕事。忙しいというか何というか。とにかく疲れたことは疲れた。

朝起きて少しラテン語をやったり。日記を書く時間はなかった。早い時間で松本に出かける。電車の中では『プリニウス書簡集』を読みつづける。とうとう読了。かなりかかったが、ローマ人の息吹のようなものを感じられた。ラテン語を一通り読めるようになったらぜひ原書でもローマ人の著作を読んでみたいもの。

松本で用事を済ませ、スッキリする。上高地線の時間が合わないので、少し遠いが松本駅まで歩く。気持ちよく晴れた秋の道。自然に背筋が伸びてスッキリする。「荒井城址」という標識を見つけて横道に入ると、小高く盛り上がった塚のようなところに木の切り株がひとつと祠がひとつ。説明を読むと、南北朝時代に小笠原氏がこのあたりで勢力を広げていたときに築いた小城のひとつらしい。武田信玄の信州侵攻によって落城し、このような状態になったとか。手を合わせて立ち去る。奈良井川の橋を渡ると大きなお宮が。行ってみると「渚大神社」と書いてあった。手を合わせ、手洗いを借りる。図らずも史跡探訪小旅行。どうやら道に迷ったようでJRの踏み切りにでると北松本駅の近くだった。線路に沿って南下し、駅へ。駅ビルの書店に入ると、結構本がある。ラテン語の文法書やドイツ語の辞典、モンゴル語の学習書などもあって驚くが、考えてみたら松本は大学のある町なのだ。そういうものを売っていても別に不思議がないのだということに思い当たる。買ったのはSAPIOと『ビッグコミック』なのだが。竹風堂で栗おこわ飯など購入。帰りの電車ではマンガとSAPIOの気になるところだけを拾い読み。

帰ってきて仕事をいくつか済ませ、ようやく昼食。健康上の理由で朝を抜いているので昼が遅くなるとかなりダメージを受ける。栗おこわ飯はなかなかおいしい。いろいろやろうと思ったが疲れてちょっと昼寝をしてしまった。

皇室典範問題、みないろいろ意見をいっているが、結局は東アジアの儒教的な文明伝統に則って氏族社会的な男系相続を続けるか、ヨーロッパ的な女王容認の相続制度をとるかのどちらかである。女王を容認して女系の相続を認めるのは国王を新教徒に限定することでスチュアート朝のカトリック王の継続を拒否したイギリスや(それでも女王が自分の子どもに王位を継承させたのはヴィクトリア女王だけである。チャールズ皇太子が即位すればエリザベス2世現女王が2例目になる)エカチェリーナ2世など強力な女帝を輩出したロシアが思い浮かぶ。フランスはサリカ法典で女子の相続を認めないので女王は存在しないし、オーストリアでもカール6世が相続規定を変更して相続させたマリア・テレジアをめぐって2度の戦争が行われたことはよく知られている。

現代において、王政を取る国自体がそう多くはないのでなかなか比較できないが、ベネルックス3国や北欧諸国など女王が多く見られる国が印象に残るので、なんとなく西欧世界の趨勢がそうなっているという気がするのだろう。

東アジアでは先に述べたように中国では女帝は則天武后の一例しかないし、これも中国では正統とは認めない意見が強い。朝鮮では新羅の時代に女王が何例かあるが、まだ十分に儒教化していない時代である。日本も平安京に遷都して唐の制度や文化をより徹底的に導入した弘仁・貞観以来、女帝は絶えてない。江戸時代の二例をみても明正天皇の即位は後水尾天皇の徳川家に対する面当てのようなものだし、後桜町天皇は本当の中継ぎである。

女帝容認の主張というのは、そういう観点からすると、要するに『東アジアの封建的な伝統を脱却して西欧の進んだ文明と同化する新しい時代の天皇制』を求めようという動きなのだろう。男系男子にこだわるなら旧宮家の復活がもっとも自然だし、伏見宮系の旧皇族は男子も多いし、これからも皇統の継続は十分期待できる。それが妥当だと思うのだが、あえて女帝擁立という方向に踏み込もうとするのは、平成版の『脱亜入欧』の主張であるといえるだろう。何事もアメリカナイズの好きな現在の自民党の面々は皇統継続の文化伝統など考えたこともなかろうし、有識者といわれる食わせ物連の議論も明らかに結論ありきの議論であって、何らの価値も感じない。そういうことで私としてはこの議論に加わる気が全然しないのだが、何もいわないうちに現代日本が伝統のあつみから剥がれ落ちていって歴史の谷間に消滅していく前に、一言は言っておかなければならないと思ったので一度は書いておこうと思う。

さてもう暗くなってきた。秋の日は釣瓶落し、である。

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ホワイトバンドについて考える/戦争は嫌だという気持ちの中身/ナルニア/法華経

2005-10-25 10:10:05 | 時事・国内
昨日。あれこれ物を片付ける。どうも体調がいまいち。季節の変わり目、なのだろう。

昼下がりから銀座に出かける。秋は空がきれいだ。雲の色も、空そのものの色も、きれいだ。郵便局に寄ったり銀行に寄ったりして支払いの準備を済ませる。駅の自販機で日経の夕刊を買う。経済が多少なりとも分かってくると、50円でずいぶん楽しめる。高い金を払ってつまらない本を読む必要もないなと思ったり。

久しぶりの銀座。ただ単に歩くだけでも、気持ちが少し明るくなる。教文館で文春新書と河出文庫の目録が置いてあったので何か購入してついでに貰おうと思って物色し、結局鴨下信一『誰も「戦後」を覚えていない』(文春新書、2005)を購入。少し読んだが、戦後の混乱期は誰もがちょっとした盗みのようなことを働き「頂戴した」とか「交換した」とか言い換えて自分を納得させていた、というようなちょっと苦い話が並んでいる。われわれの世代にはわからないが、「戦争は嫌だ」という思い出の中には、そうした思い出したくない自分を誤魔化した過去のようなものが含まれているのではないかという気がする。このあたりは、確かに孫子の代に伝えられない話だろう。そうせざるを得なかった苦さのようなものも理解しないと、戦争体験の語り継ぎというのも単なるきれいごとになってしまう。

6階に上がり、『ナルニア』シリーズのカラー版の『銀のいす』と『馬と少年』を買う。これが本来教文館に行った目的だったのだが、最近なんとなく買いそびれていたので宿願を果たした感じ。購入すると教文館6階の児童書コーナー(その名もナルニア国)オリジナルのクリアファイルをいただいた。やはりほかの書店で買わなくてよかった。隣の喫茶で日経を読んだりクリアファイルを眺めたり。

銀ブラ。横丁に入ったり、鳩居堂を冷やかしたりしながら旭屋書店へ。いろいろ物色しながら美輪明宏『ほほえみの首飾り』(水書房、1889)という本を見つけ、買う。美輪明宏は最近は女性向けの話を書いていることが多いが、この本は南無の会という仏教勉強会みたいなところで喋ったもので、男性に向かって話している感じがあるのが新鮮である。例によっていろいろ面白いが、「龍女成仏」の話が出てきた。これは先日拝見したお能の主題なのだが、私は法華経を読んだことがなかったので美輪氏の解説が詳しく勉強になった。そのあとネットで調べると法華経全文をアップしているサイトがあり、それをちょっと読んだりした。A4で印刷しようとしたら100ページ以上になってしまったため読みたいところを少し読んでみただけなのだが、確かに魅力的なお経だと思う。中公文庫の大乗仏典で出ているようなので、またそのうち探してみようかと思う。

そのまま帰宅。夜はこれということも意識しないうちに本を読んだりものを書いたり勉強したりしていたら過ぎていった。クローズアップ現代で甲子園に出場するための他県への野球留学の問題を取り上げていた。野球留学などの場合、その道で挫折するとその学校にも居続けにくいし、ドロップアウトしてしまうことがありがちなのだけど、その問題については取り上げていなかったのが気になった。特待生など入学の際に優遇されていたらなおさらだろう。スポーツの面からだけでなく、教育という側面からも光を当ててもらいたい問題である。

ホワイトバンドの問題について考えたりする。サイトを見てみると、どうもこれは反グローバリズムの政治運動だと考えるべきではないかという気がする。直接の人道支援のための慈善活動でないことをあまり明確に示していなかったことが波紋を呼んでいるが、日本人の感覚としては「人道問題」と「政府に対し何かを要求したり自分の決意を表明したりすること」とは別問題だという現実に、意識的にか無意識的にか無頓着であったのだと思う。慈善だと思って寄付したら宗教団体だったとか、(宗教団体はチャリティーにおいて大きな役割を果たしているのは事実だが、非宗教的な団体に寄付することを好む人のほうが日本人は多いだろう)自分の権利を守るために労働組合に入ったら反核運動に動員されたとか、何かの意思を思想や政治に利用されることへの不信感のようなものが強くあるように思う。

どうせ慈善に寄付するならかっこよくファッショナブルな方がいいと思ってお金を払った人の中には、どうも自分の思った活動と違うと思い、不信感を持った人が多いのだろう。

現代の日本人は慈善や人道においては直接性にこだわるし、政治や思想的なムーブメントを通して世の中を変えようという動きに警戒感を強く持っている。これは私自身も理解できる感覚だ。たとえば、赤十字などの非政治的な団体なら安心して寄付できる、というような。

よく考えてみるとこれは皇室の社会貢献とよく似ている。赤十字の総裁を務めたり、あるいは全国植樹祭に出席したり、がん撲滅運動に賛同したり、そういう政治性のない運動ならば皇室も安心して貢献できる。そうしたいわば思想的カラーのない運動なら安心して寄付できる、という感覚は結構広く共有されているのではないかと思う。

慈善ということに関しては、これもまたひとつの事業なので、自分の善意に躊躇を感じて寄付を思いとどまる、などというのは少々自意識過剰であるし、世の中の歪みを少しでも直すことは「情けは人のためならず」であるから、どんどん寄付して何の差し支えもない、と思う(変な団体に寄付することはよくないが)。良いことをしていると驕り高ぶる必要もないし、いわば「自発的に払う税金」のようなものだと私としては思っている。コンビニの小銭の寄付で命拾いする人がいるなら、すればいいと思う。阪神大震災のときに小林よしのりが書いていたが、まさに「同情するなら金送れ」であるろう。

アフリカの問題も何とかしなければならない(実際には経済的自立=産業化のための援助と、文化伝統の保持と近代化の調整など難しい問題があると思う)が、私としてはまずは微力なりとも拉致被害者の救出のための活動への協力が優先だなと思う。

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佐藤ゆかり代議士とサツマイモ/日本シリーズ:1打者3暴投/海運・航空業界のアライアンス

2005-10-24 10:45:12 | 時事・国内
日曜日。午前中原稿を少し書いて、ラテン語・フランス語・ドイツ語と少しずつかじり、午後出かける。淡路町のやなか珈琲店でコロンビアを買おうと思ったら売切れていてマンデリンを300g購入。もう生産が終わったということなのかな。あまり考えたことはなかったけれども、コーヒーも農産物だから収穫時期もあれば端境期もあるのだろう。どの季節にどの産地が新豆か、なんてことに凝ってみるのも面白いかもしれない。

農産物といえば佐藤ゆかり代議士が埼玉のサツマイモ掘りのイベントに出かけて「ジャガイモ」発言をしたという話があった。これは一般に寛容な受け止め方のようだが、パパ・ブッシュ政権のクエール副大統領がpotatoの綴りを間違えた、という話を思い出す。

クエール氏は私の聞いたところによると学習障害(LD)であって、LDは逆さ文字やスペルミスが多いことはよく知られている。おそらく彼がpotatoeと書いたのは複数形にするとpotatoesになるためにそこからesでなくsだけを取ってしまったのだろう。逆に言えばクエール氏はLDにとっては希望の星だ、という話も聞いたことがある。

しかし佐藤氏の場合はどうか。サツマイモを見てジャガイモでは、サトイモの煮え加減の見方も分からない坊ちゃん嬢ちゃんを「芋の煮えたもご存じない」というが、そうした類の話かと考えられてしまうだろう。豊臣秀頼がサザエは木に生るものと思っていたという話があるが、大時代のボンやお嬢でなく、ましてや天下人の溺愛児でもない国民の代表たる国会議員がこれではどうかと思う。佐藤氏の「妙な感じ」というのはこういうことだったのかもしれない。

まあ私の知人にも秋に旅行して「米が実っているのをはじめて見た!」と騒いでるいい大人がいたから都会人というのはそんなものかもしれない。それにしても、そういう人に農業政策とかをやってもらいたくはないと思う人は多いのではないかと思う。勉強してください、というより、世間並みの常識を身につけてもらいたいと言うべきかも知れない。しかし正直言って、官僚とかエコノミストといった類の人たちはこうした常識というか、豊葦原瑞穂の国のといっては大げさだが農林水産業で成り立ってきた長い日本の歴史というものの感覚が完全に欠落している人は少なくないんだろうなと思う。そういう人の考える環境問題とかも、当然どこか歪んでいることになるだろう。国民もそうした権威や言説に惑わされることなく、しっかりした判断をしていかなければならない、と書きたいところだが国民の方がもっと心もとない気もしないでもない。

淡路町から神保町に向かって歩き、ブックマートと三省堂と東京堂で本を物色。買ったのは江村北海『日本詩史』(岩波文庫,1941)とランダムハウスの英独-独英辞書。『日本詩史』は18世紀の学者が書いた日本の漢詩の歴史の復刻版であるが、著者の略歴を見ると皇紀で書いてあって西暦に直すためには660年を引かなければならず、時代を感じるとともに皇紀で暮らしていた人たちの感覚というものを思ってみたが想像がつかなかった。序文などを見ると和歌についての悪口が並べてあって、なんだか江戸時代の儒者っぽい。ドイツ語の辞典は最初和独を買うつもりだったのだが、高いので洋書のペーパーバックを買った。$5.99が840円というのは少々高いが仕方ない。amazonなどでじかに注文したほうが良かったか。

三省堂で何種類かの『業界地図』というのを立ち読みしたが、どうも買う気がせず、地元に戻る。地元の本屋にもあるだろうと思って探したがあったのは一冊だけで、『業界地図 2006年度最新版』(東洋経済新報社)を購入。近くで夕食の買い物をして帰り、日本シリーズ観戦に突入。

記録尽くめの試合だった。アンダースローの渡辺の初登板初完封というのも素晴らしいが、今江の8打席連続安打というのはびっくりだ。二試合連続二桁得点というのも日本シリーズ初らしい。〆は江草の1打者3暴投である。1塁に出た走者が3暴投のみで生還するというのはプロ野球でははじめて見た。

『業界地図』を読む。まだ読みかけだが、全然知らないことがいろいろあって、はあ世の中はこんなふうに動いているのかと目から鱗が落ちるようなことばかり。特にへええと思ったのは、海運会社がアライアンスと呼ばれる世界的なカルテルを組んで共同運航や施設共用化を進めているという話である。日本の主要海運会社はどこもその3大アライアンスに加わっているということだ。航空業界にもその傾向は強まり、全日空もそれに加わっているが日航は未加入なのだという。世界の海や空がそうした同盟組織によって動かされているというのはちょっとびっくりであった。

今日はいい天気。

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日本シリーズ/ショパン「雨だれ」/御近所の独裁国家/メディアと警察とどっちがマシか

2005-10-23 09:52:19 | 雑記
昨日。日本シリーズを見ていたら途中で友人から電話が入り、話し込んでいたらいつの間にか濃霧でコールドゲームになっていた。何が起こるかわからない千葉マリンスタジアム。スタジアムには行ったことがないが、幕張には一時よく行っていた。あそこで霧が出た経験は一度もなかったなあ。高層ホテルのラウンジから見る東京湾と沈む夕日がきれいなのだが、海辺のマリンスタジアムが煌々と明るいのを上から見るのも風情がある。当時のマリーンズは日本シリーズなど夢のまた夢だったが、サポーターは当時から熱心だったし、感じが小奇麗だった。チームもファンもともに成長したんだなあと思うとなんだかほのぼのとした暖かさを感じる。

しばらくパリーグのプレーオフを見ていたせいで、応援といえば声と手拍子のパリーグ流の(Jリーグ流とでも言うべきか)応援に慣れていたせいか、タイガースの応援団がずいぶん泥臭く土俗的なものに見えた。考えてみれば鉦や太鼓でチンドンやるのは日蓮宗系の信仰宗教団体と同じだ。ああいうのも共に、ある種の「戦後という時代」の風景なのかもしれないという考えが浮かぶ。(戦前にはいずれも当局の監視の下に置かれた種類のものだろう。)時代は遙かも来たものだ。西岡や今江などのマリーンズの選手を見ていると、新しい時代はどんどん進行しているという感じだ。しかしそしておそらく、こういうニューウェーブの選手たちもそう何年も経たないうちに「ヴェテラン」と感じられる時代が来る。われわれは知らず知らずのうちに、いくつもの時代を生きているのだと思う。それを自覚することで何かいいことがあるかどうかはなんともいえないが、少なくとも私は意識せざるを得ないし、しようと思う。試合は3回くらいまでしか見ていないが、後でスポーツニュースで確かめるとまあそのくらいまで見とけばよかった試合だったようだ。サブローの久しぶりのヒットを生で見たかった気もしたが、まあこのシリーズまたそういう場面は見られそうだ。

友人と話をしていて、「前奏曲 雨だれ」が作曲されたときのショパンとサンドのエピソードを話したりしていたら聞きたくなってネットで音源を捜すと名曲スケッチというサイトを見つけた。有名な曲でも、「この曲、どんな曲だったっけ…」と思うものが、クラシックに弱い私などはよくある。ちょっとそういうのを確かめるときに、ちょうどいいなあと思った。こういうサイトはありがたい。

台湾李登輝前総統がアメリカを行脚して台湾の「自立」を主張。日本にも来てもらいたいものだ。中共政権の東アジア支配の不当性を台湾から突き崩す可能性のある大型の政治家は、まだ後継者が育っていない感じがする。チベットも、ダライラマ14世が死んでしまったら、後はどうなるか。東トルキスタンと同じように亡命政府も雲散霧消してしまうのか。ソ連邦の耐用年数は70数年だった。中共政権はまだ50数年、考えてみたらまだ若い政権だ。まだそんなには簡単に崩壊しないかもしれないと悲観的にもなるが、人間という存在の幸福のためには早く引き取ってもらいたいものだと思う。

経済雑誌などを見ていて、来年のスケジュールに「全国人民代表大会」などと書かれているのを見ると物凄い違和感がある。こうした「影響力がある巨大な独裁国家」がすぐとなりにあるというイヤな感じを、おそらくは1930年代のイギリスやフランスも同じように感じていたのだろうなと思う。そしてナチス政権下の経済成長を見て、ドイツと提携したい感じを持った経済人はきっといただろうなと思う。「ヒトラーと極秘で会った」イギリスの経済人とかはいたのだろうか。ブロック経済の時代とグローバル経済の時代では環境が違うが、この「イヤな感じ」はおそらくそんなに変わらないだろう。それともまだ歴史が全体主義の悪夢をそう意識していない時代は、また感覚は違ったのだろうか。

犯罪被害者等基本計画案について、新聞協会は被害者の実名発表を求める要望を政府に提出。これに関するブログ(全部ではないだろうが)を見ると、大体は被害者側保護のためには実名発表は必要ないという意見のようだ。報道側の要求は警察は実名を発表し、それをメディアにのせるかどうかは自分たちに判断させろということなのだが、それに関してもメディアへの不信表明が多い。特に最近は朝日新聞がらみの「報道崩壊」事件(こちらの朝日新聞社内の乱闘事件は夕刊フジで読んだ。ひょっとしたら自分の知っている人物が当事者かと思ったが実名は分からない。)が伝えられるせいもあり、「メディア不信」はそうとう高まっているということは見て取れる。

しかし現実問題として、警察だって完璧ではない。人間のやることだから完全に警察にそうした権限が集中することもちょっとどうかと思う。今はどちらかというと権力側の不正に対しては大目に見て、反権力気取りのメディアのおためごかしへの反発が強くなってはいるが、そんなものはどっこいどっこいだという面もある。どっこいどっこいであるならば、権限は分散させた方がベターだろうというのが常識的ではないか。私もメディアへの不信感は強いが、この件に関しては権限をお互いが分け持って出来る限り「配慮」してくれ、ということなのではないかと思う。

寝る前にドイツ語を少しやってみる。ジュニアの教室でのドイツ人N先生とのやり取りを思い出す。発音が下手糞で残されたことがあった。大恥をかいて教室を出て、銀杏並木を急いだらドイツ人とのハーフの女の子に笑われた。18歳の初夏。

起きてから久しぶりに散歩に行き、写真を撮る。もう山茶花が咲いていて、季節を再認識する。花の写真はうまく取れなかったが、空や木や道の写真は、昔よりいい線行ってる気が自分ではする。

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ローマ人の標準/ライブドアがセシール買収

2005-10-22 17:22:30 | 雑記
昨日夜帰京。昨日は午後から忙しく、どうも体調が下降気味の中最終で帰京したのだが、車内では週刊文春と『プリニウス書簡集』を読む。『プリニウス書簡集』はようやく最終章に入り、トルコ西部の属州に赴任した小プリニウスと皇帝トライアヌスとの往復書簡という部分で、プリニウスが現地の綱紀の乱れに割合微温的な対応をしようとしているのに対し、トライアヌスは断固たる統治をするよう求めているところが興味深かった。小プリニウスは今まで読んできた感じでも「思いやりのある統治」というか温情主義的な感じが家内奴隷や解放奴隷の取り扱いなどにも現れていたが、それが決してローマ人の標準ではなかったのだなあということがよくわかる。五賢帝のことについて、今までそんなに読んでいるわけではないので、こういう人柄の表れるやり取りは興味深い。

週刊文春ではパズルがいやにやさしくて驚いたのだが、村上世彰特集もまあまあ読んだが一番印象に残ったのは筒井康隆が原宿に建てた豪邸の記事で、庄屋作りの居間は全て筒井氏本人が行い、自らお願いしてかき集めた親方たちは「こんな仕事は40年ぶりだ」と大喜びしたという。梁も床板も富山の公有林で親方が選んだ白木を1年間乾燥させて用いたという。あるところにはあるというかんじだが、しかし金持ちはこういう文化的な仕事のパトロンになってそうした技術を維持する歴史的な義務がある、と思う。そういう意味できちんとそういうことを実行している筒井氏はさすがだなあと思った。

ある方の日記を読んでいてライブドアがセシールを買収したというのを知ってへえと思ったが、日経のサイトを見てみると通販もカタログによるものは前年比マイナスになっていて、ネット、特に携帯サイトでの通販が急成長しているのだという。セシールが二年連続赤字というのも一時の勢いを知っているものからしたらびっくりだが、時代はどんどん変わっているのだなと思う。girlswalker.comなどという携帯通販サイトが急成長で、携帯通販の市場規模は前年比5割り増しだそうだ。私などは、洋服をカタログを見ただけで買うなどという芸当は全然出来ない、いやパソコンやそうしたものですら実物を見ないと嫌な方で、ましてや携帯のあの小画面でぱっと購入を決めるなんてことはちょっとびっくり仰天である。材質感とかそういうものには全然こだわりがないということなのだろうか。よくわからないことが多い。

ひさしぶりにReadMe!を見ていたらランキング上位は全然見たこともない顔ぶれになっていたが、ブログで上位になっているサイトがほとんどライブドア・ブログを使っていることに気がついた。たぶん100位以内に入っているレンタルブログ使用のサイトは全てライブドアだったのではないかと思う。どういうことかなと思って調べてみると、ブログの構成の自由度がほかのところに比べて圧倒的に高いというのが分かってきた。ライブドアというのはどういう事業をやっているのか相変わらずよく分からないところがあるが、やはりどこか抜きん出ている選択眼があるのだなとちょっと感心する。ほかの雑誌のライブドア特集を読んでも、意外とまともな会社に変身しつつある、という評価もあり、そうなのか、と思ったり。なんだかいずれにしても経済シーンは西部劇のような時代なんだなあと思った次第。

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