Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

XOOPS/芸の継承/女は残酷

2007-02-28 13:38:03 | 雑記
昨日。お昼の特急で帰郷。どうも疲れが出ていて調整が難しい。特に腕とか指とかを酷使しすぎてるんだなと思う。体調が悪いときに整体的な調整を自分でしようと思っても、結局は自分の手に頼っているわけだから、手の休まるときがなくなってしまう。手を意識的に休める工夫をしないといけないと思う。現代文明において、目と腕を休めるのが一番難しいなと改めて思う。

車中ではほとんど寝ていた。ときどき『カスタマイジング・ズープス』を読む程度。信州は暖かい。日中など、下手をすれば東京より暖かいのではないかと思うときもある。

昼から夜にかけて仕事。それなりに意味があるなあと思うことが出来たのでよかった。夜は早めに就寝したが、今朝目が覚めたら7時を過ぎていた。どうも判りにくいのだが、低潮期なのかもしれない。おきてから、近くのセブンイレブンにスーパージャンプを買いに行く。今回楽しみにしていたのは『王様の仕立て屋』だが、なかなかうまくきれいにまとまっていた。ただまとまりすぎて作者自身としてはちょっと妙な不完全燃焼感が残ったのではないかという気がしないでもない。『ゼロ』はなかなかよかった。巻頭カラーだけのことはあった。後は『オサムシ教授の事件簿』『男塾』『銀のアンカー』『警視庁美人局』『NEWSMAN』も良し。『女王陛下の紅茶』は薀蓄系の読みきりだが、割といいかも。連載陣がだいぶ変わってきて、SJの雰囲気もだいぶ変わってきた感じ。『王様の仕立て屋』の今後の展開が楽しみ。

芸と人格の分離の話の続きだが、どちらにしてもその魅力に対して人が集まってくるけれども、芸と人格が分離できるタイプなら、その分離された芸だけを継承していくことが出来る。創始者とその弟子とでは格が違うから相当な努力が必要だしその努力の過程で芸の本質が変わってしまうことも無きにしも非ずだが、人格と分離できる芸はいわば芸人とは別個のパーツであるわけだから、そのパーツをコピーすることは不可能ではない。

一方、芸と人格が分離できないタイプでは、その芸なり人格なりを慕って弟子が集まるということはあっても、芸の部分だけでは不完全だし、かといって人格を受け継ぐということは不可能だから、その芸が流派をなすということは難しいということになる。流れの中に屹立して存在する偉大な芸人(それは作家でも学者でもおそらく同じだ)が流派を形成することなく存在せざるを得ない理由の内の一つには、そういうことがあるのではないかと思う。

そのほか芸と人格の関係について考えられることはたくさんあるが、この話は考えていくと深いものがある。ある団体のことについて考えていて、技術(つまり芸)として分離できる部分と人格に依存せざるを得ない部分をどのように持っていけばいいかということについて、その団体はけっこううまくやっているのではないかという気がする。芸は芸として非常にラジカルなものになりすぎる可能性もあるが、かろうじて演者の人格によってその暴走が食い止められている場合もある。人格が弱いとそれが食い止められず演者の人格を破壊する場合すらあるが、逆に強い(あるいは鈍感な)人格の持ち主が芸を自己展開させすぎてどこまでも暴走させてしまうこともあるわけで、芸と人格というものは付かず離れずである必要があると思う。

最近「残酷さ」ということについて考えていることがあるのだが、どうもなかなか展開しない。残酷といってもホラー系の話ではなく、よく「女は残酷だ」といわれるような残酷さのことだが。それはまあ、何かをスパっと断ち切ってしまうときの断ち切り方が男と女とでは違って、女の断ち切り方が男には残酷に見えるということなんだと思う。残酷ってなんだろう。
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確定申告/ソング・フォー・メグミ/被写体ではなく/不安と希望/芸と人間性の分離

2007-02-27 09:42:44 | 雑記
ここの所ちょっと頑張りすぎているのか、ときどき変なところで休に変な体調の崩れ方をする。リズムってものをあまりちゃんと考えてないせいかも知れないなあ。朝起きて耕し、井うがちて飲む、みたいななるべく自由な構え方で精一杯やることをやろうとしているのだけど、体がついていききれていない感じだ。どうしてもパソコンの画面を見続けている時間は限界があるのだが、今やろうとしていることはパソコンなしにはすまないので、やれる時間に限界があるのだ。ちょっと取り組み方をもう少し工夫した方がいいのかもしれない。

昨日は午前中銀行を回る。何だかぽかんとしていたのか、最初は通帳記入だけしていたのだけど、引き落としのために入金しておかなければいけない口座がいくつかあるのに気がついて、もう一度一回りする。馬鹿じゃなかろか。帰りに液体アタックとティシュペーパーを買って帰ったら、ティッシュはまだ結構残っていて、なんだか。頭が使いすぎで体がなまっている感じだったので少し本棚や回りを片付ける。それだけで少しすっきりした感じ。ただ捨てた方がいいものはまだまだたくさんあるなあ。DOS時代の『桐』のマニュアルなんて取っておく意味はないだろうしなあ。

昼食後さっさと片付けてしまおうと思って確定申告の書類作りに取り組む。国税庁ホームページを使って作るのはもう4年目だろうか。e-taxにはまだしていないが、来年からはそうしてもいいかもしれない。それにしても昨年の収入ががくんと減っていて笑っちゃうなあ。一昨年もその前よりは減っているので、こりゃあ大変なはずだわ、と思ってしまう。その代わり税金は増えているはずなのだが、戻り額が今回も3万円を越えている。まあそんなこと嬉しがっても本末転倒だ。

書類をそろえたり確認したりするのにちょっと時間がかかったが、内容を理解しつつ打ちこんでプリントアウトして、正味1時間強といったところか。税務署から書類は届いているのでその封筒を使って(自分で切り張りして作るやつね)140円の切手を貼って郵便局に持っていったら料金はそれで足りていた。

そのまま新宿に出かける。車内では『Customizing Xoops』を読み続ける。オンラインシステムのマニュアルを読み続けるなんてずいぶん久しぶりのことで、そのせいでかなり疲れが出てるんだろうなあとは思うんだが、やはりブログなどとは違ってきちんと理解していないとヤバイ感じがするので、読んで理解できる程度のことは理解しておかなければと思う。

Customizing XOOPS ~自由にデザイン・自在にHack

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紀伊国屋でざっと本を見る。2階のCDショップを物色したら、ノエル・ポール・ストゥーキー『ソング・フォー・メグミ(Song for Megumi)』を売っていた。ちゃんと「横田めぐみさんに捧げる・・・」とPOPもついていて、ああよかった、と思う。銀座の山野楽器で探して見つからなかったときは少し暗い気持ちになっていたのだけど、紀伊国屋の帝都無線は偉い。うちに帰った後で聞いたが、何だか懐かしい60年代のテイストだな、やはり。相変わらずフラワーチルドレンの感じがあって、本当にこういう音楽が好きな人たちがやっているという感じがして、それはそれで気持ちいい。商業化というような言葉と違うところにいてもこれだけ長い間やってこれるんだからある意味アメリカというところはたいしたところなんだなと思う。曲は透明な悲しみとでも言うのか、強烈なメッセージ性というものではないが、静に心を打つという感じのもの。一度聞いていただきたいと思う。

ソング・フォー・メグミ
ノエル・ポール・ストゥーキー
バウンディ

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またカフェユイットに行く。5時を過ぎていたせいか、だんだん空いてきて、客層も若くなっていた。この時間に行くのが結構穴なんだろうか。平日ならば、だが。ただ暗くなってくると本は読みにくい。音楽がジャズっぽいピアノだったが、針跳びをしていたのか延々と同じところを繰り返していて、(いや、何だかそういう録音なんだろうな、針飛びにしてはフレーズが長すぎたから)何だか気になった。

コーヒーとメープルキャラメルクリームのクッキーを注文して、美術雑誌を物色して、『日本カメラ』を手に取る。ちょっと感動した。写真がどれもいい。砂漠の写真、ジャングルの木の上のチーターの写真。今まで自分にとって写真というのはどうしてもなにかを伝えるメディアに過ぎなかったのだけど、下手にキャプションがないので写真自体の迫力がすごく伝わってくる。移されている被写体にではなく、写真に感動するという経験は実は初めてかもしれない。写真という芸術というものに浸ることが出来たのは得がたい経験だった。

6時前に店を出てもう一度紀伊国屋に戻り、やっぱり買っておこうと思って掛谷英紀『学者のウソ』(ソフトバンク新書、2007)を買う。ぱららっと見た感じでは、おおむね自分と意見は合致しそうな感じ。しかし多分根本的な譲れないところで合致しない点があるんじゃないかなと思う。まあしかしそれはそれでいいんだろうと思うけど。ほとんど未読。

学者のウソ

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それから、人文書も少しは見ておこうと思って上に上がって物色してたら澁澤龍彦『悪魔のいる文学史』(中公文庫、1982)に引っかかった。久しぶりに渋沢の文章を読んでいると、なにか水が心に浸透してくるような感じ。昔は気負って何かを得ようとして読んだような本だが、今ではもう少しゆっくりした気持ちで楽しめそうだ。渋沢もそれなりには読んだが、上滑りした読み方をしていたんじゃないかなという気がする。楽しみながら読めると収穫が多い、そういう種類の作家だと思う。

悪魔のいる文学史―神秘家と狂詩人

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帰ってきて食事をし、いろいろやっていたが、どうもやはり無理がある感じで長続きせず。どうも寒い感じがするのはよくないなあと思いつつ、もう寝ようかと思っていたら友人からメールが入り、ちょっと相談事だったのでこちらからかけて少し話し込む。奥さんも出てきて話した。もう13年ぶりくらいだ。就寝は結局12時前。

若いころのことを思い出し、不安だらけだったなと思う。今でも不安はないことはないけれども、ときどき希望に入れ替えているので、昔よりは楽になった。不安も希望も、あんまり根拠がないことに関しては変わらないので、まあ希望も持っていたほうが明るい気持ちで物事に対処できるからいい。事実を確かめるようにしていけば、無駄な不安は少しは減る。事実を確かめて行動することで、少しでも希望を持つようにして、心に種火をともしておいた方がいい。絶望の虚妄なること、希望もまた同じい、といったのは魯迅だよな。

「芸」と「人間性」ということを横尾忠則とタモリと糸井重里の鼎談を読んでから考えていたのだけど、芸と人間性とを完全に分離できる、分離すべきだという考えと、イヤどこかでつながっている、という考えと二つあって、それはどちらがよくてどちらがいけないということでもないな、と思えてきた。分離できると考えた方が日常性に囚われず徹底して芸を追及できるから、非常にラジカルな芸の展開が出来て、横尾の言っていることは基本的にはそういうことなんだと思う。芸が人間性を侵食したり、逆に人間性が芸に滲み出してきたり、一概には言えないが、分離できるかできないかというのは考え方の問題で、そのどちらにも味がある。

談志の話が出てくるが、談志の毒舌を芸でなければ命が危なくなるような、と表現しているが、なるほどなあと思う。それは芸に命を賭けているということでもあるけれども、やっぱり芸と人間性は分離できるという信念があるから出来ることなのだとおもう。小林よしのりなどもそういうことをいっていたな。横尾も信念としてはそうなんだと思う。談志は芸人には二種類あって、下半身を晒せる芸人と晒せない芸人がいる、俺やたけしは前者で古川緑波とか桂三枝は後者だ、というようなことをいっていたけど、芸に人間性の片鱗を見せるという芸もあり、そのタイプは確かにラジカルになりきれない面があるから、ある意味限界はあるのだけど、そういう意味で人間として安心できるともいえる。逆に徹底してラジカルな方は芸としては面白いが人間性として破綻していることも往々にしてあるわけで、近くにいたら大変なタイプということになることが多いのだと思う。

芸と人間性は根本的には分離できない、というタイプは中途半端なようだが、逆に言えば全人的な芸だということも出来る。多分若い頃は大根で年を取ってきてから珠玉のような、と表現されるような芸人はこちらのタイプなんだろう。つまり、芸と人間性を分けるタイプはラジカルで徹底しているが、逆にある意味の限界があり、分離できないタイプは若い頃は馬鹿にされたり中途半端であるように見えるが、最終的には限界がなくどこまでもいけるということになるのではないかという気がする。

多分作家などにもそういうのがあって、村上春樹とか赤川次郎とかは芸と人間性を分けるタイプなのだと思う。田中康夫もそうだが、あの人は政治という人間性が問われるところまで徹底して芸の部分で乗り切ろうとしたところがある意味新しいことなんじゃないかな。そのまんま東はやや中途半端なので少々心配だ。石原慎太郎は芸も人間性もへったくれもなく「全部石原慎太郎」だが。

私はどちらかといえば芸と人間性は分けられない方だな。このタイプは何をやっても仕事に人間性が侵食してくるから結構きついなと思う。仕事は仕事、と完全に分離できるタイプが羨ましいなと思うけど、まあそんな中途半端な芸の文章にお付き合いいただいている皆様には、いつも感謝の言葉もない次第なのです。
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素人なりに苦労するよさ

2007-02-26 09:58:39 | 雑記
昨日。ありあわせのもので昼食を済ませた後、だいたいXoops関係のものを調べながらサイトをいじる。これはやはりMovable Typeのようなブログ技術よりも私にとっては面白い。普及度でいえばMTの方がずっと上だし、MT自身もCMSとして使えることは使えるのだろうけど、何というかXoopsの方が広がりを感じる。それはオープンソースだからか、ログインメニューを使ってメンバーサイトを作ることができるからか、自分でもよくわからないが、あまりにも誰でもブログを使っているということ、何だか手際がよさげなこと、とかがブログに関してどうも息苦しい感じがしてしまうところがある。

Xoopsの方は「使ってみれば便利」なのだが基本的には「自分で何とかしなければいけない」ことが多く、いろいろな関連サイトを調べてもそのあたりで私と同じレベルの素人ユーザーでも結構使っていると思われる上級ユーザーでもみんな独自の悪戦苦闘感が漂っていて、「みんなお任せでスイスイ」というブログに漂いがちな妙なだらけ感がないところがいいのかもしれない。そこら辺に何だか可能性を感じるんだよなあ。「素人なら素人なりに苦労する」、というのがウェブやネットのいいところだと多分私は感じていて、素人なりの苦労がそれなりの成果として花開いているのを見るのはなかなか楽しい感じがする。みんながレディーメードの洋服を着て歩いてたらやっぱりつまらないよねえ。下手でもそこに個性が現れているほうが見ていて自分も頑張らなくちゃという気が起こる。レディーメードでも粋な着こなしをしている人もあるし、そっちを求める方がある意味現実的でもあるが、やっぱり微妙な肩幅の狂いとか、すその長さのもうひとつの差のようなものが、あるということは避けられない。まあ手作りのサイトだってたいていはつんつるてんになってしまうもので私なども全然その段階から抜け出せないのだが、それでも無骨な個性を出せるよさがXoopsにはあると思う。

ただ、XoopsをやるためにはphpとMySQLが使えるレンタルサーバーが必要で、無料サーバーもないことはないが、やはり有料サーバーの方が好ましい。お金を払ってサイトを運営する、というのはやはりひとつのハードルにはなるだろう。相当な目的意識がないとそこまではいけない。自分の備忘録と関心のある方のために見つけた関連サイトをメモしておきたい。

文系のためのXoops入門
とりあえず分かりやすい。とりあえずの導入の仕方とXoopsの基本的な魅力が分かる。

日本公式サイト
5分で導入できるという売り文句が可笑しい。いや、実際何も支障がなければ導入自体は5分でできる。大変なのはその後だ。オープンソースという性格上、公式サイトは非常に重要な存在だ。

Xoopsユーザーズグループ
ベーシックマニュアルなどお助け系の内容が多いが、「教えて君」「くれくれ君」の多さに(これは少し難しいが素人が手を出したがる技術に共通して起こる現象だろうなあ。しかしこういうところにある意味ビジネスチャンスがあるともいえるんだが。ボランティアに無償奉仕を求めるから嫌がられるんだよね。)ときどき噴火するマグマがあるところが同じ素人としては少しびくびくしてしまうけれども、まあ常識を持ってある程度の知識は自分で身につける努力をした上で利用しましょうということだろう。

Xoops Wiki
有益なデータもあるが、少し古いデータが多い感もある。逆に歴史的な過程が感じられる面白さもある。

オーシャンネット
PEAK XOOPS Support&実験室
モジュールやテーマといったXoopsのカスタマイズ関係のパーツを提供しているサイト。ほかにもたくさんあります。

と、一通り紹介したが、夕方になってからやはり本を一冊買っておこうと思い、地元の書店に行くが見つからず、丸の内の丸善に行ってみた。新書のコーナーで掛谷英紀『学者のウソ』という本を見つけてちょっとどうしようかと思ったが、とりあえず買わなかった。以前は自分の中の違和感を解消するためにこういう本は必ず読んでいたのだが、最近はあまりそういうことが気にならなくなってきた。学者というものの「権威」について、自分自身がどうでもよくなってきたところがあるのだと思う。

学者のウソ

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それはともかく、コンピューターのコーナーで物色するとXoops関係の本は数冊あった。いろいろ考えた結果、GIJOE&matchan『Customizing XOOPS』(毎日コミュニケーションズ、2005)という本を買った。上に上げた『オーシャンネット』と『PEAK XOOPS』のサイト運営者が書いている、ということも判断基準になった。

Customizing XOOPS ~自由にデザイン・自在にHack

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しかしこういう本は高いし厚いね。税込3150円。ムーバブルタイプの本は結局買う気にならなかったが、これはやはり一冊、パソコン画面を見なくても勉強できるように必要だと思った。地元に帰り、さっさと夕食の買い物をして帰宅。しまった液体アタックを買うのを忘れた。

夜はずっとこの本を読んだりサイトをいじったり野口晴哉『体運動の構造 第二巻』を読んだり。カズがサンデースポーツに出ていた。今年は40代や40に近いスポーツ選手が話題になることが多いな。同じ世代には頑張って欲しいなと思う。12時前に就寝。

朝は目が覚めたら6時20分。眼球の周辺の皮膚が少し痙攣している。久しぶりにPCをやりすぎたか。

少し家の中の片づけをしてごみを出して確定申告の書類をそろえる。国民年金と国民健康保険の払い込み証書がなかなか見つからなくて少し焦ったが、ごちゃごちゃの引き出しの中から何とか見つけ出すことができた。後は入力してプリントアウトすればいいだけだが、まあぼちぼちやろう。
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XOOPSでサイト構築中/動くルノワール:ペトロフ『春のめざめ』

2007-02-25 12:56:48 | 雑記
新しいサイトを構築している。(って一体いくつ作るつもりなのか?・笑)今回はポータルサイト(おおー!デンジャラス、もとい、野心的だ。)を作ってみようと思っていて、サーバースペースを借りてXOOPSというコンテンツ・マネジメント・システム(CMSというらしい)を導入してみた。これによって作られているサイトを見てみると、なるほどうまく出来ているなあという感がある。(今ぱっと見た感じではこちらとか)しかしなかなか手強くて、昨日からいろいろやっているけれどもまだ「ゼロから1への長い道のり」の途上にあって、形にするのはなかなか大変だ。

こういうサービスでは今までブログをムーバブルタイプで作った(『本探し・ブログ』はムーバブルタイプを利用。)ことはあるのだが、XOOPSはphpとかMySQLとか今まで使ったことのない技術が必要なので、やっている途中でいきなり思考が中断することがよくある。何をやったらいいか分からなくなるというか、まあ知らないので当たり前なのだが、分からなくてもとにかくまずやってみることから手をつけるタイプの私としては、初期段階が一番「???」で、はてなマークが空を飛ぶ状態になる。今まさにそれが佳境に入っている段階という感じだ。

しかし、なんというかまあ人の作った技術であるから、多分いずれはうまく行くだろうという安心感が今回はある。ムーバブルタイプとかをいじっていたり、初めてブログを作ったり、もっと前の、初めてメールソフトを設定したりした頃の五里夢中感に比べると違うものがある。それは、メールにしてもブログにしても既に一般的になってしまってから追いかける感じがあったが、XOOPSはそんなに一般的に(もちろん知っている人はいくらでもいるのだけど、大衆化しているとはいえない段階だというくらいのことだが)なっていないので、「出来なきゃヤバイ」感がないからかもしれない。

もともと私は新しい物好きではあるのだが、まあその程度が余りにひどいということもあり、なるべく新しいものに手を出す欲望をセーブしてきた。しかしおそらくはそのせいでだいぶ新しいものに疎くなってしまっていて、何だか悔しいというかある種の無力感に襲われたりすることもあって、それじゃあセーブしている意味がないから、それを生かす方向でやりたいと最近は思っている。新しいことをやっているというワクワク感がないと、どうも生きているという感じがしないという面倒な人間性を私は持ってるんだなと思う。
というわけで新しいサイトはもう少し人様に見せられるようになるまでお教えできませんが、乞うご期待。(なんて書いて失敗したら困っちゃうけど)

ということで、ちょっとサイト作りを中断してブログを書くことに。

昨日。というか一昨日に思いついて新しいドメインを取得し、昨日はサーバースペースを借りる手続きをする。昨日はお昼過ぎに出かけて地元の洋食屋で食事を済ませて、神保町へ。久しぶりだ。ブックセンターでマンガを物色、三省堂をうろつき、東京堂も見るが、どうも欲しいというものはなく。最近何が何でも本を読まなければという感じが減っているのであまり新しい本に手を出していないのだが、ちょっとその傾向が強くなってきた。すずらん通りは工事中のところが多く、どんなふうに変化するのかちょっと心配だったのだけど、今のところ嫌な方向への変化ではなさそうなのでどきどきしながら見守っているという感じかな。本の街という基本は押さえて欲しいなと思う。

気分を変えて銀座に出ることにし、半蔵門線から丸の内線に乗り換えて銀座に出る。銀座も気がつくといつも微妙に変化している。教文館から山野楽器。改装中のせいでフロアが減っていて、一階がすごい混雑。目当てのものを見つけられず。中央通りを北に歩き、京橋から日本橋。結局プレッセでコーヒーとリッタースポーツのラムレーズンだけを買って帰る。地元のローソンでビックコミックの5号を買って帰宅。

ビックコミックではだいたい全体的に面白かったが、一番印象に残ったのは『ゴルゴ13』だろうか。サソリの刺青をした「ラジャブ・カーリム」というテロリストを追いかける新聞記者の話だが、こういう現今の世界情勢を題材にした作品というものにリアリティを持たせるのは難しいといつも思うのだけど、今回はなかなかオチがよく出来ていて、これはいいなと思った。

夜は『世界ふしぎ発見』。カナダのオーロラ、犬ぞりの迫力。なかなかすごい。次回で千回だ。年53週としてほぼ20年。私の知り合いがスタッフにいたことから見始めたのだが、TBSで見たいと思うほぼ唯一の番組になってきた。

夕方サーバースペースの手続きが終わり、さっそくXOOPSをダウンロードしてアップロードし、構築を始める。しかし初心者的なミスをお約束のように繰り返し、(まあ初心者だから当たり前なのだが)なかなか進まない。1時過ぎになってさすがにもうやめようと思い、パジャマに着替えたりしながらテレビをつけたらUEFAチャンピオンシリーズの番組をやっていて、思わずセルティックの試合まで見てしまった。気がついたら3時だ。おいおいまずいよ、と思い就寝。

朝起きたら8時。朝からほぼ構築作業を続ける。途中『新日曜美術館』をちらっと見る。染色家・志村ふくみがモンドリアンのようなはぎれのパッチワークを作っていて驚いた。80歳を超えて自由になったというが、そういうものかもしれないと思う。アレクサンドル・ペトロフ監督のアニメーション、『春のめざめ』が紹介されていた。これは透明なアクリル板に油絵の具で描いた絵を指で伸ばして動きを表現するというまさに動くルノワール。これはちょっと、こんなにいいものはないんじゃないかという気がする。3月17日からシネマアンジェリカ渋谷という映画館(行ったことないなあ…)で上映するそうなので、ぜひ見に行きたいと思う。

ロダンの石膏展が静岡県立美術館で。石膏像を作品として作るようになったのはロダンからだという。『地獄の門』も生前には石膏像しかなく、ブロンズで作られたのは死後だということははじめて知った。横尾忠則のY字路展を西脇市で。今ネットで見たら『ほぼ日刊イトイ新聞』でこんなページを見つけた。こりゃあすごいな。ネットで横尾の絵が鑑賞できるとは思わなかった。思わぬ拾い物。

……寒いし、おなかがすいてきた。
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森繁久弥/フランケンシュタイン/大喜利

2007-02-24 13:02:25 | 雑記
昨日。一昨日からの腹の状態が少し続いていて調子はあまりよくなかった。どうしても食べ過ぎてしまうのはなぜだろうと思う。午前中は職場でいろいろ準備をしたりほかの仕事をしたり。午後は少し休んで3時から仕事。仕事中に頭が猛烈に痛くなってきて風邪かなと思ったが、水を飲んだり整体的な手当てをしたりしながら何とか8時までもたせる。8時過ぎの特急で上京。

いつもは駅の売店で弁当を買うのだが、売り切れだったので近くの山崎デイリーでコンビニ的な弁当を買う。調子がよくないのについ弁当以外にもサラダと吹雪饅頭を買ってしまい、われながら呆れる。車中では食後ずっと眠りっぱなし。後ろの座席の人がパソコンをいじっていて座席をあまり倒せない。通路側が空いていたのでそちらで席を倒して眠り込む。どこかの駅で前の席にも人が乗ってきたが、その人もパソコンをいじっている。これは多分、車中で本を読むより目に悪いだろうなあと思う。

結構辛かったが何とか新宿に着き、東京駅に出て地下鉄で帰宅。昨日はもうまっすぐに家に帰り、必要なことだけ片付けて入浴して1時半に就寝。目が覚めたら10時だった。

朝起きるとだいぶ体調は回復していた。眠りが必要なときにちゃんと眠れるということはいいことだ。いくつか家事的なことを片付け、PCで必要なものをチェックして、『談志陳平の言いたい放題』を見た。

この番組は毎回構成が変化するのが面白いが、今日の面子は西部邁が加わっていた。ただ西部は今日はあまり喋ってなかった。へえと思ったのは、古今の役者を一人一人談志が数え上げていて、その中でも一番は、森繁久弥だといったこと。今このブログを書こうとしてWikipediaを調べたらNHKの番組でもそういっていたらしい。今まで森繁という人はどちらかというと権威というか重鎮というか、何というか反権力的な姿勢を持った人から揶揄されるような存在という意識しかなかったのだけど、談志にそういわれてみると少しはっとさせられた。『霜夜狸』というDVDが発売されたそうだが、それが少し流されていて、心してじっくり聞いてみると、確かに台詞の力量はすごいものがある。私が芝居をやっていた頃、一番すごいと思う役者というのは平幹二朗だったのだけど、森繁の方が明らかにはるかに突き抜けている。森繁の印象が悪かったのは、森繁モドキの老人の演技をする二番煎じがあまりに氾濫していて、オリジナルの印象が悪化したせいなのかも知れないと思った。とにかくすごい。神様が喋ってるんじゃないかとすら思う突き抜け方だ。

森繁久彌の霜夜狸

ジェネオン エンタテインメント

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もうひとつ紹介されていたのが映画『フランケンシュタイン』。これも非常にカッコいい。モノクロのこの時代(1931年)の俳優の演技はまだ舞台的で、こういう演技の方が何だか好きだな。フランケンシュタインの登場の場面などは、エイゼンシュタインの『イヴァン雷帝』の第二部を思い出さされた。低い位置にライトを置いてフランケンシュタインの影を巨大に見せる演出は、今調べたらフランケンシュタインの方が先だ。(その技法自体はおそらく古くから…蝋燭を床に置けばいいわけだから…あったのだろうけど)

フランケンシュタイン

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

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イワン雷帝

アイ・ヴィー・シー

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最後には立川流の前座を四人並べて大喜利。笑天のこの演出はもともと談志が考えたのだそうだが、毎回自己紹介させて客に名前を売り込むとか、細かいところでいろいろ工夫しているということで、なるほど談志らしいと思った。以前もこういう趣向の場面を見たことがあるが、なかなか緊張感があって面白い。笑天の大喜利は「お約束」が多すぎて、まあそこが逆の意味で水戸黄門的な安心感があるわけだけど、談志がやると実にアヴァンギャルドで油断ならない感じがあってクリエイティブな出し物になる。

今日の東京は晴れていて気持ちが良いが少し寒そうだ。
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専門看護師/パワーポイント以外のプレゼンテーションソフト

2007-02-23 09:41:04 | 雑記
昨日。早朝職場に行って準備など。午前中は『体運動の構造』を読んだりなど。午後も早めに職場に行く。仕事はそうは忙しくなかったが。

昼、夜と食べ過ぎたせいか、夜になって腹が下る。最近にない本格的な反応だが、背骨を触ってからだがとても敏感になっているせいもあるだろう。そんなに苦しくはない。が、夜一度寝入った後またトイレに行ったりして、朝になった今でも完全に反応がおさまったかどうかはわからない。今日は調旨を見ながら予定をこなすことになりそうだ。

夜見た『プロフェッショナル 仕事の流儀』で専門看護師という仕事の存在を知る。クリティカルな状況にある患者のみを専門にみる看護師。それはちょっと大変すぎるんじゃないかと思ったが、逆に死と生のふちで生きようとしている人間の強さにむしろ元気をもらっているのでは、という茂木の指摘はなるほど考えてもみなかったが、それはそういうことはあるんだろうなあと思った。私も祖父がなくなったとき、なんともいえない感動があったが、生ききって亡くなった祖父の側にいることは、無限の力をもらっているような気がして、それがなんなのかよくわからなかったのだけど、それはそういうものなんだなと納得できた思いだった。

看護師が「現場にあるものは何ですか」と聞かれて「尊厳」だと答えていたが、確かにその時には「尊厳」があったと思う。やはり死と生の境目にはある種の聖なるものがあり、それを世俗的な、非宗教的な言い方でいうと「尊厳」としかいいようがないものになるのだと思う。そこで生きるということで自分の足りなさ、至らなさ、吹き出す感情などに常に向き合いながらケアを続けるというのはやはりある種、マザー・テレサのような修道尼的なものを感じさせられる。生きているものそのものと向き合い、慈しむということにこの仕事は最終的にはなっていくのだろうと思う。看護という仕事の魅力をはじめて知った気がした。世の中自分には到底出来そうもないけれどもものすごく魅力的な仕事はたくさんあるんだなと思う。

最近ジャストシステムに関心が出ている。私も以前はワープロは『一太郎』を使っていた。今考えてみるとワードに切り替えた根本的な理由が思い出せないが、仕事で要求されるファイルがワード形式になったということはやはり大きいんだろうなと思う。一太郎で作ったファイルをワードに変換することは出来るけれども、細かいところでいろいろ齟齬が出てきてしまうからそれなら最初からワードのほうがいい、と思ってワード2000を導入した、という気がする。それまで使っていた一太郎6がだいぶ古いバージョンになってしまったということもある。ただ、罫線を引いたり表を作ったりするのは感覚的に一太郎の方がずっとやりやすいし、なんと言うかこちらの感覚どおりにワードというものは動いてくれないので、あまり複雑なことをやる気がなくなってしまうという副作用があった。

一太郎2007 通常版

ジャストシステム

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なんというか、あまり一太郎にこだわりすぎるのもどうかという気持ちがあるうちに一太郎の名前を聞かなくなり、ジャストシステムの名前も聞かなくなっていたのだが、ジャストブログとxfy Blog Editorの記事を読んでまだまだ頑張ってるんだなあと思った。プレゼンテーションにはずっとパワーポイントを使っていたが、パワーポイントは高いしバージョンアップもいやだなあと思っていたのだけど、Agree2007というプレゼンテーションソフトが存在することを知ってこれもいいかなと思った。何より価格が6300円というのがいい。まだ使うかどうかは決めていないが、(大体今打ち込んでる仕事で使うノートはいまだにWin98なのでこのソフトの対応OSに入っていないのだ)パワーポイント以外の選択肢があるというだけでもいいことだ。ジャストシステムには今後とも頑張ってもらいたいなあと思う。

Agree 2007 通常版

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本を読む生活

2007-02-22 21:10:53 | 読書ノート
『本を読む生活』に以下の作品を追加し、登録作品数が140冊になりました。

宮下規久朗『食べる西洋美術史』
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金利引上げ/お金というメディアを使ったアート/引き締まる日本人

2007-02-22 08:29:41 | 読書ノート
昨日。午前午後と自室でいろいろ作業をしたり本を読んだり。午後早めに仕事場に出てようやくネットに接続できる。自室のダイヤルアップの調子がよくない。午後から夜にかけて仕事。そんなに忙しくなく。ぼちぼち。夜は『その時歴史が動いた』の「鉄は国家なり」を見る。面白かった。

昨日日銀の政策決定会合があった。金利が引き上げられるだろうというのは私としては予想通りだったのだが、それでも対ドルレートが120円台になるというのは予想外だった。大方の予想では118円題になるだろうというものだったし私もそう思っていたのだが、20日から21日にかけてかなり円売りの圧力が高かったように感じた。決定後は一時119円台半ばまで急騰したが、また反転して売られれて120円台に突入。さっき見たら121円近くまで売られている。

当局の円売り介入はあったのか。金利引上げで景気の悪化を懸念して円安に誘導する、ということはありえないことではないが、先日のG7で市場介入はしていないと明言したばかりだし、それは難しいだろう。すると円安のトレンドを変えたくない誰かが円を売ってトレンドを支えたということなのだろうか。特にロンドン市場の開場時間がそういう傾向が強かった気がするが、果たしてどうだったのだろう。

今回この動きに注目してへえと思ったことの一つは、日本の金利が上がったことで円だけでなくアジア通貨が上がる方向に動いたこと。「いい物を作ってアメリカに売る」というビジネスモデルが一致しているアジア諸国は同じような動きで一括されているということなのだろうか。

金利の引き上げが今後経済の動向にどのような影響を及ぼすのか。経済の回復が確かなものになってきた以上、異常な低金利の引き上げは当然必要なことだし、金利生活者や年金生活者にとっては多少は一息つける状態に近づくことになるだろうけれども、もちろんまだまだ満足できる状態ではないだろう。『「陰」と「陽」の経済学』に書かれていたことが正しければ金利を引き上げても必要な企業は金を借りるだろうし、それ自体に問題はないと思う。金利安の弊害を多少とも是正することが今は必要なのだと思う。

***

昨日読んでいたのはキヨサキ『金持ち父さんの投資ガイド上級編』と野口晴哉『体運動の構造 第二巻』。『投資ガイド上級編』はこのシリーズでも非常に面白いものの一つだった。このシリーズは基本的にある種の「教科書」だし、そういう意味での面白さ、つまり知らないことを知っていくという面白さはあるが、わくわくする、という部分はやや足りなかったように思う。『上級編』は基本的にビッグビジネスの構築の話なので、そのあたりは血沸き肉踊るというか、私から投資を学びたいなら木曜日にペルーへ飛べと火曜日に言われるとか話がワールドワイドで、ある意味『ゴルゴ13』か何かを読んでいるような感じもした。「信頼できないペットとビジネスをするな」とか「人間の現実は信念と自尊心の境界だ」とか「ひとつのことを学ぶのに5年を投資する」とか「市場はいつも『今話題のもの』を探しているから、次に『今話題のもの』になるものを作り出さなければならない」とか、「ビジネスは私に資産を買ってくれる」とか、「ビジネスで成功するためには必ずしも「新しいアイディア」が必要なのではなく、「よりよいアイディア」を見つけ出せばいい」とか、「資本主義は永続的な創造的破壊だ」とかなるほどと思うような言葉がたくさんあって魅力的だった。

金持ち父さんの投資ガイド 上級編 ― 起業家精神から富が生まれる

筑摩書房

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「人間の現実は信念と自尊心の境界だ」という言葉は人間が何かをやろうという信念と今何者かであるという自尊心、プライドとか自己限定とか言い換えてもいいが、その境界に人間の現実は存在するということで、自己限定が強ければそういう自分でしかないが、何かをやろうという信念が勝れば何かをやることができるという話で、なるほどうまいことを言うなと思った。

このシリーズを何冊か読んできたが、ようやく少しずつこの著者の世界像が見えてきたように思う。朝目が覚めて布団の中でうつらうつら自分の昔のことを振り返っていて、「クワドラント」や「トライアングル」に当てはめて自分の人生を考え直してみるといろいろと面白く感じることが多かった。何かを物にするということはそれによって自分が動くところまでいって初めてものにできたということなわけだから、学んだことを自分の人生に落として考えてみなければあまり意味がない。そうやって見てはじめてその考え方の妥当性のようなものが見えてくるのだと思う。そうやって見ると、自分の生きてきた過程を再評価することができたし、それはそれでああこういうことだったんだなあと思うことも多い。単なる金儲け指南というよりも、人生をお金の面から考え直すカウンセリングというかアドバイジングというふうに考えた方がこのシリーズの趣旨に近いのだなと思う。

小説や学問が「言葉」というメディアを使ったアートであるとしたら、ビジネスというのは「お金」というメディア――お金は明らかに交換や価値の蓄積のための媒体=メディアだ――を使ったアートなんだなと思う。そしてその集積が世界経済であるとしたら、ほとんど世界中すべての人がそれに参加していることになる。そんなふうに考えてみるととても面白いなと思った。読了。

『体運動の構造 第二巻』は主に「引き締め」の話。第一巻が「弛め」の話だったから、二つの巻で野口整体の全体的な考えがわかるようになっている、という感じだ。いわゆる健康法というのはどうしても「鍛える」ということが先に立ってしまうけれども、「弛める」ということをまずやるということが野口整体のポイントなのだということがだんだん分って来た。日本人は引き締めとかきちんとやることが得意だがだらだらすることはどちらかというと得意ではない。だから「弛める」ということをまず先にやるというのは実は非常に日本人にあったやり方なんだろうと思った。

日本人とアメリカ人の関心事を比べてみても、休暇のときにアメリカ人のやることはダイビングだのサバイバルだの疲れそうなことばかりだが、日本人がやることはごろ寝だの温泉だの休めることばかりだし、家の中で重要なこともアメリカ人は気分を高揚させるようなことを重視し、日本人は風呂だのトイレだのいわばアメニティ空間にこだわる。ウォシュレットに高額をかける日本人の考え方が理解できないアメリカ人に「それ以外に何が出来るのか」と尋ねられて「便座が温まる」といったら大笑いされた、という話があったが、そういうことが大事な民族なのだ、要するに日本人は。それはつまり、それだけ「休める」ということがへたくそで神経を使わなければならないということなんだと思う。導引術の本を読んでいたときも、中国の導引はまずダイナミックな動き方からやるので難しく、それを日本では座ってやる方からやるように改良した、というのを読んだことがあるが、中国人にとってはダイナミックな方が実は簡単なのではないかという気もした。

李御寧が『縮み指向の日本人』という本を書いたが、この「縮み指向」というのは「引き締まり」というともっと実感に近いということなんだろうと思う。

『その時歴史が動いた』の「鉄は国家なり」は面白かった。鉄を国産化する過程に日本の技術力の向上の秘密があったという話は納得できるものがあった。日本人の技術力というものがこういう「引き締まり力」によって支えられているということを改めて感じた。


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本を読む生活

2007-02-21 16:29:21 | 読書ノート
『本を読む生活』に以下の二冊を追加しました。

吉田満『戦艦大和ノ最期』

梅原猛『天皇家の"ふるさと"日向を行く』
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『食べる西洋美術史』:女性ヌードの演出の仕方/食べることと生きることと死ぬこと

2007-02-21 15:32:11 | 読書ノート
昨日。朝はいろいろなことをやろうとしてかなりばたばたした。9時前に友人から電話があって20分くらいで切ろうと思っていたのについ1時間近く話し込んでしまったからだ。慌てていろいろ片付けて家を飛び出し、日本橋で降りて八重洲口へ。東京駅は工事が進んでいてつい自分の現在位置を見失ってしまい、かん違いしてJR東海のカウンターで特急の回数券を買ってしまったのでびゅうカードのポイントが3分の1になりますよといわれてしまった。急いでいるからいいです、といったものの本当はJR東日本のカウンターもすぐ近くにあったのだ。やはり時間には余裕を持って行動しないといけない。

いつものお弁当屋さんでお弁当を買って中央線に乗り、新宿で特急に乗り換える。車中では『食べる西洋美術史』を読み進める。

食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む

光文社

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面白かったのはマネの「草上の昼食」についての記述。私は今まで、黒い服を着た二人の男と裸の一人の女性が描かれているこの絵で、女性が裸なのは何の意味もなくぽおんと放り出されているのだと思っていた。だからスキャンダルになったと思っていたのだが、実は後に水浴から上がった薄い白い下着(シュミーズ?)のようなものを着た別の女性が描かれていて、つまりこの裸の女性は水浴びから上がったところだという状況設定が一応あるのだという。しかも、この絵は実は先行作品の下敷きがあるのだという。確認はしていないが、ジョルジョーネの「田園の奏楽」やラファエロの原画に基づくライモンディの版画「パリスの審判」がそれだという。「田園の奏楽」では森の精であるニンフと当時の服装(ルネサンス時代ということだな)をした男が二人ずつ牧歌的な田園で楽器を奏でているのだという。なるほどそれなら女性が裸でも違和感がないが、それはまた全体を夕暮れのような柔らかい光と影が包む、という「名画調」の演出がされているという条件も重要で、マネの場合は其の設定を19世紀の現在に持ち込み、ニンフを現実の女性に変え、しかも柔らかい明暗の階調をほとんど配してフラットな色面のような描き方をしたために、裸婦がものすごく現実的に見えて、それがスキャンダラスだったということらしい。

喩えが適切であるかどうかは判らないが、まあ言えば芸術映画における女性のヌードとアダルトビデオにおける女性のヌードの違いか。いや、AVにも違う意味での演出はあるからむしろ素人ビデオにおける女性のヌードとでもいえばいいか。つまり演出的なライティングがしてない状態ということだ。

そしてそのように言われると、印象派の出現をもたらしたといわれるマネのこの絵の意味が非常によくわかってくる。「名画的な演出」を排し、「白日のもと」に「ありのまま」の光を描くというのは非常に挑戦的な手法だったのだ。

ルノワールの「舟遊びたちの昼食」についての記述も興味深い。おしゃれな男女の織り成す華麗な雰囲気を描くことが目的、といわれると、なんと言うか「名画」としてこういう作品を見る視線のようなものが馬鹿馬鹿しい感じがしてくる。つまりは現代で言えばファッション映画のようなもので、と言っても私が思い出すのはオードリー・ヘプバーンとフレッド・アステアが主演の『パリの恋人』(Funny Face)だが、ああなんだか素敵だねといっていればいいものなのだ。そしてそれはつまりは風俗画ということで、見掛けは全然違うがブリューゲルとかのルネサンス期のにぎやかな楽しい絵の伝統と同じ線上にあるものなのだ。

いずれにしてもそこで扱われた食事というものが、「自然の中で行われても、たちまちそこを親密な場に変える」ものであり、「食事は人と人を結びつけるだけでなく、自然と人間を結びつける力を持っているのだ」という指摘は頷ける。「印象派の画家たちが風景と人物、外交と人間の動作、自然と人為、田園と都会、伝統と現代風俗などを調和させる主題として、屋外の食事の情景を選んだのはごく自然なことであった。」というのはなるほどと思う。

そのほか断片的に。ドガの「アブサン」やホッパーの「ナイトホークス」に現れるドラマ性。何というか「名画」という視点を外してみるととても迫ってくるものがある。絵を見るときに自分の中にはあまりそういう教科書的というかお勉強的な視点はないつもりだったが、やっぱり結構あったんだなあと思う。まあ一定は仕方がないのだが、そういうものが外れて自由に見られるようになってくると、絵というものの魅力が倍加したような気がした。

ヨーロッパでは野菜が農民の食べ物として蔑視されていた、ということを昨日書いたが、そういう文脈で言うと現代のヴェジテリアンというものの存在は面白い。やはりヴェジテリアンというのには権威に反発する姿勢というものが基本的にあるのだと判る。もちろん60年代に流行した「インド」の、菜食主義のようなきっかけはあるにしても。単なるヘルシー指向とは違う、まあある意味でのイデオロギーなのだ。食べ物に関するイデオロギーであるだけに人間の体に物理的な影響を及ぼすけれども。

ピカソにおけるパンのエピソード、スーチンにおける肉のエピソードも面白いが、スーチンが肉を買ってきていつもそれを腐るまで描きつづけたために悪臭を放って警察に通報されたというエピソードは笑う。そういうアーチストは魅力的だが回りは大変だ。

日本の「ムカサリ絵馬」。若くして死んだ息子や娘たちのために、亡くなった子供たちの存在しなかった結婚式の状況を描き、それが奉納された絵馬である。一番描かれたのは戦中戦後である。戦地で結婚できずに死んだ息子たちのために、多くの絵馬が奉納されたのだ。これは靖国神社に多数奉納されている「花嫁人形」と同じなのだ。老いるまでの人生を全うできずに亡くなった若者たちの無念を慰める老いた親たちの思いがそこにある。彼らのために何が出来るのか。子孫なくして死んだ若者たちを祭り、霊を慰めることの痛切な意味がそこにある。それが鎮魂の霊場としての靖国神社や護国神社の意味にもつながる。

円谷幸吉の遺書。久しぶりに読んだがやはり泣いた。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、餅も美味しゅうございました。」で始まり、延々と食べ物の近親に対するお礼がつづられているあの遺書は、それ自体が円谷の「最後の晩餐」なのだ。「幸吉は疲れてしまって、もう走れません。」生きることが走ることであった円谷が、走れなくなったということは生きられなくなったということであり、近親の愛情と食べ物への素朴な感謝の気持ちを表明して死んでいった円谷の死は、とてつもなく悲しいものでありながらある種の幸福さえ感じさせる。人間が生きることの意味、死ぬことの意味が、食べることといかに関わっているか。

結局は、この本の主題はそのことだったのだなと思う。著者はこの本の執筆中までは相当なグルメであったそうだが、脱稿後に膵臓を壊して入院し、「入院していた下町のすさんだ病院で、死と食が混在するような阿鼻叫喚を見聞して」、「退院後は、酒、タバコはもちろん、大好きだった脂っこい食べ物や激辛料理を絶たなければならなくなり、根本的に自分の食生活を見直す必要に迫られた」のだという。その経験を経てこの本の内容も相当書き換えたそうで、そういう意味では著者が文字通り身を削って書いた本だなと思った。そしてそういう本には必ずある渾身の気迫が、この本にもこめられるいると思う。読了。

帰郷後、午後から夜にかけて仕事。あまり忙しくはなかったが、こまごまといろいろあった。夜と朝と、何度かダイアルアップで接続してみたがうまく接続できない。朝更新したのだが接続できず、結局早めに職場に出てきた午後になってようやく接続できた。

ジャストシステムがブログサービスを開始。xfy Blog Editorというのが使えるそうだ。これはジャストブログだけでなくムーバブルタイプやほかのいくつかのブログサービスでも使えるのだという。まだ使っていないが、こういう開発者系のサービスは先が楽しみだ。
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