昨日。お昼の特急で帰郷。どうも疲れが出ていて調整が難しい。特に腕とか指とかを酷使しすぎてるんだなと思う。体調が悪いときに整体的な調整を自分でしようと思っても、結局は自分の手に頼っているわけだから、手の休まるときがなくなってしまう。手を意識的に休める工夫をしないといけないと思う。現代文明において、目と腕を休めるのが一番難しいなと改めて思う。
車中ではほとんど寝ていた。ときどき『カスタマイジング・ズープス』を読む程度。信州は暖かい。日中など、下手をすれば東京より暖かいのではないかと思うときもある。
昼から夜にかけて仕事。それなりに意味があるなあと思うことが出来たのでよかった。夜は早めに就寝したが、今朝目が覚めたら7時を過ぎていた。どうも判りにくいのだが、低潮期なのかもしれない。おきてから、近くのセブンイレブンにスーパージャンプを買いに行く。今回楽しみにしていたのは『王様の仕立て屋』だが、なかなかうまくきれいにまとまっていた。ただまとまりすぎて作者自身としてはちょっと妙な不完全燃焼感が残ったのではないかという気がしないでもない。『ゼロ』はなかなかよかった。巻頭カラーだけのことはあった。後は『オサムシ教授の事件簿』『男塾』『銀のアンカー』『警視庁美人局』『NEWSMAN』も良し。『女王陛下の紅茶』は薀蓄系の読みきりだが、割といいかも。連載陣がだいぶ変わってきて、SJの雰囲気もだいぶ変わってきた感じ。『王様の仕立て屋』の今後の展開が楽しみ。
芸と人格の分離の話の続きだが、どちらにしてもその魅力に対して人が集まってくるけれども、芸と人格が分離できるタイプなら、その分離された芸だけを継承していくことが出来る。創始者とその弟子とでは格が違うから相当な努力が必要だしその努力の過程で芸の本質が変わってしまうことも無きにしも非ずだが、人格と分離できる芸はいわば芸人とは別個のパーツであるわけだから、そのパーツをコピーすることは不可能ではない。
一方、芸と人格が分離できないタイプでは、その芸なり人格なりを慕って弟子が集まるということはあっても、芸の部分だけでは不完全だし、かといって人格を受け継ぐということは不可能だから、その芸が流派をなすということは難しいということになる。流れの中に屹立して存在する偉大な芸人(それは作家でも学者でもおそらく同じだ)が流派を形成することなく存在せざるを得ない理由の内の一つには、そういうことがあるのではないかと思う。
そのほか芸と人格の関係について考えられることはたくさんあるが、この話は考えていくと深いものがある。ある団体のことについて考えていて、技術(つまり芸)として分離できる部分と人格に依存せざるを得ない部分をどのように持っていけばいいかということについて、その団体はけっこううまくやっているのではないかという気がする。芸は芸として非常にラジカルなものになりすぎる可能性もあるが、かろうじて演者の人格によってその暴走が食い止められている場合もある。人格が弱いとそれが食い止められず演者の人格を破壊する場合すらあるが、逆に強い(あるいは鈍感な)人格の持ち主が芸を自己展開させすぎてどこまでも暴走させてしまうこともあるわけで、芸と人格というものは付かず離れずである必要があると思う。
最近「残酷さ」ということについて考えていることがあるのだが、どうもなかなか展開しない。残酷といってもホラー系の話ではなく、よく「女は残酷だ」といわれるような残酷さのことだが。それはまあ、何かをスパっと断ち切ってしまうときの断ち切り方が男と女とでは違って、女の断ち切り方が男には残酷に見えるということなんだと思う。残酷ってなんだろう。
車中ではほとんど寝ていた。ときどき『カスタマイジング・ズープス』を読む程度。信州は暖かい。日中など、下手をすれば東京より暖かいのではないかと思うときもある。
昼から夜にかけて仕事。それなりに意味があるなあと思うことが出来たのでよかった。夜は早めに就寝したが、今朝目が覚めたら7時を過ぎていた。どうも判りにくいのだが、低潮期なのかもしれない。おきてから、近くのセブンイレブンにスーパージャンプを買いに行く。今回楽しみにしていたのは『王様の仕立て屋』だが、なかなかうまくきれいにまとまっていた。ただまとまりすぎて作者自身としてはちょっと妙な不完全燃焼感が残ったのではないかという気がしないでもない。『ゼロ』はなかなかよかった。巻頭カラーだけのことはあった。後は『オサムシ教授の事件簿』『男塾』『銀のアンカー』『警視庁美人局』『NEWSMAN』も良し。『女王陛下の紅茶』は薀蓄系の読みきりだが、割といいかも。連載陣がだいぶ変わってきて、SJの雰囲気もだいぶ変わってきた感じ。『王様の仕立て屋』の今後の展開が楽しみ。
芸と人格の分離の話の続きだが、どちらにしてもその魅力に対して人が集まってくるけれども、芸と人格が分離できるタイプなら、その分離された芸だけを継承していくことが出来る。創始者とその弟子とでは格が違うから相当な努力が必要だしその努力の過程で芸の本質が変わってしまうことも無きにしも非ずだが、人格と分離できる芸はいわば芸人とは別個のパーツであるわけだから、そのパーツをコピーすることは不可能ではない。
一方、芸と人格が分離できないタイプでは、その芸なり人格なりを慕って弟子が集まるということはあっても、芸の部分だけでは不完全だし、かといって人格を受け継ぐということは不可能だから、その芸が流派をなすということは難しいということになる。流れの中に屹立して存在する偉大な芸人(それは作家でも学者でもおそらく同じだ)が流派を形成することなく存在せざるを得ない理由の内の一つには、そういうことがあるのではないかと思う。
そのほか芸と人格の関係について考えられることはたくさんあるが、この話は考えていくと深いものがある。ある団体のことについて考えていて、技術(つまり芸)として分離できる部分と人格に依存せざるを得ない部分をどのように持っていけばいいかということについて、その団体はけっこううまくやっているのではないかという気がする。芸は芸として非常にラジカルなものになりすぎる可能性もあるが、かろうじて演者の人格によってその暴走が食い止められている場合もある。人格が弱いとそれが食い止められず演者の人格を破壊する場合すらあるが、逆に強い(あるいは鈍感な)人格の持ち主が芸を自己展開させすぎてどこまでも暴走させてしまうこともあるわけで、芸と人格というものは付かず離れずである必要があると思う。
最近「残酷さ」ということについて考えていることがあるのだが、どうもなかなか展開しない。残酷といってもホラー系の話ではなく、よく「女は残酷だ」といわれるような残酷さのことだが。それはまあ、何かをスパっと断ち切ってしまうときの断ち切り方が男と女とでは違って、女の断ち切り方が男には残酷に見えるということなんだと思う。残酷ってなんだろう。