Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

書店めぐり/無意識の暴虐さ

2006-02-14 08:14:07 | 読書ノート
昨日。ちょっと頭を使い過ぎのせいか、朦朧として記憶がはっきりしないところが多い。記憶がはっきりしない時間はおそらくプーシキンを読んでいたのだろうと想像はされる。ああ、だんだん思い出してきた。午前中は『ベストクラシック100』を聞きながらSAPIOを読んだりマンガを読んだりプーシキンを読んだりしていたのだ。「フィガロの結婚」序曲を何度も聴いたのは、前エントリーに書いた「モーツァルトとサリエーリ」を読んでいたせいだろう。

有り合わせで昼食を済ませ、出かける。「ボリス・ゴドゥノーフ」を読んでいて、ロマノフ朝以前のロシア史の基本的な知識が不足しているなと思ったからだ。とりあえずは山川出版社『世界歴史大系 ロシア史』だろう。丸の内丸善で見ると、ある。しかしついでなので神保町に足を伸ばし、古書でないか探す。ネットでは3巻ぞろいで11000円、とかいうのがあったが、第3巻は持っているのでそろいはちょっと。物色したが見つからず。河出の『プーシキン全集』、ますます欲しくなってきたのだが一誠堂だったか見かけたものは揃いで39900円。うーん、もっと安くで何とかならないものか。しかし、古書を物色しているといろいろな発見がある。以前探していたものが結構リーズナブルな値段であったりする。ついでにのぞいた岩波ブックセンターで大仏次郎『天皇の世紀』が軽装版で発売されているのには驚いた。1年前だったらたぶん買っただろう。1冊1800円で全10冊。

『ロシア史』は結局新刊で買うことにし、三省堂を見たあと東京堂へ。プーシキン関係の本を探すと何冊か見つかる。いくつか大型書店を回ったが、他では見かけなかった本が何冊かあったので、その品揃えに敬意を表してここで『ロシア史』とシニャーフスキイ『プーシキンとの散歩』(群像社、2001)を購入。どこで買ってもよい本は、なるべくお世話になった書店で買いたいもの。

1階の雑誌コーナーで『新潮』の蓮実重彦と古井由吉の対談を読む。蓮実の「語り」が『ユリイカ』での語りと全く違うのが面白い。蓮実という人が学者や学生を相手にしないとき、つまり一般の社会人を相手にするときいったいどんな語り口で語るのか、ということに興味があった。東大総長などをやっていたのだから、ずいぶん行政関係者や企業関係者と会う機会もあったはずだ。そのときにエクリチュール云々、なんてことは言ってられないわけだ。しかし『新潮』での平易な語りは返ってこの人が「知の巨人」なのだなということを強く感じさせる。私は基本的にはジャーゴン満載(いや専門用語というべきなのだが)の語りはあまり好きではない。専門用語の羅列だとなんだか分かった気にされてしまうのだが本当にわかってるのかなと自問自答してしまうときがある。分かりやすく語ってもその本質が変わらないと言うのが本物の知性なのだと思う。

帰ってきてSAPIOなどを少し読んだり。青木直人「「小平の南巡」をなぞらされた金正日「叩頭外交」の屈辱」を読むと、北朝鮮で中国の経済植民地化が進行しつつあるさまがよくわかる。今回の金正日の訪中は外務省でなく党が仕切ったのだという。また茂山鉄鉱山、恵山銅鉱山などの開発権を獲得したり資本が進出したり、羅津港を租借したり(この表現は正しいのか?)したりしている。またソ連の原爆の原料となった北朝鮮のウラン鉱山にも食指を伸ばしているとのことで、中国の工業製品が北朝鮮を席巻しているのはもとより、資源面でも既に相当首根っこを握られているようだ。日本が実質的に貿易を絞って以来、中国への傾斜は相当強くなっていると思ってはいたが、既にほとんど生命線を握っている状態のように思える。この状態と拉致に対する経済制裁についてどう考えるかは難しいが、いずれにしても政権崩壊まで本質的な進展は見られないだろう。ただその崩壊後、南北の統一ではなく中国による実質的吸収合併になることを韓国などは恐れているのではないかと思う。日本にとっても、自由主義圏の韓国に併合される方がまだ真相は明らかにしやすいだろうとは思うが。

地下鉄の中などで『ロシア怪談集』を少し読む。ソログープ「光と影」は影絵遊びに熱中してしまうあまり影が実在するという想念にとらえられ、精神が崩壊してしまう母子の話で、非常に近代都市中産階級的なストーリーが返って怖い。

寝る前に買ってきた本に少し目を通し、『プーシキン全集』第4巻の「ピョートル大帝の黒奴」も読み始めるが途中で首筋が痛くなってきて断念。ちょっと読みすぎだ。寝る。

夜中は夢でうなされる。昔別れた女性の家族との修羅場、という実際にはなかった悪夢を見る。ずいぶん寝汗をかいた。夜明け前に布団の中でぼおっとしていると次から次へと想念が立ち上ってくる。この状態は久しぶりだ。夜明け前の寝床の中で思い浮かんだことがヒントになるということが私にはよくあるのだが、今日もいろいろ思いついた。主に「光と影」について思ったことだが、影絵遊びの面白さにとらえられるとほかのことは何も手につかなくなり、無意識から立ち上ってくる何かに突き動かされて影の方が実在のように思えてしまう。「こわさ」というのはそういういわば「無意識の暴虐さ」に突き動かされて不安定になってしまう日常性、というようなものだなと思う。これをバーチャルリアリティにはまりすぎて現実感を失う、という言い古された言い方で表現しても面白くもなんともない。「暴虐な無意識」といかに付き合っていくか。






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「モーツァルトとサリエーリ」「石の客」ほか

2006-02-14 06:10:41 | 読書ノート
『プーシキン全集 3』を読み続ける。

「モーツァルトとサリエーリ」。これはいうまでもなく、映画にもなった舞台「アマデウス」の原作と同様、サリエーリがモーツァルトを暗殺した、という「噂」をもとにした作品である。モーツァルトが死んだのが1791年、サリエーリが死んだのが1825年、プーシキンの構想は1826年に始まり1830年に作品化されたというから、約40年前、ほぼ一世代前の話である。今で言えば、68年の学生運動の高揚時のエピソード、のようなものだ。そう考えるとドキュメンタリー色も感じられる。

内容はモーツァルトの才能に嫉妬を感じたサリエーリが食事の際にモーツァルトのシャンパンに毒を盛る、という割合単純な話だが、モーツァルトの「聖なる無頓着さ」が面白いし、一番印象に残るのは冒頭のサリエーリの「人は皆、地上に正義はない、と言う。/しかし、天上にとて、正義はない。私にとって、/それは、単純な音階のように、明確なことだ。」という台詞がかっこいい。これは近代人の意識といっていいものだろうが、それよりもそう言い切る強さの格好よさが、プーシキンの本質のように感じられる。スターリンがプーシキンを愛読したらしいことはジョークなどで出てくるが、スターリンが好きだというのも分かる気がする。

「石の客」。これも題名から一見して想像がつくように、ドン・フアンものである。ドン・ジョヴァンニからの引用が題銘にあり、前の作品とモーツァルトつながりになる。この中で自分の殺した騎士団長の未亡人、ドーニャ・アンナに魅かれるドン・フアンが「あんな未亡人ようの黒いヴェールを被っているんだから。細やかなかかとがほんのちょっぴり見えただけだ。」というと下僕のレポレーリョが「旦那さまにはそれで十分でございましょう。旦那さまは想像力がおありだから、一瞬のうちに残りの部分を書き足しておしまいになる。旦那さまの想像力は絵描きよりも俊敏ですからな。」と答えるくだりは愉しい。

ドン・フアンのかつての恋人ラウラが騎士団長の弟・ドン・カルロスを誘惑するときの「暖かい空気はそよとも動かず、夜はレモンと月桂樹の香りがするわ。」という台詞のポエジーも素晴らしい。またそこに侵入してきたドン・フアンがドン・カルロスを倒し、あっという間にドン・フアンに媚態を見せるラウラに「正直に言いなさい。ぼくの留守のあいだに、何回ぼくを裏切ったか?」「それじゃあ、あなたはどうなの、道楽者さん?」「さあ、言えよ…いや、その話はあとにしよう。」という第二場の切りもぞくぞくするほどいい。

訳者・解説者の栗原茂郎氏は「ドン・フワンは、きわめて情熱的ではあるが、打算的なところがなく、誠実で、決断力のある、豪胆な人間として描かれている。」と書かれているが、ちょっとそれは違うんじゃないか、褒め過ぎではないかという気がする。やはりプーシキンの描くドン・フアンも蕩児であることに違いはないんではないかなあ。

「ペスト流行時の酒盛り」。イギリスの詩人ウィルソンの『ペストの市』の一場面の翻案だと言う。主人公ワルシンガムの歌、「歓喜に酔える恍惚は 戦闘のさなかにあり/…ペストの息吹の中にあり。/死のきざしあるものはすべてみな/人のこころに言い知れぬ/ひそかな愉悦を秘むるなり」という自暴自棄的な、死を近しいもの、喜ばしいものと感じようとするある種の倒錯的、虚無的な内容は翻訳が雅文体であるせいもあり、ストレートには伝わってこなかった。しかし死の恐怖を前提としてみると、このような倒錯が起こることを想像することはそう難しくはない。

「ルサールカ」。貴族に捨てられた粉引きの娘がドニエプル川に身を投げ、水の精ルサールカの女王となって貴族に復讐するという話だが、未完。貴族に与えられた真珠のネックレスを蛇と見、嫉妬に悶えるところは「道成寺」を思わせるが、身ごもっていた娘、狂気に陥った父までその眷属として貴族への復讐に加勢させるところは道成寺とは大幅に異なる。水の精はギリシャでナイアード、フランスではオンディーヌだが、ロシアではルサールカというのだなと。解説によると若い娘が溺死するとルサールカになるそうで、旅人を美貌と歌声によって誘い込むと言う話はオデュッセイアのサイレーンのようだ。この話、コワイがなんだか好きだ。勧善懲悪ものだからか。

「騎士時代からの場面」。伝説的な火薬の発明者と言われる錬金術師・ベルトルト・シュヴァルツ神父やらファウストやらメフィストフェレスやらが出て来る賑やかな筋立てになると言う草案が残っているそうだが、未完。騎士になりたがる商人の放蕩息子フランツが家を飛び出し、貴族の下僕となるがそれにも失望し、一揆を試みるが失敗し、囚われの宴席で歌う「貧しき騎士」の歌が白眉だろう。これはドストエフスキー『白痴』にも引用されているそうだが、読んでないのでよくわからない。『白痴』を題材にしたズラウスキの『狂気の愛』は超ド感動したのだが。シネヴィヴァン六本木も今は無し。

これで全集第3巻読了。





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