Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

祖国を弁護する連中はいささか頭が単純だった

2006-02-16 14:01:30 | 読書ノート
昨日。仕事はいろいろと。頼まれたことや話し合いなどもあり。何だかんだと。

『プーシキン全集4』読みつづける。

「ゴリューヒノ村史話」プーシキンは「軽い冗談」が非常にうまい人だなと思う。軽口というのはややもするともたついて、読む時の快感が失われてしまうことが多いが、プーシキンの「語り」は疾走感があり、軽やかで、後味がよい。時折はさまれる小気味よい皮肉・警句は、本来文章というのはこうあるべき、という思いを強くさせる。韻文の束縛を脱したプーシキンの散文の疾走感は、音楽史でいえば「拍」の束縛を脱した軽やかなモーツァルトに似ている、のではないかと感じた。

「ロスラーブレフ」。祖国戦争(ナポレオンのモスクワ遠征)直前の貴族たちの「祖国愛」に欠ける「鼻持ちならない」ありさまは、今の日本を思わせる。また「不幸なことに、祖国を弁護する連中はいささか頭が単純だった。したがってそういう連中は、相手のいい慰みものにされるのが関の山で、勢力といったらてんでなかったのである。」という言い方も苦笑いさせられる。社交界の話なのに本当に気持ちいいのは、心理描写がないからだろう。愛国心に燃える主人公ポリーナの様子を解説では「真の愛国心」を体現しているかのような書き方をしているが、私には熱情に燃えすぎていてちょっとどうかと思われるのだが。

***

実家の父の本棚で金子幸彦『ロシア文学案内』(岩波文庫別冊、1961)を見つけ、かなり集中して読み込む。しかし1961年という時代性を見事に反映して、ソヴェート・ロシア礼賛礼賛でいささか辟易する。フランス革命史のアルベール・ソブールのことを「なんというデカルト的明晰」と評した人がいたが、この著者もそういうところがあって、なんでもかんでも当時の思想に当てはめて正当化したり貶したりしているところが多い。相当我慢して読んだが、やはりうなされそうであった。しかしロシア文学史がコンパクトにまとまっているので事情を知るにはそう悪くない、我慢できれば。9世紀の「教会スラブ語」の成立から19世紀初頭のリアリズムの文学理論まで、とりあえず読み通したが頭が痺れて来た。やはりプーシキンを読んでるほうが楽しい。






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無人称性の回復/「現在を生きる」ことの困難さ/プーシキン「ピョートル大帝の黒奴」

2006-02-15 10:30:45 | 読書ノート
昨日帰郷。やはり『新潮』の蓮実の対談をしっかり読みたいと思い、丸の内丸善で購入。隣にあった『文学界』が映画特集で、蓮実がホウ・シャオシェンの映画について書いているのを立ち読み。「恋恋風塵」について、オマージュをあのように書けるのか、というのは目を開かされる思い。そのときは買わなかったのだが、やはり読みたくなってきた。しかし未入手。

特急の中で蓮実と古井由吉の対談を読む。古井の小説が無人称だ、ということを巡る話が主で、これは日本的な主語の曖昧さということではなく、西欧の人称のはっきりした小説(古井は、西欧の文学は「告発と弁明の文学」であって、人称の明瞭さは裁判における検事と弁護人の対立に由来すると見ている。その見方はうなずけるところがある。)においても、本来は無人称だったのではないか、その無人称性を回復するための実験としての小説だ、ということで、なかなか興味深い。

作品のテーマは「辻」ということで、そこに留まってもいけない、そこを通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない、という「辻」を書こうとした、それを象徴としてではなく、実在の場所を書いた、というのだが、私は読んでいて「辻」とは「現在」のことであり、「留まってもいけない、通り過ぎてもいけない、通り過ぎなくてもいけない」というのは「現在を生きる」ということなのだろうと思った。まあそういってしまうと身も蓋もない、ということかもしれないが、そういういわば現象学的?実存主義的?なことなのではないか。その読みが正しいかどうか、何しろ作品を読まずに判断するのは愚昧の極みであるから判断は出来ないが。

蓮実が「読了するということははしたないことのように思える」というのも同じようなことだろう。どんな作品でも、何度も読むに値する作品であればなおさら、数年あるいは数十年経って読み直してみると最初に読んだときとは全く違う印象を受けることがある。蓮実は「辻」の印象を「読み終えなかったという実感が強い」と言っているが、それはおそらく「現在を生きる」ということの困難さ、不可能さを現しているのではないか…と愚昧の上塗りをしてみる。テーマとしては実に面白いし、人として生きたことのある人なら誰でも何かしら感じることがあるという種類のことかもしれない。「辻」も、読む暇があったら読んでみたい。

プーシキン(全集4巻)を読み進む。

「ピョートル大帝の黒奴」。プーシキンの母方の曽祖父、エチオピア出身の黒人・イブラヒム・ガンニバルの伝記的小説。もともと人種的・民族的多様性のあるロシアとはいえ、黒人の貴族がおり、それがロシアの国民詩人の祖先であったというのはちょっと驚きである。レーニンがタタールの血を引いているとか、ラフマニノフが先祖にイスラム系の名、「ラフマーン」を持つものであるとか、ドイツ出身でロシア人の血統を全く引かない女性が皇帝になるなどする国ならではのことといえるだろう。しかしそれも、圧倒的な西欧化を進めたピョートル大帝時代ならではのことという側面もあるかと思う。

内容はピョートル大帝時代の宮廷絵巻という感じで、初めは欧化を学ぶために「摂政時代」のパリに派遣されていたイブラヒムが新都・ペテルブルクに「帰国」し、そこで近代化の途上で混沌とした熱きエネルギーに燃えるロシアを目撃する、という感じになっている。その象徴のものとして扱われているのが「夜会」で、わが国の鹿鳴館のありさまを思わせる。ロシアでは皇帝自らが罰則を科して出席を強要したと言うからその混乱振りはわが国の明治の比ではなかったかも知れない。ロシアの近代化と日本の近代化というのは相当共通点があると感じたが、私の不勉強の故だろう、その比較をした研究を読んだことがない。

それにしても、こうした混乱を極める改革を強引に推し進めたピョートルという皇帝に、プーシキンは強い共感を持ち、人間的な賛嘆を惜しまない。こうした改革の途上のアナーキーな熱気を愛したピョートルという皇帝の姿を、明確に、そして溌剌とした姿で描いている。プーシキンは日本でいえば、いわば「明治時代の文豪」なのだろう。ドストエフスキーやトルストイは、いわば大正時代の文豪とでもいえばよいのではないか。そういう時代的な比較も面白いように思う。

ストーリーも非常に面白いのだが、残念ながらこの散文小説は未完で、その後の展開をあれこれ想像してみるのも一興であろう。

「書簡体小説の断章」。これも未完の散文小説である。公爵家の養い子であったリーザがペテルブルクを辞去して祖母の所領に戻ったところを恋人ヴラディミルが追いかけてくる、といった設定だ。解説によると、この小説はのちの作品、「スペードの女王」などに流用されているというが、まあそういわれてみればそうだがという感じ。

ちょっと喉が腫れぼったい。風邪と言う実感もないので、花粉の影響だろうか。今年は飛散量は少ないという話だったはずだが。





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書店めぐり/無意識の暴虐さ

2006-02-14 08:14:07 | 読書ノート
昨日。ちょっと頭を使い過ぎのせいか、朦朧として記憶がはっきりしないところが多い。記憶がはっきりしない時間はおそらくプーシキンを読んでいたのだろうと想像はされる。ああ、だんだん思い出してきた。午前中は『ベストクラシック100』を聞きながらSAPIOを読んだりマンガを読んだりプーシキンを読んだりしていたのだ。「フィガロの結婚」序曲を何度も聴いたのは、前エントリーに書いた「モーツァルトとサリエーリ」を読んでいたせいだろう。

有り合わせで昼食を済ませ、出かける。「ボリス・ゴドゥノーフ」を読んでいて、ロマノフ朝以前のロシア史の基本的な知識が不足しているなと思ったからだ。とりあえずは山川出版社『世界歴史大系 ロシア史』だろう。丸の内丸善で見ると、ある。しかしついでなので神保町に足を伸ばし、古書でないか探す。ネットでは3巻ぞろいで11000円、とかいうのがあったが、第3巻は持っているのでそろいはちょっと。物色したが見つからず。河出の『プーシキン全集』、ますます欲しくなってきたのだが一誠堂だったか見かけたものは揃いで39900円。うーん、もっと安くで何とかならないものか。しかし、古書を物色しているといろいろな発見がある。以前探していたものが結構リーズナブルな値段であったりする。ついでにのぞいた岩波ブックセンターで大仏次郎『天皇の世紀』が軽装版で発売されているのには驚いた。1年前だったらたぶん買っただろう。1冊1800円で全10冊。

『ロシア史』は結局新刊で買うことにし、三省堂を見たあと東京堂へ。プーシキン関係の本を探すと何冊か見つかる。いくつか大型書店を回ったが、他では見かけなかった本が何冊かあったので、その品揃えに敬意を表してここで『ロシア史』とシニャーフスキイ『プーシキンとの散歩』(群像社、2001)を購入。どこで買ってもよい本は、なるべくお世話になった書店で買いたいもの。

1階の雑誌コーナーで『新潮』の蓮実重彦と古井由吉の対談を読む。蓮実の「語り」が『ユリイカ』での語りと全く違うのが面白い。蓮実という人が学者や学生を相手にしないとき、つまり一般の社会人を相手にするときいったいどんな語り口で語るのか、ということに興味があった。東大総長などをやっていたのだから、ずいぶん行政関係者や企業関係者と会う機会もあったはずだ。そのときにエクリチュール云々、なんてことは言ってられないわけだ。しかし『新潮』での平易な語りは返ってこの人が「知の巨人」なのだなということを強く感じさせる。私は基本的にはジャーゴン満載(いや専門用語というべきなのだが)の語りはあまり好きではない。専門用語の羅列だとなんだか分かった気にされてしまうのだが本当にわかってるのかなと自問自答してしまうときがある。分かりやすく語ってもその本質が変わらないと言うのが本物の知性なのだと思う。

帰ってきてSAPIOなどを少し読んだり。青木直人「「小平の南巡」をなぞらされた金正日「叩頭外交」の屈辱」を読むと、北朝鮮で中国の経済植民地化が進行しつつあるさまがよくわかる。今回の金正日の訪中は外務省でなく党が仕切ったのだという。また茂山鉄鉱山、恵山銅鉱山などの開発権を獲得したり資本が進出したり、羅津港を租借したり(この表現は正しいのか?)したりしている。またソ連の原爆の原料となった北朝鮮のウラン鉱山にも食指を伸ばしているとのことで、中国の工業製品が北朝鮮を席巻しているのはもとより、資源面でも既に相当首根っこを握られているようだ。日本が実質的に貿易を絞って以来、中国への傾斜は相当強くなっていると思ってはいたが、既にほとんど生命線を握っている状態のように思える。この状態と拉致に対する経済制裁についてどう考えるかは難しいが、いずれにしても政権崩壊まで本質的な進展は見られないだろう。ただその崩壊後、南北の統一ではなく中国による実質的吸収合併になることを韓国などは恐れているのではないかと思う。日本にとっても、自由主義圏の韓国に併合される方がまだ真相は明らかにしやすいだろうとは思うが。

地下鉄の中などで『ロシア怪談集』を少し読む。ソログープ「光と影」は影絵遊びに熱中してしまうあまり影が実在するという想念にとらえられ、精神が崩壊してしまう母子の話で、非常に近代都市中産階級的なストーリーが返って怖い。

寝る前に買ってきた本に少し目を通し、『プーシキン全集』第4巻の「ピョートル大帝の黒奴」も読み始めるが途中で首筋が痛くなってきて断念。ちょっと読みすぎだ。寝る。

夜中は夢でうなされる。昔別れた女性の家族との修羅場、という実際にはなかった悪夢を見る。ずいぶん寝汗をかいた。夜明け前に布団の中でぼおっとしていると次から次へと想念が立ち上ってくる。この状態は久しぶりだ。夜明け前の寝床の中で思い浮かんだことがヒントになるということが私にはよくあるのだが、今日もいろいろ思いついた。主に「光と影」について思ったことだが、影絵遊びの面白さにとらえられるとほかのことは何も手につかなくなり、無意識から立ち上ってくる何かに突き動かされて影の方が実在のように思えてしまう。「こわさ」というのはそういういわば「無意識の暴虐さ」に突き動かされて不安定になってしまう日常性、というようなものだなと思う。これをバーチャルリアリティにはまりすぎて現実感を失う、という言い古された言い方で表現しても面白くもなんともない。「暴虐な無意識」といかに付き合っていくか。






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「モーツァルトとサリエーリ」「石の客」ほか

2006-02-14 06:10:41 | 読書ノート
『プーシキン全集 3』を読み続ける。

「モーツァルトとサリエーリ」。これはいうまでもなく、映画にもなった舞台「アマデウス」の原作と同様、サリエーリがモーツァルトを暗殺した、という「噂」をもとにした作品である。モーツァルトが死んだのが1791年、サリエーリが死んだのが1825年、プーシキンの構想は1826年に始まり1830年に作品化されたというから、約40年前、ほぼ一世代前の話である。今で言えば、68年の学生運動の高揚時のエピソード、のようなものだ。そう考えるとドキュメンタリー色も感じられる。

内容はモーツァルトの才能に嫉妬を感じたサリエーリが食事の際にモーツァルトのシャンパンに毒を盛る、という割合単純な話だが、モーツァルトの「聖なる無頓着さ」が面白いし、一番印象に残るのは冒頭のサリエーリの「人は皆、地上に正義はない、と言う。/しかし、天上にとて、正義はない。私にとって、/それは、単純な音階のように、明確なことだ。」という台詞がかっこいい。これは近代人の意識といっていいものだろうが、それよりもそう言い切る強さの格好よさが、プーシキンの本質のように感じられる。スターリンがプーシキンを愛読したらしいことはジョークなどで出てくるが、スターリンが好きだというのも分かる気がする。

「石の客」。これも題名から一見して想像がつくように、ドン・フアンものである。ドン・ジョヴァンニからの引用が題銘にあり、前の作品とモーツァルトつながりになる。この中で自分の殺した騎士団長の未亡人、ドーニャ・アンナに魅かれるドン・フアンが「あんな未亡人ようの黒いヴェールを被っているんだから。細やかなかかとがほんのちょっぴり見えただけだ。」というと下僕のレポレーリョが「旦那さまにはそれで十分でございましょう。旦那さまは想像力がおありだから、一瞬のうちに残りの部分を書き足しておしまいになる。旦那さまの想像力は絵描きよりも俊敏ですからな。」と答えるくだりは愉しい。

ドン・フアンのかつての恋人ラウラが騎士団長の弟・ドン・カルロスを誘惑するときの「暖かい空気はそよとも動かず、夜はレモンと月桂樹の香りがするわ。」という台詞のポエジーも素晴らしい。またそこに侵入してきたドン・フアンがドン・カルロスを倒し、あっという間にドン・フアンに媚態を見せるラウラに「正直に言いなさい。ぼくの留守のあいだに、何回ぼくを裏切ったか?」「それじゃあ、あなたはどうなの、道楽者さん?」「さあ、言えよ…いや、その話はあとにしよう。」という第二場の切りもぞくぞくするほどいい。

訳者・解説者の栗原茂郎氏は「ドン・フワンは、きわめて情熱的ではあるが、打算的なところがなく、誠実で、決断力のある、豪胆な人間として描かれている。」と書かれているが、ちょっとそれは違うんじゃないか、褒め過ぎではないかという気がする。やはりプーシキンの描くドン・フアンも蕩児であることに違いはないんではないかなあ。

「ペスト流行時の酒盛り」。イギリスの詩人ウィルソンの『ペストの市』の一場面の翻案だと言う。主人公ワルシンガムの歌、「歓喜に酔える恍惚は 戦闘のさなかにあり/…ペストの息吹の中にあり。/死のきざしあるものはすべてみな/人のこころに言い知れぬ/ひそかな愉悦を秘むるなり」という自暴自棄的な、死を近しいもの、喜ばしいものと感じようとするある種の倒錯的、虚無的な内容は翻訳が雅文体であるせいもあり、ストレートには伝わってこなかった。しかし死の恐怖を前提としてみると、このような倒錯が起こることを想像することはそう難しくはない。

「ルサールカ」。貴族に捨てられた粉引きの娘がドニエプル川に身を投げ、水の精ルサールカの女王となって貴族に復讐するという話だが、未完。貴族に与えられた真珠のネックレスを蛇と見、嫉妬に悶えるところは「道成寺」を思わせるが、身ごもっていた娘、狂気に陥った父までその眷属として貴族への復讐に加勢させるところは道成寺とは大幅に異なる。水の精はギリシャでナイアード、フランスではオンディーヌだが、ロシアではルサールカというのだなと。解説によると若い娘が溺死するとルサールカになるそうで、旅人を美貌と歌声によって誘い込むと言う話はオデュッセイアのサイレーンのようだ。この話、コワイがなんだか好きだ。勧善懲悪ものだからか。

「騎士時代からの場面」。伝説的な火薬の発明者と言われる錬金術師・ベルトルト・シュヴァルツ神父やらファウストやらメフィストフェレスやらが出て来る賑やかな筋立てになると言う草案が残っているそうだが、未完。騎士になりたがる商人の放蕩息子フランツが家を飛び出し、貴族の下僕となるがそれにも失望し、一揆を試みるが失敗し、囚われの宴席で歌う「貧しき騎士」の歌が白眉だろう。これはドストエフスキー『白痴』にも引用されているそうだが、読んでないのでよくわからない。『白痴』を題材にしたズラウスキの『狂気の愛』は超ド感動したのだが。シネヴィヴァン六本木も今は無し。

これで全集第3巻読了。





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ロシアの不幸/アメリカが成立させた強大なシーア派ブロック

2006-02-13 08:01:15 | 時事・海外
昨日。大仕事を終えてちょっとぼおっとした感じ。早く郵便を出そうと思ったのだがうだうだしていたらお昼ころになってしまった。深川局まで歩き、駅前の書店を物色したあと、地下鉄に。どこかに行こうかと思ったが思いなおして南砂町に出て、江東図書館で『プーシキン全集』の4巻を借りる。今読んでいる3巻がかなり順調に読んでいるのですぐ読み終えてしまいそうな感じだからだ。イオンの未来屋でSAPIOを買い、1階で昼食の買い物。米を買わなければ、と思ったが5キロを運ぶのは面倒。とりあえず帰宅して昼食。家の近辺を歩き回っただけだがこれで1時間以上かかった。

午後は時々思い出したように放送大学を見たりしながら(「鉄鋼産業の再編成」とか「21世紀の南北アメリカの展望」とか「文化人類学はどこから来たのか」とか「小スンダ列島の住まい・スンバ族」とか「文化人類学研究」とか。どれも断片的)プーシキン「ボリス・ゴドゥノーフ」を読む。誰も悪い人が出てこない話、というのが世の中にはあるが、誰もいい人が出てこない話、というのは結構珍しいのではないか。ラストのきり方とか、結構めちゃくちゃだなと思ったが、現代劇にみられる異化効果的な感じさえある。非常にシェークスピア的な結構で、人物の性格はよく書けている。何だろう、何というか、優雅でない、という感じがする。デカブリストの乱の直前の何か切迫した感じのようなものがこの劇にはある。歴史を動かすのは輿論、あるいは民衆だ、という主張がある。しかしこれを現実の「動乱」時代のロシアに当てはめると何か空恐ろしいものがある。

リューリク朝がイヴァン雷帝の子息フョードルの死により断絶し、その義兄に当たる摂政ボリス・ゴドゥノーフが皇帝となるが、フョードルの若い弟ドミトリー(ディミトリー)がボリスにより暗殺されたと言う史実・伝説がこの劇の下敷きになっている。そしてこのドミトリーを名乗る僭称者が現れ、ゴドゥノーフ朝を断絶させて帝位につく。まるで芝居のようだが、史実である。ロシア史上「偽ドミトリー」と呼ばれるこの皇帝の素性は全く分からない。カトリックのポーランドと結託した彼が殺されるとシューイスキーという貴族が帝位についたり、呆れることにドミトリーを名乗る人物が再び現れて「偽ドミトリー2世」と名乗ったり、ポーランド王ジグムント3世がロシアを支配したり。最終的にはポーランドを撃退した貴族たちがロマノフ朝を推戴するわけだが、このあたりは気持ち悪くなるような乱れ方である。この気持ちの悪さに突っ込んでいくプーシキンの筆がデカブリストの乱直前の予感のようなものとして不協和音的な緊張感を醸し出しているのかもしれない。ロシアは不幸な生い立ちをした子ども、のような感じがある。それももちろん日本人である筆者の感じ方なのだろうけれども。

この芝居の中にはさまざまな象徴的な場面があって、そのあたりを分析するのが好きな人はたくさんいそうだが、とりあえずはこの気持ち悪さをこの芝居の特徴としておきたいと思う。

続いて「吝嗇の騎士」を読む。これは中世フランスあたりが舞台なのだが、この男爵のケチぶり、守銭奴ぶりというか拝金者ぶりも物凄い。最後には主君の目の前で少しは金をまわせと要求する息子に決闘を申し込むという常軌を逸した行動に出て直後に発作で死ぬというもの。なんだか○○えもんと呼ばれる人物を思い出す。こうした人物造形はやはりプーシキン独特のものがあるように思う。

***

夜はNHKスペシャルで「シーア派台頭の衝撃」というのを見る。イラクのシーア派の指導者がフセイン時代はほとんどイランに亡命していたということは知らなかった。イランが積極的にイラクのシーア派に連帯を呼びかけているのは知っていたが、その関係の深さがそこまでだと言うことは知らなかった。総選挙の結果イラクにシーア派主導の政権が出来るとイランとはますます接近することになるだろう。フセイン時代に「見捨てられていた」シーア派地域のインフラの整備にイランは今積極的に援助・投資を行い、高校を建てたり橋を掛けたりしているのだという。あれだけアメリカと対立していても、やはり産油国であるイランは大国なのだと言う認識を新たにする。驚くほど近代的なテヘランの町の映像を見て驚く。

そして知らなかったが、クウェートからサウジアラビア、バーレーン、カタールにかけてのペルシャ湾南岸は、実はシーア派の住民が多数を占める地域なのだと言う。湾岸諸国と言えば王族の専制国家で穏健なスンニ派・親米の産油国という認識しかなかったが、民衆は違うのだ。これらの諸国にアメリカは圧力をかけて「民主化」を強要し、選挙を行って議会を開かせたが、その結果シーア派が政治にどんどん台頭していると言う。彼らはイラクのシスターニ師を精神的支柱としているそうで、そうなるとどんどんシーア派の国際連帯が強まり、精神的にはイラク・ナジャフのシスターニ師を、軍事的・政治的にはイランを中核としたペルシャ湾岸シーア派ブロックが強大な石油利権を持った形で成立していく可能性がある。

アメリカはパンドラの箱を開けた形だ。フセイン政権を倒し、湾岸諸国の専制を配すると言う無邪気な進歩思想の強大な軍事力を背景にした押し付け(これはGHQのやり方と構造的には全く同じだ)により、強権で抑えられていた原理主義的傾向の強いシーア派がもくもくと煙のように立ち上り、アメリカを脅かすことになりそうである。

結局、アメリカは単独行動主義に走るあまり、伝統的なバランス・オブ・パワーの政治学の研究を怠った、ということになるのではないか。逆に言えば、冷戦終結後の自ら=「唯一の超大国」の力を過信しすぎている、ということだろう。力は何も軍事的・経済的・政治的な力だけではない。宗教的な団結力というものの強さをアメリカは軽視しすぎたのだろう。それはアメリカの世俗意識の高さの故ではなく、ブッシュ政権自身の原理主義的・福音主義的な傾向の強さの故かもしれない。アメリカは「唯一の超大国」であり、「ベスト・アンド・ブライティスト」の頭脳集団であるのだろうが、世界を差配するには力不足であると言うことはますます明らかになっているのだろうと思う。






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建国記念日/社民党の先祖帰り/トリノ五輪開幕/プーシキンの民話

2006-02-12 08:54:40 | 読書ノート
昨日は建国記念日。神武創業の昔に思いをはせるのは考古学が古代史に取って代わられた世代の者としては困難なものがあるのだが、長く永く続く国のまほろばを心に描くだけで何か豊かになったような気持ちになれる。国への思いというのは日本の場合、何かそういう漠然とした豊かさのようなものが根底にあるべきなのではないかと最近思う。

推進派の集会では秋篠宮妃殿下の御懐妊を寿ぐ声が多く聞かれた。当然のことだろう。反対派の集会では、遠まわしの言い方ながら「天皇制廃止」とも受け取れる声がかなりあったようだ。こうした運動も支持者を失って、だんだん原理主義化してきているのではないか。共産党すら天皇・皇室を容認する方向に変化しているのに。ある種の先祖帰り現象か。

社民党大会が開かれ、かなり大きな綱領的な変更を行った。今まで容認していた自衛隊を「明らかに違憲状態」としたり、細川連立政権での小選挙区への賛成を「誤った判断」として反対したために除名した議員の名誉回復を行ったりと、明らかに原理主義的な政策変更をおこなっている。最近、社民党の議員がテレビなどで喋ってもその描こうとする世界観そのものが滑稽なくらい非現実的に思えることが多いのだが、ますます普通の人の目にはみえないところに行ってしまう感じがする。

その一方で、細川連立政権時の土井衆院議長、自社さ政権時の村山首相を名誉党首に推薦すると言うのだから何を考えているのか。村山首相は妥協・無能・無策の象徴とでもいうべきであったし、土井氏も拉致問題への冷淡さや北朝鮮との不適切な関係、秘書給与疑惑が指摘されるなど、どちらの面から見てもその名誉を称える要素などない。あるとしたら、お手盛りの仲間ぼめに過ぎまい。自民党の権力の次は名誉という我利我利亡者の縮小再生産的な真似をしていったい何が面白いのか。

結局は広い国民的視野を失って自分たちだけの見方でものを判断するようになり、現実感が全く失われているようにしか見えない。閉じられたサークルの中でお互いにホーリーネームを与え合って喜ぶようになったら政党としては終わりだろう。

私は賛成できないけれども、社会民主主義的な政党が日本に全く不必要だとは言い切れない。フェミニズムのような妙な方向に引っ張られてしまってわけのわからない集団になってしまっていたが、経済的自由の追求や伝統の中に活路を見出す以外の、それもまっとうな議論が出来る集団が一定勢力としていなければ日本の政治のバランスが崩れるとは思う。そうした国民の漠然とした不満を受け止める受け皿が社会民主主義であるのかどうかは世界的に見てももう判然としないのではあるが、ここでの先祖帰りは自滅を早め、選択肢の一つを完全に消滅させてしまうことにつながりかねないように思う。

***

トリノオリンピック開幕。ニュース映像で見ただけだが、開会式の様子はさすがオペラの国イタリアという感じで、ここ数回の開会式の面白くなさに比べてなんだかずっと見ていたら泣いたんじゃないかと思うような演出だった。競技は日本選手は不振のようだ。やはり伝統的な「やりにくさ」がヨーロッパにおいてはあるのかなと思う。特に冬季の種目は、ヨーロッパ人の、ヨーロッパ人による、ヨーロッパ人のための競技であるという色彩が強いから、それをヨーロッパで行えば目に見えない面で日本人には不利な面が多いのではないかという感じがする。選手団には頑張ってもらいたいのではあるが。

***

金曜夜帰京。土曜日はいつものように体調が悪く、一方で仕事が大量に残っていたので青息吐息で夜にようやく完成させる。あとは郵便局に行って郵送するだけだ。

***

しかし昼前に江東図書館に出かけ『プーシキン全集』の2巻を返して3巻を借りてくる。この巻は民話詩と劇詩。お目当ては劇詩の「ボリス・ゴドゥノーフ」であるが、先に民話詩のほうを読み、こちらの部分は読了。どれもこれも面白い。

「坊主とその下男バルダの話」は年に3回坊主のひたいをはじかせるのを条件に何でもやる下男の話で、なんだか魔法的な面白さ。しかしこれが聖職者批判ととられて生前は出版できなかったと言うのだからへぇと思う。「サルタン王と、その息子、ほまれ高い、たくましい勇士グヴィドン・サルターノヴィチ公と、まことに美しい白鳥の王女の話」は姦計に嵌められて追放される王妃と王子、あっという間に成長する勇者、言ったことが次々実現する面白さなど、非常に民話的な魅力に富む。ここに出てくる「海」はやはり黒海だろうな。南の温かい海への希求と豊かな貿易の記憶がこの話に反映しているように思う。プーシキンのこちらの部分はロシアの西欧への希求のようなものは全く出てこず、正教世界的・スラブ的・タタール的・イスラム的要素が強く感じられる。

「漁師と魚の話」は日本でもありそうな「舌切り雀」パターンのよいおじいさんと悪いおばあさんの話。おばあさんの「悪振り」が極端でいいし、また最後の落ちがぞくぞくするほど面白い。これが民話の魅力でありまた、勧善懲悪の魅力だよなあと思う。昔寝る前にダンテの『神曲』を読み、「悪いことをした」人たちが地獄で苦しめられているのを見ると不思議に落ち着いてすやすや寝られたものだが、そういうすっきり感のようなものが「勧善懲悪」ものの大きな魅力なのだろうと思う。それがソフィスティケート(あるいはアンソフィスティケート)されると水戸黄門の印籠になるんだろうが、あれはあんまり解放感がない。しかしあれを好きだと感じる人が感じるものもそういうものに近いのだろうなとは思う。それにしても、「赤いろうそくと人魚」ではないが、海の絡むこうした話はどうしてこう絶対的な「こわさ」を持つのだろうと思う。海に対する私の中にある畏敬の念が、そういうものに刺激されるのだろうか。

「死んだ王女と7人の勇士の話」。これはまるっきり白雪姫なのだが、王女の婚約者の王子が行方不明の王女を探して太陽に問いかけ、月に問いかけ、風に問いかける場面が非常にリリカルで気持ちがじわっとやわらかくなる。この話はとてもいい。

「金のにわとりの話」。これはリムスキー・コルサコフのオペラにもなっていたし、市川猿之助が演出したこともあった。私は観たこともないし読むのも初めてなのだが、非常に不思議なテイストの話で、魅力的である。奇妙に不条理なところがある。何の寓意なのか分からない不思議さが爾来議論を呼んできたようだが、それも話の面白さがあってのこと。そういう議論を読んだこと自体が作者としては会心であったに違いない。





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作者の死/プーシキン/ADHD治療薬

2006-02-10 08:32:46 | 読書ノート
昨日はよく仕事をしたという感じ。午前中から松本の方に出かけ、仕事の後いろいろ打ち合わせ。戻ってきてまた仕事。いくつも質の違う仕事が一杯入り、帰宅して夕食を食べたのはもうニュース10のスポーツコーナーが終わった後だった。しかしとりあえず松本に行く仕事は今季は終了。終わった終わったと自己確認。打ち上げるほどではないが、口に出すと終わったという実感が喜びとともに込み上げる。けりをつけたり切り替えるにはよく効くアクションである。

『ユリイカ』は小谷野敦氏の論考を読む。「作者の死」という概念が最初よくわからなかったが、つまりは作者の意図とかそういうものを考えずに作中に書かれたことだけから作中人物の心理の動きなどを考えるということだと理解していいのだろうか。つまり、作者がそれを書いた背景や意図などは一切考える必要がなく、どう読んでもいい、ということになろうか。「誤読の自由」という言葉があったが、それとどう違うのか。しかしそうなると例えば聖書に書かれたこと、コーランに書かれたことなどどんなに冒涜的な読み方をしてもいいということにもなって来そうだし、どんな文章からも読み手に好きな結論が引き出されるようになる気がしないでもない。作者というものにとらわれず作品だけを読んでそこから何かを引き出す、という原点に立ち返ればそういう読み方もあるかなと思うし面白い点もありそうには思うが、それに正当性と有効性がどのくらいあるのかはちょっと見当がつかない。文学理論というものにそうこだわりたいと思わないが、何かに行き当たったときには考えざるを得なくなるかもしれないなという予感もある。

『プーシキン全集』は「コロームナの家」を読了して第2巻の作品はすべて読了した。コロ-ムナの家は滑稽なテーマを詩の押韻技法を駆使して表現するといういわば超絶技法練習曲のようなものだが、このおおらかな滑稽さはプーシキンの大きな魅力の一つだと思う。現在は巻末の「解説」を読んでいるが、岩に染み入るように解説内容が沁み込んで来るのを感じるのは、私がこの分野で学ぶべきことがいくらでもあることを意味しているのだろうと思う。学ぶというのは楽しいことだと思う。

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もう10年位前のことだが、アメリカに行ったときにADHDの治療薬というものがあって、落ち着かない子供たちがそれを服用するだけで落ち着いて勉強も出来るようになるし、彼らにとっては福音なんだ、という話を聞いたことがある。当時はまだ日本ではLDやADHDについてあまり認識されていなくて、その両者の区別もつかない時代だった。今朝ネットでニュースを読んでいたら
その治療薬での死亡例が報道されていて
、やはり「いい」ばかりではないのだなと思う。薬を服用して「治療」するというのはいかにもアメリカ的な発想だなとは思うが、何か他の方法でそうした状態を改善できる手段が出て来るといいのだがな、と思う。

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アクセス解析を見ると、最近プーシキンがらみのヒットが多くなっているという印象を受ける。もしそういう検索でこのブログに行き当たった方がプーシキンに関するサイトやブログを持っていたらトラックバックやコメントを下さればありがたい。まだまだ私も勉強したいことが多い。

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銀世界

2006-02-09 07:54:16 | 雑記
昨日はよく勉強したという感じ。たまたまあった船井幸雄・副島隆彦『日本壊死』(ビジネス社)を一気に読了。面白い話は満載だがどこまで信頼度が高いかは私には判断しかねる。『ユリイカ』は石原千秋氏・渡部直己氏の論考を読む。いろいろ参考になる。ドイツ語を少し進める。プーシキンについていろいろ考える。

夜は、仕事を終えて帰ってくるころは少しだけ雪が降っていたが、寝るころにはもう銀世界になっていた。寝入りばなに久しぶりに足がつって大変だった。朝起きると真っ白で、あちこちで雪かきの音が聞こえる。空は晴れている。水道は凍結してないので、そんなに気温は低くないのだと思うが、もちろん零下ではあろう。どのくらい融けてくれるか。

先ほどからFMでビゼーのオペラをやっているが、なんだかポピュラーミュージックのようだ。ストーブに石油を給油。



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皇室典範問題/イスラムとユダヤの憎悪の応酬

2006-02-08 15:15:13 | 雑記
秋篠宮妃の御懐妊を受け、皇室典範問題についての首相の発言も柔軟化してきた。事実上今国会の提出見送りはまず決定的と見ていいだろう。淡雪の溶けていくようにいずことも知れぬところから湧出した策謀も消えつつある、という感じ。直前に女系容認論を打ち出した文藝春秋は二階に上がって梯子を外された感じだ。とりあえずすごすごと消えてもらいたい。邦家のためにまことに慶賀にたえない。

株式相場が急激に下落しているが何があったのだろうか。大証で商いに不具合があったのと、NYの不振、各企業の四半期決算があまり思わしくないこと、などが悪影響を及ぼしているか。

ムハンマド風刺漫画問題に関連して、イランではホロコーストをテーマにしたマンガを募集するとのこと。表現の自由というなら、ホロコーストも風刺していいはずだという論理なのだが、ムハンマド風刺を表現の自由の名のもとに容認するならこちらもタブーの傷口に火箸を当ててやる、というある種痛ましいまでの憎悪の応酬となってきた。イスラム社会においてイスラエルがどんなに憎悪の対象になっているかという峻厳な事実が思い起こされる。しかし西欧社会においてイスラム社会のイスラエル批判がアンチセミティズムと表現されているのには強い違和感をおぼえる。反セム主義はヨーロッパ社会での反ユダヤ主義を指す文脈で出てきたものであり、ホロコーストに至る反ユダヤ思想そのものであるが、現代イスラム社会における反ユダヤ主義はパレスチナを侵略したイスラエル国家に対する反発であることを忘れてはならないだろう。もちろんユダヤ人社会においては反ユダヤということで共通しているという括りも可能かもしれないが、客観的に見ればその政治的背景は全く異なる。イランなどのイスラエル攻撃を反セム主義として非難するのは西欧キリスト教社会が自らのホロコーストの罪をイスラム社会にも分担させようという意図の現れのように思える。少なくとも第三者であるわれわれはそこを混同すべきではない。

プーシキン「ポルタワ」読了。なんだかぼおっとしてしまう。北方戦争におけるウクライナの反乱と、それをめぐる人間模様。ピョートルの怒れるジュピターのような神がかった強靭な強さ。「戦争屋」スウェーデンの敗退。ロシアが我々の知っているロシアになる以前の神話的な時代。まるでヤマトタケルの物語を読むような壮大な叙事詩。すごい。




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プーシキンの南方幻想/秋篠宮紀子妃殿下御懐妊

2006-02-08 10:10:08 | 読書ノート
FMを聴いている。先ほどはストラヴィンスキー、今度はボロディン。この曲はなかなかいい。日記を書こうと昨日のことを思い出しているのだが、ずいぶん忙しかったせいか思い出せない部分がかなりある。そういえば朝は久しぶりに散歩をした。最近は朝明るくなるのがずいぶん早くなってきたので早く起きないのがもったいない感じだ。しかし寄る寝る前に近くなって新しいテーマが見つかることが多く、それを考えている昂奮してしまったり一通り考えてしまったりして寝るのがずいぶん遅くなってしまう。そういう状況のときはそんなに生産的なわけではないのだが、しかし生産的なこともかなり含まれているので、無駄には出来ない。

昨日帰郷。今回持参したのは『プーシキン全集』第2巻と『ユリイカ』2004年3月号のみ。他の荷物が多かったので最小限に絞る。東京駅で幸福弁当とかいうのを買う。考えてみればすごいネーミングだが、何も考えなかった。特急が新宿を出発し、中野あたりを過ぎるとだんだん線路脇が白くなっている。雪が降ったらしい。私のいる東京東部は全く降らなかったようだが、同じ東京でも西部に行くにつれてだんだん白さが増してきていた。雨と雪との境目が東京を通過したようである。

『プーシキン』は「バフチサライの泉」を読了し、「ジプシー」、「ヌーリン伯」も読了。「ポルタワ」に入っている。バフチサライというのはクリミア汗国の首都だそうで、登場するギレイというハーンの名は実際にキプチャク汗国から独立してクリミア汗国を統治していた王家の名であるようだ。グルジアの情熱的な女性とポーランドの清純な公女とギレイとのエピソードを作者が旧跡を巡って思いを馳せるという趣向で書かれている。プーシキンの南方幻想、西方幻想のようなものがよく表れていていいなと思う。改めてロシアという国が西にカトリックの西欧諸国、南にイスラム、タタール、東にシベリア、北にスウェーデンという、茫漠とした広大なイメージではあるが、強大なそれぞれ全く異なるイメージを結構するものに取り囲まれているのだなということがよくわかる。ロシアの幻想性というのはそういうものに育まれて生まれてきたのかもしれないと思う。

「ジプシー」もそうした南方幻想もの。メリメの「カルメン」と話が似ている部分が多いが、メリメがここから多くのものを得たのかもしれない。「ヌーリン伯」はフランスかぶれの馬鹿貴族を笑い者にする話し、と受け取っていいのだろうか。「ポルタワ」はピョートル大帝のスウェーデンとの戦い、つまり北方戦争の時の話だが、このときはポーランドやウクライナなどもさまざまな動きを見せていたということは知らなかった。ウクライナのゲトマン(統領)であるマゼッパのロシアに対する反乱が主題である。未読了。

『ユリイカ』はいろいろな人が論文作法に付いて語っているのを読む。石原千秋氏の文学畑の学生向けの事細かな語りは、文学というものがこのように研究されるものなのだということを教えてくれていて面白い。

***

午後から夜にかけて仕事。大きなニュースが飛び込んでくる。秋篠宮紀子妃殿下が御懐妊。待望の3番目のお子さまということで、皇室典範論議はこの際棚上げすべきであろうかと思う。

北朝鮮は日本で活動している脱北者7人を引き渡せと言ってきたようだ。もちろんそんなことは受け入れられるわけがない。小泉首相としては外交官のクラスとしては大物を起用して前進を図ったようだが、北朝鮮がそうした態度を変えない以上、協議の前進は難しいだろう。拉致被害者の無事の帰国まで、どうした手段が有り得るのか、もっとさまざまなやり方が検討できるのではないか。

それにしても、御懐妊のニュースは、深く垂れ込めた曇り空に青空がのぞき、そこから強い光が差し込んできたような、非常に明るい報せである。国民の気持ちが晴れやかになる大きなものを皇室が持っていることを、改めて明らかにしていただいたと思う。




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