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Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

マンガの感想を書き続けるということ

2014-04-07 14:35:52 | 私の考えていること
今日はどうも体調が今一つ。一昨日上京して、昨日は昼ごろ丸の内の方へは行ったのだけど、新しいものは買わなかった。土曜日の上京の際に新しい作品を開拓しようと思ってヤングジャンプを久しぶりに買って読んだら、自分が読み慣れているような感じの作品が皆無で驚いたのだけど、そこからなんとか『イノサン』(フランス革命時の死刑執行人が主人公)と『干物妹!うまるちゃん』の感想を書いた。うまるちゃんもイスラム教の二代目正統カリフ・ウマルと名前が同じだというネタを考え付いたので感想を書けたという面もある。

昨日はどうも体力的に消耗していたので早く寝て、今朝の更新のときに書くものがないなと思っていたのだけど、そういえば今は二十四節気で「清明」の時期だなと思い、そういえば『ギャラリーフェイク』に中国宋代の「清明上河図」を扱った作品があったなということを思い出して、『ギャラリーフェイク』について書くことにした。

起きて部屋の中の本棚を探し始めたのだが、なぜか『ギャラリーフェイク』が2冊しか出てこない。全32巻、持っているはずなのだが。田舎にも多少あることは理解しているが、30巻はなかったような。段ボールの中にしまってある分のマンガまでひっくり返して探したのだが、出てこなかった。

仕方ないので、出てきた2巻の中から感想を書くことにし、いくつか読んだのだけど、10巻の終わり3話をまとめた「ロンドン編」が面白いと思って、感想を書きながら読んだ。読んでいるうちに、この作品は名作だと思ったし、それだけではなく私はこの作品によって『テート・ギャラリー』とか『キュー・ガーデン』の存在を知ったのだという事実に気がついた。

『ギャラリーフェイク』は1992年から2005年まで『スピリッツ』に連載された作品で、この10巻は1996年に書かれた内容。私が34歳のときだ。仕事と私生活の両面でとうまくいかず苦労している時期で、日本全体も地下鉄サリンと阪神大震災の後、アジア通貨危機の前という社会全体がちょっと暗い感じの時期だった。

その中で何というかロンドンの描写は華やかで、テートやキューはああそんなところがこの地上にあるんだなという感じがした。私にとってこの作品は本当に大事な作品なんだなと改めて思った。

『ギャラリーフェイク』に関しては、この作品の中で村上隆らしき人物を偽物だと批判・糾弾していると取れる記述があり、その影響でマンガ界・おたく界から村上隆が総スカンを食ったという話があり、村上隆に同情したことからなんとなく敬遠する傾向が出てきて、でも最後まで全部買って読んだことは読んだのだけど、なんとなくこの作品を読む熱意のようなものは低減していたなと思う。

でも今日読みなおしてみて、やはり自分にとってこれは大事な作品なんだと思った。私は結構いろいろなことをマンガによって知っているということはあるので、マンガ自体を嫌いになったり敬遠したりするのは自分にとって不利益になる、ということはもっと自覚しないといけないと思った。

昼の更新は山岸凉子の『ヴィリ』について書いたが、これも少し読み返してみるとずいぶんしっかりした骨太の作品だった。

私は、私にとってマンガが大事だということは分かっているのに、自分自身がマンガだからと言って軽視してきたところがかなりあるなと思う。

マンガについての感想を書き続けるというのは、そういう意味で自分自身を確かめるということでもあるんだなと思う。

段ボールの中を掘り起こしてみたら、100巻近くの『あぶさん』とか、全60巻の『三国志』とか、100巻以上の『美味しんぼ』とかが平気で出てくるのだ。

辛い時、疲れたとき、面白くないとき、現実を直視したくないとき、またちょっとした暇つぶし、あるいは元気な時もそれを読んでさらに元気になったりして、新しい知識も入るし、マンガはいつも自分にとって身近にある自分活性剤だったなと思う。

マンガの感想を書き続けることは、それに対する感謝を述べるということでもあるんだなと今この文章を書いていて思ったのだった。
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眠りの浅さと眠る姿勢/今日は旧暦上巳の節句/普通の人として生きるのか、特別な人として生きるのか

2014-04-02 10:31:44 | 私の考えていること
【眠りの浅さと眠る態勢】

このところ忙しくて寝付きが悪い、というか朝方目が覚めてそのまま寝られなくなることがあるのだけど、今朝は枕を外してみて布団のなかで体を動かすようにしたらよくあくびが出てきてもう一度寝ることが出来た。枕をしていると、朝はきちんと起きられる感じになるが、逆に眠りが浅いときには外した方がいいのかもしれないと思う。


【今日は旧暦上巳の節句】

今日は旧暦の3月3日、雛祭りの日になる。実は桜田門外の変と言うのはこの日に起こっているので、よく描かれているように大雪だったと言うのはある意味異常気象なのだ。この辺り、長野県でも今年は雪が多かったのだけど、さすがに4月になってはそんなに雪が降るわけではない。それが江戸、東京で大雪だったのだからよっぽどのことなのだと思う。1860年は激動の年であったけど、気象的にも不順な時期だったのだろう。

【普通の人として生きるのか、特別な人として生きるのか】

自分が生きるときに、自分はどういうドラマを生きたいか、と言うことを考えると言うことが大事なんじゃないか、ということを先日書いたのだけど、このことを別の言い方をすると、「普通の人」として生きるのか、「特別の人」として生きるのか、と言うことでもあるのではないか。

普通の人、特別の人、と言ってもその差はどこにあるかというと、結局は自分の意識の問題で、また自覚の問題だと言うことになる。これはまたあとで詳しく書くが、自分が普通の人間だと思って生きていれば普通になるし、自分が特別な人間だと思って生きていれば特別な人間になるのだ。

私は普通の人間だと思っていたし、むしろ普通の人間として特別のことをやりたい、みたいな感じがあったのだけど、「自分はこうなりたい」と思う人間は、よく考えてみたら「特別の人間」かもしれない。

たとえば、注目を浴びる作家とか、ブログで巨大なアクセスを集めて強い影響力を持つような人間と言うのは、考えてみたら普通の人間とはいわないだろう。

自分は、自分がどうなっても自分だし自分でありたいと思っていると、今の自分が普通ならどんな風になっても自分は普通だろうと思っているのだけど、それは少なくとも人の目から見たら普通ではなくて特別な人になっているわけだ。

例えば私は基本的にみんなで仲良く明るく楽しく一つのムーブメントを作って行ければそれが最高に楽しいと思うタイプだなと思う。自分自身がウツ展開になるとそういうのが嫌になって遠ざかったりはするのだけど、自分の人当たりは基本がフレンドリーであって、楽しい中にも自然と親しき仲にも礼儀あり、的な雰囲気が好きだ。

先日『重版出来!』の2巻を読んでウツ展開のことを考えていて、確かにウツ展開と言うのは自分も含めて誰も得をしないと言うことを理解したこともあり、ウツ展開を排しながら、仲良く明るく楽しくフレンドリーに物事を展開して行くというのが基本だなと思う。

重版出来! 2 (ビッグコミックス)
松田奈緒子
小学館


だから私はブログやツイッターなどでも格好は付けているけど、基本的には明るく仲良く楽しくやり取りが出来るのが好きだし、そういう中で多くの人に読んでもらえるようになれるといいなと思っている。

しかしよく考えてみると、もしそれでブログで毎日数万のアクセスがあるとか、作家として強い影響力を持つと言う状態になったら、それは十分特別な、選ばれている状態なのだ。

私は自分が特別だと言う意識を持ちたいというわけでもないのだけど、ただたまたまいい大学に入ったこともあって、『特別だ』と「思われる」ことがけっこう楽だし得をする面が多いと言うことは知っている。

なんというのかな、「特別だ」というのは自分で意識するということよりも、人がそう見ることによって意味を生じることな訳で、「特別という状態」になっているという自覚は必要だ、ということだと思うし、それを目指すと言うことは、特別な状態を実現しようとしているのだ、という自覚は持たなければならないだろう。

自分が『特別な人間だ』という「自覚」を持つこと。

そして、そう考えてみると、「何かをやろうとしている、何かを実現しようとしている人間は、みな特別」なのだ。

近藤ようこ『五色の舟』で、両腕のない少年が両脚のない「父」のために走り続けているうちに、周りの人々がぎょっとして見つめる中、「特別の少年が特別の父のために走って行く」からみなが注目しているのだ、と誇らしく思う場面があった。

五色の舟 (ビームコミックス)
近藤ようこ
KADOKAWA/エンターブレイン


いろいろ考えていて、あの作品の一番大きなメッセージは、それかもしれないと思った。

そう思うと楽しくなる。

部屋の片付き具合と自己評価は関係がある、と言う話があるけれども、それはやはり部屋と言うのは自分自身を遇する場所な訳だから、『特別な私』を遇するためにはやはりきれいに片付いた、またあるいは特別感のある空間であることが必要になるわけだ。

なんか上手くまとまらないが、人が『こうなりたい』と言う夢を持つと言うことは、そういうドラマを生きたいと望むことであり、またそういう『特別の私』を目指すことでもある。自意識が過剰になるのもみっともないが、しかしそういうものを目指すと言うことは特別のことなのだ、と言う自覚は持つ必要がある。

特別だと言う「意識」が(よくない意味の)「プライド」で、特別だと言う「自覚」がいい意味での「誇り」だと言っていいかもしれない。

そういう意味でのプライドは人を傲慢にするが、いい意味での誇りは人を謙虚にするし、特別のことをなすための努力を惜しまない、ということになるだろう。

もっとまとめようとすればまとめられると思うが、今考えていることをなるべく正確に書くために、とりあえずこんな風に書いてみた。
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「ピーター・ラビット」の作者、ビアトリクス・ポターの伝記映画『ミス・ポター』を観た。

2014-03-31 14:14:46 | 私の考えていること
ミス・ポター [DVD]
角川映画


ビアトリクス・ポターの伝記映画『ミス・ポター』を観た。

この作品は2006年に公開された映画で、「ピーターラビット」シリーズの著者であり、湖水地方のナショナルトラスト運動の祖としても有名なビアトリクス・ポターを演じた主演のレニー・ゼルウィガーのコケトリのある演技が印象的だった。

この映画は、一言で言えば「愛する人を失った才能ある女性が再び生に向かって歩き出すまでの、死と再生の物語」ということになるのだと思う。

映画の舞台は1902年から始まる。1902年という年は日露戦争直前、日英同盟が結ばれた年だが、イギリス史の上から見るとヴィクトリア女王が前年に死去してエドワード7世が即位したばかりの時期だった。日本ではヴィクトリア時代のみが有名だが、重く古典的な、禁欲的な文化だったヴィクトリア時代に比べ、エドワード朝時代は短いものの明るく開放された雰囲気の、「古き良き時代」として思い出される時代だったのだという。そんな気分がこの映画にも表れていて、古い時代の道徳や人間の生き方に対するビアトリクスの両親たちのヴィクトリア朝的な考え方との対比がこの映画の一つの重要なモチーフになっているように思う。

ビアトリクスはいくつもの出版社に出版を依頼したがなかなか引き受けてくれるところがなかったのだけれども、ようやくウォーン社が出版を引き受けた。経験のなかった末弟のノーマン・ウォーンが引き受けたことによって、当時としては常識外れだった女性著者として印刷所に訪れるなどまでして満足のいく書籍に仕上げるなどの努力をした結果、彼女の著書『ピーターラビットのお話』はベストセラーになった。

以降も彼女の本の出版を続けるうち、ノーマンとビアトリクスは愛しあうようになるが、ビアトリクスの両親は結婚を許さない。苦慮した父親は、3か月の夏の保養期間が過ぎても気持ちが変わらなければ結婚してもよい、という妥協案を示す。ビアトリクスはそれを受け入れたのだが、その期間中にノーマンは病を得て亡くなってしまった。

生きる気力を失い、ロンドンの自邸の自室に籠るビアトリクスだったが、ノーマンの姉でビアトリクスの親友のミリーの励ましにより生きる力を取り戻し、湖水地方の農場を買って自活を始める。

そして開発業者に農場が蚕食されている現状を知ったビアトリクスは自ら農場を買い上げ、今まで通りに農民に暮らしてもらえるようにして、自然環境を守っていくという道を開いた。

役者として私が好きだったのは主演のビアトリクスを演じたレニー・ゼルウィガーなのだが、あとはウォーン社のノーマンの二人の兄が、イギリスっぽいというか、なんというかカフカの『変身』に出てくる三人の紳士のイメージを思い出して、可笑しかった。

風景的には、ロンドンの街中や屋敷の中のビアトリクスの部屋のイメージと、湖水地方の農場に引っ越した後の室内の素朴な家具、そして何より美しい風景との対比、また両親のヴィクトリア時代的な人生観とビアトリクスたち「新しい時代」の人生観の対比、生き生きと絵本を書き続けているときと恋人の死を知っての身も世もない落ち込み、また湖水地方に移転してからの生き生きとした生活の対比など、さまざまなところに印象が残った。

映画としては、イギリス的なユーモアを感じさせる部分と、アメリカ的なお約束的な無理やり感が感じられる部分があったのだけど、監督がオーストラリア出身で、制作会社がアメリカで、エグゼクティブ・プロデューサーがビアトリクスを演じたレニー・ゼルウィガー自身だということで、純粋なイギリス映画でもアメリカ映画でもなく、そのあたりからちょっとミクストされた感じになったのだろう。

この映画を見ながら、人はどういうドラマを生きるか自分で選択する部分と与えられる部分があるのだなあと思った。

ビアトリクスは才能のある女性で、でも男社会で正当に評価されない。そこにひょんなことから現れた編集・出版者ノーマンの出現により、望外の成功を収める。ノーマンの死はビアトリクスをロンドンから連れ出し、湖水地方の新しい生活の中でそこでの問題を見つけ、その解決のために果敢に取り組んでいくうちに、弁護士の新しい伴侶を得る。Wikipediaによるとノーマンがなくなったのは1905年(35歳)、弁護士・ウィリアム・ヒーリスと結婚したのは47歳とのことだが、ほぼ彼女の30代の話ということだろう。この映画の時点でレニー・ゼルウィガーは37歳だから、まさにその中心の時期になるということだろう。

ビアトリクスは「人と違っても自分の望みを果たすことを求めて生きる」というドラマを選んだわけだけど、図らずも「愛する人を失った才能ある女性の死と再生の物語」というドラマと、「成功した高名な財産ある女性」というドラマをも生きることになった。そしてそこにとどまることなく、さらに「自然と景観を守る」という人生をも生きたわけだから、すごい人であることは間違いない。

こうしたドラマ映画というものは、自分と同じような境遇を持つ人に対して共感しながら見ることもできるし、またそのドラマの向こうに多くの同じような境遇を持ちながら頑張っている人たちを見ることもできる。

どんなふうに行きたいか、どんな人生を選びたいのか、というのは、「自分がどんなドラマを生きるのか」という決意から始まるのだなと思う。

その先にどんなドラマが与えられるかはわからないが、生きるということは常に自分がどんな人間であるのかということを明確にすることが求められてくる。

ビアトリクス・ポターの人生は一つの明確なビジョンに基づき、運命の試練に耐えながら、自分が選んだドラマを生き抜いていった、稀に見る優れた、素晴らしい女性の人生だったということができるだろう。

どんなときにも、自分はどのようなドラマを生きるつもりなのか、そのビジョンを明確にしていなければならない。

この映画のことを思い出しながら、そんなことを思ったのだった。
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私のマンガに対する思い入れとか、本当に好きなものについて

2014-03-28 18:28:13 | 私の考えていること
今週買った本やマンガを振り返ってみると、23日に大河原遁『王様の仕立て屋』6巻、24日に松田奈緒子『重版出来!』1巻、岩波新書の『唐物の文化史』、25日に『重版出来!』2巻、『ビッグコミック』、26日に『月刊スピリッツ』、27日に『Dモーニング』『モーニング』『コミック乱』『リッツ・カールトン「型」から入る仕事術』、28日に『週刊漫画Times』『コミックゼロサム』5月号、『重版出来!』3巻。

マンガ雑誌が7冊(含む電子書籍)、マンガ単行本が4冊、一般書籍が新書で2冊、という内訳になった。普段から月末・週末にはマンガ雑誌を買うのだが、今月は『月刊スピリッツ』『コミック乱』という普段買わない雑誌を買ったのは大きいなと思う。やはりときどき新しい雑誌を買うことで、マンガの世界の流れを感じるのはいいことだし嬉しい感じがするなあと思う。

単行本は『重版出来!』に出会って3冊買ったのが大きいが、この作品には本当に出会えてよかった。自分のマンガに対する思い入れとか、仕事の仕方、物を書くときに陥りがちなこと(ウツ展開になりがちという弱点)に対する考え方、マンガに関してちょっと本気で取り組んでみようという気になってきたのは、このマンガを読んでマンガに関わる人たちの熱さのようなものを強く感じられたというのが大きいし、また作者の松田奈緒子さんがもともと文芸マンガを書いていて、そのあたりで私自身に訴えかけるものがすごくあったということが言えるんじゃないかと思う。

歴史とか政治とかあるいは文化面のことというのは、私にとってはかっこいいもので、憧れるものではあるのだけど、自分が関わって本当に充実するのは、もっと分かりやすいものなんじゃないかなと思った。

それは多分、そういうものの魅力とか面白さというものは感じることはできても、自分に本当に届くのはもっと違うものだなあと感じることが多いからなんだと思う。

たとえばファンタジーとか、たとえばマンガとかは、私は正面からその面白さ、魅力を受け入れられる感じがするのだけど、小説や文化的なものというのは何と言うか薄皮一枚隔てた感触があるというか、まあそれでも十分面白いとは思うのだけど、でもなんか足りない感じがする。

もちろんそういう世界の人の中でもこの人の書くことは本当に面白い、という人はいて、でもきっとそういう人はその世界の中ではわりとマンガみたいなものに近いというか、すごくシンプルで分かりやすい精神を持っている人なんだろうと思う。

ここ二三日ずっとマンガのことを書いていて感じるのは、私にも、なんだかんだ言って文化的なものを高く見て、マンガとか分かりやすいもの、シンプルなものを低く見る気持ちが強くあったんだなあということ。マンガのことばかり書いてて低俗に見られないだろうかとか、感じている自分がいるのに気づいてハッとするところがあった。

適当に、いろいろなことについて書いていると、マンガだってワンノブゼムだよ、という気持ちで楽なスタンスでいられるのだけど、マンガのことだけを書いているとなんか自分のポジションが脅かされている気がして来てしまう。

ポジションなんて言うほどのものがあるかどうかは別にして、私はどちらかというと高踏的に見られがちなのだけど、実際のところは必ずしもそうではなくて、分かりやすいものとかシンプルなものに本当は心ひかれるのだ。その分かりやすさに好き嫌いは当然、というかかなり、あることは確かだけど。

だからちょっとしばらく、マンガについてと、仕事の仕方とか仕事に対する考え方とか、ネットやガジェットに対するティップスというかライフハック的なものとか、生き方的なこととかスキル的なこととか、その方面の、あまり衒学的でない部分にちょっと絞って書いて言ったらいいかなと思っている。

いままでの例でいうと、そういうことをやっていると文化的なことが恋しくなってきてそういうものについてまた書き始めたりすることが多かったのだけど、今度もそうなるかどうか、ちょっとやってみないと分からない感じがする。


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ブログ名を変えて、地上に降りたというか、地に足がついた感じがする。

2014-03-11 10:13:46 | 私の考えていること
昨日はここのところ思っていた感じに従ってメインブログ名を変更したのだけど、考えてみたらこのブログは、2005年6月にここgooブログで書きはじめて、2007年の3月に独自ドメインを取って内容をインポートし、MTを使って書きはじめたのだから、通算で8年と9か月、この名前でブログを書き続けたことになる。

それだけこのブログは、居心地がよかったのだなと思う。

最初はアクセスカウントも取らないで(さくらインターネットからの情報はあったが、どうもバグが多い感じがしていた)ただ書いていたが、2009年の4月からは記録を残すようにした。2009年から2010年にかけては一日500前後のアクセスがあったが、私の更新の気分にむらがあったこともあって、2013年には月平均が200を切るくらいになってしまったのだけど、昨年の12月から思うところあって多ブログ展開を始め、いまは7つのブログをできるだけ更新するようにしている。

過去やっていてそのまま放置していたブログも、手を入れて動かそうかなと思っているのがいくつかある。

と書いて、もう忘れているIDやパスワードを調べていたらブログを書く時間が無くなってしまった。

私は1999年に初めてネットでホームページを作り、ウェブ日記を書きはじめ、いろいろなサイトを作ったのだけど、メインの日記は何度も作り直し、名前も変えていた。2005年まではそういう感じだったのだけど、それからずっとこの名前で通している。

メインブログやサイトでなんとかしようという気持ちは、2007年ごろからはあまりなくなって、しばらくの間小説の創作の方に力を入れてきたのだけど、やはり何かがまだ足りなかったのだろう、そちらの方はいくつか形になった作品はあるにはあるけど、ネット上で公開しているものと小冊子にしているものしかない。

昨年の秋ごろから少し考え方を変えて、先ずブログを充実させようということを考えたときに、メインブログがあまりに雑多な内容であるのが問題かもしれないと思い、専門分化させるために多ブログ展開を始めた。負担は増えたけれども、ある意味今までにない楽しさも感じるようになった。

「地上報告」という名前にしてみると、何というか地上に降りたというか、地に足がついた感じが出てきた。そのかわり、今まであまり感じなかった地上の空気のようなものもわかってきて、この地上に生きる人たちに何か必要なことで私の必要と一致するようなことが、たぶんあるなと思い、そういうことを書いていけたらいいんじゃないかと思った。

うまく書けないけど、そういうことを、いま感じている。
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今日はリセットの日/会計帳簿/iPhone機種変更/文芸マンガとリストの伝記/余裕のない東京と贅沢な東京

2014-03-11 00:48:31 | 私の考えていること
【今日はリセットの日】

今日はどうもいろいろなことのリセット日だったらしい。

いろいろ考えて、というか3月6日にメインブログの題名を変えることを思い立ったのだけど、それはつまり、ブログをちゃんと名刺代わりになるようにしようと思い立ったということなのだ。そうなると、先ず名前が重要だ。

名刺代わりにするということは、名刺を出したときに「○○のHotta」です、ということなわけだから、「Feel in my bonesのHottaです」というのはどうも言いにくい。英語だし横文字だし意味がすぐには分からない。「「地上報告」のHottaです。」と言えば、まあこれだってよくわからないと言えばよくわからないが日本語だし言葉の意味自体が分からないわけではないからなんとなく「地上報告のHottaさんね」と認識されるのではないかと思ったわけだ。

その意味で言うとほかのブログのブログ名も少し見直した方がいいなあとは思うのだけど、とりあえずはまずメインブログの名前が浸透するようにしたいと思う。

というようなことを3月5日に考え、一晩寝て起きて6日の啓蟄の日に『地上報告』という名前を思いついたのだ。

それでいろいろ英訳を考えて、「Terrestrial」という言葉にぴんときた。なんだかかっこいい響きだ。「地上」という言葉もいい言葉だと思うけど、terrestrialというのも、地球がTerraだし、天上に対する地上、つまり「現世」という意味もあるだろう。

この世界の森羅万象、と考えても、決してそれがすべてではない。目に見えない世界や知覚すらできない世界も存在している。仏教の三千世界で言えば、この地上はその中の一つに過ぎないともいえる。その中で人という存在は、けなげに生きているのだ。

そんな意味も込めて、この地上で生きている私が、この地上のことを、誰かに報告しようと思う。

この世界が、少しでもいい方向に歯車が回るように、及ばずながらものを書いていきたいと思う。

***

と、そういうことは考えていたのだけど、それはともかくいつも書いているブログが全然書けない、という以前に全然書く気が起こらなくて往生した。

ほんとうにリセット日だったんだなと思う。

【会計帳簿のつけ方】

お金の付け方、つまり会計帳簿の付け方をこれで行く、と方針を決めたり、また、いろいろ滞っていること、それが滞っているにはそれぞれ引っ掛かりがあるからなのだけど、その引っ掛かりを取り除いて、前に進むようにしようと決めたりした。

会計帳簿の付け方というのは簡単に言えば家計簿のことなのだが、去年はずっと手書きで複式簿記でやっていたのだけど、さすがにそれが大変になって、このコンピューター時代にもっと効率的に簡単に正確にできるはずだと思っていろいろとサービスやソフト、アプリを探していたのだけど、どうも自分の思うようなものがなくて困っていたのだが、自分でエクセル(ないしグーグルドライブのスプレッドシート)を使って作ればいいんだということに気がついたのだ。それもマクロなんて面倒なものをつくらなくても自分で出来る表計算の操作をするだけでちゃんと必要な帳票がつくれるということに気がついたのだ。

まだやり方を考えながら確立している途中なのだけど、これは結構自分には使いやすくできるのではないかと思う。どこかでそのやり方も公開できればいいなと思う。

【iPhoneの機種変更を迷う】

あと、引っかかっていたのはiPhoneの機種変更。今使っているのが4なので、5Sに変えると4で使っていたアクセサリが使えなくなる。4の端子が30ピンコネクタであるのに対し、5Sの端子はiPadなどとも共通したLightningコネクタだからだ。それに、中に入っている写真データの保存も困るなとか、いろいろそういうことを考えていたのだけど、iPhone4も最近動作が不安定になってきていて、またSoftBankからも下取りや機種変更のお知らせも来ているので、機種変更した方がいいと思い始めている。今確認したら下取りはもうかなり安くなってしまっているので、音楽用の端末としてとっておいた方がいいかなとも思うのだけど。

しかしこのままではずるずると言ってしまいそうなので、先ずコネクタのアダプタを探すことにした。

夕方出かけて家の裏のヤマダ電機に行ってみたが、見つからない。ちょっと用事があって西葛西に出かけ、そこから引き返して銀座に出て、アップルストアに行った。

純正なら何かあるだろうと思って探してみると見つかったのだが、30ピンの♀とLightningの♂の組み合わせでケーブルがついてるのは4080円もしてびびった。しかし純正だから仕方ないかと思い、購入。純正でなければどういうのがあるかなと有楽町のビックカメラに行くことにして、途中どこかでご飯を食べようと思って探した。

【文芸マンガとかリストの伝記とか】

歌 文芸ロマン (ホームコミックス)
松田奈緒子
ホーム社


その前に教文館に立ち寄って、何か読みたいものがあるかなと思って探す。マンガのコーナーにあった松田奈緒子『歌』(ホーム社、2013)。これは中原中也のエピソードや、芥川龍之介の小説を題材にした「文芸ロマン」マンガということらしい。面白いし、よくできている。

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)
浦久俊彦
新潮社


それから、浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』(新潮新書、2013)。ふざけた書名だが、中身は面白い。生涯ただ一人の師となったツェルニー(ベートーベンの弟子)との出会いが書かれたくだりは、『ピアノの森』でカイと阿字野先生の出会いを髣髴とさせる。決して豊かではないハンガリーの田舎町の家庭で育ったリストを、ウィーンの超有名なピアノ教師がその才能を見出し、育て上げたのだ。

「演奏は全く変則的で、不正確。運指法もでたらめで、指を勝手気ままに鍵盤の上に投げつけるのだった。それにもかかわらず私は、自然が彼の中に込めた才能に驚かされた。」ショパンは本当にほとんど独力の天才だったが、リストは厳格な教育を施す先生がいて初めて伝説の超絶技巧を身につけたというのもすごい話だなあと思う。

【余裕のない東京と贅沢な東京】

有楽町駅前の丸井の地下に何かあるかなと思って入って、牛タン定食を出す店があったのでそこに入って麦とろごはんで牛タンを食べた。なんというか若いお客さんが多いのに一人の客が男女とも多く、スマホとにらめっこしてご飯を食べている。そういう風景、丸善のカフェだと別に何とも思わないのに、丸井の地下だとなんだか凄いぎすぎすした風景に見えてしまうのはなぜなんだろうと思う。場の力というものは大きいなと思った。

ビッグカメラに行ってiPhoneアクセサリを探すが、自分の欲しいものは見つからなかった。まあ駅前の量販店だから仕方がないが、とにかく混んでいる。AppleStoreもそうだし、丸井の地下もそうだったけど、何というか「余裕のない若者(いや社会人も含めて30代くらいまでだともう若者という感覚なのだ)がごちゃごちゃたくさんいる」という雰囲気が、よく言えば新鮮、悪く言えば疲労度万倍という感じになって、いかに自分が普段「余裕のある空間」を選んで行動しているのかが逆にはっきりとわかってある意味すごく新鮮だった。

丸井に戻って、7階のツタヤ書店に行って本を見るが、エスカレーターで上がっていくと、やはりここも「余裕のない若者」のための店なんだなということがよく理解できた。こういう空間は、自分を癒しに来るところではなくて、ネタを探したり必要なものを買いに来たり、つまり仕事に来る空間なんだなと思う。最近は居れば癒されるというか、気分が落ち着いたり集中できたりする場所ばかりに東京ではいる傾向があったけど、何というかそういう形で自分を甘やかしていたから逆にフレッシュな感覚が刺激されてなかったんだなということが理解できた。

東京というのは、贅沢な空間は贅沢なのだけど、面白いビビッドなエネルギーが集まっているのはある意味若者向けのごちゃごちゃした空間だから、そこに行って面白さも不満も感じて来なければ、新しいエネルギーは得られないのだと思った。そういう空間にもっと果敢にチャレンジしていくことによって、新しいエネルギーを得て生きたいと思う。

【強欲は悪ではないが吝嗇は悪である】

一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (集英社新書)
内田樹・中田考
集英社


とはいえだいぶ考え過ぎていて癒しのエネルギーも必要だったので、山手線に乗って東京駅に出て、丸の内の丸善に行って本を物色した。やはりこのあたりはホームグラウンドなので、落ち着いた気分になれる。もう新しい本を買う気はなかったのだけど、結局イスラム教の話が面白そうだったので、内田樹・中田考『一神教と国家』(集英社新書、2014)を買った。

少し読みかけたけど、一番印象的だったのは、遊牧民文化に由来するイスラムと農耕民の社会からできた日本の違いという話で、イスラム世界では「強欲なのは悪ではないが、吝嗇なのは悪である」ということだった。日本では、もちろんいろいろな意味で鷹揚で気前がいい方が評価はされるにしても、吝嗇なのは仕方ないと思っても強欲なのは嫌われるし税務署に狙われるという感があるが、イスラム世界では逆なんだなということだった。100円の水を500円で売りつけるのはいいが、自分が飲んでる水をほかの人に分け与えないのは人間としてあり得ないのだという。だから、水のペットボトルに名前を書いている日本人が、「お前とは一緒に仕事はできない!」と怒鳴られたのだという。へえっと思うが、まあ昔は日本でもそんな感じだったなとは思った。

4階のカフェへ行って、そんなあたりを読みながら、カベルネのグラスで生ハムをつまんで窓の外の新幹線を眺めたりしていた。やはり結局、癒されるというのはこういうことなんだなと思った。
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常識に隠されたシステムは見つける気があれば見つからないこともない

2014-03-08 17:35:12 | 私の考えていること
昨日は『99%の人が知らないこの世界の秘密』が面白くてずいぶん盛り上がり、自分の気分もかなり明るくなったということを書いたのだけど、まあなんでもそうなのだけど、結局本を読んだりするときに一番大事なのはリテラシーの問題だ、ということを思う。

99%の人が知らないこの世界の秘密 にだまされるな!
内海聡
イースト・プレス


こういう本を嫌う人も多いけれども、それを嫌う理由というのは、『ウソ』が書いてあるから、ということらしい。「江戸しぐさ」が嫌われたのもそこだなと思うのだけど、まあ眉唾物でもそういうものだと認めた上で楽しむ、というのはできるし、それが余裕のある大人の楽しみかただ、と私などは思う。

エビデンス・ベーストの考え方が自分の思考法の根幹になっている人には、そこがなじめないのだろうなとは思うのだけど。

昨日も書いたようにこの本は陰謀論だと思うのだけど、陰謀論が主張することの一つ、「与えられた常識」とか「世間的に権威のある言説」にウソが多い、ということ自体は結構その通りだと思う。

現代語訳 論語 (岩波現代文庫)
宮崎市定
岩波書店


論語に「郷原は徳の賊なり」という言葉があるのだけど、つまり田舎の有力者みたいな人というのは、「鼻持ちならない偽物」だと東洋史学者の宮崎市定が訳していて、これはそうだと思う。つまり物事に対してラジカルな姿勢で臨まず、世間的な平穏を重視して何かを変えたいと思う人たちを抑圧しようとする傾向というのは、多かれ少なかれいろいろな人にある。常識というのは、彼らの武器として用意されたようなものだ。

また、この世界にはいろいろな「システム」があって、それが普通の人に対して抑圧的・破滅的に働き、「彼ら」の利益だけのために動いている、というと陰謀論になるが、世の中を動かしている「システム」というもの自体はもちろんあるわけ(国家とか市場とかをはじめとして)で、その上に「隠されたシステム」みたいなものがあってそれは多くの人には見えていない、ということもまあある程度本当だと思う。

でもそれは、見つければ見つけられないものでもない。だから「隠されている」というほどのことでもない気がする。ただ見つける気がなければ見つけられないだけで。

例えばDモーニングの対談で堀江貴文が言ってたことだけど、「東大」というものほど外から見たのと内から見たのとで見えかたが違うものも珍しい。入ってしまえばどうってことはないのだけど、外から見たら燦然と輝いている。つまり、入ってしまえばその時点である種の特権が与えられているに等しい。

ドラゴン桜(1) (モーニングKC (909))
三田紀房
講談社


堀江が言っていてまた私もそう思うのだけど、対談相手の「ドラゴン桜」の作者が言うように、本当は「東大は簡単だ」と言っていい部分がある。「常識」というのは、「東大は超難しいし特別の人しか受からない」ということで、それ自体がシステムの一部になっているから、東大生に無意識的な特権が与えられることになっているわけだ。

東大合格には方法があるわけで、その方法がつかめたら結構思ったより何とかなるものだ。というのが「ドラゴン桜」という作品の主張だが、つまりそれは「常識を破壊」、「システムを破壊」するものでもあったわけだ。でもまあ、未だに神話は生きてはいるけれども。

ちょっと話が中途半端だが、とりあえず今日はここまでで。

今朝起きてからのイベントで言えば、別冊マガジン4月号が出たことで、『進撃の巨人』第55話が読めたことだ。今回は本当に面白くて、『個人的な感想です』の方にもいろいろ書いた。

まあ書いてみると思うけれども、『進撃の巨人』の世界観も、実に陰謀論的なものがベースにあるんだなと思う。「情報を支配する存在が敵だ」と言う感覚が諫山さんたちの世代にはあるというけれども、それこそがある種の陰謀論で、でも感覚的には凄くよくわかる、ということでもある。

ネトウヨのようにマスコミをマスゴミと読んでぼろくそに言って溜飲を下げているだけでは陰謀論としても底は浅いわけだけど、『進撃の巨人』は[さらにその先に広がる世界」に話は到達するのではないかという期待は多いにある。

盛り上がってはいるけど、やはりなんか疲れが出てるということもまた、事実なようで、また書く元気があるときに続きは書いてみたいと思う。
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気分が晴れないと思ったら、疲れていたのだった/陰謀論の面白さと、いったい何が陰謀論なのかについて

2014-03-07 20:32:49 | 私の考えていること
【気分が晴れないと思ったら疲れていたのだった】

今朝はマイナス8度まで冷え込んだ。3月のこの時期としては、例外的に寒かったと言っていい。朝からいろいろと気になることが多かったせいか、どうも気分がふさぎがちで、なかなか気合が入らなかった。6時過ぎに目が覚めて少しモーニングページを書き、7時過ぎに出かけて職場のごみを捨て、サークルKに回って週刊漫画Timesを買う。部屋に戻って少しマンガを読み、灯油用のポリタンクを持って自宅へ。雪はだいたい消えていたので畑の様子などを見にうちのまわりを回ったら、プレハブの書庫の庇が雪の重みで落ちていた。これは工務店に連絡して見に来てもらうように頼んだのだが。

朝食後いろいろチェックしたり、ゴミを捨てに行ったり、灯油を運んだり、税理士事務所に電話したりと雑務的なことがわらわらと。済ませてもなんか意気が上がらないので週刊漫画Timesを読む。

『ピアノのムシ』とか『バレーの神様』とかが面白かったが、一番おもしろかったのは『10歳からの家族計画』で、一番印象に残ったのは『東京カウンセラー』だったな。「超自我抵抗」という言葉をはじめて知ったが、超自我が自己を罰しようという傾向を持って治療に対し抵抗する、という意味だろうか。基本的にフロイディアンの用語のようだ。また今週は『かわうその自転車屋さん』が掲載されていたが、何となくぱっとしなかったな。何というか最後のページが上手く面白い感じになってなかった感じがする。あ、そうだ、『信長のシェフ』も面白かったし、『重機甲乙女豆だけど』も面白かった。他の作品も面白くないと思ったのがなかったし、今週の週刊漫画Timesはお勧めだな。

しかしまあ、読んでも何か意気が上がらず、時間ばかりが過ぎたので、とりあえずひとつだけでも更新しようと思って「Eyes and Wind」のいわさきちひろの記事をアップし、車に乗って出かけた。ひとつ確かめなければならないことがあったので職場により、ガソリンが減ってるのに気づいてスタンドに寄って給油し、そのまま飛ばして平安堂に本を見に行った。

どうも気分が晴れないし、車に乗ろうとしたときに不用意に身体を動かして頭をぶつけて、何となく変な感じだったせいか、どうも読みたい本が見つからない感じで困ったのだけど、ぐるぐる回っているうちに目に入ったのが内海聡『99%の人が知らないこの世界の秘密 <彼ら>にだまされるな!』(イーストプレス、2014)だった。立ち読みしている間に面白くなってしまい、なんか変な本だなと思いながら、今の精神状態には合ってるんじゃないかという気がして、買ってみた。

うちに帰ってきて昼食をとり、ストーブに給油して自室に戻り、頭が痛いなと思いながら横になって手を頭に当てていたら、そうか、この調子の悪さは「疲れ」だったのか、とようやく気付く。最近考えていることに対しても集中してかなりやっているし、また時期的に仕事上もいろいろ用事が出てきて忙しく、また気を使うことも多い。そんなこんなでかなり疲れていたのだ、ということをようやく自覚した。


【「陰謀論」の「楽しさ、面白さ」と、「何が陰謀論で、何が陰謀論でないか」について】

『この世界の秘密』を読みだしたが、なんだかよくわからない。ロスチャイルドだのロックフェラーだのフリーメーソンだのがいろいろ出てきて、なんだこういう本だったのかと思ったが、あの有名な『シオンの議定書』についていろいろその内容について書いていて、その部分自体は読む気がしなかったのだけど、そのことについてあとで考えているうちに、なんだか可笑しくなってきてしまった。

とにかくこの本の著者は、一生懸命なのだ。その情熱はすごいなと思う。論理的には滅茶苦茶だと思われる部分もあるが、「統計学(の論理)」を否定したり「(現状の)医学」について否定的な見解を取ったり(彼自身は筑波大卒の医者なのだが)私にも共感できる部分もある。基本的に頭の悪い人ではないなとは思う。

ただやはり、この本はいわゆる「陰謀論」だ。まず「<彼ら>(この世界の「真の支配者」をさす)にだまされるな!」という題自体、こういうのを陰謀論と言うんだよな、というものだ。彼自身は、自分の言説を「陰謀論」と呼ぶ人自身が「グーミン」(著者の名付けによる愚民の婉曲表現)であり、それを読みとれる人こそが真の人間になれる、と言っている一方で、「この本に書いてあることを私自身も全部信じているわけではない」と言っている。

要するに、「この世界の真実を「書く」こと、「知ろうとすること」自体が<彼ら>にとっては目障りであり、また「一般人である自分」は「真の支配者」にはとてもアクセスできないから実態はわかるはずがないし、知ろうとする気もない」と言っていて、なんだか支離滅裂な気がするが、つまり「これ以上知ろうとしたら危ない」から「今まで<知った>
ことだけで十分と考え、書いている」ということらしい。

つまり、この本は陰謀論だと思うが(そう書くと私もグーミンと言われるが・泣・笑)、「かなり頭のいい人」が「本気」で「一生懸命」書いた陰謀論なのだ。ということで、正直読んでいるうちに盛りあがってきた。そういう意味で、この精神状態には大変マッチした選択だったのだ。

陰謀論というのは面白い。面白いというのは、興味深いという意味でだが。「彼らにだまされるな」というのが陰謀論の基本的主張だが、その主張はとっても情熱的で、その情熱によって人々を魅了する。それに巻き込まれたら自分も陰謀論のお先棒担ぎになる、つまりいわゆる洗脳状態になるが、そのくめども尽きぬ情熱そのものは見ていて大変興味深い。ある種の預言者であり、迫害にも屈しない強さを持ち、戦い続ける。主張する内容はともかく、そんな人間が魅力的でないはずがない。

陰謀論とはかくも魅力的なものなのだなと思う。読んでて楽しくなってくる。というのもどうかという気はするが。

私はけっこうダンテの『神曲』が好きで、特に永井豪が描いたマンガの『地獄篇』が好きなんだけど、あれを読んでるのと似た種類のカタルシスが、陰謀論に突き動かされた人の書いているものに感じられる。それは、そういうものすべてをある意味フィクションとして楽しんでしまうという面があるからだろう。フィクションであると割り切れば、荒唐無稽なのはそれはそれで面白いわけだから。また、逆にたとえば人は実話であっても「小説みたい」と面白がることはできる。だから彼らの主張が正しかろうと可笑しかろうと、面白がることはできるのだ。

まあとにかく、陰謀論を読むのはある種のストレス解消にはなるなと思った。

しかしこの本を読んで面白いと思ったのはそういうことだけではなくて、自分が陰謀論を信じるか信じないかというような次元よりも、世の中にはけっこう陰謀論に振り回される人も、陰謀論をしかけようとしている人も私が思った以上にいっぱいいるんじゃないかな、という実感を感じたということだ。それは、この著者が相当頭がいいと感じられる部分があったからで、陰謀論をつくりだす人はともかく、陰謀論にはまる人も、これは頭の良し悪しの問題ではないなと感じたのだ。

たとえばナチスの理論なども壮大な陰謀論だったし、またオウム真理教の教義というか地下鉄サリン事件の実行についても「やられる前にやる」と彼ら自身の陰謀論に自分ではまってしまった部分が感じられる。

どこかに絶対悪がいて、彼らの陰謀でわれわれは痛めつけられている、という考えは、基本的に陰謀論の枠組みを持ってしまう。中国や韓国の論理がわれわれ日本人にとって荒唐無稽に感じるのは、あるはずのない「戦前の軍国主義」の亡霊が今でも日本には息づいていて、ちょっと自分たちが油断すればすぐ日本全体を覆って自分たちを攻撃して来る、という理屈を本気で主張して来るからだ。

世の中に敵と味方がいるのは仕方のないことだけど、味方は常に善意で無防備で、敵は常に悪意に満ちていて陰謀をたくらんでいる、と考えるのはいろいろな意味で妥当ではないだろう。敵の主張が間違っていると感じられるのは仕方ないとしても、敵も味方も自分たちと同じ程度に悪くて自分たちと同じ程度に無防備だったりする、という程度には考えておいた方がいい。

ただ、ひとつ言えるのは、それは「いわゆる常識に安住していていい」ということとは違う。彼らも私たちと同じようにアイデンティティを必要としているし、私たちと同じように食べるものも住むところも必要だという当たり前の認識が必要だということだ。常識のレベルになれば、彼らは戦闘をも厭わないとか、われわれ普通の市民生活をしている人間とは違う認識があるというのはあってもおかしくないけれども、自分たちが彼らのような世界認識をしていて彼らのような要求を持っていたらどう考え、どう行動するだろうか、というようなことを考えられなければならないと思う。

実際のところ、世の中には枠組みとかシステムというものが、はっきりとした形がないものも含めてあるのは確かで、それを知っているのと知らないのとでは得られるものが全然違って来るということも確かなのだ。その仕組み自体を誰かの陰謀だと言えばそうかもしれないが、ある種の摂理に適っていなければ存在し続けること自体も難しいということも考えておいた方がいい。

だから何が陰謀で何が陰謀でないかというのはわりと微妙、というか立場によってその主張が変わってきたりはする。プルードンは「財産とは窃盗である」と言ったわけだし、私有財産制自体を否定する勢力は、私有財産制度そのものをブルジョアの陰謀だと感じたって不思議なことではない。

っていうか、一昔前、つまり冷戦時代までは本気でそう思ってる人だってたくさんいたのだ。今ではすっかりはやらなくなってしまったけど。

まあとにかく、そういうような意味でこの本は大変面白い。ただ面白いからと言って、皆に勧めていいものかどうかは迷う。普段なら読んだ本には画像を載せてリンクを張るのだけど、ちょっと今回は遠慮しておこうかと思う。

ただ、こんな書き方をしているけれども、前に述べたようにこの本の内容を全否定しているわけではない。その辺のニュアンスは分かる人にしか分かってもらえないかもしれないけど、一つ一つの事象については著者と似たようなことを感じている部分が私にもあるのは確かなのだ。

まだ全部読んではいないので、こういうことは学んだ、ということが出てきたらまた書いてみたいと思う。
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この一年の『ピアノの森』を読み返しながら、自分の『好き』について考える

2014-02-27 11:53:02 | 私の考えていること
今日は雨。とは言っても、降っているのかいないのか分からないくらいの小雨。ここのところのよい天気で、少しずつ雪が融けてはいたけど、今日の雨はまた、雪に覆われていた家々の屋根を、少しずつあらわにしている。でもまだまだ。そのくらい、この間の雪は凄かったのだ。屋根を打つ雨の音が聞こえる。今日は一日、ゆっくりとした気持ちで過ごすのだろうか。冬の終わり、あるいは既に始まっているはずの早い春の一日を。

ピアノの森(23) (モーニングKC)
一色まこと
講談社


先ほど、「ピアノの森」の感想を『個人的な感想です』に書いたのだけど、そのあとモーニングを全部読み、また連載誌の単行本になっていない部分を読み返してみた。一番古いのは昨年の18号、4月4日発売の号だ。カイの演奏の途中、照明が落ちてしまったくだりから。オーケストラは動揺したが、カイは全く動揺せず、オーケストラも聴衆もカイのピアノに引っ張られて立ち直る。真っ暗な森の中でピアノを弾いていたカイにとっては、そんなことは当たり前のことだとでも言うように。

森の中でいろいろなものとコミュニケーションをとりながらピアノを弾いていたカイは、オーケストラとのアンサンブル能力も卓抜で、カイのピアノがワルシャワ・フィルの持てる力を何倍にも引き出して行く。

この日の演奏順が、向井・パン・カイ・レフの順になったのはなぜなのか、分かった。もちろんあとに行けば行くほど盛り上がるはずなので、普通ならばカイを最後にすべきだろう。でも、「カイが覚醒させたワルシャワ・フィル」の力で、「レフを全力でサポートし、さらにその力を開花させる」というストーリーだったのだ。なんと言うことだろう。カイは自分自身が成長しながら、森のピアノから大きな空の下へ、世界へと広がって行くピアニストへと成長しながら、フィルハーモニーも、そして間接的に最後のコンテスタント・レフ・シマノフスキの力をも引き出した、と言うストーリーが構想されていたのだ。

「ガラスのように繊細なピアノ」だったレフが、「ポーランドの苦難の歴史にもくじけない魂が宿った」ピアノへと成長して行く。それぞれのピアニストの持つ天才を、これだけ描き出すことができた一色まことさんは凄いと思うとともに、これだけの作品を生み出すということがどれだけの力を必要とするのか、気が遠くなるような思いにとらわれる。

通して読んでみると、連載のときにはちょっと引っかかったような表現が、凄く重く、大きく響いてくるところがあるのはいつものことだけど、今回は昨年の10月31日発売号に掲載された221話でそれを感じた。

「俺は森の端という歓楽街で生まれ育った娼婦の息子だ。家からつながる森は俺の庭で、そこに打ち捨てられたピアノは俺のかけがえのない親友だった。揉まれ、戦い、そしてムチャクチャ愛された。仲間と、大切な先生。平坦な道じゃなかったけど、気づくといつも寄りそってくれる人たちがいた。いつだって包まれていた。だから、だから今の俺がいる。俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

これはつまり、今までの長い長いストーリーをすべて要約した文章で、最初にこの回を読んだときは正直ちょっと興ざめした部分もあったのだけど、この長いストーリーの中で読み返してみると、凄く重い位置を占めていることが分かる。

「俺は何がしたい?ピアノが弾きたい!ピアノを弾いて、俺は世界中に俺の音を届けたい!」

それが、芸術家と言うもの。作家というもの。演奏者と言うもの。「俺の音」を届けるのが演奏者なのだ。ならば、「俺の絵」を届けるのが画家であり、「俺の味」を届けるのがシェフであり、みな「俺の何か」を届けるために表現をしているのだ。

私は何を届けるのか。私は書きたい。他の方法もしてみるかもしれないけれども、まずは書きたい。そして、何を届けるのか。作家によって、届けるものは違うかもしれない。でも、私は、「私の好き」を届けたい。そう思った。

そういえば、と思ってみる。「私の好き」を届ける作家は誰だったか。一番に思いついたのは、白洲正子。あの人は確かに、自分の「好き」を届けていた。自分が心の底から動かされるものについて、その心の動きを丁寧に追いかけ、その向こうにある風景まで描いてみせた。読者は、というより読んでいる私は、その白洲の書いている白洲の好きな世界の風景に、見とれていたのだ。

その他なんだろう、例えば茶人もそうだろう。千利休は、朝顔を見たいと言う豊臣秀吉を招待するとき、すべての朝顔の花を切り落とし、そして茶席に一輪だけの朝顔を生けて、自分の「好き」を見せた。天下人に、自分の好みを押し付けたのだ。それだけの傲慢さがなければ、「絶対的な自分の好み」を以て人をもてなす「茶の湯」は生まれなかっただろう。

自分の「好き」をもっと鍛えなければいけないなと思う。世界の人に押し付けられるだけの「好き」を、強く押し出して行くために。

……ああなるほど、それが「数寄」ということなのかもしれないな、とちょっと思った。
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2月26日(水)のつぶやき その3

2014-02-27 01:38:40 | 私の考えていること

かつて「ながら族」なんて言われて、深夜ラジオ聞きながら受験勉強とかって平気でやってた世代でもあったんだが、トシ食ってくるとそういうマルチタスク機能も衰えるらしく、昨今「ながら」は苦痛になってる。特に音はあかん。・゜・(ノД`)・゜・。

kous37(Kosuke Hotta)さんがリツイート | RT

やはりそれは老化現象か…


私はネトウヨじゃないですが、この言葉は淋しい言葉ですね>「戦時中、誠心誠意働いて一生懸命戦ってきた事に悔いは無いが、その事が戦後馬鹿みたいに言われてきて、つまらない人生だった」進藤三郎(日本海軍士官・戦闘機操縦士)

ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2…

kous37(Kosuke Hotta)さんがリツイート | RT

はてなブログに投稿しました
『ハウルの動く城』を見た。ソフィーの心の変化に応じて、物語が伸び縮みしているように思った。 - 私のジブリ・ノート
htn.to/pNgvk8


「2011世界フィギュアスケート選手権」。ロシアから日本への「心からのメッセージ」をご存知でしたか? bakahabakanarini.blog.fc2.com/blog-entry-281… 知らなかった…

1 件 リツイートされました

#ブログ書きました】ゲアリー・ケラー『ワン・シング』は、的を絞ることの重要性を再認識させてくれた。 buff.ly/1fq3RKA 【Feel in my bones】


こちらのブログにも書きました。 生きている気がするように生きること : ゲアリー・ケラー『ワン・シング』を読んだ。的を絞ることの重要性を改めて感じた。 blog.livedoor.jp/kous37/archive…


入試監督業務終了:「机の上の受験番号札は持ち帰ってもよいです。記念になりますよ。32年前、私は持ち帰りました。」が本日の業務の最後の言葉。(最初の2文は実施責任者からの指示。最後の文はアドリブ。)20年ぶりの京大入試の試験監督だが、32年前のことを色々思い出していた。

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【アジアの目】反日教育をやめた華人の国・シンガポール - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/world/news/140… ふむふむ


さっきの話題の問題は東大生が東大入試問題をパロで予想したやつで、毎年赤門前で配ってるやつ

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むずいなっしー♪ヾ(。;゜▽゜)ノ RT @hina_bz: 爆笑 "@arrow_bd_105: @funassyi ふなっしーが物理の問題にされてるよ!!

"@crispysadawo: これは吹いたwww pic.twitter.com/0xP9gF6FxX""

kous37(Kosuke Hotta)さんがリツイート | RT

風俗案内所、公共施設から200M規制は違憲 京都地裁 - 朝日新聞デジタル (asahi.com) t.asahi.com/e32k これはもっと理論武装して法制化すべきなのではないか。


日本の人口「移民で1億人維持可能」 政府、本格議論へ - 朝日新聞デジタル (asahi.com) t.asahi.com/e2jc どーなんすかそれ


シー・シェパードは「疑いもなく海賊だ」 米高裁が認定 連邦地裁の判断を覆す sankei.jp.msn.com/world/news/130… 裁判長は「船を衝突させ、酸入りのガラス容器を投げつけ、プロペラを破壊するため金属で補強したロープを使用するならば、どんな信条を持とうと、疑いもなく海賊だ」

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まともな判決もあるんだな


そもそも "芭蕉が「旅人と我が名呼ばれん」というときの「旅人」は、能の旅人だったのだ" とあるように、芭蕉の旅というのは生と死のあわいをゆく旅であるので、日本人の死生観とその基底としてある仏教について知っていた方が、より楽しめますよね。

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水野和夫『人はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(1)世界史的転換を描こうとしていることと、デフレ下での経済成長という「近代の常識」の破れの指摘 - 史読む月日―ふみよむつきひ― toki.hatenablog.com/entry/2014/02/… ブログ書きました。


畑違いのものを読むのは大変だが、ブログにまとめながらちょっと読んでみようと思っている。


ローリングストーンズ、最初から最後まで完璧だった^_^

kous37(Kosuke Hotta)さんがリツイート | RT

はてなブログに投稿しました
水野和夫『人はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(1)世界史的転換を描こうとしていることと、デフレ下での経済成長という「近代の常識」の破れの指摘 - 史読む月日―ふみよむつきひ―
htn.to/MczyA9j


「小山田浩子 わからない」でググると、私のエントリが出てくることが分かった。


【書きました】ゲアリー・ケラー『ワン・シング』は、的を絞ることの重要性を再認識させてくれた。 buff.ly/MsVrLD 【Feel in my bones】


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