昨日。今はともかく読むことが生活の中心になっているが、昔のように馬力を持って読むことはなかなか大変だ。一番読む力を持っていたのは、いったいいつのことだろう。冊数をたくさん読んだのは明らかに中学生のころだが、何しろあのころは同じ本を何度でも読む力があったのだからすごいものだと思う。少年文学から成年文学への移行に失敗してどちらかというと迷走を続けることになったあのころが今から考えれば惜しいけれども、それも天の配剤であったという気もする。気持ちの上では、ある意味あのころにつながる気がする。百人一首は暗記しても恋歌の意味など何も分かっていなかったあの頃に、「あひみての後の心にくらぶれば昔はものをおもはざりけり」の意味を知ってなんだそうだったのかと驚愕した30台の半ばが接続するように。
実際、何を読んでも面白いという症状がでてきた。文学などというものは切りのないもので、名作といわれるものだけを読んだとて1年や2年で読みきれるものでもない。昨日は夕刻神保町を徘徊したが、食指の伸びる本がいったいどれだけあったことか。そしてその両のすごさと、自分の財力と本の置き場を考えて、いったいどれだけそれを満たすことが出来るのか、という思いに消沈したことか。古書店にはいると、昨日書いた『ユゴー詩集』が目の前にあったのだが、4300円。即座に買うには勇気がいる。帰ってネットで調べるともっと安いのもあるし図書館で借りれば只だし場所もとらない。読んで価値あるものと感じたら買おうという感じである。プーシキン全集も見つけるが、書棚の遙か高いところにあって全6冊36000円。ああ欲しいなあと思うのだが。まあそれはいい。
結局買ったのは、ベリンスキー『ロシア文学評論集1』(岩波文庫、1950)、新刊書で安野光雅/藤原正彦『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書、2006)。それからカードの専門店「オクノ」でBeeのトランプを一組買った。絹目の紙で、紙の滑りが異常によい。手品で使いそうなトランプだ。一人暮らしとはいえ、カードの一組もないと寂しいなと思って買ってみただけなのだが。帰りは日本橋のプレッセで夕食の買い物をして帰宅。
電車の中と家に帰ってからと、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。私はいつもそうなのだけど、「事件」が起こるまでの描写はどうもかったるくてなかなか読み進められないが、事件が起こるとその先は一気呵成に最後まで読んでしまう。連続テレビドラマ小説を見るようだが、エヴゲーニイとレンスキーの決闘を南砂町あたりで読んでいたのだが、真夜中過ぎには読了して涙を拭いていた。第8章は泣く。訳者の木村彰一氏は、この本一冊を読むだけでロシア語を学ぶ価値があるといったというが、その通りだなあと思う。もちろん私はプーシキンの、日本語に訳出できる話や描写の美しさに感動しているに過ぎなくて、プーシキンの言葉の美しさは分からないのだけど、これだけ美しい話がどんな美しい言葉で表現されているのかと考えると、それだけでロシア語をやり直したいと思う。
メリメの「カルメン」と「オネーギン」に描かれたタチヤーナは全く違う人間像ではあるけれど、カルメンが愛よりも「自由」を選択し、タチヤーナが愛よりも「決断」を選択するその「意志の美しさ」が読むものを感動させるというところはよく似ている。転落していくドン・ホセがカルメンの魔的な魅力の虜になる情熱の囚人であるのに対し、エヴゲーニイは一度「振った」女と再会し、見違えるように洗練されたその魅力に逃げられなくなる、というところが哀しい。若気の至りというか、そういうところが「痛い」のは私だけではないだろうと思う。
エヴゲーニイはロシア文学の「余計者」の系譜の中に位置づけられるというが、これは日本文学の高等遊民の存在とよく似ている。この当たり、自分がある意味似たようなポジションにいないともいえないので全然違和感なく読んでしまったのだが、このあたりの文学的テーマを探ってみるとまた面白い事が出てくるのだろうと思う。
それにしてもタチヤーナは大地の母というか、ロシアの平原、ロシアの雪原そのもののような豊かさだ。川端香男里先生は男に都合のいい女性像、のようなことも書いていらっしゃるが、なんの、意志の形に男も女もあるとは思えない。フェミニズムが解体しようとしているのは本当は解体してはいけないものもずいぶん含まれているとよく思う。そういえば先日上野千鶴子がアイデンティティという概念を解体しようと目論んだ本を出していたようだったが、なんていうか人類に有害なことをやっているとしか思えない。
話は脱線したけれど、オネーギン、よかった。
実際、何を読んでも面白いという症状がでてきた。文学などというものは切りのないもので、名作といわれるものだけを読んだとて1年や2年で読みきれるものでもない。昨日は夕刻神保町を徘徊したが、食指の伸びる本がいったいどれだけあったことか。そしてその両のすごさと、自分の財力と本の置き場を考えて、いったいどれだけそれを満たすことが出来るのか、という思いに消沈したことか。古書店にはいると、昨日書いた『ユゴー詩集』が目の前にあったのだが、4300円。即座に買うには勇気がいる。帰ってネットで調べるともっと安いのもあるし図書館で借りれば只だし場所もとらない。読んで価値あるものと感じたら買おうという感じである。プーシキン全集も見つけるが、書棚の遙か高いところにあって全6冊36000円。ああ欲しいなあと思うのだが。まあそれはいい。
結局買ったのは、ベリンスキー『ロシア文学評論集1』(岩波文庫、1950)、新刊書で安野光雅/藤原正彦『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書、2006)。それからカードの専門店「オクノ」でBeeのトランプを一組買った。絹目の紙で、紙の滑りが異常によい。手品で使いそうなトランプだ。一人暮らしとはいえ、カードの一組もないと寂しいなと思って買ってみただけなのだが。帰りは日本橋のプレッセで夕食の買い物をして帰宅。
電車の中と家に帰ってからと、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。私はいつもそうなのだけど、「事件」が起こるまでの描写はどうもかったるくてなかなか読み進められないが、事件が起こるとその先は一気呵成に最後まで読んでしまう。連続テレビドラマ小説を見るようだが、エヴゲーニイとレンスキーの決闘を南砂町あたりで読んでいたのだが、真夜中過ぎには読了して涙を拭いていた。第8章は泣く。訳者の木村彰一氏は、この本一冊を読むだけでロシア語を学ぶ価値があるといったというが、その通りだなあと思う。もちろん私はプーシキンの、日本語に訳出できる話や描写の美しさに感動しているに過ぎなくて、プーシキンの言葉の美しさは分からないのだけど、これだけ美しい話がどんな美しい言葉で表現されているのかと考えると、それだけでロシア語をやり直したいと思う。
メリメの「カルメン」と「オネーギン」に描かれたタチヤーナは全く違う人間像ではあるけれど、カルメンが愛よりも「自由」を選択し、タチヤーナが愛よりも「決断」を選択するその「意志の美しさ」が読むものを感動させるというところはよく似ている。転落していくドン・ホセがカルメンの魔的な魅力の虜になる情熱の囚人であるのに対し、エヴゲーニイは一度「振った」女と再会し、見違えるように洗練されたその魅力に逃げられなくなる、というところが哀しい。若気の至りというか、そういうところが「痛い」のは私だけではないだろうと思う。
エヴゲーニイはロシア文学の「余計者」の系譜の中に位置づけられるというが、これは日本文学の高等遊民の存在とよく似ている。この当たり、自分がある意味似たようなポジションにいないともいえないので全然違和感なく読んでしまったのだが、このあたりの文学的テーマを探ってみるとまた面白い事が出てくるのだろうと思う。
それにしてもタチヤーナは大地の母というか、ロシアの平原、ロシアの雪原そのもののような豊かさだ。川端香男里先生は男に都合のいい女性像、のようなことも書いていらっしゃるが、なんの、意志の形に男も女もあるとは思えない。フェミニズムが解体しようとしているのは本当は解体してはいけないものもずいぶん含まれているとよく思う。そういえば先日上野千鶴子がアイデンティティという概念を解体しようと目論んだ本を出していたようだったが、なんていうか人類に有害なことをやっているとしか思えない。
話は脱線したけれど、オネーギン、よかった。