Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

上海領事館員自殺事件の遺書公開

2006-03-31 14:42:29 | 時事・国内
上海の領事館員自殺事件、その遺書が明らかになった。女性問題の弱みに付け込んで外交機密を聞き出そうという手口が詳細に暴露されている。こうした行為が「領事関係に関するウィーン条約」違反であるのは明らかで、外交上のこうした非道な行為について、日本は中国に厳重に抗議すべきだし、場合によっては大使の召還などを示唆するべきだろう。

この時期に政府がこの文書をどういう形であれ明らかにしたということは、「中国との関係正常化」の大合唱によって安倍・麻生の後継の目を封殺しようという中国側の策謀とその手先となっている自民党政治家たちに、首相の靖国神社参拝は絶対に譲らないという姿勢を表したものと考えてよいだろう。首相の靖国参拝は国際的な条約違反等は一切ない事柄であるのに対し、中国のやったことは明らかに違法かつ非道な行為だからだ。それでもなおかつ無理を通して道理を引っ込めよという主張は普通の人間なら出来ない。官邸の喧嘩上手ぶりを久々に見せられた気がする。

それより何より、外交官というのは大変な職業だと思う。特に中国など大きな暗黒部分を抱えた国に赴任することは相当な覚悟を伴う。この人は領事とは言え、観光気分などでできる仕事ではない。この方も、使命感を持ちつつどこかで隙を見せてしまったのだろう。改めてお気の毒にと思う。







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知識人の悲観的な晩年/小説に施されるあらん限りの仕掛け

2006-03-31 10:20:58 | 読書ノート
須賀敦子『本に読まれて』読了。実に面白く興味深いのだが、後半にいくにしたがって疑問も感じて来た。これが年代順に並んでいるなら、晩年になって賛同しがたい部分が現れてきた、ということかもしれない。デュラスの『エクリール』の中で蝿の死を克明に観察し、3時20分というその死の時刻を記録することがその蝿の葬儀なのだ、というデュラスに須賀は感心し、蝿の死を歴史に位置付ける「ヨーロッパ」に賛嘆する。一方で彼女は志賀直哉の『城の崎にて』にそれが欠けていることに不満を漏らす。しかし、時を記さないのが日本あるいは東洋であり(中国は違うかもしれないが)、そのことが蝿の死を永遠化するために必要なのではないかとすぐに私は思った。歴史化と永遠化。それに価値の上下はない。

また、年齢的に仕方がないことかもしれないが、「日本の戦前」への病的な忌避感がある。彼女が若いころカトリックに改宗し、(日本では改宗というほど宗教が固定的なものではないが)日本を離れたのも同じ動機らしい。それでいて、ジッドに感動しやすい日本人のことを「ジッドのプロテスタンティズムに由来する、一種の誠実さとか真摯な態度みたいなものに、ある時代の日本の読書人がとかく魅せられやすかった」と批判的に見たりもしている。彼女自身の精神構造も「ある時代の日本の読書人」とそう違うとは思えないが。

そういうのと同じような面が後半に行くにつれて強くなっていくのは残念だ。これだけおおらかにさまざまなものに興味を持ち、さまざまなものに共感しうる魂が、最後には原則論的・教条的な陥穽に落ちてしまう。そのきっかけは1988-9年の昭和天皇の崩御をめぐる日本社会のありように、彼女たちの頭の中では乗り越えたつもりになっていた天皇とそれにまつわるものが社会の表面に噴出してきたことが、おそらくショックだったのだろう。また1995年の衝撃、すなわち阪神大震災と地下鉄サリン事件もかなりショックだったようだ。私自身、社会党的なもの、すなわち「進歩的文化人」と称するものがいかに無力で無効なものであるかを強く感じたのが危機管理思想が絶無なこうした傾向の人々に対してであった。以前どこかで書いたが、これらの事件をきっかけに左翼的なものと最終的に訣別した人は私だけではないようだ。

こうした時代の動きの中で、須賀の書くものは悲観色が強く、時代を厭う色が濃くなっていく。98年に68歳で亡くなられたのはいかにも早く、惜しいのだが、2001年の911の衝撃を受けずに済んだのは、まだしも幸いだったかもしれないと思う。われわれ日本人には想像もつかないくらい、西欧文化圏の人々はあの事件に深い衝撃を受けている。西欧文明を媒介に世界の人々が理解し合うことは可能だという希望を、相当なレベルであの事件は崩壊させたからだ。須賀のスタンスはやはり基本的にはそういうものだから、その衝撃は深刻なものになっただろう。

まして2002年の917、すなわち「拉致」の存在が明らかになった北朝鮮との交渉やその後の本質的なナショナリズムの盛り上がり、また有無を言わさぬアメリカのアフガン戦争やイラク戦争とその無様な進展などを見たとき、彼女は何を書けるだろうかと思う。もう悲痛しかそこには残らないように思われる。

司馬遼太郎もそうだったし、ほかにもそういう人は何人もいるが、晩年にさまざまな衝撃で教条主義的になったり強いショックを受けてしまう人が多いのは残念だが仕方がないことかもしれない。68年の学生運動が盛り上がったとき、パリ大学の教室で教授の目の前でいきなり女学生が胸を露出させたことに深い衝撃を受けた老哲学者はそのまま死んでしまった。暴力的な諸事件は否応なく敏感な魂を打ち砕いてしまう。たとえその魂がどんなに高貴なものであっても。

***

須賀を読み終わったので読みかけになっていた谷崎潤一郎『少将滋幹の母』を読んだが、これも読了。平中の滑稽談に始まり、時平が叔父国経の北の方を強奪する話につながり、妻を奪われて苦悩する国経の「不浄観」というある種の地獄めぐりのような話になり、最後は40の後、国経と奪われた妻の子、滋幹が母を慕い、再会を果たす話で大団円となる。これを亀井勝一郎や正宗白鳥は谷崎の最高傑作と推しているのだが、むむ、と思う。

確かに叙述の曖昧模糊とした中から夢のように現実が現れるさまの描写などは余人の追随を許すものではないなと思う。小倉遊亀の挿絵もすばらしい。存在しない「種本」を勝手に作ってそれにしたがって記述するというやり方も作り話の王道という感じである。「なるたけ史実の尊厳を冒さないようにしながら、記録の不備な隙間を求めて自分の世界を繰り広げようと思ふ」という姿勢も、まさに歴史小説の鑑ともいうべきで、いうことはない。

なんというのか、おそらく私が不満なのは、登場人物の誰にもまったく思い入れが出来ないところにあるのだろう。一番思い入れが出来そうなのは一番けしからん時平である。これは解説の千葉俊二の指摘だが、他人の妻を強奪した谷崎自身が時平に共感し、彼を躍動的に、暴力的な男性的エロチシズムみなぎる存在として描いているという指摘には思わず手を拍った。その時平も菅公の御霊に取り殺され、関係者の男たちは皆死に絶え、残るのは幼児であった滋幹と美しい母だけとなる。そこに残るのは、すでに意志ではなく、幻想的な美のみである。

まあそんなふうに書いてみると、確かにこの小説の仕掛けはたいしたもの、というより私などには想像もつかないものだったなと思う。この作品の結構は、絵巻物のようなもので、少しはなれて全体を見渡して部分が構成するそれぞれの美しさや凄惨さを味あわなければならないものなのだなと思う。少し人生とかそういうものに突っ込んだ話題のできる茶席などにかける一幅の絵とでも言うべきものだろうか。そのように考えると谷崎という絵師は相当な腕前だなと唸らされることになる。小説にはいろいろな読み方があり、読者の読み取り能力にあわせてあらん限りの工夫がなされているのだなと改めて思わされる。やはり傑作なのだろうと思う。私にはまだ完全には得心がいったとはいえないが。







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ロシアン・ルーレットの起源/須賀敦子と世界文学

2006-03-30 10:46:59 | 読書ノート
昨日はだいぶ時間があったので、かなり本が読めた。レールモントフ・中村融訳『現代の英雄』(岩波文庫)読了。この小説、普通の意味で面白い。プーシキンのように真実の美を表現しているという感じはないけれども、言い回しや人生に対する洞察などで唸らされるところが多い。27歳で死んだ詩人とは思えない。プーシキンは一までも若い永遠の若者という感じで、そこが痛々しくもあるところがあるのだが、37歳での死というのがいかにも非業の死という感じになる。レールモントフはもっと若いのだが、いきなり老人というか、人生のすべてを見切ってしまったようなところがあって、私は12歳ですでに老人だった、とかいう小説があった気がしたが、若く絢爛たる美貌の青年の心中が憂鬱癖があり鬱屈を抱え老成を余儀なくされるという主人公の感じがなるほどと思う。まあ少しでも鬱屈を抱えたことのある人間ならそういうところで共感できるところはもちろんあるのだけど、その表現の絢爛さは真似できないなと思う。解説にあったメレジコーフスキイの「プーシキンをロシア詩の昼の光とすれば、レールモントフは夜の光だ」ということばは、やはり私と同じように感じる人はいるのだなと納得させられた。

それから「ロシアン・ルーレット」に類似した場面が出てきて、この危険な遊戯の起源はこの本なのではないかと考えさせられたが、実際はどうなのだろう。

***

今まで積読で読んでいなかったものを読もうと思い持って帰ったのが須賀敦子『本に読まれて』(中公文庫、2001)であった。須賀敦子という人は名前は以前から聞いていたが、あまり読む機会がなく、『本に読まれて』も数年前に買ってあったのだが、ほとんど読んでいなかった。これは確か福田和也が上流のハイソな雰囲気を味わうなら白洲正子か須賀敦子だ、みたいなことを書いていて、白洲は私は手当たり次第にすべて読んだ(まあ読み残しもどこかにあると思うが)から須賀を読んでみよう、くらいの気持ちで読んでみて、全然そんなものではなかったので途中で投げ出したことを思い出した。まあ考えてみたら白洲を「ハイソなおばさん」扱いする人のいうことを真に受けても仕方がない、というか福田は福田なりのたくらみがあってそういう言い方をしたのだろうと思うのだけど、こちらもそんなものに素直に引っかかっても仕方ないことだったなと今では思う。

で、なぜ読み直す気になったかというと、本屋で読んで気になり、図書館で借りて読んだイタロ・カルヴィーノの訳者が須賀だったからだ。こんな面白い本の訳をする人だから面白いんじゃないか、と思って再び読み出したのだが、今回読んでみると前回と全然雰囲気が違い、先入観がない分だけ非常に面白く読んでいる。というか、須賀の文章というのは非常に骨があり、内容が濃く、とてもとても一気に読みきれるような文章ではない。読み始めてからこれはノートを取る必要があると思い、私はA4のコピー用紙にノートを取ってあとでホッチキスで留めて保存するというノートの取り方をしているのだが、それでもう4枚分も気になる部分を書き留めた。蛇足だが、この方法は取るときは取りやすいのだが整理が面倒だ。しかし単価の安さとか(実は没にした用紙の裏に書いているので1枚0円)書くときの気軽さとかを考えればこの方法で整理の仕方だけ納得のいくやり方が考えられれば結構いいのではないかと思っている。と、いうわけでまだ今のところ半分くらいしか読めていない。

須賀は、私が今まで本気で読んだ中で一番「現代文学」に近い人なのだと思う。現代文学がいつから始まるかというのは難しいが、ひとつのメルクマールは第一次世界大戦後の「西欧の没落」以降のもの、もうひとつのメルクマールは第二次世界大戦後の非西欧諸国の独立と米ソの政治的・経済的優越の成立以降のもの、ということになろう。そう考えると、第三のメルクマールは冷戦構造崩壊後、あるいは911後ということになるかもしれない。社会主義の敗退後、あるいは「テロとの戦い」後の世界文学がどのようになっていくのかというのはかなり重要な問題だ。

しかし、これは文学が政治に従属している、ということではない。というか、文化的には、文明的には、いまだに西欧が世界のグローバルスタンダードであることは変わっていないと思う。しかし他を省みる必要を感じなかった驕慢な第一次世界大戦以前の西欧の姿勢はいまや放擲せざるを得なくなったわけで、第一次世界大戦後はその動揺を表現した文学が、第二次世界大戦後はいかにして非西欧世界の文化・文学・文明を西欧の既成秩序の中に位置付けていくかという試みがなされたということだろう。ポストコロニアル・カルチュラルスタディーズといった試みは基本的には西欧側からのそうした「良心的」な試みと見ていいが、そこに西欧的な価値観(西欧近代科学的な視線・「人権」至上主義など)が貫徹している点において新たなる帝国主義的な意味合いがないとはいえない。それはフェミニズムや人権概念の「押し付け」という面でも帝国主義的である。

つまり文学は政治に従属しているのではなく、文学(あるいは文化)も政治も人間の生の一局面なのであって、文学・文化が政治を動かす枠組を決定しているという側面も強調されなければならない。そして、「世界文化」を標榜しているのは現在のところ西欧文明だけなのであって、それは弱体化しながらもいまだにグローバルスタンダードであることは否定し難い。日本もまた、そこへの参入を申し立てている存在に過ぎないのであって、「西欧の一員」にはなりえないことは深く自覚すべきだろう。したがって、われわれが西欧文化の見直しに本当の意味で参加することは出来ないのであって、われわれはわれわれの文化と西欧文化、またその他の文化を加えて新しい融合的な世界文化を創りあげることしか可能性としてはありえないのだと思う。そのための方法論として、ポスコロ・カルスタといった手法が有効であるかどうかは、私にはまだわからない。しかし911後の現在において、また状況は変わっているかもしれない。いずれにしても、世界文化の発展、そして平和のためには、お互いがお互いの文化を尊敬しあい、学びあう姿勢がないことには話しにならないと思う。これもまた困難な点が多いことは承知しているが。

というようなことを須賀を読みながら考えさせられた。そのほか紹介されているさまざまな本も面白そうだし、池澤夏樹という作家の魅力はかなり納得させられた。私とはかなり好みやセンスが違う人であることは確かだが、読み応えのある文章だと思う。なくなられてからその魅力に目覚めることが私には多いが、この人もそういう人だなと思う。






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弱さに対する共感/京大教授が懲戒解雇

2006-03-29 09:09:56 | 読書ノート
昨日帰郷。特急の中では少し書き物をし、残りの時間はうつらうつらしたりレールモントフ『現代の英雄』を読んだり。プーシキン的な設定が多いが、中身は全然違う。感覚の鋭い、若いとんがった詩人という感じである。倦怠や無感動と自分自身に対する怒りのようなもの、悪を働かずには生きられない異民族・庶民への同情というより共感のようなものがあり、このあたりが好き嫌いはともかく「近代的」な感じがする。プーシキンの共感はもっと人間存在そのものに対する共感なのだが、レールモントフの共感は相手の「弱さ」に対する共感なのだ。つまり自分が傷つきやすい弱さをもっていると認めた上での共感なので、ずいぶんナイーブな印象になっている。しかしそれが近代文学のある精神を表しているのは確かだろう。ある意味でプーシキンがポジならレールモントフはネガだ。プーシキンが源氏ならレールモントフは宇治十帖の匂宮と薫を足して二で割ったような感じだ。ヴァルネラビリティへの共感という話になると、文学は無限の迷路に入っていってしまうが、まだレールモントフはそのラビリンスの入口という感じなので読みやすいのだと思う。まだまだ伝奇的ものを扱うのが物語だという観念が強く、その出し方も「レールモントフ好み」みたいなところがあって、その趣味は結構面白い、と思う。

しかし、結局小説や物語において伝奇的なものへの志向というのは、お話の面白さを確保する必要性がどうしてもあるために、結局は切り離せないものなのだなと思う。読者がよく知らない何かが語られることによってしか、読者の興味をつなぐのはなかなか難しいだろう。で、人の心というものへの興味というのも結局はそうした伝奇的な興味なのではないかという気がする。人がそれに思い入れをしたり共感したりするのは勝手だが、思い入れは誰にでもできるわけではない。しかしその伝奇的な面白さを感じることは割合容易なことなので、必ずしも思い入れをすることができない人との間でも、読書体験を共有することができるということになる。

ただ最近思うのは、文学の本当の面白さというのはそういう共感云々のところにあるのではなくて、面白いと感じるまさにその感動にあるのだと思う。本当は安っぽい共感など文学に有害無益なのではないか。文学が世界を変え得るというような錯覚が持たれるに至ったのは、そういう共感というものの持つ「魔」ではなかったかと思う。

「少将滋幹の母」は少ししか読んでいない。でも谷崎もやっぱり面白いな。

***

京大教授が懲戒解雇。以前は懲戒免職だったと思うが、法人化して民間企業並みの呼称になったということか。免職というのは公務員用語だったんだな。

朝日新聞社長長男、大麻だけでなく麻薬も所持していた。これはだめだな。

中国での高地合宿で水泳のホープが死亡。高地トレーニングというのはよく聞くが、安全対策はどうなのか。他の国で合宿した方が医療設備がきちんとしていたのではないか。最近距離的に近く費用も安いせいか中国でこうしたことがよく行われているような気がするが、あまり安易にやらないほうがいいという警鐘なのではないかという気がする。事故が起こった原因とその対処が万全であったのかどうか、よく検証した方がいいのではないか。合掌。




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朝日新聞社長長男大麻所持で逮捕他

2006-03-28 17:00:05 | 時事・国内
姉歯元建築士の妻が死亡。飛び降り自殺と見られているが、本当だろうか。自殺にしても事件性があるにしてもむごい話だ。警察は自殺と決め付けず、背後関係をきちんと調べてほしいと思う。

朝日新聞秋山社長の長男が大麻所持で逮捕。これは今月10日のことだというが、今まで伏せられていたのはなぜか。表に出さないようにしようとしていたのか。

麻原裁判でもそうだが、弁護団の暴走という感じの事件が多すぎる。

森昌子さんの父が逝去されたという。再出発を誓った矢先で残念だが、頑張っていただきたい。ご冥福をお祈りしたい。






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森昌子復帰

2006-03-28 09:36:16 | 雑記
森昌子歌手復帰。会見を見ていても、穏やかでなんだか感動する。こういう人が面に出てくれることが、日本の雰囲気を少しでもよくすることにつながるのではないかと思われてならない。いい歌を歌っていって欲しいと思う。

夫婦がうまくいかないというのは辛いものだし、離婚をするというのはまた別なさまざまな辛さがある。男だから女だからというのではなく、人間として共通する辛さがあると思う。

その辛さを真摯に淡々と穏やかに語り、生きていくことの大変さを感じながらしかし穏やかな笑顔で品よく暖かく語れる人、というのは余人を持って替えがたい人だなと思う。

いい歌をぜひ歌っていってほしい。





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レールモントフとか谷崎潤一郎とか/ポスト小泉

2006-03-28 07:42:09 | 読書ノート
昨日はなるべくのんびりしようと思うのだが、まだいろいろな緊張感が残っていてちゃんとのんびりするには程遠い。いっそ遠くに出かければいいのだが、リゾートに出かけるほどの時間も資金もないので疲れるだけに終わりそうだ。午前中は郵便小包の配達を待ったり置き薬の訪問を待ったり。モーツァルトを聞きながら『ロシア史』など読むが、どうも燃焼が悪い。ずっと前に買ってあったヴィヴィアン・リーの『アンナ・カレニナ』を見始める。「幸福な家庭はみな似ているが、不幸な家庭はみな似ていない」という言葉は有名だが、トルストイのこの小説の冒頭のことばだとは認識していなかった。しかしこのDVDもなんとなく途中で見るのをやめる。

昼食後銀座に出かけることにする。日本橋で降りて、丸善に歩く。なんとなく本を探し、レールモントフ『現代の英雄』(岩波文庫)を買う。レールモントフはプーシキンより14歳若いが、10歳若く27歳で死んでいるので(二人とも決闘死だ)生涯で重ならないのは4年しかない。プーシキンの影響がかなり濃いなと思う一方、散文的な広がりがあってメリメを思い出す。コーカサスのチェルケス人やオセット人が出てくるところは『エルズルム紀行』を思い出す。

さらになんとなく歩き、銀座へ。教文館で本を物色。ウォルター・スコットかトルストイのいい訳を読みたいと思ったのだが、思ったものを見つけられず。4回にカフェが新装オープンしていたのでコーヒーを飲みに。銀座通りが見下ろせる席はそれなりに気分がいい。

さらに銀座を歩き、旭屋書店へ。文学のコーナーはもう少し本があるといいなと思いながら、経済書のところを見ると企画書の書き方、実例集みたいな本が花盛り。「企画書の書き方」自体が商売になるというところが現代なんだなと思う。なんとなく文庫のコーナーで谷崎潤一郎『少将滋幹の母』(新潮文庫)を買う。小倉遊亀の挿絵がキュート。平中が振られるエピソードではじまるんだなこの本は。「せめて見たという二字でも返事を」、という懸想文にその手紙の「見た」という二字を切り取って送るという極北の冷たさ。もちろん有名な話なんだが、平安時代の日本人は相当意地が悪そうだ。業平と同時代なんだよなあ、これで。

***

一部の勢力がポスト小泉に福田康夫を担ぎ上げようとかなり画策している。いずれにしても安倍晋三が世論調査では圧勝なんだが、NHKで6パーセントの福田の支持率が読売系の日テレでは10パーセントを超えていた。こういう調査はかなり露骨に意図が現れるのだなと思わされる。

***

昨日はいい天気だったが、今日は肌寒い。まさに花冷えか。





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リトアニア/古代からの格闘技と古代からの民族

2006-03-27 07:48:44 | 雑記
昨日は夕方遅くなってから神田にでかける。本を物色するも、あまり食手の伸びるもの無し。東欧史の本を読んで、リトアニアが14世紀までキリスト教を受け入れなかったと言う話にへえと思う。ドイツ騎士団の攻勢はモンゴルの襲来並みだったというが、リトアニアはカトリック・オーソドックス双方に改宗をちらつかせつつ民族を糾合して粘り抜いたのだと言う。カトリック改宗後はポーランドと連合王国を形成してベラルーシ・ウクライナに広大な領土をもったわけだし、現在の小国もモスクワとためを張っていた存在だったのだと言う。東欧史、特にこのあたりはあまり詳しくない、大体ソ連があった時代は日本の研究もかなり腰が引けていたのだろうとも思われるし、これからの分野なのだろうなと思う。

リトアニア語はバルト語に分類されるが、インド・ヨーロッパ語族の祖語に最も近い古形を保っていると木村彰一が書いていた。キリスト教を受け入れるのが最も遅かったと言うこともあり、神話も古い形を保っているのだと言う。歴史時代以前の霧の中の古代民族の形がほの見えるのは興味深い話だ。

そういえばバルトという関取が十両で全勝優勝したらしいが、彼はエストニア出身だった。エストニアはフィン・ウゴル語族でアジア系の言語だ。まあ良く分からないが古代民族が古代からの格闘技である相撲にダブって見えてきて面白い。

本は結局SAPIOの新号しか買わなかったが、ボンディでカレーを食べて帰った。帰りにコロナを買うがなかなか一本飲めず。やはり疲れが出てきて早い時間に就寝。





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どこもかしこも桜が咲いて/トルシエがイスラムに改宗

2006-03-26 15:05:27 | 雑記
2ヶ月あまりかかりきりだった原稿を脱稿。終わった。しかし、書き終えたときというのはいつもそうだがなんだか呆然としてしまう。しかし今回は次のネタが自然に浮かんでくる方なので、あまり時間を置かないで次のものにかかれるだろう。

今回はラストスパートをかけていて、もう終わってしまうんだなと感傷のようなものを感じることがあった。イチローがWBC最後の試合でそんなことを言っていたが、やっていて楽しいときというのはそういうものかもしれない。

郵便局に出しにいって、ついでに木場の波除神社まで歩いておまいり。狭い境内で花見をしている人がいた。どこもかしこも桜がよく咲いている。帰りに木場公園を歩く。桜も咲いているが、ミモザもまだ満開だった。しかし、昨年まで物凄い勢いで咲いていたのに、今年はだいぶ枝を切られてしまって派手なのは一本だけだった。仙台堀川公園にも桜が咲いていて、枝だが川面に張り出して水に映っているのは見ていてホントにきれいだった。春だ春だ。

***

サッカー元日本代表監督のトルシエがイスラム教に改宗したという。何を考えているんだろうなあ。彼がある選手を使わないのはその選手が創価学会の信者だったから、というのは一部でささやかれていたのだけれど、彼の中で宗教というものはいったいどういうものなのだろう。なんだかよくわからない人だ。

昨日は開幕だったせいかパリーグの試合がテレビで見られたが、今日は巨人のオープン戦しかやっていない。ソフトバンク―ロッテ戦とか見たいんだが。





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マゼラニックブリッジ

2006-03-25 13:03:01 | 雑記
昨日帰京。今朝は朝から原稿に手を入れる。「談志・陳平いいたい放題」を見たり。東京は暖かく、桜も少し咲いている。

マゼラン雲の近くで新しい銀河が生まれつつあると言うニュースは興味深い。マゼランが世界周航の途上に発見したと言うこの小銀河にはロマン的なものが感じられる。大小マゼラン雲の間はガスの流れでつながっていて、マゼラニックブリッジと呼ばれているというのも美しい。

今日はパリーグ開幕。




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