Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

「ニッポン ファイト!」と「公明選挙ハンドブック」

2005-08-31 10:50:00 | 雑記
群馬県選管が「ニッポン ファイト!」という選挙啓発スローガンの不使用を決めたという。新党日本の応援と取られかねない、ということだが、なんだか納得のいくようないかないような。ということは恐らく、「自由で民主的な社会を!」とか「社会を民主的に!」というスローガンも選管としては使えないということになるのだろう。

実は、私の手元に公明選挙連盟編『公明選挙ハンドブック』(良書普及会、1961)という本がある。出版社の名前といい、公明党か創価学会が出している本かと思うかもしれないが、実は公明選挙連盟というのは自治省が音頭をとって作られたと思われる民間の選挙啓発団体なのである。1961年という年代からもわかるが、当時はまだ公明党は存在していない。したがって公明正大という一般的な語を使用したに過ぎないのであって、ある特定の党派を意味してはいなかったわけである。

そういうわけで、ある政党が結成されるとそれまで普通に使われていた選挙用語も使えなくなる、というのは今に始まったことではないようだ。

わずか40年前のことでも、あっという間にわからなくなってしまうものだなと思う。
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朝日新聞記者懲戒解雇/総選挙の苦さ

2005-08-30 08:18:50 | 雑記
朝日新聞の記者が田中知事の取材を捏造してそれを元に記事にし、懲戒解雇になったという。捏造ということがはっきりした以上、その処分は当然だろう。しかしこの話の向こうには、NHKと対立したときの朝日新聞の問題が見えてくる。あの話はまだ中途半端なままであるように思うが、これからどんな展開があるのか。

きのうは友人と話したり、『王様の仕立て屋』を全巻読破したり、『ローマ人の物語』を読み進めたりしていたら時間がなくなってしまった。歴史に関して広がりのある話を、ここにではないが、書きたいなと思っていて、色々アイディアを出しているのだがどこまで現実性があるのかよくわからない。チャレンジしてみる価値はあると思うのだが、さて。

総選挙公示日。今日から本格的に選挙戦。なんというか、権力争いとしては面白いが、政治問題としては、どの党が拉致問題を解決する意欲があるのかとか、中国の軍拡やアメリカの横暴に対処する力があるのかとか、そういうことはあまり問題にされていない。結局それは、自民党以外にそれが出来ないからなのだろうか。もちろん自民党も非常に不十分なのだが、民主党等はそれ以下である。結局今回の総選挙も、そういうことから判断を下さざるを得ないのかと思うと今からいささか苦い。
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スノッブな薀蓄話を一般読者に読ませる方法/皇帝カリギュラと小泉首相の共通点

2005-08-29 10:35:06 | 雑記
結局八代英太が無所属で東京12区に立候補するようだ。このどうということもない話がニュースになるのは、公明党のプリンスと言われているらしい太田氏がここで立候補することである。自民党執行部はここを自公協力で太田氏の当選を図ったのが、八代氏の立候補により自民投票が割れてしまうことを懸念したのである。しかし、そこまで太田氏に気を使うのもどうも奇妙な印象を受ける。郵政民営化賛成の公明党候補に反対の八代候補がぶつかることもまた選挙民に選択肢を与えることであろう。結果的に筋が通ることになったと思うし、ただこれがどのように影響を及ぼしていくかは考えるべきだろう。

昨日は午後丸の内の丸善に出かけ、大河原遁『王様の仕立て屋』1・2巻(集英社)を買う。そのままお茶でもして帰ろうと思っていたら、一階で塩野七生『ローマ人の物語17~20 悪名高き皇帝たち』(新潮文庫)が発売されているのを見つけてしまった。一括で買おうかとも思ったが、買ってしまうと読み耽ってしばらく身動きが取れなくなる可能性もあるので17・18巻の2冊だけ買った。果たして勘は的中した。

『王様の仕立て屋』は昨日の日記でアニメオタクっぽさが頂けない、と言うことを書いたが、第1巻はそういう感じはあまりなく、第2巻からぼつぼつそういう雰囲気がにおい始めていると言うことを知る。仕立て屋の町・ナポリを舞台にした若い日本人の天才仕立て屋の活躍、という設定自体まず現実離れしているが、ナポリにフィレンツェの大学のバザーで手作り品を売っていたことからスタートした女子大生上がりの巨大服飾グループが殴り込みをかけるという話でどんどん現実離れしていく。これによってアニメオタク垂涎の美形女子を大量に登場させられるフリーハンドを得、オタクくささが満開となっていくようだ。

しかし、実際このマンガで語られる多くの薀蓄は興味深いものが多い。服飾に関するルールというものは私などもあまり知らないし、仕立てひとつで人は健康にもなり病気にもなるとか、ワイシャツ一枚に80万円出す社会の話とか、へえってなもんである。

この手の話、どうしてもスノッブになっていかざるを得ないが、『美味しんぼ』や『レモンハート』、あるいは『ギャラリーフェイク』でもそうだがあまりスノッブになりすぎると日本人の一般読者がついていけないので、一般読者に近づける努力が色々行われる。『美味しんぼ』も途中から全く面白くないギャグが多用されるようになって興ざめだったが、『王様の仕立て屋』の場合は現代のアニメオタク小僧の標準に近づけることによってそれを解決しようとしているのだと思う。『レモンハート』のようにほのぼの路線に行くというのもある種の安定感があるし、『ギャラリーフェイク』のように現代の政治や社会問題に関連付けたり従業員でありアラブの大金持ちでもある女性との恋愛話を絡ませることによってあまりのスノッブ化を防ぐという工夫もある。

私などからすると『ギャラリーフェイク』の行きかたが一番読みやすいが、時にあまりに絵空事になることもあるし、難しい。『王様の仕立て屋』のようにナポリの話になってしまうと、まず日本と関連付けること自体が難しいし、逆にネタはナポリから持ってきても登場人物やストーリー自体は全く日本的にしてしまうというやり方は実は結構頭いいかもしれない。しかし、これが実際の南イタリアだ、と思う人は皆無だろうなあと思う。まあそれはそれでいいんだろうと思うけど。

『悪名高き皇帝たち』はアウグストゥスのあと、ユリウス=クラウディウス朝のティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの4人の皇帝の物語である。今回読んでいて思ったが、『ローマ人の物語』は歴史学者の言う歴史でもなく、かといって小説とも言いにくい。文字通り、『物語』というのが一番良く当てはまる作品である。解釈や想像はふんだんに加えているが、史実には忠実である。語り手や敵役として史実に登場しない人物を出したりはしない。そういう意味で司馬遼太郎の『燃えよ剣』的な歴史小説ではないのである。しかし、解釈や想像は人間観察に基づく部分がほとんどであるから、歴史家がこだわる実証的な証拠とはいえない根拠が多く、歴史書、とは言いにくい。やはり一番ふさわしいのは「物語」という言葉ではないかと思う。

ちょっと驚いたのが、クラウディウスの話がいきなりナポリ湾の景勝地、カプリ島の皇帝別荘地の話から始まったことだ。ナポリの仕立て屋の話なんてものを読んでいること自体が私には珍しいのに、カプリ島に隠遁しそこから元老院に指令を出して帝国を統治した老皇帝の話を読むとは思わなかった。ユングが共時性(シンクロニシティ)ということを言うが、こういう偶然は私にもよくあるので、非常にそういうものを意識させられる。

今のところ読んだのはティベリウスとカリグラの部分だけ(17・18巻)であるが、ティベリウスという皇帝の有能さと暗さというようなことは印象的だ。ティベリウスは人嫌いで晩年はカプリの別荘にこもりきりになっていたため異常な性的嗜好に耽っていたという憶測が生まれ、ナポリ人は現在でもそれを信じているらしく、『王様の仕立て屋』の中にもティベリウスが青の洞窟の中で裸の美女を泳がせ品定めをしたという話が出てくるが、塩野はティベリウスについてそういうことをいっているのはイェロウペーパー的な歴史家であったスヴェトニウスだけだとしてその話の信憑性を否定している。

で、カリグラのほうは頭は悪くなかったが自分の思いつきでショウ的な政治を行い、ついにローマの国家財政を破壊して暗殺された皇帝として描かれている。パフォーマンス(のみの)政治の元祖という感じである。次々にサプライズを繰り出して国民の支持を得ようとしたりするところ、また自らを神格化させようとするところなど、つい小泉首相を思い出して笑えて来る。この単行本が出たのは1999年のことだから小泉首相の登場前なのだが、彼に対する皮肉として書かれていると思っても読めるところが面白い。

考えようによっては小泉首相は「郵政民営化という政策」を「神」のようにあがめる「司祭」と見えなくもない。物神化された政策というのも珍しいが、金正日の核の脅し政策や盧武鉉の親日派あぶりだし政策のようにあまり現実的とは思えないが国民をめらめらと枯葉のように燃えさせる物神化された政策を取る東アジアの「指導者」たちとある意味にているかもしれない。イギリスなどと違い、思い込みの強い政治家が人気を得る土壌がどうしても東アジアにはあるのかもしれない。

カリグラを暗殺した「刺客」は彼が幼少のころから彼に付き従ってきた近衛兵の大隊長だったというが、小泉首相はさて、どうなるか。
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『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』/『王様の仕立て屋』

2005-08-28 12:37:18 | 雑記
午後から神保町に出かけ、本を物色。東京堂ふくろう店で『美輪明宏のおしゃれ大図鑑』(集英社)を買い、書泉ブックマートで大河原遁『王様の仕立て屋』7巻(集英社)を買う。

『おしゃれ大図鑑』は中原淳一、アールデコ、美しい日本語、色使い、竹久夢二、高畠華宵、内藤ルネ、寺山修司、フジ子・へミング、バロン薩摩、古きよき日本映画、新庄やイチローの美学、椿姫、歌舞伎、エディット・ピアフと、美輪氏が影響を受け、あるいは与えてきた人々、また素晴らしいと感じている人たちについて非常に広範に語り、また絵や写真をふんだんに紹介していて非常に読みごたえ、見ごたえのある一冊になっている。美輪氏は今年70歳だが、70になったときにこれだけ絢爛たるものを提示できる人生と言うのは凄いものだと思う。私自身が芸術的に、あるいは人生の上で影響を受けたものを一覧にしたらどんな感じにあるだろうか。美輪氏ほどではないにしても、それなりに絢爛たるものに(自分にとっては、だが)なるだろうなとは思う。こういうものがあると楽しいし、勉強になる。

『王様の仕立て屋』ははじめて読むマンガで、アニメオタク的な描写が拒絶反応を引き起こしたが、ストーリー的にはなるほどと思ったり何より洋服や靴に関する知識が知らないことが多くて読んでいてためになる。アニメオタク的な、無意味に肌の露出が多い若い女性の描写とか、変なフォントでまくし立てる吹き出しの多さとか、ボケがぼけた時の巨大な水玉の汗をかいたり目が線になったりする描写はどうも嫌悪感が先に立っていけないが、これも考えてみたらギャグの場面になるとヒョウタンツギが出てきたりする手塚治虫の作法のひとつのヴァリアントと考えれば考えられなくもない。ただ、アニメオタク系の作家がみんな同じような描写をすることがどうかなと思うのだが、それもまあひとつの『族』になってしまっているのかもしれないな。あまりそういうものに近づきたくはないのだが、読みたくなくても面白ければやっぱり読むのだろう。ああ鶴亀鶴亀。
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日本がアメリカの属国から抜け出すためには

2005-08-28 12:17:10 | 雑記
昨日朝帰京。帰りの特急の中で、『八月十五日の神話』を少しと佐島直子『誰も知らない防衛庁』(角川Oneテーマ21)を読む。

『誰も知らない防衛庁』は日本の防衛問題、防衛庁・自衛隊の日常業務の断面、各国の駐在武官との付き合い、一番大きな問題である在日米軍との関係などにおいて、周囲からは知ることの難しい面が色々書かれていて非常に面白い。冷戦構造の崩壊の中で旧東側諸国の駐在武官が身の振り方が難しくなり、北京で亡命し行方が分からなくなったポーランドの武官の話、チャウシェスクが倒れたとたんに西側と同様に扱うことを求めたルーマニアの武官の話など、国家に直接関係するだけに国家が倒れると行き場を失ってうろうろせざるを得ない軍人という職のある種の悲哀のようなものを感じさせれられた。昭和20年には日本にもそういう軍人が膨大にいたのだろうなということに思いをはせる。

在日米軍の防衛庁にかける圧力の強さというものにも驚いた。そうした側面は普段はあまり感じさせられないが、軍事的政治的には日本はアメリカの属国だ、というブレジンスキーだったか誰かの発言は彼らの実感としては確かにあるのだなと痛感させられた。防衛庁主催のパーティーで、招待客を在日米軍司令部に知らせたら、副司令官がその顔ぶれに文句をつけ、副司令官の『命令(Order)』という形で防衛庁に要求を突きつけてきたという話には驚いたし怒りを禁じえなかった。佐島氏は防衛庁の方針を曲げず、その『命令』に添った形であまりに階級の低いものを随員という形で処理したりして出席者をアレンジしたというが、その『命令』を断れない防衛庁というものにも不満を感じる。

また、パウエルが統合参謀本部議長のときに羽田に来日する際もアメリカ側から全く連絡がなく、慌てて担当者に連絡したら「日米地位協定第5条にはアメリカがアメリカの都合で行う運行に関しては日本側への連絡が求められていない」と言われてその対応にかなり苦労した、と言う話も驚いた。横田基地やその他米軍基地への運行に関してはおそらく実質的にそうなっているのだろうが、過密ダイヤが問題になっている羽田への飛来が同じ基準で扱っていいと言う米側担当者の認識もひどいが、そのように定められている日米地位協定というものが根本的に不平等であると言うことも非常に問題であると感じた。

やはり、基本的に外国軍隊が日本に駐留することは将来的には絶対に解消していかなければならないし、そうなったときに中国やロシアの脅威と対抗できるだけの自衛力を持たなければどうにもならない。一線で在日米側と折衝している防衛庁職員が感じているであろう屈辱は、占領時代にGHQから「指令」を受け取ってくる役人たちが感じた屈辱と根本的に同じものなのだと思う。それが一般国民に知らされていないのは、ちょっと問題があるのではないかと思う。

佐島氏は現在専修大学経済学部で教鞭をとっておられるが、この本は一方では娘を抱えて在日二世の婚家を出て26歳で防衛庁に就職し、(娘は3歳)庁内でさまざまな職を経てセクハラや付きまとい、米軍軍人からの言い寄られなど一線で働く女性が経験する可能性のあるさまざまな困難を乗り越えて活躍し、娘さんが19歳で亡くなったのをきっかけに退職された、その個人史でもある。詳しい事情に立ち入ることは出来ないが、おそらくは非常に正義感の強い、まじめで有能な女性であり、であればこそ男社会の少数派として非常に多くの困難に直面してこられたのだろうと思う。娘さんの中学の同級が川口前外務大臣の娘さんで、川口氏はその卒業式でよくここまで育ったと泣き続けていたという話も、川口氏と言う人物を見直すきっかけになった。

私は正直言ってフェミニズムは嫌いだし賛成できないが、私自身がいつもどういうわけか少数派、あるいは孤立した状態になってしまうと言う傾向があるために、男社会の中で孤軍奮闘している女性と言うのには非常に同情するし共感もする。当たり前の権利のような顔をして安住している女性には反感を持つが、孤軍奮闘して自ら道を切り開いてきた女性には何の違和感もない。ただ「正義感が強くまじめで有能」、と言う人間はそれだけで周りの嫉妬を受けやすいし誤解も招きやすい。また、人間の弱い面、醜い面と言うのがよく見えないし理解も出来ないために足をすくわれやすい。そこをタフに乗り切っていくことが求められているわけだが、日本という社会はなかなかそういうことが難しい構造になっていることもまた事実である。

最後の娘さんの事故とも自殺とも知れぬ転落死の描写の場面では、ちょうど列車は国分寺のあたりの緑の多いあたりを走っていたが、涙が出てしかたがなかった。国を思う真のエリートがきちんと待遇されるまともな国家に、日本も早く復帰して欲しいと思う。
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駒苫処分/マドンナ候補と小泉首相の勘違いぶり

2005-08-27 23:59:58 | 雑記
昨夜は財布を家に忘れるという大失策で特急を乗り逃がし、朝一の電車で帰京。といっても普通電車で甲府まで行き、甲府で乗るべき特急に乗った。窓の外の景色は特急と同じようでいて、がらがらの普通電車から見ると雰囲気が全然違う。富士見あたりのちょっと峡谷っぽいあたりなど、雲が湧いていて仙境とはこんな感じかと思ったり。列車の速度によって見えてくるものが全然違うというのもどうしてだろう。

列車の中で読んだ本のことやら、夕方でかけて買った本のことやら書くのはどうも疲れていて機会があったらまた明日。そういえばつくばエクスプレスも開通したな。一度乗ってみたいと思っているのだが、明日あたりは混むかな。

駒苫の処分はまあ温情的なものになった。まあそんなところだろう。多分、さまざまな特殊事情を考慮しているだろうから、これが前例となるとは思わないほうがいい。岡山城東高校の監督がやはり暴力で処分され、アジア選手権のコーチを棒に振ったらしい。長野県でも少し旧聞に属するが岡谷工業のバレー部の監督がそれで辞職した。高校スポーツというのは結局指導者次第だから、そうなるともうそこのチームは浮かび上がらないだろう。

またチームを強くする非常に熱心な監督というのは人間的にやや極端な部分があるという指摘もある意味当たっている。生徒が一生懸命練習して強くなったのに監督の暴力の問題で処分されるのは生徒が可哀想だと言うが、もともとその監督の元でやるために集まってきた生徒なのだから、通常は多少厳しくても耐えなければ意味がないのだが、まあ強くなるとあやふやな動機の生徒も多くなり、また足を引っ張ろうという人物も校内外で出てくるのはどんな世界にも嫉妬というものがあるだけに難しい。

まあなんというか、「国民的スポーツ」である高校野球が結局のところ色々とある世界であることは「国技」である大相撲の世界とあまり変わらない。色々とあるその加減がまあ実に日本人的であるとともに日本人の現況を反映して浅ましかったりするのは目を覆いたくなる。

それにしても高野連が大阪にあるのは初めて知った。

***

児玉誉士夫が日韓条約に絡んでいることはどこかできいたことがあるが、ナベツネが裏で動いていたことは初めて聞いたんじゃないかなという気がする。

***

刺客に送り込まれたミス東大とか言う元大蔵官僚のことを、立川談志がMXテレビで髪形は古いし顔はひどいといっていたが、近来になく腑に落ちる発言だった。マドンナだの何だのと持ち上げているが、擁立する方もされるほうもなんだかかなりの勘違いがお互いにあるような気がする。その勘違いに当人たちが気がついているならユーモラスということですみそうだが、気がついていないので滑稽というしかないなという気がする。

なんていうか、誰か「王さまは裸だ!」ってことをうまく言ってやれないものか。しかし投票日までには勘違いの化けの皮も少々は剥がれてくるかもしれない。まさに時間が薬だ、ということだが、しかし私自身今度の選挙でどっちに乗るべきなのかあまりまだよくわからない。八代英太の問題がぐずぐずしているのを見ると、どうも比例区で自民にあまり入れたくない気がする。反対者非公認原則をいまさら緩めるのも理不尽だし、全面的に降伏して公明党との選挙協力に協力的だという理由で温情をかけるというのもなんだかバカにした話だという気がする。進駐軍が群がってくる子どもたちにチョコレートをばら撒いている、そうした風景に見えてきて、不愉快である。

多分この調子ではさまざまなところから小泉戦略が綻びて来るだろう。相撲は立会いが勝負だが、選挙は直前の打っちゃりが世の常である。

それにしても魅力的な政治家が出てこないものかな。魅力的に見える政治家ではなく。各選挙区にそういう候補が出れば、投票率などいかようにも上がると思うけれども。
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台風、菅直人、駒苫、人民解放軍の台湾上陸作戦

2005-08-26 11:26:36 | 雑記
穏やかな雨は降ったが風は吹かず、あれ、と思っているうちに台風は行ってしまった。夜のニュースでは台風情報ばかりで困ったが、首都圏直撃となるとそうなってしまうのだなと思う。自分が東京にいるときはどうも思わないが、コースから外れたところにいるとほかのニュースもやってほしいと思うくらいには、人間が勝手な生き物だ。

切符を駅に取りに行くと、駅前のデパートの前で管直人、もとい菅直人が演説をしていた。生菅を見るのは何年ぶりか。「このような田舎町では郵便局は必要なんです!」などと演説していたが、この街には数十年前の繁栄(といってももちろん田舎なりにだが)の思い出の中に生きている人がたくさんいて、そういう人たちはこの町を「お町(町に「お」がついてる。田舎とは違ってエライという意識がある)」だと思っていて、「田舎」呼ばわりされるとむっとする人がいるんじゃないかと思った。応援演説に来る中央の政治家というのはそういう地域の微妙なアヤがわからない。それが当落に影響するのかどうか、まではわからないが。だいたい応援されていた民主党の候補の人がどういう人か、まるでわからない。

朝は曇っていたが、今は全く台風一過の青空で、強い日差しが戻ってきた。もう秋になりかけたかと思っていたが、どっこい夏も死んでない。

駒苫の問題については昨日は奥歯に物が挟まったようないい方になってしまったが、こちらのようなジャーナリストが取り上げているし、おおむね私の思ったような感じだが、変に推測で物を書かなくても真相は明らかになっていくだろうから、とりあえず書くのはやめにしようと思う。学校側もどうも「被害者」側に「謝罪」したくない事情があるようで、高野連に「謝罪しろ」と「命じられる」形を取ってから言われる通りにします、という方向性を取っている。ただ対応がまずいというだけでなく駆け引きのようなものも感じられるし、裏の事情がいったいどうなっているのか、歯に衣を着せているというかなんというか。

政治の方も一段落したのか、森前首相が小泉首相と会食し今度はご馳走だったとゴキゲンだったとか、国民新党が公明党の重点選挙区である東京12区に公明党を敵に回したくないという理由で候補者擁立を見送ったとか、チンケなニュースしかない感じ。

まあしかし、そんなのんきな国内のニュースとは異なり、中国とロシアは合同軍事演習を行っているが、人民解放軍の台湾上陸作戦のシミュレーションがネットにリークされたという。この映像だけでは真偽の程ははっきりしないが、しかし台湾統一を「大義」とする中共政府がそうした研究を行わない方が不思議なわけで、いつも爪を研ぎ角を磨いている巨大な軍拡国家が隣にあることは忘れてはならないと思う。
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駒大苫小牧

2005-08-25 14:09:09 | 雑記
教員の側が、いくら教師一年目の27歳の青年とはいえ、どんな生徒を相手にしてでも切れてしまったのはまずいということには反論しても仕方がない。世の中はそういう建前で動いているし、その建前はそう簡単にゆるがせにすべきものではない。

ただ、教員の経験者から言わせてもらえば、そして現役を辞めたものの立場から言わせてもらえば、常識的な対応では学校教育の現場に適応させるのが非常に困難な生徒がいることは事実である。そしてそれは生徒だけではなく、保護者の側も学校教育に適応させようと言う意識が欠落していることも多い。

今回の事件の実態がどういうことなのか、もちろんよくわからない。そして、恐らくは現在日本で最も建前を厳正に適用してきた高野連という組織が、この事態にどう対応するかはかなり難しい問題だと思う。

私もある程度はそうした状況に体を張って対応してきた(もちろんしきれたとは言えない)意識はあるが、そんなことに体を張ること自体が無意味なものに感じられてきたので結局現場を退かざるを得なかった。そんな辞め方だったせいか、終業式の朝に高熱を発し、生徒にさよならを言って数日後に入院、ということになってしまったが。

多くの学校教育の現場は、建前だけで運営していくのは、既に限界に達している。それでもなお建前のみを主張していく人権派弁護士や「弱者の味方」の政党などの圧力で、学校現場はさらに難しいものになっているという現実がある。教育の理念を守りつつ、常識では推測しえない実態をいかに掬い取り、改善していけばよいのか、もっと社会全体で議論していくべきことであるように思う。

おりしも総選挙の前哨戦である。この選挙でも、ぜひどうしたら学校がよくなるか、教育が向上していくか、そうした議論も戦わせてもらいたいと思う。

駒大苫小牧高校の事件について、入ってくるさまざまな情報に接しながら考えたことである。
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総選挙の争点:マネーゲーム国家かもの作り国家か/思想遍歴と花咲く年代/履中天皇千六百年祭

2005-08-25 08:46:17 | 雑記
昨日は多忙。仕事も次々と出てきてずっと夜まで。終了後、仕事場の無線LANを更新したのにあわせて自分のノートのLANカードを設定してもらったが、思わぬハプニングがいくつもあり11時過ぎまでかかる。その後夕食、入浴。1時過ぎに寝たがしばらくして久しぶりに左足がこむら返りを起こし、その措置に追われる。いや参った。

今朝は起床7時過ぎ。やはり6時前後には起きないと時間が足りなくて困る。今回は佐島直子『誰も知らない防衛庁』(角川Oneテーマ21)と佐藤卓己『八月十五日の神話』(ちくま新書)を持ってきているがそれぞれまだ84ページ、34ページしか読み進めていない。ふと気がついたが佐島氏は昭和30年生まれ、佐藤氏は35年生まれである。私は37年だから、同じ30年代生まれの人の著作を全然何も意識せずに読んでいる。

私が意識するのは著者の「感覚」だが、佐島氏のほうがなんとなく理解しやすい。佐藤氏のほうはちょっとずれがある感じがする。同じ年代に生まれ、同じような戦後史観の中で育ってきても、佐島氏は『坂の上の雲』などを読んで登場人物について弟と論じ合うような家族環境で育ってきたことが書かれているけれども、佐藤氏のほうは戦後史観の中でも客観的な視点に立とうという意識を持った人、という感じである時期自分がいた地点に今でも居続けている人、という感じがする。

私は佐藤氏の視点から離れて佐島氏の視点に近づいているということになる。私の世代にも私のようないわば思想的な変遷を経た人というのはもっといるはずなのだが、まだあまり著書などで見かけることは少ない。幼少から40台まで一貫して同じ「城」の中で育ってきた人、というのはそろそろ花が開くころ、という感じなんだなと思う。ここではない、ここでもない、と思いながらいろいろな場所を探しつづけてきた人は、文学者とかならまだしも、一貫した業績を上げるべき学問の世界ではまだ実りをあげられる時期ではないのだろうなと思う。まあそう思って私なども励むしかないなと思う。

西村真悟代議士の日記を読んでいて、印象に残ることが二つ。

一つは両陛下の大阪への行幸啓について。天皇皇后両陛下が22日に履中天皇陵に行幸啓された、という記事はどこかで読んだが、それは履中天皇の千六百年祭のためだったという。履中天皇は第十七代で、仁徳天皇の後継者である。日本書紀によると在位期間はわずかだったが、御陵の大きさは仁徳陵・応神陵に次いで三番目だったように記憶している。千六百年際ということは西暦405年に亡くなられたということか。まあ在位時期については議論があるだろうけれども、西村氏が言うように同じ皇統に属する現君主が千六百年際を執り行うという国は多分他にはないだろう。皇統の存続についてはいろいろな意味で微妙なというかある意味おためごかし的に断絶を図ろうとする勢力も存在することは残念だが、古代のストーリーに思いを馳せてみることも、今後の日本を考える上でより豊潤な未来像を描くことに資すると思う。

もう一つは今度の選挙の位置付け。堀江氏の立候補によってより明確化したのがアメリカのマネーゲーム立国と同じ路線を日本も取ろうとする小泉首相とその御用学者の竹中氏の路線であるという位置付けのしかたである。

90年代の日本が新しい分野の「産業」で遅れを取り、「失われた10年」を招いたという議論があるが、新しい産業というのはさまざまな金融技術により利潤を、製造や販売などのルートを迂回せず直接的に取得する方法と、バイオテクノロジー、情報産業などのことを意味しているのだろう。私にはよくわからないが、バイテクといってもゲノムの解析などのことを考えると、それもまたある種の「情報」を扱う産業だと考えてもよいのかな、と素人考えをしている。それらはつまり、おおむねPCの前に座って何かをやることが業務の大半を占める分野なのかなと想像している。その方面の事業を行っている人からは反論を受けそうだが。

日本が戦後、現在の国際的地位を築いたのは、結局ものつくり、つまり製造業であるという視点があるが、まあそれはかなり正しいといってよいのだろう。つまりは『プロジェクトX』の世界である。日本において製造業が成功した理由についてはいろいろと考察されてきているが、製造業というものが日本の伝統的な国民性に合致していた、という面はあると思う。

まあしかし、たとえばロケットの打ち上げのような巨大なプロジェクトになると最近ミスが目立つのはその職人的な注意性が失われつつあるということが原因というよりは、もともと日本人はそうした巨大で精密なプロジェクトを実行することはそんなに得意ではないということなのではないかという気がする。つまり、細部を精密にすることについてはかなり超絶的な技術を持った人が多いとは思うけれども、その全体の構築を精密性を維持したまま実現することはあまり得意ではないのではないかと。たとえば江戸幕府の組織などを見ても、細部はきちんとしていても全体がなんとなく緩んでいる、と感じることは多い。旧陸軍の大東亜戦争における戦闘などを見ても、細部の訓練は行き届いていても、全体としてみるとなぜ、というような判断ミスが多く見られる。

そうしたことの起こる最大の原因は組織の肥大化にあるわけだが、たとえばアメリカなどでは部分は結構いいかげんででたらめでも全体に見るとかなりよく統御されているという印象を受ける。部分は精密でないのに、全体的に見た精密さでは、大きくなればなるほど精密度はアメリカの方が上だ、という印象を受けるのである。

西村氏が主張するのは、今度の選挙は日本はマネーゲーム国家を目指すべきなのか、それとも「ものつくり国家」を目指すべきなのか、の選択の選挙だ、ということなのだが、「マネーゲーム国家」への道筋は結構見えやすい一方で、「ものつくり国家」への道はそんなに平坦ではない、今までの日本には欠けていた部分をかなり何とかしなければいけないという現状があるように思うし、そういう意味での「ものつくり国家」への道筋はあまり見えてきていないように思う。

まあマネーゲーム国家になってアメリカと同じような「勝ち組」になろう、という主張は軽薄だが理解はそう難しくない(もちろんそんな二番煎じをしてうまくいくんいかいなという視点はあってしかるべき)。しかし、「ものつくり国家」のイメージはなかなかつかみにくい。よく言われるのは、日本にしかない技術、というのがたくさんあって、(たとえば金型製造とか。もうずっと昔に聞いた話だから既に古いかもしれないが)そうした技術がある限り、日本は「世界に必要とされる」国家でありつづけることができる、という主張である。まあこの当たりは私は現場のことをよく知らないのでよくわからないが、まあ理屈ではわかる。しかしまあなんとなく世界の中の中くらい、という印象ではある。それで国民がよければいいのだが、なんとなく人口一億数千万の国家の戦略としたら貧しい気はする。そうでもないのかな。

まあ私としてはやっぱり文化とか伝統とかを大切にし、またそうした意味で世界のある部分を主導できるような国家国民になってほしいと思うけれども、そういう面でも経済の裏づけは必要だということは確かだ。また、そうした文化のあり方と経済のあり方がやはり切り離せないのであれば、軽薄なマネーゲーム経済は軽薄な文化しか生まないだろうから、後者の方がいいのかなとも思う。

どちらにしてもなかなかイメージが十分に湧いてこないところだが、それでもこのくらいは湧いてくるくらいは、今回の選挙は面白い選挙なのだと思う。
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サライを読んだりコナコーヒーを飲んだり

2005-08-24 15:27:56 | 雑記
昨日帰郷。列車の中ではずっと『サライ』を読んでいた。掛け軸の見方の特集が興味深い。この手の雑誌、読み始めると結構面白いな。ライターの書いた記事もそんなに深いものではないが、気軽に読むにはちょうどいい感じだ。ビジュアルが先行しているのもあまり疲れないで読める大きな原因だろう。

昨夜は普通に寝たのだけど、今朝起きたら8時40分で驚いた。東京では夜も寝苦しくてろくにきちんと眠れなかったが、こちらは夜は20度以下になるし、久しぶりにぐっすり眠れたのだろう。それはよかったのだが、おかげで朝はずいぶんあわただしくなった。松本に出かけ、途中知人宅により、戻ってきて昼食を取って少し話をしていたらもうこんな時間だ。もう仕事に出かけなければならない。

あまり大きなニュースもないようだ。駒苫の事件は、なんだか後味が悪い。そのほかは特になし。土産にもらったコナのコーヒーを飲んでいる。ハワイで飲んだらどんな味なのか。
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