『誰も見てない』
志賀内泰弘
エリはお婆ちゃん子だった。
幼い頃から、何かあると一番に、お婆ちゃんに報告する。
「お婆ちゃん、今日ね、テストで90点取ったよ」と言えば、「えらいねえ」と褒めてくれた。
エリの両親は二人とも学校の先生をしていた。
8時よりも前に帰ってきたことがない。
だから、お婆ちゃんといつも一緒にいた。
特に、夏休みは家にいると一日中、二人きりだった。
特に今週は、両親とも泊りがけの学校行事で家を留守にしている。
「行って来ま~す」
「どこ行くの?」
「うん、今日も部活」
「ちゃんと、鏡を見ていきなさいよ」
「いいよ、どうせ練習したら汗まみれで、頭もクチャクチャになるんだから」
エリは、中学でバスケットボール部に入っていた。
夏休みの前半は、朝練がある。
「だめよ、どこでいい男に会うかもしれないんだから」
「いやだぁ、そんなのいいよ」
と言いながらも、エリはお婆ちゃんの部屋にある姿見の前に立つ。
胸のリボンを結び直す。
制服のスカートをポンッポンッと軽くはたいた。
「じゃあ、行って来ま~す」
「はい、行ってらっしゃい」
いつもと変わらぬ朝だった。
部活の帰り道、リョーコに誘われて、駅の近くのファンシーショップに寄った。
リョーコはキティちゃんにハマっていて、ケータイのストラップから文房具、パジャマまでキティちゃんだ。
二人で当てもなく店内をぐるぐると回る。
「え!?」
エリはリョーコの顔を見た。
こっちを向いて、舌をペロッと出した。
リョーコは、手に持っていたキティちゃんの小さなポーチをスポーツバッグの中に入れたのだった。
(え? 万引き?)
エリは、呆然として立ち尽くしていた。
そのすぐ目の前で、リョーコはキティちゃんのハンカチを再びバッグに投げ入れた。
そして、エリの耳元でささやいた。
「大丈夫だよ、ここはカメラもないんだから」
監視カメラのことを言っているらしい。
リョーコは、「エリにもあげるよ」と言った次の瞬間、棚のハンカチを掴んだかと思うと、エリのカバンにねじ込んだ。
エリは血の気が引くのがわかった。
身体が強張って動かない。
気が付くと、リョーコは店の外へ何食わぬ顔をして向かって行った。
「リョーコ」
と言葉にならない声を発して追いかける。
気づくと、駅前のハンバーガショップの前まで来ていた。
リョーコが言う。
「大丈夫だって~」
「・・・」
エリはまだ声が出ない。
「あの店はさあ、女の人が一人レジにいるだけでさあ、奥の方は見えないのよ」
「だって・・・だって、これって万引きじゃないの」
「エリだって、持って来ちゃったんじゃないの?」
手にしたカバンから、ピンクのタオル地の小さなハンカチが顔を覗かせていた。
「誰も見てないって」
「だって」
「あそこの店はさあ、有名なのよ、やりやすいって。みんなやってるんだから」
「・・・」
「じゃあ、明日またね」
リョーコはそう言うと駆け出して行った。
エリは、リョーコの言葉を心の中で繰り返していた。
「誰も見てない、誰も見てない」
その証拠に、店の人は追いかけても来なかった。
「誰も見てない、誰も見てない」
家に着くと、ますます恐ろしさが募っていった。
でも、それを打ち消すように、何度も心の中で呟いた。
「誰も見てない、誰も見てない」
そこへ、お婆ちゃんに呼ばれた。ドキリとした。
「え?」
何を言っているのか聞こえなかった。
「な、何、お婆ちゃん」
「エリ、今日の昼ご飯は、デニーズに行こうかねぇ」
「う、うん」
「じゃあ、早く着替えておいで、玄関で待ってるわよ。ちゃんと鏡も見ておいでよ」
制服から真っ白なTシャツと膝までのジーンズに着替える。
心のモヤモヤは大きくなるばかりで、爆発しそうだ。
(どうしよ。お婆ちゃんに相談しようか。でも、心配かけちゃダメだ)
「誰も見てない、誰も見てない」
と、まるで呪文のように繰り返す。
たしかに、誰も見ていない。
店員にも気づかれなかったし、他にはお客さんもいなかった。
これからだって、黙っていれば誰にもわからない。
「誰も見てない、誰も見てない」
ふと、姿見に映った自分の顔を見て驚いた。
真っ青な顔をしていた。
それも少し黒ずんだような。
エリはハッとした。
見ていた。
そうだ、見ている人がここにいた。
誰も見ていなかったけれど、私が見ていた。
私の目が、私の心が見ていた。
「お婆ちゃん・・・」
エリは、蚊の鳴くような声で言った。
「どうしたの?何だか顔色がよくないね」
「お婆ちゃん、デニーズに行く前にお願いがあるの」
勇気を振り絞って、すべてを話した。