今回の名言は、空海晩年の著、『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)から、この句をご紹介しましょう。
物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。
(物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。)
悪とは何か―。
人の善悪については、孟子の性善説、荀子の性悪説以来、長く論争されてきました。
空海最奥の教義書たる本著において、冒頭の第一章「異生羝羊心」では、畜生にも劣る、もっとも愚かな凡夫の心性を「第一住心」と称し、一分の善もない全くの悪心、一分の明もない全くの暗心、自らの欲望に終始する、人面獣心のような心のあり方を説いています。
この暗黒の世界に、はじめて一条の光が射し、人の人たる世界が開けゆくのが、第二住心と呼ばれる「愚童持斎心」の段階です。それは倫理、道徳の道が開ける儒教的精神の発揚段階。
そしてよき教えに導かれ、善心がすくすくと伸び育つ、すべての精神の発達可能性も示唆します。
「物に定まれる性なし」は、この宇宙の天然自然において永遠不変のものなど一つもないことを表し、「人、何ぞ常に悪ならん」は、人の心もこの万物変性の法則を受け、いかなる極悪人も生涯、悪に徹し続けることはできない、と説いているのです。
(※参照 【言の葉庵】救われる極悪人『今昔物語』 https://bit.ly/3XFkCPq )
その変化のご縁となるのが、儒教の五常であり、仏教の十善戒(五戒)である、と説明します。
「愚童持斎心」は、幼な子がはじめて他者との接し方を悟った、いわば倫理のヨチヨチ歩きの状態である、ということに注意しなければなりません。人に施したのに、「返してくれない」「感謝されない」と不満に思うかもしれないからです。こうした心の縛りから解き放たれるために、第三から、第十住心へと至る空海の精神発展の階段がここに用意されました。
しかし弘法にも筆の誤り―。この階段は、時につまづいたり後戻りすることもある、と気づくことも大切です。人は悪であり続けることは難しく、逆にいつまでも善であり続けることも、なかなか骨の折れることですから。
以下、『秘蔵宝鑰』の解題と、〔第二 愚童持斎心〕の原文、現代語訳をそれぞれご案内していきましょう。
『秘蔵宝鑰』 弘法大師空海
〔解題〕
淳和天皇の天長七年(八三〇)に各宗の宗義を差出すように命があったとき、弘法大師空海は『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』の二書を献上した。この二部作は空海の数多い著作の中で文字通りの双璧の主著である。
前著の精髄を要約したものが『秘蔵宝鑰』(略称宝鑰)である。書名は秘(密)蔵、すなわち「われわれの心の真実相として秘められている世界」を開示する鍵を意味する。空海がいう心の真実相の世界は、第一住心より第十住心にいたる心の十の発達段階である。これらは動物精神的な世界から、倫理的世界、さらに宗教的世界の目ざめ、そして宗教的自覚の次第に深化してゆく心の発展過程を克明に説き、最後に第十秘密荘厳住心にいたる。現実的にはこの第十住心は空海の真言密教であるが、しかし、第一住心より第九住心までのすべての心の世界は、そうした第十住心に包摂され、かつ一々の住心は第十住心の顕現にほかならないとするのが、空海の十住心体系の基本的立場である。
このように、『秘蔵宝鑰』の全体をつらぬくものは内面的精神の発達相であるが、それとともに見落してならないことがある。それは倫理以前の領域から儒教、道教、奈良仏教の諸宗、平安の天台、真言という移りゆきがそのまま、ほぼわが国における思想史の形成を示しているということであろう。そして本著作は、わが国における宗教的なすぐれた求道の書というだけにとどまらず、稀右の思想書といわなければならない。訓み下しに当り、テキストは『弘法大師全集』所収のものを用いた。
〔原文〕
第二 愚童持斎心*1
夫れ禿なる樹、定んで禿なるに非ず。
春に遇ふときは栄へ華さく。増(かさ)なれる氷、何ぞ必ずしも氷ならん。
夏に入るときは則ち泮(と)け注ぐ。穀牙、湿ひを待ち、卉菓(きか)、時に結ぶ。
戴淵(たいえん)*2、心を改め、周処*3、忠孝あつしが如くに至つては、磺石(こうしゃく)、忽ちに珍なり。魚珠*4、夜を照す。
物に定まれる性なし。人、何ぞ常に悪ならん。縁に遇ふときは則ち庸愚も大道を庶幾(こいねが)ふ。教に順ずるときは則ち凡夫も賢聖に斉(ひと)しからんと思ふ。羝羊(ていよう)、自性な
し。愚童も亦愚にあらず。
是の故に、本覚、内に薫し、仏光、外に射して、欻爾(くつじ)に節食し、数数に檀那*5す。
牙種疱葉(びょうよう)の善、相続して生じ、敷華結実(ふけけつじつ)の心、探湯(くかたち)不及なり。
五常*6漸く習ひ、十善*7讃仰す。五常と言つぱ仁・義・礼・智・信なり。仁をば不殺等に名づく。己を恕して物を施す。義は則ち不盗等なり、積んで能く施す。礼は曰く、不邪等なり、五礼*8、序有り。智は是れ不乱等なり、審かに決し能く理(こと)はる。信は不妄の称なり、言つて必ず行ず。
能く此の五を行ずるときは則ち四序*9、玉燭し、五才*10、金鏡なり。国に之を行へば則ち天下昇平なり。家に之を行へば則ち路に遺を拾はず。名を挙げ、先を顕すの妙術、国を保ち、身を安んずるの美風なり。外には五常と号し、内には五戒*11と名づく。名、異にして、義、融し、行、同じうして、益、別なり。断悪修善の基漸、脱苦得楽の濫觴*12(らんしょう)なり。
*1愚童持斎心 愚童は凡夫を指し、持斎は戒律に則った生活をするという意味である。空海の十住心体系の第二である、愚童持斎心は節食し布施をするなど道徳に目覚めた状態であり、儒教などにあたる。
*2 戴淵 他人の船を襲い、掠奪しようとしたが、却って教誠され、改心して趙王に仕え予章太守となる(『晋書』)。
*3 周処 初め暴悪乱行であつたが、老父の訓誠によって改心し、呉王の忠臣となったという(『晋書』)。
*4 魚珠 鯨の目。
*5 檀那 danaの音写。布施すること。
*6 五常 仁、義、礼、智、信。この一節は、善心の実践として第二住心の当分を述べる。
*7 十善 不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貧欲、不瞑志、不邪見。
*8 五礼 古、凶、軍、賓、嘉で、周礼の説。
*9 四序 春夏秋冬の四季和順なることをいう。
*10 五才 五才は木、火、土、金、水の五行。この五行が各々その位を保って混乱せず、金鏡のように明了であること。
*11 五戒 不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。
*12 濫觴 揚子江のような大河も源は觴 (さかずき) を濫 (うか) べるほどの細流にすぎないという、『荀子』子道にみえる孔子の言葉から。物事の起こり。始まり。起源。
(『日本の思想 1 最澄・空海集』筑摩書房 1973.8.30)
〔現代語訳〕
そもそも裸の枯れ木は、いつまでたっても枯れたままではない。春になれば、芽ばえて花が咲く。厚い氷も、いつまでも氷ったままではない。夏になれば溶けて流れ出すのだ。穀物の芽も湿気があれば発芽し、時至れば実をもむすぶ。
戴淵は陸機にいましめられ、改心して将軍になった。周処は老父にいましめられ、忠孝をつくす人となった。原石がみがかれて宝石となり、鯨の目が夜を照らす明月珠となったという伝説の通りである。
物には定められた性質はない。どうして人はいつまでも悪人であり続けることがあろうか。ご縁があれば、愚かな者でも大道を志すのである。教えにしたがえば、凡人も聖賢を目指すではないか。「羝羊」とても、それ自体固定の性質ではない。愚か者もまた愚かなままでいるわけではない。
ゆえに本覚が心の内に起こり、目覚めた者の光が外にかがやき出せば、たちまちに自らの欲望をおさえ、しばしば他の者へ施すようになる。あたかも、樹木の芽が種より芽ばえてつぼみとなり葉がのびるように、善心の芽ばえは次第に生長する。そして花が咲き、実をむすぶように、善心の発展は、神に誓って疑いもない。
こうして儒教の五常を次第に習い、仏教の十善を仰ぎ称えるようになる。五常とは仁、義、礼、智、信のことである。仁を仏教では不殺と呼ぶ。おのれの身になって人に施すのだ。義はすなわち不盗である。みずから節約して他人に与える。礼はいわば不邪といおうか。五礼に秩序があるのだ。智は不乱である。事細かに決定し、よく道理をとおすこと。信は不妄。口から出したことは必ず実行するべし。
人がこの五つをよく行なえば四季滞りなく、木、火、土、金、水の五行は明らかとなる。国家がこれを行なえば、天下太平となるのである。一家にこれを行なえば路に落ちたものを拾う者はいなくなろう。
我が名を上げ、祖先を顕彰する秘策であり、国を保ち身を安んずる美風なのだ。
これを儒教では「五常」といい、仏教では「五戒」という。名は違えども意味は同一である。
しかし行為が同じであるといっても、その益は異なる。五戒は、悪を断ちきり善を修める根本であり、苦を抜き、楽を得るはじめとなるものだ。
(現代語訳 水野聡/能文社 2023.1.18)
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