今回のキーワードは「歌」。音楽ではなく、和歌の「歌」をとりあげます。
いうまでもなく、和歌はすべての日本文化、芸能、芸術の基底たる“日本文化の母”です。
歌を詠むことは古来、貴人の教養であり、かつ人格の高下、感性の有無を判定される
もっとも重要な指標でした。
歌ははじめ、人が神に捧げるコトバとして、まず御代をことほぐ〔祝い歌〕として詠まれます。そして四季を通じた行事や祭祀にまつわる感情を歌に表現するうちに、いつしか思う相手に心情を伝達するメッセージとしての〔恋のなかだち〕をも担っていったのです。
このように古代の日本人が、様々な思いを託して詠んだ歌を集め、成立したのが『万葉集』。
そして時の帝が貴族たちに命じて編纂した、わが国初の勅撰和歌集が『古今和歌集』です。
その撰者のひとり、紀貫之が附した序文が、『古今和歌集 仮名序』とよばれるもの。
もうひとつ、漢文で書かれた序文、『古今和歌集 真名序』もありますが、
「和歌とは何か」、「歌の歴史と本質」について、やさしい仮名で書かれた『仮名序』は、
今日教科書でも取り上げられ、多くの人々が接する古典のスタンダードとなっています。
『古今和歌集 仮名序』には、いったい何が書かれているのでしょうか。
原文に章段はありませんが、大きく分ければ以下六章の構成となっています。
(1)和歌とは何か
(2)和歌のはじまり
(3)六種の和歌の分類
(4)和歌の歴史と代表歌人
(5)六歌仙の評価
(6)古今和歌集編纂の次第
とりわけ(3)~(5)では、代表歌と歌人の詳細な解説と評価が展開されており、
和歌の技法の研究の嚆矢、“歌学の起源”として仮名序が日本文学史に
位置付けられる重要な内容となっています。
よって、通常の序文としてはやや分量があり、現在その研究書とともに
様々な現代語訳版が出版されています。
今回、日本文化のキーワードとして「歌」を取り上げるにあたり、歌の本質を深く、
かつコンパクトに伝えるテクストとして、この『古今和歌集 仮名序』を採用しました。
原文に忠実な直訳、引用例歌の気品をそこねない【言の葉庵】独自の訳文にてお届けします。
以下、令和版最新の現代語訳全文を掲載します。
●古今和歌集 仮名序 現代語訳
原著 紀貫之
訳 水野聡
(1)和歌とは何か
やまとうた、和歌というものは、人の心を種として、そこから千、万の言の葉となったものです。
世の人は多くのものや出来事に触れることで、心中の思いを見るものや聞くものに託して言葉にしました。
花に鳴くうぐいす、水に住む蛙の鳴き声を聞くにつけ、生きとし生けるもの、いずれも歌を詠まぬことがありましょうか。
力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも感動させ、男女の仲をやわらげ、猛き武士の心さえなぐさめるもの、それが歌なのです。
(2)和歌のはじまり
歌は、天地開闢の時に生まれました。
(天の浮橋の下で、イザナギノミコトとイザナミノミコトが結ばれた時の歌である) ※1
このようにもいいますが、世に伝わるところでは、天上界の下照姫にはじまり、
(シタテルヒメは、アメワカヒコの妻である。シタテルヒメが兄神の美しい姿が
丘や谷に光り輝いて映ったことを詠んだ夷歌のことであろうか。これらは文字の数も
定まらず、歌の体をなしていなかったのだ)
下界では、スサノオノミコトから興ったものなのです。
神代の歌は、文字も定まっておらず、素朴に詠んだもので、歌の意味も
とらえ難かったに違いありません。
そして人の世となって、スサノオノミコトから三十一文字の歌を詠むようになりました。
(スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミの兄である。后と住むために
出雲の国に宮殿を建てた。そこに八色の雲が立つのをみて詠んだ歌である
八雲立つ出雲八重垣妻籠めに 八重垣つくるその八重垣を ※2)
以来、花を愛で、鳥をうらやみ、霞をあわれみ、露をかなしむ心や言葉が多く集まり、
様々な形となっていきました。
遠い旅も、出発の一歩からはじまって長い年月にわたっていく。
高い山も、ふもとの塵や泥が積もっていき、やがて雲がたなびく高みへといたる。
そのように、和歌も発展していったのです。
難波津の歌※3 は、帝の御代はじめの歌です。
(仁徳天皇が難波でいまだ皇子だった時。弟君と皇太子の位を互いに譲り合って、三年がたとうとした。それを王仁が心配して詠み、奉った歌である。木の花は、梅の花をさすらしい)
安積山の歌は、采女がたわむれに読んだもの。
(葛城王が陸奥へ派遣された時。国司の接待が粗略であるとして、宴席を設けたものの王は不機嫌であった。そこで、かつて都の采女であった女が、盃をとり、酒をすすめて詠んだ歌である。これにより王の気持ちはやわらいだという。)
安積山かげさへ見ゆる山の井の 浅くはひとをおもふものかは
〔山の清らかな泉は安積山の影までもくっきりと映すほど深いもの。田舎の人はこの泉の水と同じ、どうして客人を軽んじたりしましょうか〕※4
この二首の歌は、和歌の父母。歌を学ぶ人なら、だれでも最初に触れるものです。
(3)六種の和歌の分類
そもそも和歌の表現様式は六つあります。中国の詩も同様です。
その六種の一が、「そえ歌」。
仁徳天皇へ、意見をそえ奉った歌で、次のようなものでありましょうか。
難波津にさくや木の花冬こもり いまは春べとさくや木の花
〔難波津に梅の花が咲いている。冬を耐え、さあ春になった、と咲いたのであろうよ〕
二つ目が「かぞえ歌」※5。次のようなものです。
さく花に思ひつく身のあぢきなさ 身にいたつきのいるも知らずて
〔美しい花に心を奪われることは、なんとはかないものであろうか。鳥は今、矢で射られることも気づかないのだから〕
(かぞえ歌は素直に歌い、比喩などの技巧を使わないもの。この歌の表現はいかがなものか。意味がとらえ難いのだ。五番目の「ただこと歌」というものがこの例歌にふさわしい。)
三つめが「なぞらえ歌」。次のようなものです。
君にけさあしたの霜のおきていなば 恋しきごとにきえやわたらむ
〔あなたに逢った翌朝、霜が置き、あなたが起きて帰ってしまったなら、恋しい思いは霜が消えるように、はかなく続くのでしょうか〕
(なぞらえ歌は、ものに託して「何々のようである」と歌う。この歌はよく適しているとも思えぬ。
たらちねの親のかふ蚕のまゆこもり いぶせくもあるか妹にあはずて
〔母の飼う蚕がまゆにこもる。ふさぎこんでいるのか、恋人に逢えない私のように〕
こうした歌こそこの例歌にはふさわしかろう)
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【言の葉庵】HP
http://nobunsha.jp/blog/post_233.html
いうまでもなく、和歌はすべての日本文化、芸能、芸術の基底たる“日本文化の母”です。
歌を詠むことは古来、貴人の教養であり、かつ人格の高下、感性の有無を判定される
もっとも重要な指標でした。
歌ははじめ、人が神に捧げるコトバとして、まず御代をことほぐ〔祝い歌〕として詠まれます。そして四季を通じた行事や祭祀にまつわる感情を歌に表現するうちに、いつしか思う相手に心情を伝達するメッセージとしての〔恋のなかだち〕をも担っていったのです。
このように古代の日本人が、様々な思いを託して詠んだ歌を集め、成立したのが『万葉集』。
そして時の帝が貴族たちに命じて編纂した、わが国初の勅撰和歌集が『古今和歌集』です。
その撰者のひとり、紀貫之が附した序文が、『古今和歌集 仮名序』とよばれるもの。
もうひとつ、漢文で書かれた序文、『古今和歌集 真名序』もありますが、
「和歌とは何か」、「歌の歴史と本質」について、やさしい仮名で書かれた『仮名序』は、
今日教科書でも取り上げられ、多くの人々が接する古典のスタンダードとなっています。
『古今和歌集 仮名序』には、いったい何が書かれているのでしょうか。
原文に章段はありませんが、大きく分ければ以下六章の構成となっています。
(1)和歌とは何か
(2)和歌のはじまり
(3)六種の和歌の分類
(4)和歌の歴史と代表歌人
(5)六歌仙の評価
(6)古今和歌集編纂の次第
とりわけ(3)~(5)では、代表歌と歌人の詳細な解説と評価が展開されており、
和歌の技法の研究の嚆矢、“歌学の起源”として仮名序が日本文学史に
位置付けられる重要な内容となっています。
よって、通常の序文としてはやや分量があり、現在その研究書とともに
様々な現代語訳版が出版されています。
今回、日本文化のキーワードとして「歌」を取り上げるにあたり、歌の本質を深く、
かつコンパクトに伝えるテクストとして、この『古今和歌集 仮名序』を採用しました。
原文に忠実な直訳、引用例歌の気品をそこねない【言の葉庵】独自の訳文にてお届けします。
以下、令和版最新の現代語訳全文を掲載します。
●古今和歌集 仮名序 現代語訳
原著 紀貫之
訳 水野聡
(1)和歌とは何か
やまとうた、和歌というものは、人の心を種として、そこから千、万の言の葉となったものです。
世の人は多くのものや出来事に触れることで、心中の思いを見るものや聞くものに託して言葉にしました。
花に鳴くうぐいす、水に住む蛙の鳴き声を聞くにつけ、生きとし生けるもの、いずれも歌を詠まぬことがありましょうか。
力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも感動させ、男女の仲をやわらげ、猛き武士の心さえなぐさめるもの、それが歌なのです。
(2)和歌のはじまり
歌は、天地開闢の時に生まれました。
(天の浮橋の下で、イザナギノミコトとイザナミノミコトが結ばれた時の歌である) ※1
このようにもいいますが、世に伝わるところでは、天上界の下照姫にはじまり、
(シタテルヒメは、アメワカヒコの妻である。シタテルヒメが兄神の美しい姿が
丘や谷に光り輝いて映ったことを詠んだ夷歌のことであろうか。これらは文字の数も
定まらず、歌の体をなしていなかったのだ)
下界では、スサノオノミコトから興ったものなのです。
神代の歌は、文字も定まっておらず、素朴に詠んだもので、歌の意味も
とらえ難かったに違いありません。
そして人の世となって、スサノオノミコトから三十一文字の歌を詠むようになりました。
(スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミの兄である。后と住むために
出雲の国に宮殿を建てた。そこに八色の雲が立つのをみて詠んだ歌である
八雲立つ出雲八重垣妻籠めに 八重垣つくるその八重垣を ※2)
以来、花を愛で、鳥をうらやみ、霞をあわれみ、露をかなしむ心や言葉が多く集まり、
様々な形となっていきました。
遠い旅も、出発の一歩からはじまって長い年月にわたっていく。
高い山も、ふもとの塵や泥が積もっていき、やがて雲がたなびく高みへといたる。
そのように、和歌も発展していったのです。
難波津の歌※3 は、帝の御代はじめの歌です。
(仁徳天皇が難波でいまだ皇子だった時。弟君と皇太子の位を互いに譲り合って、三年がたとうとした。それを王仁が心配して詠み、奉った歌である。木の花は、梅の花をさすらしい)
安積山の歌は、采女がたわむれに読んだもの。
(葛城王が陸奥へ派遣された時。国司の接待が粗略であるとして、宴席を設けたものの王は不機嫌であった。そこで、かつて都の采女であった女が、盃をとり、酒をすすめて詠んだ歌である。これにより王の気持ちはやわらいだという。)
安積山かげさへ見ゆる山の井の 浅くはひとをおもふものかは
〔山の清らかな泉は安積山の影までもくっきりと映すほど深いもの。田舎の人はこの泉の水と同じ、どうして客人を軽んじたりしましょうか〕※4
この二首の歌は、和歌の父母。歌を学ぶ人なら、だれでも最初に触れるものです。
(3)六種の和歌の分類
そもそも和歌の表現様式は六つあります。中国の詩も同様です。
その六種の一が、「そえ歌」。
仁徳天皇へ、意見をそえ奉った歌で、次のようなものでありましょうか。
難波津にさくや木の花冬こもり いまは春べとさくや木の花
〔難波津に梅の花が咲いている。冬を耐え、さあ春になった、と咲いたのであろうよ〕
二つ目が「かぞえ歌」※5。次のようなものです。
さく花に思ひつく身のあぢきなさ 身にいたつきのいるも知らずて
〔美しい花に心を奪われることは、なんとはかないものであろうか。鳥は今、矢で射られることも気づかないのだから〕
(かぞえ歌は素直に歌い、比喩などの技巧を使わないもの。この歌の表現はいかがなものか。意味がとらえ難いのだ。五番目の「ただこと歌」というものがこの例歌にふさわしい。)
三つめが「なぞらえ歌」。次のようなものです。
君にけさあしたの霜のおきていなば 恋しきごとにきえやわたらむ
〔あなたに逢った翌朝、霜が置き、あなたが起きて帰ってしまったなら、恋しい思いは霜が消えるように、はかなく続くのでしょうか〕
(なぞらえ歌は、ものに託して「何々のようである」と歌う。この歌はよく適しているとも思えぬ。
たらちねの親のかふ蚕のまゆこもり いぶせくもあるか妹にあはずて
〔母の飼う蚕がまゆにこもる。ふさぎこんでいるのか、恋人に逢えない私のように〕
こうした歌こそこの例歌にはふさわしかろう)
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