小日向白朗学会 HP準備室BLOG

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白朗、馬賊を捨てたその時

2019-08-21 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 朽木寒三先生の馬賊戦記の最後の部分ですが、死刑を目前にして生きながらえることに腐心していたころ・・・・・
(馬賊戦記から)  こうして、12月17日、もう夕方6時過ぎである。廊下の一番出口のところで、看守の大声がきこえた。「シャン シュイ トン」と呼ぶ。「イヨーッ」というのが、こっちの答え方だ。すると相手は、何とかかんとか-っと叫び返してきた。白朗は片方の耳が悪い。左の方角からくる声をよく聞きとることができない。それでも言葉の調子で、「開廷-ッ」と言われたような気がしたがそれには少し時刻がおかしい。
・・・・・・・・といったいきさつが書かれている。つまり、これが、釈放の日だったのだ。最後の質問は「あなたの国籍は、ほんとうはどこですか」であった。「日本です」と答えた白朗、死刑を免れた瞬間であった。と同時に、私には馬賊を捨てた瞬間であったとも思える。取り調べには徹底してその過去をしゃべらず、材木屋をやっていたということで通してたという。その時すでに馬賊を捨てていたのかもしれないが、その記念日が12月17日であろうと思う。すでに戦争は終わり3年余りが過ぎていた。
 昭和23年12月17日のことだった。その後自力でというか、仲間の手を借りて大陸を脱出帰国して、白朗の戦後が始まる。その釈放の日12月17日の6日前、12月11日に私は日本の片隅のド田舎で産まれた。昭和13年には徐州会戦を戦った父とその直後に結婚した母との間に。別に何の関係もない話であるが、白朗の戦後こそが大きく評価されなければならないと考えている私には、ちょっとしたこじつけの感慨もわくのである。(文責吉田)

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