先日、64回目の終戦記念日を迎えたが、今年は オバマ米大統領のプラハ演説などにより、例年になく「核を含む悲惨な戦争の教訓を次代に継承していく」として、テレビなどの特番が目を惹いた。
当時は5才故、殆どその記憶がないが、終戦記念日を機会に、戦争の悲惨さと父の想い出に触れてみたい。
★ 戦争の悲惨さ
当時 東京の大森に住んでいたが、戦慄として残っているは、'45年3月10日の東京大空襲で、その規模は、B≠Q9爆撃機 約300機と過去に類をみない大鰍ゥりなもので、一晩で10万の人が亡くなったという。
我々家族は、疎開中であった次兄を除き母と子の4人は、隣に住む親戚の勧めにより、大森の河岸から小船に乗り、当時、平和島は米兵の捕虜収容所があり敵は攻めてこないとして、平和島の沖合いに漂いながら戦火が治まるのを待つ。
海苔業で用いる小さな船に10数人が乗り込んだこともあり、近くに落ちる焼夷弾の火玉とその衝撃による揺れで沈まないか、また、船から見える火災から逃げ惑う海岸沿いの人々・・・と、不安と恐浮ェ入り乱れた悲惨な一夜を過ごした。
戦火も治まり、夜が明け家に戻った時は、辺り一面焼け野原で、玄関脇にあった防空壕にいれて置いた食べ物も盗まれ?空ッモセったという。
★ 父の想い出
父は、輸送船でマレー諸島沖合いを航行中、撃沈され、終戦の1年前の '44年2月に戦死、小生その時4才。
太平洋戦争の始まりが '41年12月のため、小生が2才の時には、既に父は出征しており、接点は殆どなく、あったとしても4才以下で、その記憶はない。
ただ、物心がついた後・・・
父が軍役中、横須賀に寄港したことがあり、その際 家族揃って面会に訪れたが、久し振りに見る、育ち盛りの末っ子の小生(その時3才)を両手で抱き上げ、喜びながらあやしていたという。
・・・ことを、母や兄から幾度か聞かされ、今は明確な接点として記憶に残っている。
また、直ぐ上の兄が、軍曹である父が水兵たちに挨拶するしぐさと、軍服姿が格好良かったこと・・・を聞き、誇らしく感じたものである。
15才の頃、たった一枚残っていた父の出征前の写真を見て、ペンで絵を描いたことがあるが、作品はそれを基に写画にしたものである。
何で 唐突に描く気になったのか、その頃は何も考えなかったが、恐らく写真を目の前に置き描くことによって、 父との接点をもっと見出したかったものと思う。
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