音色という言葉が日本語の中にはあります。
音に、色があるということなのでしょう。
あるいは、音で色を感じると言うことなのかもしれない。
それなら、解る気もしますね。
私の頭は、よくよく屁理屈なのか、あるいは感性と言うのを、それほど信じたくないのか?
なんとなくで、御互いに納得している言葉と言う物が、日本語だけでなく沢山あるのでしょう。
私は、若い時によく、祖父に言われたことがありました。
「ちゃんと、言葉で説明できないというのは、お前がそのことをホントの意味で理解していないから、言葉にならないのだよ。」
そうなのか?
岩に、染みいる虫の声。
この言葉一つとっても、私には、完全には、説明できはしない。
もしかすると、この言葉達は、音と意味の複合体なのかもしれません。
あるいは、そこから喚起される、共通体験の映像なのかもしれません。
うまく説明できる人が、いたら教えてほしいです。
と言うのはさておいて。
音と色と言うのは、共通部分もあります。
ようするに、両方とも、自然界にある、電波(振動)であるということでしょう。
音はそれこそ、まさに振動です。
色も、あるものに、光が反射してそれらの波長の中で、人が目を通して、感じられる、
波長の一部だと言えます。
もちろん振動数は、かなり違いますが、目の認識できない波長も当然反射しているのでしょう。
音の中には、共振するものが沢山あります、同じ音の、一オクターブ違う音などは、まさに、鳴ります。
それと同じように、ある音が、鳴ったとして、その音に共振する、可視範囲の共振音の波長と言うのはあり得るのでしょう。
だとしたら、色を感じる音、もしかしたら、それは、単音では無く、複合体なのかもしれません。
暗闇などで、何かの音がしたとき、いきなり目の前に、光を感じる体験をした人も多いと思います。
その時は、その音の質により、色も変わるのではないでしょうか、?
音叉が鳴る音で、色を感じると言うのは、比較的あまりないのではないでしょうか。
音叉そのものの音が、単一の、振動だからでしょう。
音色と言う時、それは、音の複合体の時が多いように感じます。
フルートの音色、トランペットの音色、二胡の音色と人が言う時、
単なる音と言うより、その言葉に、共通の人の記憶と言うのを、含ませています。
フルートの音が喚起する、人の共通体験、あるいは、その音が脳を刺激して、あるホルモンなりを、出すのかもしれません。
そのことによって、喚起される、共通体験を、感じるのかもしれません。
ある、友人が、このように語っていました。
「エルガーの、威風堂々聞くと、つい、胸を張ってしまうのは何故?」
その場にいた7人ぐらいが、皆、見事に賛同しました。
確かに、胸張って、顎を引いて、多少毅然となるようです。
貴方は、どうでしょう?
音楽の中には、そのようなこと、が相当複雑に、重なり合っているのではないでしょうか。
ですから、音色、単なる二胡の音、というのとは違うような気がします。
二胡の音色が喚起する、と言われる、癒しの音、というのは、よく聞かれます。
何故癒しなのでしょう?
実は、私は、あまり癒されているという感じは、二胡を聞いたときはありません。
ただ弾いた時は、不思議と、癒されると言うのはあります。
それは癒されるのか?
慰められるのかは、別にして、膝を通じて、腰を通じて、手を通じて、夢中に嵌ってしまい、時を忘れると言うのはあります。
このことはもしかしたら人に依るのかもしれませんが、不思議とフルートを吹いているときには、よほどのことがない限りありません。
不思議と、二胡を弾いているときは曲になっていない単なる音階的な、自分の気の向くままに、音を出していたりします。
どうでしょう?みなさんは、そういう経験は無いでしょうか?
それが癒されるということなら、確かに、忘我の境地、と言えるかもしれません。
続く
西野和宏
音に、色があるということなのでしょう。
あるいは、音で色を感じると言うことなのかもしれない。
それなら、解る気もしますね。
私の頭は、よくよく屁理屈なのか、あるいは感性と言うのを、それほど信じたくないのか?
なんとなくで、御互いに納得している言葉と言う物が、日本語だけでなく沢山あるのでしょう。
私は、若い時によく、祖父に言われたことがありました。
「ちゃんと、言葉で説明できないというのは、お前がそのことをホントの意味で理解していないから、言葉にならないのだよ。」
そうなのか?
岩に、染みいる虫の声。
この言葉一つとっても、私には、完全には、説明できはしない。
もしかすると、この言葉達は、音と意味の複合体なのかもしれません。
あるいは、そこから喚起される、共通体験の映像なのかもしれません。
うまく説明できる人が、いたら教えてほしいです。
と言うのはさておいて。
音と色と言うのは、共通部分もあります。
ようするに、両方とも、自然界にある、電波(振動)であるということでしょう。
音はそれこそ、まさに振動です。
色も、あるものに、光が反射してそれらの波長の中で、人が目を通して、感じられる、
波長の一部だと言えます。
もちろん振動数は、かなり違いますが、目の認識できない波長も当然反射しているのでしょう。
音の中には、共振するものが沢山あります、同じ音の、一オクターブ違う音などは、まさに、鳴ります。
それと同じように、ある音が、鳴ったとして、その音に共振する、可視範囲の共振音の波長と言うのはあり得るのでしょう。
だとしたら、色を感じる音、もしかしたら、それは、単音では無く、複合体なのかもしれません。
暗闇などで、何かの音がしたとき、いきなり目の前に、光を感じる体験をした人も多いと思います。
その時は、その音の質により、色も変わるのではないでしょうか、?
音叉が鳴る音で、色を感じると言うのは、比較的あまりないのではないでしょうか。
音叉そのものの音が、単一の、振動だからでしょう。
音色と言う時、それは、音の複合体の時が多いように感じます。
フルートの音色、トランペットの音色、二胡の音色と人が言う時、
単なる音と言うより、その言葉に、共通の人の記憶と言うのを、含ませています。
フルートの音が喚起する、人の共通体験、あるいは、その音が脳を刺激して、あるホルモンなりを、出すのかもしれません。
そのことによって、喚起される、共通体験を、感じるのかもしれません。
ある、友人が、このように語っていました。
「エルガーの、威風堂々聞くと、つい、胸を張ってしまうのは何故?」
その場にいた7人ぐらいが、皆、見事に賛同しました。
確かに、胸張って、顎を引いて、多少毅然となるようです。
貴方は、どうでしょう?
音楽の中には、そのようなこと、が相当複雑に、重なり合っているのではないでしょうか。
ですから、音色、単なる二胡の音、というのとは違うような気がします。
二胡の音色が喚起する、と言われる、癒しの音、というのは、よく聞かれます。
何故癒しなのでしょう?
実は、私は、あまり癒されているという感じは、二胡を聞いたときはありません。
ただ弾いた時は、不思議と、癒されると言うのはあります。
それは癒されるのか?
慰められるのかは、別にして、膝を通じて、腰を通じて、手を通じて、夢中に嵌ってしまい、時を忘れると言うのはあります。
このことはもしかしたら人に依るのかもしれませんが、不思議とフルートを吹いているときには、よほどのことがない限りありません。
不思議と、二胡を弾いているときは曲になっていない単なる音階的な、自分の気の向くままに、音を出していたりします。
どうでしょう?みなさんは、そういう経験は無いでしょうか?
それが癒されるということなら、確かに、忘我の境地、と言えるかもしれません。
続く
西野和宏
人も、ある意味『波』ですしね。
色や音の『響き』とは、人との共振があって初めて感じられるものなのかもしれません。
音色に感動するのは、その人の心に響いたからこそ。
そういう意味での『響き』って、単に見える・聴こえるものではなく、
「染みいる」という表現が似合う気がしました。
色も、音も、人の眼と耳があって初めて生まれるわけで・・。
光や空気の中に、色や音を見いだすということは、
自分自身を見つめることと同じことなのかもしれません。
色には音があり、音にも色がある。
人にも色があり、音がある。
二胡の音色は、まるで人の映し鏡みたいですね。
西野さんの言葉は、感性と理性のイマジネーションを
両方とも膨らませてくれるのでとても好きです。
続きも楽しみにしてますね~
本なら、売れてる売れてないと言うので解ります。
tomomiさん、私の話しに共振してくれる人が、いると言う、こと、これほど嬉しいことはありません。
人は、人に共振してもらって初めて、自分の音認識できますから。