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モジリアーニ・・・・捩り(文字理)蛙似意?

2016-04-12 23:51:20 | 古事記字源

 ・・・「アメデオ・モディリアーニ(1884年~1920年・満35歳没・結核性髄膜炎・婚約者のジャンヌ・エビュテルヌも2日後に自殺)」の行方不明だった作品の絵が「パナマ文書」の暴露から発見され、時価「27億円」ですか・・・「彼の死後の1926年の回顧展では新聞に高く評価され、肖像画は3万5千フランで売れた」らしい。「ピカソが彼に100スー(5フラン)を借りて、12年間の利子として20倍の100フランを請求された」とか・・・

 前回、「小林一茶・宝暦十三年五月五日(1763年6月15日)~文政十年十一月十九日(1828年1月5日)」をチョッと書き込んだが、彼の生きていた時代の人物をブログ記事を参考に以下に添付・・・これも以前に貼り付けたかな・・・
 ↓↑
 青木昆陽 1698年〜1769年(元禄11年〜明和6年)65才
 与謝蕪村 1716年〜1783年(享保元年〜天明3年)47才
 田沼意次 1720年〜1788年(享保5年〜天明8年)43才
 山県大弐 1725年〜1767年(享保10年〜明和4年)38才
 平賀源内 1728年〜1779年(享保13年〜安永8年)35才
 杉田玄白 1733年〜1817年(享保18年〜文化14年)30才
 中川淳庵 1739年〜1786年(元文4年〜天明6年)24才
 伊能忠敬 1745年〜1818年(延享2年〜文政元年)18才
 長谷川平蔵1745年〜1795年(延享2年〜寛政7年)18才
 塙保己一 1746年〜1821年(延享3年〜文政4年)17才
 司馬江漢 1747年〜1818年(延享4年〜文政元年)16才
 並木五瓶 1747年〜1808年(延享4年〜文化5年)16才
 大田南畝 1749年〜1823年(寛延2年〜文政6年)14才
 蔦谷重三郎1750年〜1797年(寛延3年〜寛政9年)13才
 笠森お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)12才
 桂川甫周 1751年〜1809年(宝暦元年〜文化6年)12才
 喜多川歌麿1753年〜1806年(宝暦3年〜文化3年)10才
 鶴屋南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)8才
 大槻玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)6才
 松平定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)5才
 葛飾北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)3才
 山東京伝 1761年〜1816年(宝暦11年〜文化13年)2才
 酒井抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)2才
 鈴木春信 ????年〜1770年(  ??年〜明和7年)?才
ーーーーー
 ・・・日本人の各姓(苗字・名字)は現在的に「30万」くらいあるそうだが、明治以降の男性の姓名はホトンドが「四文字=二文字(姓)+二文字(名)」だと思うが、奈良、平安、鎌倉、室町、そして江戸時代の武士階級の姓は二文字が多い・・・が、例外もある。
 上記に添付した「姓名」だが・・・
 「長谷川平蔵」
 「蔦谷重三郎」
 「喜多川歌麿」
 が一文字多く、「姓と名」が「五文字」である・・・で、なんら、不思議ではないが・・・

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陸軍中野学校・・・小林一茶・・・?

2016-04-11 22:13:56 | 古事記字源

 ・・・ヒェ~ッ、雪が降ってきた。冬の寒さのぶり返しである。サブイ、サビィ・・・庭に来るスズメ達も、この天候の変調にはウンザリだろうな・・・スズメも遊んでいる暇などはないだろう・・・「我と来て遊べや親のない雀 (われときて あそべやおやの ないすずめ)」・・・「話(分・和・倭・輪・環・羽・娃・把)例、解き(訳記)弖(𠂤・堆・氐・手・出・弟・照)、阿蘇部哉、嗚哉之、名意、素亠(事・図)目」・・・
 「われ、とき、て、あそ、べ、や、お、や、の、ない、すず、め」・・・例の如く、文字転換したら1763年6月15日~1828年1月5日の人物、小林一茶の歴史的背景を再度検討してみたくなった・・・彼の問題は「継母」や「継母の子である異母弟」との「遺産相続」だった・・・それにしても「徘徊師」の存在とはナンだったんだろう?・・・「隠密スパイ(忍者)の下請け」の「情報提供者」・・・?・・・「陸軍中野学校」・・・「秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年(明治二十七年)4月6日~1949年(昭和二十四年)3月22日)は、昭和期の日本陸軍軍人・陸軍少将・陸軍士官学校(26期)卒。陸軍中野学校校長(初代)」ですか・・・みたよッ、市川雷蔵の映画「陸軍中野学校(1966年・大映)」シリーズを面白かった・・・だが、スパイの成れの果てが「殺し屋」になってしまった・・・
  ↓↑
 秋草 俊
 栃木県
 足利市出身
 秋草直右衛門の四男
 東京の同族・秋草晃の養子
 陸軍依託学生として
 東京外語学校に学び、
 後に
 ハルピンに留学
 参謀本部付、
 関東軍特務機関に務める
 1933年(昭和八年)
 ハルピン特務機関の補佐官
 諜報活動で対ソ諜報の第一人者
 1936年(昭和十一年)9月
 阿南少将発案による
 「科学的防諜機関」設立の準備委員に指名
 陸軍中野学校(後方勤務要員養成所)設立にかかわり
 1938年(昭和十三年)4月
 同校の初代校長
 敗戦後
 ソ連軍に投降、連行、抑留
 1949年(昭和二十四年)3月22日
 モスクワ郊外の
 ウラジミール監獄で死去。享年54
 ・・・・「ソ連軍に投降、連行、抑留」も作戦のうち、敗戦大日本帝国国家の為に「諜報活動」をやっていたんだろうな・・・
   ↓↑
 「中野代官所=水内郡(みのちぐん)」
 ・・・古くは「みのちごおり」、「みぬちごおり」と呼ばれた。奈良時代後半に全国から9人が各々の善行によって朝廷から褒美を得ていて、
 刑部知麻呂
 倉橋部真人
 の二人が当郡の人と「続日本紀」に記載。平安時代の『延喜式』、『和名類聚抄』にも「水内郡」の名が見られ、「善光寺」の名とともに広く知られていた。
 戦国期には越後国上杉氏に属した
 葛山氏
 が勢力を誇っていたが、
 甲斐国の武田氏は越後上杉氏との川中島の戦いにおいて
 弘治二年(1556年)頃から葛山氏に対する調略をしていた。
 郡衙は長野市南長野の県町遺跡に比定・・・されているらしい。
   ↓↑
 1622年(元和八年)
 信濃国上田藩より
 真田信之が13万石で入封した後、
 明暦四年(1658年)
 三代幸道の相続時に分地の
 沼田領3万石が独立(1680年改易)
 以後10万石として幕末までこの地は
 真田家の所領・・・
 幕府における席次は
 帝鑑間詰(譜代大名待遇)
 八代藩主
 真田幸貫が
 八代将軍
 徳川吉宗の孫である
 松平定信の実子で、
 真田信之の妻が
 徳川家康の養女
(本多忠勝の実娘 or 徳川秀忠の養女)
 であること等の理由・・・
 支藩(分地)としては
 沼田藩以外に
 埴科藩もあったが、後年断絶
  ↓↑
 真田信之は上田藩時代より
 蓄財した20万両という大金をもって入封
 三代真田幸道の時代、
 幕府の手伝普請などの賦役により遺産を使い果たし
 1717年(享保二年)
 松代城下の大火で幕府より1万両を借り、
 借財を抱えた・・・
 四代真田信弘
 質素倹約
 五代真田信安の
 1742年(寛保二年)
 松代城下を襲う水害(戌の満水)
 再び幕府より1万両を借財し
 千曲川の河川改修
 真田信安は河川改修の中心となった
 原八郎五郎を家老に抜擢し、
 家臣給与の
 半知借上、
 年貢の前倒し徴収などの財政再建
 1744年(延享元年)
 足軽によるストライキが勃発
 1751年(宝暦元年)
 原八郎五郎を罷免
 赤穂藩浪人と称する・・・・赤穂藩浪人?
 田村半右衛門
 (浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門)
 を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた
 改革は農民の反発を招き、
 「田村騒動」と呼ばれる
 藩内初の一揆が起こった
 田村もまた汚職を行ったとして、
 同年に江戸に逃亡したところを逮捕された。
 藩主真田幸弘は、
 1757年(宝暦七年)
 家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建
 1758年(宝暦八年)
 真田幸弘は
 藩校
 「文学館」を開館
  ↓↑
 八代真田幸貫が老中として幕政に関与
 真田幸貫は寛政の改革を主導した
 松平定信の子(第八代将軍徳川吉宗の曾孫)
 で、
 幸貫以降
 真田家は国主以外で
 自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている
 佐久間象山を登用
 1847年(弘化四年)
 善光寺地震で
 藩債は10万両に達した
 九代真田幸教は、
 ペリーの浦賀来航時に
 横浜の応接場の警備を命じられ、
 その後も
 江戸湾の第六台場等の警備などを務めた
 これで、藩財政は破綻寸前
 1855年(安政二年)
 先代真田幸貫が計画した新たな
 藩校
 「文武学校」開校
 1864年(元治元年)
 朝廷から京都南門の警衛を命じられ
 「禁門の変」で朝廷の守りについた
 ↓↑
 明治維新
 比較的早くから倒幕で藩論が一致
 朝廷から
 信濃全藩の触れ頭役を命じられた
 戊辰戦争では
 新政府軍に参加
 1871年(明治四年)
 廃藩置県により
 松代県となり、
 その後、
 長野県に編入
 1884年(明治十七年)
 華族令施行
 藩主家は子爵(のちに伯爵に陞爵)
 ↓↑
 「信濃北部
  北国街道
  柏原宿
 (長野県
  上水内郡=かみみのちぐん
  信濃町
  大字
  柏原)」
 ↓↑
 江戸幕府の直轄領(天領)
 「松代藩は幕府領(中野代官所=水内郡31村、高井郡106村)」
 であった・・・
 「治承・寿永の乱(源平合戦)の時代から戦国時代までは
  高梨氏の支配地
  高梨氏は
  川中島の戦いで
  上杉氏に臣従
  上杉氏の
  会津移封に伴い、
  中野の地を去った。
  そのため多くの資料が当地には残っていない」・・・
  その後、江戸時代は
 「徳川幕府直轄地(天領)になった」
   ↓↑
 1868年(慶応四年)八月
     中野陣屋が廃止、跡地を伊那県中野分局
 1870年(明治三年)九月十七日 (旧暦)
     中野県成立・分局は県庁に昇格
     高井郡、水内郡、埴科郡、更級郡、
     小県郡、佐久郡の旧幕地を管轄
     中野村が中野町となる
 1870年(明治三年)十二月
     中野騒動(一揆)で庁舎焼失
     官側2名犠牲、6百余軒焼失
     主張は
     年貢削減、
     特権豪商告発、
     新税廃止
     数千名参加、
     逮捕者6百余名、
     死罪28名。
     現在の長野県庁が長野村に移るきっかけ
 1871年(明治四年)六月二十二日 (旧暦)
     中野県が県庁を移転して長野県
 2007年(平成十九年)7月16日
     柏崎沖を震源とする新潟県中越沖地震
     中野市豊津で震度5強
 ↓↑
 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
 創建が
 孝元天皇五年(紀元前210年)
 縁起によれば
 嘉祥2年(849年)
 飯縄山に登った
 「学問」という僧が奥社の地で最初に修験を始めた
 「日本書紀の天武紀」には
 684年
 三野王(美努王)を
 信濃に派遣し地図を作らせ、
 翌685年
 朝臣三人を派遣して
 仮の宮を造らせた・・・
 持統天皇691年
 使者を遣わし、
 信濃の国の須波、
 水内などの神を祭らせた・・・
 この水内の神が戸隠神社とする説もある・・・らしい
 ↓↑
 戦国時代
 北信濃地域
 信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)
 と
 北信豪族の後ろ盾となった越後国の上杉謙信
 との争乱に巻き込まれ
 善光寺の支配者の
 栗田氏が分裂
 衆徒らが約30年間にわたり
 水内郡小川の筏が峰(長野県上水内郡小川村)に
 大日方氏の庇護を受けて移り住む
 川中島の戦い
 多くの修験者と信仰者集団を抱えていた
 戸隠神社
 飯綱神社
 は
 武田、上杉両軍の双方にとって
 味方につけたい存在で、
 修験者は広く各地の情報に通じ
 多くの人々を牽引し戦況を占い、
 何より薬草の知識は
 従軍医師として大きかった
 このため
 善光寺や、戸隠、飯綱を
 味方にするか敵に回すかで
 これらをめぐって熾烈な戦闘が繰り返された・・・
   ↓↑
 「修験者」とは「忍者」であるカナ・・・
 ・・・以前にも同じようなコトを書き込んだかな・・・
ーーーーー
   ↓↑
 1763年の欧米状況
   ↓↑
 パリ条約(Treaty of Paris・Traité de Paris)
 ヨーロッパの七年戦争
 北アメリカ大陸フレンチ・インディアン戦争
 インドのカーナ ティック戦争
 などの講和条約
 イギリス、フランス、スペインの間で締結
 ↓
 北アメリカの
 フランス領を獲得した
 イギリスが
 1763年10月7日
 国王ジョージ3世の名で発した宣言
 イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、
 西部辺境における
 毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定め
 北アメリカ・インディアンとの関係を安定させること
 アメリカの植民地人に対しては
 アパラチア山脈の西側で入植や土地の購入を禁じ、
 イギリス王室が
 アメリカ先住民族から購入した土地を
 独占的に取引する権利を宣言・・・
 ↓ 
 1763年のパリ条約で
 フランスから獲得した領土に住む
 北アメリカ・インディアンとの和平を保つこと
 五大湖地方に住み多くの先住民族は
 フランスと長い間密接な関係を続けてきており、
 イギリスの支配下に入ったことで混迷・・・
 ポンティアック戦争 (1763-1766)
 以前フランスが領有権を主張していた土地を
 イギリスが占有することを阻止するために
 先住民族が起こした
 イギリス政府は
 アメリカ・インディアンに
 イギリスの規則を認めさせ、
 敵対的行動を抑えた・・・
 イギリスの植民地と、
 アパラチア山脈の
 西側のアメリカ・インディアン保有地との
 境界線(宣言線)を定めた
 宣言線は
 白人とアメリカ・インディアンとの間の
 恒久的な境界を意図したものではなく、
 順を追って法的な手段でさらに
 西方に利用可能な土地を増やしていくためのものであった
 アメリカ・インディアンの土地をめぐって
 過去に問題を起こしてきた
 私的な取引を禁止し、
 「当該インディアンとの公的な集会あるいは議会で」
 イギリスの役人が土地の取引を行うこととしていた
 植民地人の宣言線を越えた移動と入植を禁じ、植
 民地の役人は
 本国の承認なくしては
 土地の所有権を特許してはならないものとした
 宣言は
 イギリス王室に
 アメリカ・インディアンから
 独占的に土地を購入する権利を与えていた
 先住民族には過去に占有していた土地に対する
 ある種権利があり、
 一方で先住民族の主張には関わり無く
 イギリスが土地の特許を行えるとした先例になった
 既に宣言線を越えて多くの入植者が入っており
 多くの土地に関する訴訟
 宣言自体は
 七年戦争に従軍した
 イギリス軍兵士に土地を特許されるようにしたもの
 植民者とイギリスの土地投機家が組んで
 イギリス政府に働きかけ宣言線を西に動かそうとした
 インディアンとの一連の条約により調整
 スタンウィックス砦条約
 ハード・レーバーの条約(共に1768年)
 ロッハーバーの条約(1770年)
 により、
 ウエストバージニア州
 ケンタッキー州
 の大部分がイギリス人に入植可能となった
 ↓↑
 1763年宣言
 植民地の拡張の取り決めを行う他に、
 新しく獲得した旧フランス領の管理方法も決めた
 4つの地域について政府を創った
 ケベック、西フロリダ、
 東フロリダ、グレナダ
 これらの地域は
 イギリス政府の指名する
 総督あるいは評議会の下で議会議員を選出、
 イギリスや植民地法に基づいて
 その地域固有の法律や条令を作ることになった
 新しい植民地は
 イギリス本国で生まれた者と
 同じ権利を享受することになった
 アメリカにおける
 イギリス人植民者が
 その権利獲得のために闘争を続けていた
 各州の政府は
 民事および刑事裁判所が控訴権までそなえて設立
 植民地では、
 1764年の砂糖法
 1765年の印紙法
 に違反して告訴された者は
 海事裁判所に掛けられ
 嫌疑が掛けられた者が
 無実を証明できるまでは有罪と考えられていた
 ↓
 アメリカ独立戦争 (1775~1783)
 1763年宣言が
 植民地と母国との間の溝を深めた・・・
 ↓
 1783年
 パリ条約で問題の土地が
 イギリスよりアメリカに委譲
 1763年宣言は効力を失い
 合衆国政府は辺境における
 暴力を阻止する大問題に直面
 結果的には1763年宣言と類似した政策を採る
 一連のインディアンとの友好法の最初のものは
 1790年に決議
 アメリカ先住民の土地での
 違法な取引や通行を禁じた
 1823年
 ジョンソン対マッキントッシュの
 最高裁による判例で、
 私人ではなく
 アメリカ合衆国政府のみが
 アメリカ先住民から
 土地を購入できるものとなった・・・
 ↓
 1763年宣言
 イギリス領北アメリカ、
 特に
 アッパー・カナダ
 ルパート・ランド
 における
 先住民固有の領土については有効
 この宣言は
 カナダの先住民、
 ファースト・ネーションズ、
 エスキモー
 メイティ
 の土地に関する所有権主張の基であり、
 1763年宣言は
 「カナダ権利と自由の憲章」の第25章にも言及
 ↓↑
 1744年 (延享元年)・神田に天文台設置
 ↓↑
 1763年=宝暦十三年 (癸未)
 1764年 (明和元年)・江戸大火
 1772年 (安永元年)・目黒行人坂火事
 1783年 (天明三年)・浅間山噴火
 ↓↑
 1763年ルソーの『民約論』
 1763(宝暦十三)年
    本居宣長が伊勢松坂で賀茂真淵に会い入門
 1764(明和一)年
    関東地方を中心に
    助郷反対の
    大百姓一揆(天狗騒動)、
    20万人あまりが参加
 1764(明和一)年
    平賀源内が火浣布を作る
 1765年イギリスのワットが蒸気機関の改良
 1767(明和四)年
    田沼意次が側用人
 1767(明和四)年
    江戸で尊王を説いた
    山県大弐らが処刑(明和事件)
 1768(明和五)年
    上田秋成の『雨月物語』
 1769年イギリスのアークライトが水力紡績機発明
 1770(明和七)年後桃園天皇即位
 1771(明和八)年
    前野良沢・杉田玄白らが、
    千住・小塚原で死刑囚の解剖を見て、
    『ターヘルアナトミア』の翻訳開始
 1771(明和八)年
    伊勢神宮への「おかげまいり」流行
 1771(明和八)年
    唐津藩で
    「虹の松原」一揆
 1772(安永一)年
    田沼意次が老中
 1772(安永一)年
    江戸大火(行人坂火事)
 1774(安永三)年
    前野良沢・杉田玄白らが
   『解体新書』出版
 1774年フランスでルイ十六世即位
 1775(安永四)年
    スウェーデン(瑞典)の
    植物学者
    ツンベルグが来日
 1775年アメリカで独立戦争開始(~83年)
 1776(安永五)年
    平賀源内がエレキテル器械完成
 1776年アメリカ独立宣言
 1776年イギリスのアダム・スミスが『国富論』著作
 1779(安永八)年光格天皇即位
 1783(天明三)年
    浅間山の大爆発
 1783(天明三)年
    東北地方を中心に
    全国的な大飢饉(天明の大飢饉)
 1786(天明六)年
    田沼意次が老中失脚
 1786(天明六)年
    最上徳内が
    千島地方を探検
 1786(天明六)年
    林子平が『海国兵談』著作
 1787(天明七)年
    米価急騰、江戸・大阪などで打ち壊し
 1787(天明七)年
    松平定信が老中、
    「寛政の改革」開始
 1789(寛政一)年
    クナシリ島でアイヌの大規模な反乱
 1789(寛政一)年
    幕府が旗本・御家人の借金に
    棄損令を出す
 1789(寛政一)年
    幕府が諸大名に囲米を命じる
 1789年フランス革命
    「人権宣言」発布
 1790(寛政二)年
    江戸・石川島に人足寄場
 1790(寛政二)年
    昌平黌において
    朱子学のほか
    異学講義を禁止(寛政異学の禁)
 1792(寛政四)年
    ロシアの使節
    ラクスマンが根室に来て通商を求める
 1792(寛政四)年
    幕府が海防を厳重にし始める
 1792(寛政四)年
    『海国兵談』を絶版
    林子平、蟄居
 1792年フランスで
    パリ民衆が王制を廃止し
    共和制を宣言
 1793(寛政五)年
    松平定信が老中辞任
 1793(寛政五)年
    蘭学者が
    江戸でオランダ正月(西暦)を祝う
 1796年清で
    「白蓮教徒の乱」
     清がアヘンの輸入禁止
 1798(寛政十)年
    本居宣長が
    『古事記伝』完成
 1798(寛政十)年
    近藤重蔵が
    エトロフ島に
   「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
 1798年ナポレオンのエジプト遠征
 1799(寛政十一)年
    蝦夷地を幕府直轄領とし、警備強化
 1800(寛政十二)年
    伊能忠敬が蝦夷地を測量
 1802(享和二)年
    十返舎一九の『東海道中膝栗毛』出版
 1803(享和三)年
    アメリカ船が長崎に来て通商を求める
 1804(文化一)年
    ロシアの使節
    レザノフが長崎に来て通商を求める
 1804年ナポレオンが皇帝
    ナポレオン法典が制定
 1805(文化二)年
    幕府が北辺警備の強化
 1805(文化二)年
    イギリス軍艦フェートン号が
    長崎港に侵入、
    オランダ人を捕らえる(フェートン号事件)
 1806年神聖ローマ帝国が滅びる
 1807年アメリカ人
    フルトンが蒸気船の航行に成功
 1809(文化六)年
    間宮林蔵が間宮海峡を発見
 1812年ナポレオンがロシアに遠征に失敗
 1814(文化十一)年
    滝沢馬琴が
   『南総里見八犬伝』著作
 1814年ウィーン会議が開催
 1815年ナポレオンが
    ワーテルローの戦いで敗北
    セントヘレナ島に流刑
 1815(文化十二)年
    杉田玄白が『蘭学事始』著作
 1817(文化十四)年仁孝天皇即位
 1818(文政一)年
    イギリス人
    コンドルが浦賀に来て通商を求める
 1821(文政四)年
    伊能忠敬の
   「大日本沿海輿地全図』完成
 1823(文政六)年
    ドイツ人
    シーボルトが
    オランダ商館付き医師として
    出島に来る
 1823年アメリカがモンロー主義を宣言
 1824(文政七)年
    シーボルトが長崎郊外の
    鳴滝に塾を開く
 1825(文政八)年
    幕府が異国船打ち払い令
 1828(文政十一)年
    シーボルト事件
    幕府天文方
    高橋景保ほか多数が逮捕
 1830(天保一)年
    水戸藩の改革開始
 1830(天保一)年
    薩摩藩で砂糖の専売が強化
 1830年フランスで七月革命
 1830年ベルギー独立宣言
 1833(天保四)年
    天保の大飢饉(~36年)
 1833(天保四)年
    安藤広重の
   「東海道五十三次」の浮世絵ができる
 1834(天保五)年
    米価が急騰、
    各地で
    一揆や打ちこわし
 1834(天保五)年
    水野忠邦が老中
 1837(天保八)年
    大塩平八郎の乱
 1837(天保8)年
    アメリカ船
    モリソン号が
    浦賀に来て砲撃される 
   ↓↑ 
ーーーーー
 ・・・2016年、平成二十八年・・・この日本には「一揆」が起こる「条件」も「気配」も無いらしいが・・・アレから五年、キッと人びとは地震、大津波、原発事故で多くの持ち物と家族、友人の命を失っても、生き残った人びとは「衣食住」には不自由していないらしいし、「不満の怒り」もないらしい・・・?・・・「一茶」さん、あんたが唯単に「自虐的」に日常生活を「俳句の文字」に託していたとは思われないのだが・・・「やれ打つな蝿(ハエ)が手をする足をする」って・・・同音異字カンジ文字への転換へのメッセージじゃぁないのカナ?・・・だが、「一茶」は当時の情報は知っていた・・・
 ↓↑
 小林一茶
 宝暦十三年五月五日
 (1763年6月15日)
  ~
 文政十年十一月十九日
 (1828年1月5日)
 本名
 小林弥太郎
 別号
 圯橋・菊明・亜堂・雲外
 一茶坊・二六庵・俳諧寺
  信濃北部の
 北国街道
 柏原宿
 (長野県
  上水内郡()
  信濃町
  大字
  柏原)
 長野県北部
 上水内郡信濃町
 父
 弥五兵衛
 母
 くに
 の長男として誕生
 北国街道柏原宿
 にあった一茶の家は、
 農業を営む傍ら、
 公用荷物を運ぶ
 伝馬役・・・・・・
 を勤めていた
 天明七年(1787年)には
 田畑で
 十三石超の収穫を得る
 「中級」農家
 三歳の時に生母を失う
 八歳で継母を迎える
 継母に馴染めず、
 安永六年(1777年)
 十四歳
 江戸へ奉公
 二十五歳
 俳諧
 最初に属したのは
 葛飾派・・・・・葛飾?
 山口素堂の
 孫弟子
 渭浜(いひん)庵
 三世
 其日(きじつ)庵
 溝口素丸
 に師事
 同時に、同派の
 ニ六庵
 小林竹阿(ちくあ)、
 今日庵
 森田元夢
 らにも師事
  ↓
 寛政三年(1892年)
 二十九歳
 故郷に帰り、
 翌年
 寛政四年(1893)より
 三十六歳の年まで
 俳諧修行で
 近畿・四国・九州を歴遊
  ↓
 寛政十年(1899年)
 江戸に戻った一茶は、
 ニ六庵宗匠として
 葛飾派俳書に登載されるが、
 三年だけで、以降、
 葛飾派とは疎遠となり、
 これにかわって、
 当時江戸の
 三大家といわれた
 蔵前の
 札差(幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介業とした者)
 夏目成美(せいび)・・・「夏目」?
 と親しくなる
 ↓
 享和元年(1801年)
 三十九歳
 帰省
 父を看病したが父は1ヶ月ほど後に死去
 以後
 遺産相続の件で
 継母と
 十二年間争う
 父の発病から死、
 初七日を迎えるまでの
 約一ヶ月を描いた
 『父の終焉日記』は、
 私小説の先駆け・・・・・・「私小説」
 文化五年(1808年)末
 遺産の半分を貰うことに成功
 取り分は
 田4~6反、畑3反歩、山林3ヵ所、
 他に家屋敷半分、
 世帯道具一式
 財産規模は
 柏原では中の上
 文化五年以降
 柏原村の本百姓として登録
 六年からは
 弥太郎名義で年貢を納める
  ↓↑ 
 「いざいなん江戸は涼みもむつかしき」
 という句を残して
 文化九年(1812年)十一月半ば
 江戸を経ち永住すべき郷里
 柏原村に向かった
 文化十年(1813年)
 弟との間に取り交わした
 熟談書付の事にある家屋敷分譲の実行と
 文化四年(1807年)以前
 の収入と利息を払えという
 遺産争い
  ↓↑
 文化九年(1812年)
 五十歳で故郷の信州柏原に帰り、
 二年後
 二十八歳の妻
 「きく」を娶り、
 三男一女をもうけるが
 幼くして死亡
 「きく」も
 痛風がもとで
 三十七歳で死亡
 六十二歳で二番目の妻
 「田中 雪」を迎えるが
 半年で離婚
 六十四歳で結婚した三番目の妻
 「やを」との間に
 「やた」をもうける
 「やた」は一茶の死後に産まれ、
 一茶の血脈を後世に伝え、
 1873年に46歳で死亡
 一茶は
 脳卒中で58歳のときに半身不随
 63歳のときに言語症
 文政十年閏六月一日(1827年7月24日)
 柏原宿を襲う大火に遭い、
 母屋を失い、
 焼け残った土蔵で生活
 十一月十九日
 土蔵の中で
 六十四年半の生涯を閉じた
 法名は
 釈一茶不退位
 ↓↑
 俳号「一茶」の由来
 『寛政三年紀行』の巻頭で
 「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  しら波のよるべをしらず、
  たつ泡のきえやすき物から、
  名を一茶房といふ」
 と一茶自身が記録・・・「イッサ」は、インドの伝承では
             キリストの名前でもあったとか?
  ↓↑
 正岡子規は
 「俳人一茶」(1897)の
 「一茶の俳句を評す」の中で
 「俳句の実質に於ける一茶の特色は、
  主として
  滑稽、・・・・酷刑?
  諷刺、・・・・附得詞?
  慈愛・・・・・字蛙意?
  の三点にあり」
 と述べている・・・らしい・・・
  ↓↑
 正岡子規
 1867年10月14日(慶応三年九月十七日)
  ~
 1902年(明治三十五年) 九月十九日
 俳人、歌人、国語学研究家
 名は常規(つねのり)
 幼名は処之助 (ところのすけ)
 後に升(のぼる)
  ↓↑
 ・・・愛媛松山中、共立学校で同級の「秋山真之」の親友だった「正岡子規」が自分自身の体験とドウ妄想しても構わないけれどネッ・・・
  ↓↑
 幼少期、「継子一茶」、義母との間の
 精神的軋轢の発想が
 自虐的な・・・・・
 句風となり
 風土と共に生きる
 百姓的な視点と
 平易かつ素朴な語の運びに基づく句作
 作風は
 与謝蕪村の
 天明調に対して
 化政調と呼ばれる・・・
  ↓↑
 一茶の代表句
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
 やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
 名月をとってくれろと泣く子かな
 これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
 うまさうな雪がふうはりふうはりと
 ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
 我ときて遊べや親のない雀
  ↓↑
 ・・・コレラを各自が「文字転換」してヨンだら、ドウなるか・・・
  ↓↑
 一茶の作った句数
 一茶のつくった句
 約22,000句
 一茶の句は類似句や異形句が多い
 「我と来て遊べや親のない雀」にも、
 「我と来て遊ぶや親のない雀」と
 「我と来て遊ぶ親のない雀」の
 類似句がある・・・らしい・・・
  ↓↑
 平成に発見された一茶の句
 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
 けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)
  ↓↑
 代表句集等
 『旅拾遺』『さらば笠』『三韓人』
 などがあるが自身の俳書はない
 著名な『一茶発句集』『おらが春』は没後に刊行されたもの
 「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」
 もいずれも遺稿
 「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」
 「七番日記」「八番日記」「文政句帳」
 など克明な記録は、
 出版を意図して書かれたものではなく、
 一茶のプライバシーまでも公にしている・・・
  ↓↑
 一茶発句集
 たびしうゐ(旅捨遺)
 さらば笠
 三韓人
 おらが春
 寛政三年紀行
 父の終焉日記
 株番
 我春集
 志多良
 寛政句帖
 享和句帖
 文化句帖
 七番日記
 八番日記
 文政句帖
 浅黄空
 俳諧寺抄録
ーーーーー
 ・・・「人間は同じ石につまずく」デスか・・・ボクは何度も同じことを繰り返しているけれど・・・文政十一年四月に娘の「やた(46歳で明治六年没)が生まれ、彼女が父の遺作出版に関わった・・・?・・・

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このヤッカイな存在・・・カンガエルアシ・・・

2016-04-09 23:19:45 | 古事記字源

 ・・・朝は台風並みの風、ボロ屋敷が揺れる・・・午後も晴れているが風が強い・・・本州の方ではサクラが散っているようだ・・・証拠としての「事実材料」はアル・・・『あの日』の事実も、『巴奈馬文書』の事実も、『甘利』の疑惑事実も散らせちゃぁイケナイ・・・「事実」と「真実」はその漢字の意味に於いて、「異なる」・・・で、人間個々人が認識している、あるいは、するだろう「事実の客観性」とはナニか?・・・それが「真実」であったとして、ドウするのか、ドウしようとしてきたのか・・・ここは、過去でもなく、未来でもない、「今現在、生きている間の人間の生き方の問題」であるかな・・・

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仰げば尊し

2016-04-08 15:45:24 | 古事記字源

 ・・・卒業式、入学式、「仰げば尊し、我が師の恩(1884年・明治十七年)」・・・ナケるッ・・・なぜ、「問題」なんだか・・・「身を立て、名をあげ、やよ、励めよ」ですか・・・以前にも書き込んだかな・・・
ーーーーー
 仰げば尊し
 我が師の恩
 教えの庭にも
 はや幾年
 思えば
 いと、疾(と)し
 この年月(としつき)
 今こそ、別れめ
 いざさらば
  ↓
 互に睦(むつみ)し
 日ごろの恩
 別(わか)るる
 後(のち)にも
 やよ、忘るな
 身を立て名をあげ
 やよ、励めよ
 今こそ、別れめ
 いざさらば
  ↓
 朝夕馴(な)れにし
 学びの窓
 蛍の灯火(ともしび)
 積む白雪(しらゆき)
 忘るる間(ま)ぞなき
 ゆく年月
 今こそ、別れめ
 いざさらば
  ↓↑
https://www.youtube.com/watch?v=hff4LY8asTM
アンジェラ・アキ  仰げば尊し ~卒業~


  ↓↑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E3%81%92%E3%81%B0%E5%B0%8A%E3%81%97
  ↓↑
1871年
米国で出版
作曲者「H. N. D.」
作詞者「T. H.ブロスナン」・・・保険業界で活躍
 原文
We part today to meet, perchance,
Till God shall call us home
And from this room we wander forth,
Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days
May live but in the past,
But in the realms of light and love
May we all meet at last.
私たちは今日別れ、
まためぐり逢う、
きっと、神が私たちをその御下へ招く時に。
そしてこの部屋から私たちは歩み出て、
自らの足で一人さまよう。
幼年期から今日までを共にした友は、
生き続けるだろう、
過去の中で。
しかし、
光と愛の御国で、
最後には皆と再会できるだろう。
  ↓
Farewell old room, within thy walls
No more with joy we'll meet
Nor voices join in morning song,
Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream
Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee,
The school-room of our youth.
さよなら古き部屋よ、
汝の壁の内で、
楽しく集うことはもう無い。
朝に声を揃えて歌うことも、
午後の賛美歌も、
もう繰り返すことはない。
だが、
幾年も後の未来に、
私たちは
愛と真実の場を夢見る。
私たちの最も
大切な思い出は、
汝、幼き日々の教室となるのだろう。
  ↓
Farewell to thee we loved so well,
Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls
In happy union here.
Our hands are clasped,
our hearts are full,
And tears bedew each eye
Ah, 'tis a time for fond regrets,
When school-mates say "Good Bye."
さよなら私たちがかく愛した汝よ、
さよなら親愛なる級友たちよ。
私たちの魂を、
幸せなひとつの繋がりとしてきた絆は
解かれた。
私たちの手は固く握られ、
心は満ち、
そして目には涙をたたえ。
ああ、これぞ惜別の時、
級友たちの言葉は「さよなら」。
ーーーーー
 ここには、「級友たちの絆」があっても、ナゼか、「我が師の恩」がない・・・
ーーーーー
 「師」=もろもろ・シ・ス
     兵士の集団・軍隊
     師団・王師・出師 (スイシ)
     多くの人々の集まる所=京師 (ケイシ)
     人を教え導く人・先生
     師事・師匠・師弟・師範・恩師・教師・講師
    「軍隊」
    「周代では、二千五百人の軍隊」
    「易の六十四卦の一
     多くの人を統率する主君・将軍を表す」
    「僧侶や神父など宗教上の指導者」
 「説文解字」の「師」
  ↓↑
  二千五百人を師と為す、
  帀に従ひ、・・・㞢の反字 帀. めぐる・ソウ
          類字は凧(たこ)・佩(はく)
          匝(帀)=木を3周する
          満ちる=密匝匝=びっしり詰まった
              匝地
  𠂤に従ふ、・・・𠂤=つちくれ・タイ・シ「丿+㠯」
          𠂤=師の初文で
            甲骨文・金文では
            𠂤=師の意
            𠂤+帀=𠂤は軍隊が携行していた
                ひもろぎの肉で
                帀は曲刀、
                ひもろぎの肉を扱う儀礼人 
  𠂤の四帀なるは、衆の意なり
  ↓↑
 「甲骨文有兩種字形
  一種象垂直豎立的山丘、本意是小「阜」(孫海波)
  裘錫圭認為「𠂤」是古「堆」字、指古時人工堆築的堂基
  一種作兩個彎曲的扁圓形相連、
  加藤常賢認、為象人的臀尻。疑為「臀」的初文」
 「甲骨文有兩種字形、
  本來分別為兩個字、
  後相混為一(裘錫圭指出、
        第三期以後的卜辭裏、
        二字的區分就不那麼嚴格了)
  第一種字形垂直、象山丘、是「堆」的古字
  指人工堆築的堂基一類建築、引申表示高地
  「堆」是高出於地面的、
  故從「隹」聲的字、往往含有高出的意思。
  第二種字形彎曲、象臀部。
  「臀」從「殿」聲、「殿」是高大的堂。
  兩種字形都有高出之意。
  「𠂤(堆)」、「殿」是同源詞。
  第二種字形多用來表示師旅、軍隊,
  季旭昇認、為由於軍隊多駐紮於高地。
  甲骨文通假為「殿」、表示殿堂、
  合集
  「庭=𠂤」、即「庭=殿」、
  指大庭的殿堂(裘錫圭)。
  「𠂤」甲金文多讀作「師」、
  「說文」、「官」字下云
  「𠂤猶眾也。此與師同意」
  表示軍隊駐紥止息之意、
  合集
  「王宿𠂤=師」、表示商王駐紥軍隊。
  又表示軍隊、師旅、
  如甲骨文「今夕師無禍、寧」、
  金文小臣(言逨)簋
  「白懋父以殷八𠂤(師)征東夷」
  金文又見
  「京師」一詞、表示國都、多友鼎
  「武公命多友䢦(率)公車羞追于京𠂤(師)」。
  參見「師」、「帀」。
  「說文」
  「𠂤、小𨸏也。象形。凡𠂤之屬皆从𠂤」
   段玉裁注」=「其字俗作堆、堆行而𠂤廢矣」
  ↓↑
 ・・・織田信長の岐阜城(別名、稲葉山城、金華山城、井口城)の「岐・阜」の「阜」は「地名の熟語」からしてナルホドだが・・・
 「岐阜城は、岐阜県岐阜市(美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却し、新たに造営したものが岐阜城」で、「濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山」、「小眞木(小牧)山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられた(信長公記)」、「稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山」
 ・・・「小山、丘」が重なり、連なっているように見えるが・・・
 ・・・「𠂤」はボク的には字形が「旗」が靡いているように見えるし、「ノ+呂」の変形にも・・・?・・・そして、「自(おのずから・みずから)」の字の右が開いた漢字である・・・自分の目を開(ひら)いた、開(あ)けたのだ・・・
 ・・・「𠂤」=「旗・幡・播・羽田(多)」なら
    「群集・兵隊」が密集する
    「京師」の意味も解かるが・・・
 「師」の異字体

 十口口𠆢仐(説文)にある古文

 品十(字彙補)にある古文

 北帀(五音篇海)にある古文

 口口帀(字彙補)にある古文
 「石鼓文」にあるという

 非帀(字彙補)にある古文
 「遁甲開山図」に見えるという

 阝丶帀(金石文字弁異)にある異体字
 「漢楊震碑」に見えるという
 师は、簡体字。俗字
ーーーーー
 矯
 キョウ・ためる
 矢+喬
 通仮字
 僑·撟·橋
 異体字
 驕·撟·繑·
 轎·屩·獢·趫·鷮
 同訓異義
 いつはる
ーーーーー
 「師」が「軍隊の長」ならば・・・「いつわり」は当然である・・・「戦士、戦友の死」は生き残った、生き残っている者たちの「悲しみのナミダ」である・・・
 キミは観たかな「西部戦線異状なし」の「教室で戦争を煽っている恩師」を・・・

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矯正・・・キョウセイ・・・共棲・・・嬌声・・・喬(たかし)・・・多寡詞?・・・多少・大小

2016-04-07 22:44:55 | 古事記字源

 ・・・ウルグアイ(宇柳具・Uruguay)の元大統領、尊敬するョ、ッ・・・昨日、調べた「撟=扌+喬(たかい・キョウ・ギョウ=呑+冋)」は「もとる・キョウ」だったが、「呑=夭(わかい・ヨウ)+口」である。「夭」は妖(あや)しいの部首でもあり「妖艶」である・・・で、「もとる」と訓読みする異字漢字は結構ある・・・「もとる=悖(ハイ)・愎(フク)・乖(クワイ・カイ)・婞(コウ)・佷(コン)・歹(カツ・ガチ)・刺(シ)・・・「摸訳留(もとる)」?・・・「悖る=もとる=戻る」は「道理にそむく・反する・ねじり曲がる・ゆがむ・ゆがめる」らしい・・・「国家の指導者」が「パナマ(巴奈馬)文書」の「脱税疑惑」で右往左往しているらしいが、大陸中国ではNHKニュースの画像も音声も遮断で、真っ黒け。
 真っ黒に塗りつぶしたのは国会に提出された日本政府の「甘利のTPPの交渉文書」、世界の「政治屋」は「甘利」である・・・
 兎に角、「巴奈馬」の「パ(巴)」は、「巴(中国四川省東部の異称、巴蜀・ともえ=水の渦巻き模様」で「巴布 (パップ)・巴比倫 (バビロン)・巴里 (パリ)・巴爾幹 (バルカン)」、「奈= 柰(いかん・なんぞ・どうして)」の「馬(うま・め・バ)」である・・・まったく、博打稼業にも「モトル」奴等が各国の「政治屋の頭領」・・・野球、バトミントンの選手を非難できるか・・・
 ボクの父方のオバァちゃんの苗字は「高橋」だが、故郷は金沢、新潟からダンナとカケ落ちで北上して蝦夷地にヤッテきた・・・「橋=木+喬」の「喬」も「たかい」の意味である。橋の類字は、「華僑(移民)」の「僑=イ+喬」でもあるが・・・「矯正」は社会生活での「規範・倫理・道徳・礼儀」を守らせる再教育・・・福島原発の反省のハの字も浮かばないサイバン屋、嗤っちゃう前に九州消滅だな、「九州川内原発」の「裁判官」・・・矯正、再教育はオマエラ、サイバン屋だな・・・
ーーーーー
 說文解字
 「撟、舉手也」 高舉・・・手を高くカカゲル・挙手
 漢書、卷八十七・揚雄傳上
 「仰撟首以高視兮、目冥 眴而亡見」
 糾正、矯正。通「矯」・・・・・・修正
 漢書、卷十四、諸侯王表
 「而藩國大者夸州兼郡、
  連城數十、
  宮室百官同制京師、
  可謂撟枉過其正矣」・・・枉は曲がった木
  假託、假造。・・・・・・・・・仮託・珂理に造る
  如「撟詔」
 「喬」は「説文」に
 「高くして曲がれるなり」
 とある
  ↓
 撟=correct・・・「撟」の英訳コレクト
   正しい・最も正しい
   事実に合致して正しい
   間違いのない、正確な
   規準に合って間違いのない
   一般的に認められた基準
  ↓
 一般的に認められた慣習に合った
 誤りを訂正する
 直す
 校正する
 修正する
 添削する
  ↓
 キョウ、 コウ
  ↓
 矯=矢+喬・・・・・矢を高く飛ばす
   U+77EF; 2. 矯.
   通仮字=僑=イ(人)の稼ぎを高くする
       撟
       橋=木(建築)を高くする
   異体字=矫・𢱪・撟・𥏹・挢
   簡体字=矫
 喬を部首とする漢字
 僑=華僑
 敽
 蕎=蕎麦(そば)
 鐈・嶠・蹻
 嬌=愛嬌
 橋=鉄橋
 蟜
 「故に
君子は・・・・訓示は
和して・・・・名古哉化似して
流れず、・・・名臥例事(図・亠=音)
  強なるかな・・キョウ鳴るカナ
  矯たり・・・・教他理
(中庸)」・・・メソテース=ギリシア語Mesotes
               英語Golden Mean
                 Happy Mean
            middle course (way)と云うよりは
            バランス(balance)のコトだろう
 ・・・「嚆矢(コウシ)=鏑(かぶら)矢」の戦闘開始の合図なら拮抗が崩れる時かな・・・
  ↓
 矯正=欠点・悪習などを
    正常な状態に直すこと
    刑務所・少年院などに収容人たちの
    改善更生のための処遇を行うこと
   「行刑」に代わって用いられている語
  ↓
 橋=はし=葉詞
      歯史→1833年(天保四)以来の「天保の飢饉」の
         紀州藩儒の遠藤勝助主催の
         対策会合
         尚歯会(ショウシカイ)←蛮社の獄
         田原藩の渡辺崋山
         シーボルト門下の高野長英
         岸和田藩医の小関三英
      頗詞
      梯・箸・𣘺・嘴・箸・趨
      端=立+山+而・・・而→形而上・形而下
               而=しこうして
                 しかして
                 しかも
                 しかれども
                 しかるに
                 すなわち→素名和智?
      波子=島根県
         江津市
         波子(はし)町
         波の子=伊弉諾、伊邪那岐、伊耶那岐
             神武天皇の以前
             神代
             七代先祖
             伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥
             別名は
             黄泉津大神・道敷大神
      土師→土器製作の工人
   たかはし=高梁・郄橋・高椅・高階
        鷹嘴
        孝橋・鷹橋・高端
        啄鷹・喬橋
        鷹羽司
ーーーーー
 これらの漢字の関連性から「モウソウ」すれば、
 ↓↑
 「高橋=御膳=膳部=かしわでべ=柏手部」
 膳部の伴造(とものみやつこ)を
 膳臣(かしわでのおみ)=宮廷調理長官
 ↓↑
 孝元天皇の皇子
 大彦命
 阿倍臣の祖の孫
 磐鹿六雁命・・・・・・・蛮(播)録(緑)理句借理?
 (いわかむつかりのみこと)
 (意和化務通掛理之視語訳)?
 (バンロクリクガンメイ)
 (版 録 陸 含 名)?
 が
 景行天皇に
 堅魚(かつお)
 と
 蛤(はまぐり)を調進して
 膳部の膳臣(長官)に任命
 ↓↑
 膳部は中央にあって
 天皇・百官の食事の調製にあたり、
 また
 各地に分散居住して
 食料品の貢納を担当・・・食料品の流通拠点と調達網
             地方情報の掌握担当も兼ねた?
 律令制下では
 宮内省の
 大膳職(だいぜんしき)に
 膳部160人、
 同省
 内膳司に
 膳部40人が所属
 百官・天皇の食膳の調理
 内膳司の長官(正)には
 膳臣の
 高橋朝臣を・・・・・・高橋・鷹嘴・啄鷹・喬橋
            鷹羽司=鷹羽の産地は蝦夷地
 任命することが多く、
 内膳奉膳
 (ないぜんのぶぜん)
 と称し
 一般官人を任じた
 内膳正(しょう・かみ)と区別された
 ↓↑
 高橋氏文(たかはしうじぶみ)
 古記録
 宮内省内膳司に仕えた
 高橋氏が
 安曇氏と勢力争いし
 古来の伝承を朝廷に奏上した
 789年(延暦八年)の家記が原本・・・
 完本は伝わっておらず、
 逸文が
 『本朝月令』、『政事要略』、『年中行事秘抄』
 その他に見える・・・?
 ↓↑
 伴信友が
 1842年(天保十三年)に・・・・「13」?
 自序の
 『高橋氏文考註』にまとめた
 これに関する
 791年(延暦十一年)の・・・・・「11」?
 太政官符が存在する・・・らしい・・・
 ↓↑
 高橋-連-虫麻呂・・・・高橋に連(つら)なる虫麻呂?
 (たかはしの-むらじ-むしまろ)
 『新撰姓氏録』 に
 「高橋連
  右京神別
  高橋連
  神饒速日命
  七世孫
  大新河命之後
  山城国
  神別
  高橋連
  饒速日命
  十二世孫
  小前宿禰之後
  河内国
  神別
  高橋連
  饒速日命
  十四世孫
  伊己布都
  大連之後」
 の記録・・・
 ↓↑
 物部氏の「神別氏族」・・・
 「地方の伝説や人事を詠んだ」・・・
 「『万葉集』
  に
  34首の作品が入集
  長歌が
  14首
  旋頭歌が
  1首
  巻6の2首目からは
  虫麻呂の歌(=高橋連虫麻呂歌集)の中に出ず
  として載せている
 (巻6の1首目は笠金村の歌)
  下総国真間(千葉県市川市)の
  手児奈(てこな)の歌
  摂津国葦屋(兵庫県芦屋市)の
  菟原処女(うないおとめ)の歌
  (二人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、
   男たちが後を追って死んだという伝説)
  ↓↑
 『万葉集』巻九
 高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)
 「詠水江浦嶋子一首」
 ↓↑
 ウイッキペデアから添付
 「春日之 霞時尓 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 得〈乎〉良布見者〈古〉之 事曽所念 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 及七日 家尓毛不来而 海界乎 過而榜行尓 海若 神之女尓 邂尓 伊許藝T 相誂良比 言成之賀婆 加吉結 常代尓至 海若 神之宮乃 内隔之 細有殿尓 携 二人入居而 耆不為 死不為而 永世尓 有家留物乎 世間之 愚人〈乃〉 吾妹兒尓 告而語久 須臾者 家歸而 父母尓 事毛告良比 如明日 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 常世邊 復變来而 如今 将相跡奈良婆 此篋 開勿勤常 曽己良久尓 堅目師事乎 墨吉尓 還来而 家見跡〈宅〉毛見金手 里見跡 里毛見金手 恠常 所許尓念久 従家出而 三歳之間尓〈垣〉毛無 家滅目八跡 此筥乎 開而見手歯〈如〉本 家者将有登 玉篋 小披尓 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 □袖振 反側 足受利四管 頓 情消失奴 若有之 皮毛皺奴 黒有之 髪毛白斑奴〈由〉奈由奈波 氣左倍絶而 後遂 壽死祁流 水江之 浦嶋子之 家地見」
 ↓↑
 「高橋虫麻呂」の意味は・・・
 「矯正・嬌声・強請・強制」からの「解放」だった・・・?
 ↓
ーーーーー
 で、他のブログ記事を参照にしたモノだが、
 ↓
 「高」は「京」の省略形と「口」を合わせた形・・・?
 ・・・漢字構成は「高=亠+口+冂+口」である。
 「京」は出入り口のある都の城門の形・・・?
  ・・・「京=亠+口+八+亅(ケツ)」である、
 「口(サイ?)」は
  顔の「くち」のことではなくて、
  神への祈りの祝詞を入れる器・・・?ではないだろう・・・
 ・・・「口」は四方を囲む「囗(城壁)」か「口(くち)」そのもので・・・
 ↓↑
 「高」は門の上に望楼、物見矢倉ではあるのはそのとうりだが・・・「京」は「お祓(はら)い」の文字ではないだろう・・・城の城門、楼閣ならば
 「京」は
 「亠(音・トウ)・・・鍋蓋冠としているところがミソ
  +
  口(くち)
  +
  八(ハチ)
  +
  亅(かぎ・ゴチ・ケツ)」
 の意味である・・・「亅」は「鉤」であるから「高い楼閣の窓口にモノを吊るし上げる小さいハ形(入れ物)の鉤縄」であろう・・・京都・・・
 ↓↑
 ・・・で、随分と叉、トンでしまった「喬」
 「愛嬌」の「嬌」は女性の姿の美しいことで
 「喬」は「しなう」は高い竹か、柳の枝垂れ・・・揺れる曲線美・・・?・・・梢(こずえ)が揺(ゆ)れる・・・「坪内逍遥」あたりの発想かも・・・
 「驕慢」の「驕」は「たかぶる荒馬」は「鼻息が荒い」のは「須佐之男=素戔男=素戔嗚」の「尊(命)=みこと=視事」であるかな・・・
 ↓↑
 台湾や香港など
 一部の地域で使用されている
 伝統的なタイプの漢字が
 繁体字(traditional)と云われているらしい・・・
 「挢=撟」・「挣=掙」・「挤=擠」・「挥=揮」・「挽=輓」
 「捞=撈」・「损=損」・「捡=撿」・「换=換」・「捣=搗」
 「捣=擣」・「据=據」・「捻=撚」・「掳=擄」・「掴=摑」
 「掷=擲」・「掸=撢」・「掸=撣」・・・
 ・・・「簡体字」じゃぁ、視覚を無視するモノである・・・
ーーーーー
 ・・・漢字は簡略化されても、草書化されても、その意味内容をヨム、ヨミトルのはムズカシイ・・・

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