人間個人の「精神的状況」は根本的には
「病理学的な障害」以外は
共同体社会の
「共同観念=コトバ」に規定されている

「共同体観念」は
共同体そのものの
「諸状況・諸関係」
が創り出してきたモノで
個人的な「精神状況」は「共同体観念」が要求するモノに
はまっている時は「安定」している
そうでない時は共同体内の人間関係は必然的に
反発、否定、排除となる
この状況が個人の「精神状況」に「不安」をきたす
自然の枠内に形成された如何なる「人間社会」も
自然から独立して存在し得ない
農耕社会をつくろうが
遊牧社会をつくろうが
狩猟、漁猟社会をつくろうが
「食料自体」を
「自然から切り離しては作れない」
と言うコトだ
そして自然=食料から見放されては生きて行けない
食えなくなってしまう、と言う状況は
観念的人間の最大の「不安」である
肉体的な健康機能は
飢餓によって機能できなくなる
飢餓を経験しなくても人間の個的肉体は決して
「自然からは解放されない存在として出生させられる
(生→老化→病→死)」である
「不安」とは食べることが出来なくなってしまう存在・・・
「死」・・・
「不安の解消=自然からの解放」を望んでいるのは
「人間の観念」であり
人間実体=肉体とその機能の
「生→老化→病→死」は
「観念としてでは無く、自然そのものの存在としての変化」なのだ
そして
「共同社会と言う観念」は
「自然の中」での
人間生物の「生活存在のあり方」を言っているだけだ
人間は
「自然=観念的人間存在=自然」
の
「生理的諸感情」からは決して逃げることが出来ない
だが
この「人間共同体の共同観念」が
社会的な諸状況から歪んでいるとすれば
歪んでいるモノを排除、否定すれば
その部分の人間諸関係の「観念感情=感情観念」からは解放される
共同体内での
「特殊利害の排除・否定」である
そして
その共同体に覆いかぶさり
その共同体空間に浸透している汚水のような
「特殊な共同観念=特殊な共同幻想」
の排除、否定があれば、その意味での、その枠内での
「人間精神の安定」は克服されれるハズ・・・
単純ではないが・・・汚水も精神には必要カモ?・・・
「人間精神」は
「不安定=危険=刺激」を望む存在でもあるらしい・・・
「精神保険の心理学」とは
その必要性が
個的人間の「精神の安定」であるらしいが
この「安定」は
ある共同体社会の
「時代の共同幻想」の枠に矯正され、填められたときに
なんとか「安定」するらしい・・・
矯正されない者は共同体から隔離、あるいは排除される
だ・・・が・・・そのプロセスでの
精神の「躁鬱」、「悩み」は「病」ではない
人間社会に於ける人間の必然性である
人類が「スリコミ」として
「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」を
「スリ込められた」としたら、その生存は不可能であろう・・・
「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」は
人間共同社会の「観念的理性」であるが
「だます」、「ぬすむ」、「殺す」も
「観念的理性」であるからだ・・・
で、「占い」と「心理=理性・感情論」がどこで結びつくのか?・・・「占い」はその殆どの人達がある問題に直面し「精神不安定になった時」にかじりたくなるモノらしい。多分、その時期にその自分の問題に相談に乗ってくれる人物が周囲にいないか、あるいは相談相手がいたとしても、その相談相手のコトバやアドバイスに納得できなかったからであろう。納得できないカモ知れない、と言うことでは「占いの結果」も同じである
で、占いは一時的な「気休め」でイイのだ
「占い」を摩訶不思議なモノと考えてはイケナイ
霊感、テレパシ-でない限り
殆どの「占い」は
その未来的状況を
「相互のコトバのヤリトリ」としてしか理解せざるを得ない
そして
「占い師」は「心理学のプロ」であるカモ
相談者の「心理」をたくみな「コトバ」で突く
同類の「新興宗教」などの組織を支えているヤカラも
精神的に不安定な「信者予備軍」に同じような「コトバ」を投げかける
そして「心理学のプロ」とは
この共同社会を牛耳っている
「宣伝、情報屋のマスコミ」である
更に言えば共同体自体にある「共同観念」である
「ウソ」と「ホントウ」を使い分ける社会に
アナタもワタシも存在しているコトを忘れてはイケナイ
当然にも
「ウソ」と「ホンネ」のはざ間で社会生活をする人間は
「精神的に葛藤し、悩み、感情も不安定」
になるのが必然である
この社会の「本質」を支えているモノが
人間の「生産的諸労働」と
その生産物を「商品」とした「交換」による「消費・使用」である
そして「儲け」がある
この「もうけ」は
「ある特定の人間の財力の蓄積」となって
「蓄積された財力」は「社会」を動かす「政治権力」となっていく
現実的な「もうけ」は
「商品交換される場所での差額」でしか発生しない
そして「もうけるコト」はダレも疑問を持たないし批難しない
アタリマエとしての
「基本的な共同観念=法」になっているからだ
で
この「共同観念=自由売買=私有財産」に「ウソ」はないのか?
・・・共同社会の大枠の「共同観念」が「大ウソ」ならば
共同社会の構成員は常に「不安定」なところで生活をしている
不安の解消・・・
今現在、「占いのコトバ」を得ようとも
未来に何が起ろうとも
「可能性としてのコトバの結果」でしかない
生きているのは「今現在」である
そこでアナタに問われるのは
その「未来的結果」に対する対処の「立場」でしかない
不幸になると言われての
「諦めの立場」からは何にも生まれてこない
「乗り越えていく立場」こそが
何かを産み出す
不幸があって、当然、と居直る人間はもっと強い
「未来的結果」が幸福なると言われた人であっても
「感情」は不安定に揺れ動いて一定しないモノなのだ
世の中には今現在の自分自身の存在が
「社会的レベル、生活環境が幸福」
であることに恐れを抱く人もいる
もちろん
「幸福」がもろいコトを知っている人か
「不幸」を経験した人に違いない
とにかく
「占い」はある意味では
人間関係で「孤立」している人間にとって
医学を装った
「心理学者のコトバ」よりは
はるかに「参考」にはなるカモ・・・
今現在、自分自身の存在の意味が、その置かれた「状況、環境の中」でわからなくなった時に、その「状況、環境」を「理解、判断できる情報」が無いか、曖昧だ、と言うことに尽きる。あるいは「状況、環境」を「理解」する過去的な「経験」や、その「経験」を基礎にした「コトバ=観念」を持っていない、あるいは「経験」があったとしても「観念として整理」出来ていない、と言うことだ。
そして、その「経験」が自分自身の既得している「信念・信条」に照らし合わせて「理不尽」である時は心の葛藤が渦巻きだすのだ。
たいがい自分自身の「信念・信条」は「世間的に常識=私有財産」である、と思い込んでいる「観念」が殆どである。
個々人の「常識=信念・信条」が
「世間一般の常識」
となんとなく重なって一致しているらしいと思っている時には
アナタの心の葛藤は起こらないだろう
直接関って来る事件がない限り
何が起っても
ただ客観主義的に納得するだけであろう
「常識=信念・信条」は
他人事としての
「世間一般の常識=私有財産」の次元なのだ
自分に降りかかった事件が納得できない時はどうなのか・・・?
当然にも、アナタの
「常識=信念・信条」
と
「世間一般の常識」
「常識=信念・信条」と対峙する人間関係での
「相手の常識」が
「利害関係=損得勘定=損得感情」
で違ってくるのだ、と気が付くハズ
その違いさえ判ればイイ
違いが判れば
その時点で自分の生きる道、選択する道は決まってくるからだ・・・
自分自身の「信念・信条」さえ固まれば
あとの部分は「生きるため」の方策、技術的駆け引きでしかない・・・
そして乞食になるか、金持ちになる・・・かは・・・
その未来的な結果の是非は
今現在の「覚悟」である
この現実社会では
自分自身に
「命の余裕(精神的にも、肉体的にも、経済的にも)」
がある時に、自分も他人も救えるハズ
・・・「慈善」とか「偽善」とかで・・・
先ずは「金の損得勘定」で収支が黒字になった場合は
「慈善」とか「偽善」に金をまわすのサッ
そうすれば
この社会の
「精神的損得感情・・・躁鬱患者」
のいくらかは救えるハズ・・・?
ー原文ー↓↑ー
http://web.archive.org/web/20090608012812/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kokan/kokansiren2.htm
ー↓↑ーーー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
「病理学的な障害」以外は
共同体社会の
「共同観念=コトバ」に規定されている

「共同体観念」は
共同体そのものの
「諸状況・諸関係」
が創り出してきたモノで
個人的な「精神状況」は「共同体観念」が要求するモノに
はまっている時は「安定」している
そうでない時は共同体内の人間関係は必然的に
反発、否定、排除となる
この状況が個人の「精神状況」に「不安」をきたす
自然の枠内に形成された如何なる「人間社会」も
自然から独立して存在し得ない
農耕社会をつくろうが
遊牧社会をつくろうが
狩猟、漁猟社会をつくろうが
「食料自体」を
「自然から切り離しては作れない」
と言うコトだ
そして自然=食料から見放されては生きて行けない
食えなくなってしまう、と言う状況は
観念的人間の最大の「不安」である
肉体的な健康機能は
飢餓によって機能できなくなる
飢餓を経験しなくても人間の個的肉体は決して
「自然からは解放されない存在として出生させられる
(生→老化→病→死)」である
「不安」とは食べることが出来なくなってしまう存在・・・
「死」・・・
「不安の解消=自然からの解放」を望んでいるのは
「人間の観念」であり
人間実体=肉体とその機能の
「生→老化→病→死」は
「観念としてでは無く、自然そのものの存在としての変化」なのだ
そして
「共同社会と言う観念」は
「自然の中」での
人間生物の「生活存在のあり方」を言っているだけだ
人間は
「自然=観念的人間存在=自然」
の
「生理的諸感情」からは決して逃げることが出来ない
だが
この「人間共同体の共同観念」が
社会的な諸状況から歪んでいるとすれば
歪んでいるモノを排除、否定すれば
その部分の人間諸関係の「観念感情=感情観念」からは解放される
共同体内での
「特殊利害の排除・否定」である
そして
その共同体に覆いかぶさり
その共同体空間に浸透している汚水のような
「特殊な共同観念=特殊な共同幻想」
の排除、否定があれば、その意味での、その枠内での
「人間精神の安定」は克服されれるハズ・・・
単純ではないが・・・汚水も精神には必要カモ?・・・
「人間精神」は
「不安定=危険=刺激」を望む存在でもあるらしい・・・
「精神保険の心理学」とは
その必要性が
個的人間の「精神の安定」であるらしいが
この「安定」は
ある共同体社会の
「時代の共同幻想」の枠に矯正され、填められたときに
なんとか「安定」するらしい・・・
矯正されない者は共同体から隔離、あるいは排除される
だ・・・が・・・そのプロセスでの
精神の「躁鬱」、「悩み」は「病」ではない
人間社会に於ける人間の必然性である
人類が「スリコミ」として
「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」を
「スリ込められた」としたら、その生存は不可能であろう・・・
「だますな」、「ぬすむな」、「殺すな」は
人間共同社会の「観念的理性」であるが
「だます」、「ぬすむ」、「殺す」も
「観念的理性」であるからだ・・・
で、「占い」と「心理=理性・感情論」がどこで結びつくのか?・・・「占い」はその殆どの人達がある問題に直面し「精神不安定になった時」にかじりたくなるモノらしい。多分、その時期にその自分の問題に相談に乗ってくれる人物が周囲にいないか、あるいは相談相手がいたとしても、その相談相手のコトバやアドバイスに納得できなかったからであろう。納得できないカモ知れない、と言うことでは「占いの結果」も同じである
で、占いは一時的な「気休め」でイイのだ
「占い」を摩訶不思議なモノと考えてはイケナイ
霊感、テレパシ-でない限り
殆どの「占い」は
その未来的状況を
「相互のコトバのヤリトリ」としてしか理解せざるを得ない
そして
「占い師」は「心理学のプロ」であるカモ
相談者の「心理」をたくみな「コトバ」で突く
同類の「新興宗教」などの組織を支えているヤカラも
精神的に不安定な「信者予備軍」に同じような「コトバ」を投げかける
そして「心理学のプロ」とは
この共同社会を牛耳っている
「宣伝、情報屋のマスコミ」である
更に言えば共同体自体にある「共同観念」である
「ウソ」と「ホントウ」を使い分ける社会に
アナタもワタシも存在しているコトを忘れてはイケナイ
当然にも
「ウソ」と「ホンネ」のはざ間で社会生活をする人間は
「精神的に葛藤し、悩み、感情も不安定」
になるのが必然である
この社会の「本質」を支えているモノが
人間の「生産的諸労働」と
その生産物を「商品」とした「交換」による「消費・使用」である
そして「儲け」がある
この「もうけ」は
「ある特定の人間の財力の蓄積」となって
「蓄積された財力」は「社会」を動かす「政治権力」となっていく
現実的な「もうけ」は
「商品交換される場所での差額」でしか発生しない
そして「もうけるコト」はダレも疑問を持たないし批難しない
アタリマエとしての
「基本的な共同観念=法」になっているからだ
で
この「共同観念=自由売買=私有財産」に「ウソ」はないのか?
・・・共同社会の大枠の「共同観念」が「大ウソ」ならば
共同社会の構成員は常に「不安定」なところで生活をしている
不安の解消・・・
今現在、「占いのコトバ」を得ようとも
未来に何が起ろうとも
「可能性としてのコトバの結果」でしかない
生きているのは「今現在」である
そこでアナタに問われるのは
その「未来的結果」に対する対処の「立場」でしかない
不幸になると言われての
「諦めの立場」からは何にも生まれてこない
「乗り越えていく立場」こそが
何かを産み出す
不幸があって、当然、と居直る人間はもっと強い
「未来的結果」が幸福なると言われた人であっても
「感情」は不安定に揺れ動いて一定しないモノなのだ
世の中には今現在の自分自身の存在が
「社会的レベル、生活環境が幸福」
であることに恐れを抱く人もいる
もちろん
「幸福」がもろいコトを知っている人か
「不幸」を経験した人に違いない
とにかく
「占い」はある意味では
人間関係で「孤立」している人間にとって
医学を装った
「心理学者のコトバ」よりは
はるかに「参考」にはなるカモ・・・
今現在、自分自身の存在の意味が、その置かれた「状況、環境の中」でわからなくなった時に、その「状況、環境」を「理解、判断できる情報」が無いか、曖昧だ、と言うことに尽きる。あるいは「状況、環境」を「理解」する過去的な「経験」や、その「経験」を基礎にした「コトバ=観念」を持っていない、あるいは「経験」があったとしても「観念として整理」出来ていない、と言うことだ。
そして、その「経験」が自分自身の既得している「信念・信条」に照らし合わせて「理不尽」である時は心の葛藤が渦巻きだすのだ。
たいがい自分自身の「信念・信条」は「世間的に常識=私有財産」である、と思い込んでいる「観念」が殆どである。
個々人の「常識=信念・信条」が
「世間一般の常識」
となんとなく重なって一致しているらしいと思っている時には
アナタの心の葛藤は起こらないだろう
直接関って来る事件がない限り
何が起っても
ただ客観主義的に納得するだけであろう
「常識=信念・信条」は
他人事としての
「世間一般の常識=私有財産」の次元なのだ
自分に降りかかった事件が納得できない時はどうなのか・・・?
当然にも、アナタの
「常識=信念・信条」
と
「世間一般の常識」
「常識=信念・信条」と対峙する人間関係での
「相手の常識」が
「利害関係=損得勘定=損得感情」
で違ってくるのだ、と気が付くハズ
その違いさえ判ればイイ
違いが判れば
その時点で自分の生きる道、選択する道は決まってくるからだ・・・
自分自身の「信念・信条」さえ固まれば
あとの部分は「生きるため」の方策、技術的駆け引きでしかない・・・
そして乞食になるか、金持ちになる・・・かは・・・
その未来的な結果の是非は
今現在の「覚悟」である
この現実社会では
自分自身に
「命の余裕(精神的にも、肉体的にも、経済的にも)」
がある時に、自分も他人も救えるハズ
・・・「慈善」とか「偽善」とかで・・・
先ずは「金の損得勘定」で収支が黒字になった場合は
「慈善」とか「偽善」に金をまわすのサッ
そうすれば
この社会の
「精神的損得感情・・・躁鬱患者」
のいくらかは救えるハズ・・・?
ー原文ー↓↑ー
http://web.archive.org/web/20090608012812/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/fanin/pura2/kokan/kokansiren2.htm
ー↓↑ーーー
干支歴
命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
↓↑
メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8
↓↑
モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
↓↑
「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
(表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
↓↑
ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます