北京の五十五日・リュウトナン-コロネル・シバ(柴中佐)
すくなびこな
神祇 天津のカミ・・・北京のカミ・南京のカミ?
東京のカミ・西京のカミ?
地津のカミ・地震・震撼のカミ?
自身・辰韓のカミ?
天津の上・・・天津の北=燕山
北京=燕京(エンケイ・エンキョウ)
ホッケイ・ホッキン
Peking=Beijing
北緯39度54分
東経116度23分
天津
別称「津沽・津門」
北緯39度08分・・・遼東半島大連⇔宮城・仙台・伊達
東経117度12分 北緯38度43分~40度10分
平壌
仙台
サンフランシスコ(桑港)
ワシントン(華盛頓)D.C.
アテネ(雅典)⇔鴉典?
蛙典
北緯37度58分
Ἀθῆναι, Athēnai・・・葦名・蘆名・足名
華北平原海河
五大支流の合流点
1400年(建文二年)
朱棣(永楽帝・明王朝第3代皇帝・燕王)
が兵を率いて南下
第二代皇帝
「建文帝」の
皇位簒奪し
皇帝が
「靖難軍」と
河を渡った場所
を
「天津」
とした・・・?
・・・「天津」は隋王朝「煬帝の宮殿を流れる川」・・・
ーーーーー
コロポックル(アイヌ語 コㇿポックㇽ korpokkur)
アイヌの伝承の
小人
「蕗(ふき)の葉の下の人」
別称
トィチセウンクル
トィチセコッチャカムィ
トンチ
「竪穴に住む人」の意
アイヌ人の民俗研究者である
「違星北斗」は
「石の下の人」という意味で
「クルプンウンクル(Kurupun, unkur)
という発音を記録・・・?・・・洞窟の人?
・・・by Wikipedia・・・
・・・「一寸法師」はナニモノ・・・?
ふき(蕗・苳・款冬・菜蕗)の下の神さま
・・・付記の解の加味の様・・・
つわぶき(石蕗)・・・
「ふき(蕗)」・・・・・蕗の薹が有る・葉色が薄緑
と
「つわぶき(石蕗)」・・蕗の薹が無い・葉色が濃緑・黄色い花
は
形状も「酷似 ( そっくり )」で、
食べられる特徴も「酷似 ( そっくり )」・・・
酷似(そっくり・コクジ)
彷彿(そっくり・ホウフツ)
悉皆(そっくり・シッカイ)
肖如(そっくり・ショウ(セウ)ジョ
にる・あやかる
もとのものに似る・似せる
「肖似・肖像・不肖」
肖然(そっくり・ショウゼン)
不残(そっくり・フザン・のこらず・みんな)
克似(そっくり・コクジ)
全然(そっくり・ゼンゼン)
全部(そっくり・ゼンブ)
同一(そっくり・ドウイツ)
↓↑
全名 少名毘古那神
別名 少彦名命
宿奈毘古那命
須久那美迦微
須久奈比古
少日子根命
小比古尼命
小彦命
小日子命
小名牟遅神
久斯神
少名彦命
↓↑
リュウトナン=龍都南・龍斗男・龍図名武・・・竜徒名茂?
コロネル=語呂音流(練る)
オランダ語(kolonel)=陸軍大佐・・・陸奥宗光の補佐?
コロネル(Coronel)=チリ中南部、ビオビオ州の都市
地理注南部・備尾毘緖・・・?
コロネル
ポリカルボフィルカルシウム
(過敏性腸症候群治療薬
下痢・便秘薬)・・・「解理・篇比」譯?
の製品名
↓↑
コロネル・シバ(柴中佐)・・・「55 Days at Peking」
義和団の乱・・・1900年6月20日・・・2020年6月20日???
庚┏┏子 庚┏┏┏子
壬┏┗午 壬 ┗午
甲┏┗子 甲 ┗午
庚┗┗午 庚 ┗午
冲=子午
自刑=午午
↓↑
柴 五郎(しば ごろう)・・・司馬(詞葉・史話)語賂得?
1860年6月21日
(万延元年五月三日)・・・萬縁願念(岩念)語解通纂比(字通)?
~
1945年(昭和20年)12月13日)
大運1945年9月(85歳)~1955年9月
辛卯 壬辰
正財 偏官
8月15日 12月13日
庚申(戊壬庚)偏財・偏財 病⇔乙┏酉 乙┏酉
壬午(丙 丁)偏官・傷官帝旺⇔甲 申 戊┏子
丙申(戊壬庚) ・偏財 病⇔丙┗辰 丙┗辰
甲午(丙 丁)偏印・傷官帝旺⇔甲┗午 甲┗午
辰巳空亡
陸軍軍人・軍事参議官
台湾軍司令官・東京衛戍総督
第12師団長を歴任
階級は陸軍大将勲一等功二級
義和団の乱(1900年)
防衛戦の実質
11カ国
清国駐在
公使館の
「連合司令官」
柴 陸軍中佐
すくなびこな
神祇 天津のカミ・・・北京のカミ・南京のカミ?
東京のカミ・西京のカミ?
地津のカミ・地震・震撼のカミ?
自身・辰韓のカミ?
天津の上・・・天津の北=燕山
北京=燕京(エンケイ・エンキョウ)
ホッケイ・ホッキン
Peking=Beijing
北緯39度54分
東経116度23分
天津
別称「津沽・津門」
北緯39度08分・・・遼東半島大連⇔宮城・仙台・伊達
東経117度12分 北緯38度43分~40度10分
平壌
仙台
サンフランシスコ(桑港)
ワシントン(華盛頓)D.C.
アテネ(雅典)⇔鴉典?
蛙典
北緯37度58分
Ἀθῆναι, Athēnai・・・葦名・蘆名・足名
華北平原海河
五大支流の合流点
1400年(建文二年)
朱棣(永楽帝・明王朝第3代皇帝・燕王)
が兵を率いて南下
第二代皇帝
「建文帝」の
皇位簒奪し
皇帝が
「靖難軍」と
河を渡った場所
を
「天津」
とした・・・?
・・・「天津」は隋王朝「煬帝の宮殿を流れる川」・・・
ーーーーー
コロポックル(アイヌ語 コㇿポックㇽ korpokkur)
アイヌの伝承の
小人
「蕗(ふき)の葉の下の人」
別称
トィチセウンクル
トィチセコッチャカムィ
トンチ
「竪穴に住む人」の意
アイヌ人の民俗研究者である
「違星北斗」は
「石の下の人」という意味で
「クルプンウンクル(Kurupun, unkur)
という発音を記録・・・?・・・洞窟の人?
・・・by Wikipedia・・・
・・・「一寸法師」はナニモノ・・・?
ふき(蕗・苳・款冬・菜蕗)の下の神さま
・・・付記の解の加味の様・・・
つわぶき(石蕗)・・・
「ふき(蕗)」・・・・・蕗の薹が有る・葉色が薄緑
と
「つわぶき(石蕗)」・・蕗の薹が無い・葉色が濃緑・黄色い花
は
形状も「酷似 ( そっくり )」で、
食べられる特徴も「酷似 ( そっくり )」・・・
酷似(そっくり・コクジ)
彷彿(そっくり・ホウフツ)
悉皆(そっくり・シッカイ)
肖如(そっくり・ショウ(セウ)ジョ
にる・あやかる
もとのものに似る・似せる
「肖似・肖像・不肖」
肖然(そっくり・ショウゼン)
不残(そっくり・フザン・のこらず・みんな)
克似(そっくり・コクジ)
全然(そっくり・ゼンゼン)
全部(そっくり・ゼンブ)
同一(そっくり・ドウイツ)
↓↑
全名 少名毘古那神
別名 少彦名命
宿奈毘古那命
須久那美迦微
須久奈比古
少日子根命
小比古尼命
小彦命
小日子命
小名牟遅神
久斯神
少名彦命
↓↑
リュウトナン=龍都南・龍斗男・龍図名武・・・竜徒名茂?
コロネル=語呂音流(練る)
オランダ語(kolonel)=陸軍大佐・・・陸奥宗光の補佐?
コロネル(Coronel)=チリ中南部、ビオビオ州の都市
地理注南部・備尾毘緖・・・?
コロネル
ポリカルボフィルカルシウム
(過敏性腸症候群治療薬
下痢・便秘薬)・・・「解理・篇比」譯?
の製品名
↓↑
コロネル・シバ(柴中佐)・・・「55 Days at Peking」
義和団の乱・・・1900年6月20日・・・2020年6月20日???
庚┏┏子 庚┏┏┏子
壬┏┗午 壬 ┗午
甲┏┗子 甲 ┗午
庚┗┗午 庚 ┗午
冲=子午
自刑=午午
↓↑
柴 五郎(しば ごろう)・・・司馬(詞葉・史話)語賂得?
1860年6月21日
(万延元年五月三日)・・・萬縁願念(岩念)語解通纂比(字通)?
~
1945年(昭和20年)12月13日)
大運1945年9月(85歳)~1955年9月
辛卯 壬辰
正財 偏官
8月15日 12月13日
庚申(戊壬庚)偏財・偏財 病⇔乙┏酉 乙┏酉
壬午(丙 丁)偏官・傷官帝旺⇔甲 申 戊┏子
丙申(戊壬庚) ・偏財 病⇔丙┗辰 丙┗辰
甲午(丙 丁)偏印・傷官帝旺⇔甲┗午 甲┗午
辰巳空亡
陸軍軍人・軍事参議官
台湾軍司令官・東京衛戍総督
第12師団長を歴任
階級は陸軍大将勲一等功二級
義和団の乱(1900年)
防衛戦の実質
11カ国
清国駐在
公使館の
「連合司令官」
柴 陸軍中佐
リュウトナン-コロネル・シバ(柴中佐)
柴 陸軍中佐
lieutenant -colonel (Lieut-Col)
(リュートナン・コロネル)
lieutenant=ルーテナントゥ
上官代理・副官
上官の副官、補佐官
lieutenant
米陸軍・米空軍・米海兵隊
中尉(first lieutenant)
少尉(second lieutenant)
海軍大尉
英陸軍中尉・上官代理・副官
米警察の警部補
消防署の副分隊署長
階級名の前に付けて、その1つ下の階級
lieutenant general 中将(陸軍・空軍・海兵隊)
lieutenant colonel 中佐(陸軍・空軍・海兵隊)
lieutenant commander 少佐(海軍・沿岸警備隊)
lieutenant governor 副総督(イギリス植民地)
副知事(アメリカ)
ルテナン (lieutenant) =軍隊などの階級
フランス語 リュトナン
イギリス語 レフテナント
アメリカ語 ルーテナント
階級
中尉 (first lieutenant)
少尉 (second lieutenant)
多くの陸軍・空軍・海兵隊
大尉 - 多くの海軍・沿岸警備隊
中尉 - イギリス陸軍・ソ連海軍
警部補 - 警察
ーーーーー
少年時代の
柴を庇護した
野田豁通
野田の娘は
柴とは同藩出身の
西義一に嫁ぎ
野田の甥
石光真清の長男
石光真人は
柴の遺書を編纂し
『ある明治人の記録』
として出版
石光 真清(眞清・いしみつ まきよ)
慶応四年八月三十日
(1868年10月15日)
~
昭和十七年
(1942年5月15日)
日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)
諜報活動家
明治~大正にかけて
シベリア、満州での
諜報活動に従事・・・スパイ
『陸軍士官学校第十一期卒業者名簿
(明治33年7月1日調)』
に依れば
歩兵第九連隊(露國)と記録
8月 - 任参謀本部付、露国差遣
ーーーーー
小人の英雄
日英同盟のきっかけをつくった影の立役者
会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男
1873年(明治06年)3月陸軍幼年学校に入校
1877年(明治10年)5月陸軍士官学校
1879年(明治12年)12月陸軍砲兵少尉
1880年(明治13年)12月士官学校卒業
士官生徒第3期
柴の同期
上原勇作 元帥
内山小二郎 大将
秋山好古 大将
本郷房太郎 大将
1881年(明治14年)7月大阪鎮台山
砲兵第4大隊 小隊長就任
1883年(明治16年)2月近衛砲兵大隊 小隊長
1884年(明治17年)6月参謀本部出仕
7月 陸軍中尉
10月 清国差遣
福州・北京に駐在
1888年(明治21年)5月近衛砲兵連隊小隊長
1889年(明治22年)3月陸軍砲兵射的学校を卒業
11月陸軍大尉
近衛砲兵連隊中隊長
1890年(明治23年)2月砲兵課員として陸軍勤務
5月陸軍士官学校教官
1892年(明治25年)1月参謀本部第二局員
1894年(明治27年)3月イギリス公使館附心得
駐在武官
8月に帰朝
11月陸軍少佐
大本営参謀
1895年(明治28年)4月日清戦争に出征
5月帰還
9月イギリス公使館附
1898年(明治31年)5月15日米西戦争の視察の命令
ワシントンD.C.の
日本公使館に着任
大使・星亨の紹介で
陸軍長官アルジャーと面会
24日にワシントンを離れ
25日~6月1日まで
テネシー州チャタヌーガの
陸軍キャンプで訓練を視察
8日の予定が遅れて
13日フロリダ州タンパ港から出港
アメリカ陸軍第五軍団
(シャフター少将指揮)は
22日
キューバ
サンチャゴ・デ・クーバの
東約16マイルの
ダイクイリに上陸
24日8海里の
シボネーに第1師団が上陸
柴はこれに同行
7月1日米軍は
エル・カネー
サン・ホアン
攻撃、両地点を確保
柴は
サン・ホアンの攻防戦を観戦
17日入城式
主な戦闘は終結
柴はサンチャゴ市内へ入り
スペイン側からも
攻防戦の情報を集め調査
20日柴の乗った船は
サンチャゴを離れ
プエルトリコ攻撃の観戦を希望
遠征軍は既に出撃
26日タンパへ帰港した船で
検疫のために足止め
30日上陸
8月1日ワシントンへ戻った
12月参謀本部出仕
1899年(明治32年)1月参謀本部員
8月帰国
10月陸軍中佐進級
1900年(明治33年)3月清国公使館附・駐在武官
5月 義和団の乱
暴徒が
日本公使館書記生 杉山彬
ドイツ公使 ケットレル
が殺害
柴は
公使
西徳二郎
の下で居留民保護
他国軍と協力して
60(55)日に及ぶ
篭城戦を戦った
北京には
日本の他に
11カ国
が公使館
日本を含む
8カ国
が多少の護衛兵を持っていたが
柴は事前に
北京城およびその周辺の地理を調べ
間者を駆使した情報網を築き上げ
各国篭城部隊の
実質的司令官であった
事変後
柴はイギリスの
ビクトリア女王
各国政府から
勲章を授与された
ロンドン・タイムス社説
「籠城中の外国人の中で
日本人ほど男らしく奮闘し
その任務を全うした国民はいない。
日本兵の輝かしい武勇と戦術が
北京籠城を持ちこたえさせたのだ」
と記した
柴自身は
アメリカ軍人が
最も勇敢だったと評している・・・?
1901年(明治34年)3月参謀本部附
6月野砲兵第15連隊長
1902年(明治35年)12月陸軍大佐
1904年(明治37年)4月野戦砲兵第十五連隊長
日露戦争に出征
1906年(明治39年)2月帰還
4月1日功二級金鵄勲章を受章
3月イギリス大使館附
7月ロンドンに着任
1907年(明治40年)11月陸軍少将
1908年(明治41年)12月佐世保要塞司令官
「ヨウナイ司令官」と閑職
1909年(明治42年)8月重砲兵第2旅団長
1911年(明治44年)12月参謀本部附
身分で清国に出張
1912年(大正元年)9月重砲兵第1旅団長
1913年(大正2年)8月陸軍中将
補職は下関要塞司令官
1914年(大正3年)5月親補職第12師団長
1917年(大正6年)5月25日勲一等瑞宝章受章
1918年(大正7年)6月東伏見宮依仁親王の
イギリス派遣に随行
7月東京衛戍総督に親補
1919年(大正8年)1月イギリスより帰国
8月陸軍大将
11月台湾軍司令官
1921年(大正10年)5月軍事参議官
1922年(大正11年)11月待命
1923年(大正12年)3月予備役被仰付
1930年(昭和05年)4月退役
1945年(昭和20年)9月15日自決
柴は老齢のため果たせず
12月13日その怪我で病死
享年85
墓所は
会津若松市
恵倫寺
ーーーーー
小人の英雄
↓↑
小村 寿太郎=壽太郎
(こむら じゅたろう)
小村は小柄
「五尺一寸(約156センチ)」
or
「4尺7寸(約143センチ)」
↓↑
1855年10月26日
(安政二年九月十六日)
~
1911年11月26日(56歳没)
大運1911年7月(55歳)~1921年7月
庚辰 己卯
偏財 傷官
乙┏卯(甲 乙)印綬・印綬沐浴⇔辛亥
丁
丙┗戌(辛丁戊)比肩・食神 墓⇔己亥
丙┏子(壬 癸) ・正官 胎⇔庚子
冲
甲┗午(丙 丁)偏印・傷官帝旺⇔壬午
申酉空亡
↓↑
日向国
飫肥 誕生
(宮崎県日南市)
神奈川県
三浦郡
葉山町 死没
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
慶応四年八月三十日
(1868年10月15日)
~
昭和十七年
(1942年5月15日)
日本陸軍の軍人(最終階級陸軍少佐)
諜報活動家
明治~大正にかけて
シベリア、満州での
諜報活動に従事・・・スパイ
『陸軍士官学校第十一期卒業者名簿
(明治33年7月1日調)』
に依れば
歩兵第九連隊(露國)と記録
8月 - 任参謀本部付、露国差遣
ーーーーー
小人の英雄
日英同盟のきっかけをつくった影の立役者
会津藩士(280石)・柴佐多蔵の五男
1873年(明治06年)3月陸軍幼年学校に入校
1877年(明治10年)5月陸軍士官学校
1879年(明治12年)12月陸軍砲兵少尉
1880年(明治13年)12月士官学校卒業
士官生徒第3期
柴の同期
上原勇作 元帥
内山小二郎 大将
秋山好古 大将
本郷房太郎 大将
1881年(明治14年)7月大阪鎮台山
砲兵第4大隊 小隊長就任
1883年(明治16年)2月近衛砲兵大隊 小隊長
1884年(明治17年)6月参謀本部出仕
7月 陸軍中尉
10月 清国差遣
福州・北京に駐在
1888年(明治21年)5月近衛砲兵連隊小隊長
1889年(明治22年)3月陸軍砲兵射的学校を卒業
11月陸軍大尉
近衛砲兵連隊中隊長
1890年(明治23年)2月砲兵課員として陸軍勤務
5月陸軍士官学校教官
1892年(明治25年)1月参謀本部第二局員
1894年(明治27年)3月イギリス公使館附心得
駐在武官
8月に帰朝
11月陸軍少佐
大本営参謀
1895年(明治28年)4月日清戦争に出征
5月帰還
9月イギリス公使館附
1898年(明治31年)5月15日米西戦争の視察の命令
ワシントンD.C.の
日本公使館に着任
大使・星亨の紹介で
陸軍長官アルジャーと面会
24日にワシントンを離れ
25日~6月1日まで
テネシー州チャタヌーガの
陸軍キャンプで訓練を視察
8日の予定が遅れて
13日フロリダ州タンパ港から出港
アメリカ陸軍第五軍団
(シャフター少将指揮)は
22日
キューバ
サンチャゴ・デ・クーバの
東約16マイルの
ダイクイリに上陸
24日8海里の
シボネーに第1師団が上陸
柴はこれに同行
7月1日米軍は
エル・カネー
サン・ホアン
攻撃、両地点を確保
柴は
サン・ホアンの攻防戦を観戦
17日入城式
主な戦闘は終結
柴はサンチャゴ市内へ入り
スペイン側からも
攻防戦の情報を集め調査
20日柴の乗った船は
サンチャゴを離れ
プエルトリコ攻撃の観戦を希望
遠征軍は既に出撃
26日タンパへ帰港した船で
検疫のために足止め
30日上陸
8月1日ワシントンへ戻った
12月参謀本部出仕
1899年(明治32年)1月参謀本部員
8月帰国
10月陸軍中佐進級
1900年(明治33年)3月清国公使館附・駐在武官
5月 義和団の乱
暴徒が
日本公使館書記生 杉山彬
ドイツ公使 ケットレル
が殺害
柴は
公使
西徳二郎
の下で居留民保護
他国軍と協力して
60(55)日に及ぶ
篭城戦を戦った
北京には
日本の他に
11カ国
が公使館
日本を含む
8カ国
が多少の護衛兵を持っていたが
柴は事前に
北京城およびその周辺の地理を調べ
間者を駆使した情報網を築き上げ
各国篭城部隊の
実質的司令官であった
事変後
柴はイギリスの
ビクトリア女王
各国政府から
勲章を授与された
ロンドン・タイムス社説
「籠城中の外国人の中で
日本人ほど男らしく奮闘し
その任務を全うした国民はいない。
日本兵の輝かしい武勇と戦術が
北京籠城を持ちこたえさせたのだ」
と記した
柴自身は
アメリカ軍人が
最も勇敢だったと評している・・・?
1901年(明治34年)3月参謀本部附
6月野砲兵第15連隊長
1902年(明治35年)12月陸軍大佐
1904年(明治37年)4月野戦砲兵第十五連隊長
日露戦争に出征
1906年(明治39年)2月帰還
4月1日功二級金鵄勲章を受章
3月イギリス大使館附
7月ロンドンに着任
1907年(明治40年)11月陸軍少将
1908年(明治41年)12月佐世保要塞司令官
「ヨウナイ司令官」と閑職
1909年(明治42年)8月重砲兵第2旅団長
1911年(明治44年)12月参謀本部附
身分で清国に出張
1912年(大正元年)9月重砲兵第1旅団長
1913年(大正2年)8月陸軍中将
補職は下関要塞司令官
1914年(大正3年)5月親補職第12師団長
1917年(大正6年)5月25日勲一等瑞宝章受章
1918年(大正7年)6月東伏見宮依仁親王の
イギリス派遣に随行
7月東京衛戍総督に親補
1919年(大正8年)1月イギリスより帰国
8月陸軍大将
11月台湾軍司令官
1921年(大正10年)5月軍事参議官
1922年(大正11年)11月待命
1923年(大正12年)3月予備役被仰付
1930年(昭和05年)4月退役
1945年(昭和20年)9月15日自決
柴は老齢のため果たせず
12月13日その怪我で病死
享年85
墓所は
会津若松市
恵倫寺
ーーーーー
小人の英雄
↓↑
小村 寿太郎=壽太郎
(こむら じゅたろう)
小村は小柄
「五尺一寸(約156センチ)」
or
「4尺7寸(約143センチ)」
↓↑
1855年10月26日
(安政二年九月十六日)
~
1911年11月26日(56歳没)
大運1911年7月(55歳)~1921年7月
庚辰 己卯
偏財 傷官
乙┏卯(甲 乙)印綬・印綬沐浴⇔辛亥
丁
丙┗戌(辛丁戊)比肩・食神 墓⇔己亥
丙┏子(壬 癸) ・正官 胎⇔庚子
冲
甲┗午(丙 丁)偏印・傷官帝旺⇔壬午
申酉空亡
↓↑
日向国
飫肥 誕生
(宮崎県日南市)
神奈川県
三浦郡
葉山町 死没
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
妻 小村マチ
子女 小村欣一(長男)
初代拓務次官
小村捷治(次男)
佐分利フミ(文子・長女)
父 佐分利貞男(娘婿)
第18・23代 外務大臣
内閣 第2次桂内閣
在任期間
1908年8月27日~1911年8月30日
内閣 第1次桂内閣
在任期間
1901年9月21日~1906年1月7日
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