![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/fb/723d1385370cf928cb4452856f6ed432.jpg)
書くのをためらっていました。
先日16年間我が家の家族としていてくれた愛犬の「ボブ」がいなくなりました。
5月の後半から食欲がなくなり
6月に入ってからは 下痢をするようになりました。
歩くのも 後ろ足の踏ん張りがきかなくなり ねたきりになってしまい。
7月に入ってからは 何も食べないとゆう状態になりました。
ビスケット ちくわ ゼリー 食べてくれると思うものを 何でも
冷蔵庫にそろえて 少しでもとおもってましたが
それらのものを 全部のこして いってしまいました。
特に アンパンが 好きでした。
しまいには アンパンも 戻すようになって 痩せ痩せになってしまったの。
野辺の送りには
アンパン 白い百合の花をもたせて 送っていきました。
この世は 出会いと別れの繰り返しといいますが
別れは ほんとうに 悲しいものです。
家族の一員として 良くお留守番もしてくれました。
一番うれしいのは 出迎えてくれるときの その「よろこび」
今 私は ぬけがらのようになっています。
でも 生きているものは ボブの分もがんばって やっていかねば
早く もとの 生活にしなければ ボブに笑われますね。
![ブログランキング・にほんブログ村へ](http://www.blogmura.com/img/originalimg/0000108183.jpg)
にほんブログ村
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/64/c1359225f4fb4c167466ed96c6681648.jpg)
尺取虫や世間見えぬと立ち上がり
柴田由乃
句集 「余生小粋に」より
尺取虫が後ろ脚で半分立ち上がった姿を
世間が見えないから
もっとよく見ようととして立ち上がった姿を
捉えた ユーモアー溢れる句である
揚句は 尺取虫の立ち上がる姿を句材とし
その姿に何かを求める
必死さを感じとった
尺取虫は「世間が見えぬ」と 立ちあがったのである
見逃せないのは
尺取虫の姿を見て誰もが感ずる
おかしみや 滑稽さの感覚を素直に昇華して
句にしたと言う点である
それこそが「世間みえぬと」の借辞の真骨頂なのである
俳句には表現のうまさ
技術 芸 というものも 必要だが
このような原感覚
驚きの念を失わない素直さが
最も必要とされるのではないだろうか。
今津大天 俳句の対話術 より
わずか数センチの尺取虫が
背伸びをしたところで どれだけのものが見えるように
なるのかしら
それを大仰に 詠ったところに
おかしみを おぼえます。
いや 皆 尺取虫でさえ
必死に 世間からずれないように
世間の風を 乗り切って 生きているのです。
自分の感じたことを 素直に詠う
これこそ 俳句の真髄なのでは ないでしょうか。
![にほんブログ村 ポエムブログ 写真俳句へ](http://poem.blogmura.com/p_haiku/img/p_haiku125_41_z_cat.gif)
にほんブログ村
![ブログランキング・にほんブログ村へ](http://www.blogmura.com/img/originalimg/0000223727.jpg)
にほんブログ村
コメントへのお返事はご訪問に変えさせていただきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c9/253e38f73c0de6aa3399c60108a2bed6.jpg)
佐藤庄司の旧跡
笈も太刀も五月に飾れ紙幟
もじずりの石をみたあと 瀬の上という宿場に出ました。
人に尋ねながら 佐藤氏の居城丸山城跡にでた。
また近くに佐藤氏の菩提寺があって 佐藤一家の石碑が残っている。
寺に入ってお茶をいただいた。
ここには 義経の太刀や弁慶の笈が保管してあって寺宝としてあった。
芭蕉は せめて笈や太刀を紙幟といっしょに 飾ってほしいと この句を詠ったとか
実際芭蕉が目にしたのは 義経の笈と弁慶の書写したお経だったとか。
芭蕉の思いの感じられる句です。
先日関が原を歩いたとき 義経の母常盤御前が建てたというお地蔵さまにであいました。
いづれ この道を義経が通るだろう ここから守ってやりたいと建てたお地蔵様でした。
義経と弁慶が奥州にのがれていく それにまつわる 秘話 良いお話がありますね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/8b/0e8f8bb9f7c722a516a3bac58c8bdd0f.jpg)
![にほんブログ村 ポエムブログ 写真俳句へ](http://poem.blogmura.com/p_haiku/img/p_haiku125_41_z_cat.gif)
にほんブログ村
![ブログランキング・にほんブログ村へ](http://www.blogmura.com/img/originalimg/0000108183.jpg)
にほんブログ村
コメントへのお返事は訪問に変えさせていただきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/9f/109c117c551d5318c6638793fbae1e9c.jpg)
麻衾吾を焼く炎美しき
柴田由乃 余生小粋により
「吾を焼く炎」とは、死んで火葬に付されることに他ならない。
しかし、死んでもいない自分が焼かれるのを、自分が見るわけがない。
とすると、夢か作り話ということになる。
仏教では現実界はもともとわれわれが思うほど現実ではない。
死後の一時期は「中有」と言って字のごとく、中途半端な、宙ぶらりんな存在なのだが
夢も存在の一種と考えられている。
したがって、夢は現代人が思うような、幻の世界とは違う。
インデアンも言うように 夢の世界は、過去の人々とも、
他の動植物や他の生命体とも心を通わせることが出来る時間空間を越えた世界なのだ。
とくに作者には夢や霊が幻ではなく
この世界と同じような現実性を持っていることを知れば
読者には気味悪い恐ろしい句も
作者には美しい感動的な情景であったことが分かるのである。
今津大天 俳句の対話術より
この作者は 第六感が すこぶる敏感にはたらいたりすることがある。
夢の世界ははたして ただ夢だけで終わるのであろうか。
いえいえ 何かを我々に教えてくれたりする。
そんな現実でもないつまり中有の世界 ましてや 自分が焼かれることを想像することは恐ろしい。
しかし いつかは そうゆう時が必ずくるのです。
![にほんブログ村 写真ブログ 散歩写真へ](http://photo.blogmura.com/p_sanpo/img/p_sanpo125_41_z_cat.gif)
にほんブログ村
![ブログランキング・にほんブログ村へ](http://www.blogmura.com/img/originalimg/0000223727.jpg)
にほんブログ村
コメントへのお返事はご訪問に変えさせていただきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/66/7c95d6641694f233a1201c7cbed74af2.jpg)
七夕や野にもねがひの糸すすき
小林一茶
今日は七夕さまです、
一年に一回逢えるという星合の日です。
昨日の夜は荒れたお天気でしたが うって変わって良いお天気になりました。
こんやは お星様に逢えそうです。
七夕は まだ夏の盛りにもなっていないのに 秋の季語です。
他に七夕にまつわる季語には
棚機 棚機つ女 七夕祭り 乞巧尊 星祭り 星の恋 星迎 星今宵 二星 牽牛 織女 彦星 織姫
七夕竹 七夕流し 願いの糸 五色の糸 鵲の橋
ここんなにもたくさんあります。
なお かささぎの橋とありますが
牽牛と織女のためにかささぎが 天の川」に渡した橋「かささぎの橋」から 季語になっているのでしょう。
なお百人一首に 家持の
かささぎの渡せる橋に置く霜のしろきをみれば夜ぞふけにける
「冬の夜、天の川にかささぎが掛けた橋におりた霜が真っ白になっているのを見ていると、夜もすっかり更けてしまったよ。」
こんな意味ですが、七夕には、かささぎが翼を並べて天の川に橋を渡し、彦星を渡らせると言われています。
こんなロマンチックな夜 今夜は星を見上げてみましょう。
![にほんブログ村 その他日記ブログ 三行日記へ](http://diary.blogmura.com/sangyo/img/sangyo125_41_z_cat.gif)
にほんブログ村
![ブログランキング・にほんブログ村へ](http://www.blogmura.com/img/originalimg/0000183761.jpg)
にほんブログ村
コメントありがとうございます、
コメントにはご訪問にかえさせていただきます。