鮎の俳句日記

その日の徒然を載せていきます

句鑑賞 とんぼ

2012-10-14 20:36:41 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





 切岸の思案のとんぼ翔せけり


           柴田由乃



 此の句は、断崖の突端に止まっている蜻蛉を、飛ぶか飛ぶまいかと迷って「思案している」

と 据えたことで、句の世界に拡がりを持たせている。

 断崖の上の思案といえば、たとえ蜻蛉と言えども飛ぶには勇気がいろう。

もし、蜻蛉の止まっている処に自身の身をおいて考えれば、もっといろいろなことが

浮かんでくる。

 
 「思案の蜻蛉翔せけり」というからには、もしかしたら、優柔不断な人の

決断を思い切って促したとか、あるいは、不承不承なままに決断を促したとか

ということも考えることが出来る。


 人生では、知らず知らずのうちに他人にいろいろな影響を与えてしまうこともある。

この句は、たった一語の「思案」という言葉によって、誰にもありがちな出来事を

想起させることで、句の世界に拡がりを創造しているのである。



今津大天「俳句の対話術」より





断崖絶壁に立たされたとき 空を飛べる蜻蛉まで 思案をする みている。


このように 優しい心を持ったとき 良い句が生まれるような気がする。







 

俳句を読む 秋出水

2012-10-06 08:41:06 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





       モノクロの世となりゐたり秋出水




               柴田由乃





平成十二年九月愛知県西部を襲った集中豪雨の句である。
テレビニュースで洪水の様子が映し出されていたが、カラー映像にもかかわらず、泥の海で灰色一色に見えた
 
水の引いた後も、道路や道路に詰まれた家具やゴミの山泥水に染まっていた。
そこを「モノクロ」と据えた作者の目を評価したい。

この句は最初に「モノクロの世となりゐたり」と語りだし、
読者は「モノクロの世」とは一体何のことだろうかと一瞬の戸惑いを感ずる。

この一瞬の間に、読み手の創造が一杯にひろがり、そして下五の「秋出水」の語によって、成る程と納得する
仕掛けになっているのである。

最初に読者に想像の余地を与える点が句の世界を拡げる力となった。
「モノクロ」てはなく「モノクロの世」と言ったことで、読者の世界観までもが、
此の句に動員されることとなったのである。


今津大天「句の対話術」より


モノクロの世 と述べたことで 洪水がどんなに悲しい財産を失うものであるかまで 想像させる句ですね。
読者に 想像の余地を 与え 共に悲しみを分かち合う 句とはすばらしいものです。









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秋の蝶

2012-09-30 19:08:37 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




    秋蝶死す托鉢僧の鉢の中



      柴田由乃



「つちくれ」平成17年1月号



秋蝶は春の蝶と異なり、弱弱しさ、哀れさの代名詞だから、「秋蝶死す托鉢僧の鉢の中」と言っても違和感がないが、よりにもよってとんでもないところに飛び込んで死んだだという意外な印象も強い。

托鉢では鉢に入れて貰った物は全て食べるという規律がある  しかし、蝶の混ぜご飯は想像するだに旨くない。
きっと 当の托鉢僧も吃驚しただろう。 しかし、それと同時に南阿弥陀仏と唱えたであろうことは想像に難くない。

おそらく彼は秋蝶の死に、自分の死を思い重ねたあろう。死とはこんなにもあっけないものなのか。
日頃から修業している身なのに、この身震は何だろう。

この句は、鉄鉢を持っていた托鉢僧の受けた衝撃度に焦点を当てると、単なる哀れさを詠っただけの句でないことが分かるだろう。
そうするとこの秋蝶が仏のように大きく見える。


俳句の対話術 今津大天 より 転作いたしました。





蜂 キリギリス 蝶  冬越しのできない 昆虫は死をもって 子孫に未来を託して 散ってゆきます

鉄鉢の中で 息絶えた蝶に 哀れをもって 向かう僧

彼は きっと ご飯を汚されたことより 仏になった蝶が よい所にいけることを望んだことでしょう。






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秋の蝶

2012-09-30 19:08:37 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




    秋蝶死す托鉢僧の鉢の中



      柴田由乃



「つちくれ」平成17年1月号



秋蝶は春の蝶と異なり、弱弱しさ、哀れさの代名詞だから、「秋蝶死す托鉢僧の鉢の中」と言っても違和感がないが、よりにもよってとんでもないところに飛び込んで死んだだという意外な印象も強い。

托鉢では鉢に入れて貰った物は全て食べるという規律がある  しかし、蝶の混ぜご飯は想像するだに旨くない。
きっと 当の托鉢僧も吃驚しただろう。 しかし、それと同時に南阿弥陀仏と唱えたであろうことは想像に難くない。

おそらく彼は秋蝶の死に、自分の死を思い重ねたあろう。死とはこんなにもあっけないものなのか。
日頃から修業している身なのに、この身震は何だろう。

この句は、鉄鉢を持っていた托鉢僧の受けた衝撃度に焦点を当てると、単なる哀れさを詠っただけの句でないことが分かるだろう。
そうするとこの秋蝶が仏のように大きく見える。


俳句の対話術 今津大天 より 転作いたしました。





蜂 キリギリス 蝶  冬越しのできない 昆虫は死をもって 子孫に未来を託して 散ってゆきます

鉄鉢の中で 息絶えた蝶に 哀れをもって 向かう僧

彼は きっと ご飯を汚されたことより 仏になった蝶が よい所にいけることを望んだことでしょう。






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盆の空

2012-09-22 20:22:34 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





        流れ行く有象無象や盆の空




       浜 明史



       「竜」 平成16年




 時をわすれて雲の流れを見つめているとこれほど楽しいこともない


一時童心に返ったような感じがする

こころを楽しませてくれる雲が たんなる水蒸気やむ水滴の集まりであることを思い出すと

急に興ざめしてしまう。

時をわすれさせた楽しい想像の世界はどこに行ってしまうのだろう。

ふいと この世の無常と想いが重なる


提出句は盆の空を詠っている

お盆にはご先祖さまが帰ってくる 余談だか 父が亡くなるまえ お盆に家に帰りたいと言った

私が渋っていると「ご先祖さまさえ 家に帰ってくるというのに なぜ 俺が帰れないのだ」と 怒った

結局それが父の生前の最期の帰宅となった

お盆になるといつも それを思いだす。


きっと 作者もいろいろなことをお盆には思い出したのだろう。

父母のこと 友人のこと 師のことなど

次々と雲が連なるように

いろいろな心象がわき上がってきたのではないだろうか。


今津大天 俳句の対話術より





今年も盆がゆき 秋の彼岸を向かえました。

盆や彼岸は 亡き父や母をおもい 優しかった おばあさまをおもい出す日でも あります。

怒られた思い出より 楽しかったことを思い出します

あの日は もう帰ってこないのですね。









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秋の燈

2012-09-01 13:24:27 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




     法燈の千二百年秋気澄む



         柴田由乃



比叡山延暦寺根本中堂には伝教大師最澄以来の 

「千二百年の不滅の法燈」が消えることがなかった。


標高800メートルの秋の澄んだ空気の中で

仏陀の教えを千二百年間守り継いできた 地にたって

この句は生まれた


不滅の法燈はもちろん不滅の真理のシンボルであるが

これに 「秋気澄む」を配したのは決して偶然ではない。

この地に荘厳を感じたと同時に、不滅の真理の静寂を感じ取ったのだ


不滅の真理はどこにもある。

しかし 我々の心が静まらないかぎり 姿を現さない

今の世界は ひたすら 富を求めて走り続けている

このような 文明の行き先は 誰の目にも明らかなのに 誰も根本を考えない。

「秋気澄む」 べきは 人々の心なのだ。

圧倒的な「千二百年」が それをうったえていると見るべきなのだろう。



今津 大天
俳句の対話術 より






比叡山の根本中堂のあるあたりに行くと 独特な雰囲気に圧倒されます。

そして あの 遣唐使のころよりの 「灯」が 時代を超えて うけつがれています。

比叡山が 焼かれても 延々と受け継いできた 「灯」

灯とともに 日本人としての 心も受け継がれてきたものでしょう。





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メビウスの帯

2012-08-04 10:11:23 | 句鑑賞 Ⅰ(土)



      メビウスの帯や夫婦に吉丁虫



           浜 明史   平成15年




 「メビウスの帯」しは、学生服のカラーを一ひねりして、端を逆さまに接着した形のようなものを言う。

 吉丁虫は玉虫のことてで、歳時記によれば、人知れず箪笥にしまっておくと、着物が増えるのだという。 
 
 メビウスの帯の上を這っている虫には、何時の間にやら 表が裏になってしまって、二次元(平面)では、

一体何が起こったのか分からないのに、これを三次元(立体)で見れば、

誰にもそのからくりは一目瞭然と いうものである。

人生も実はこれと同じで、空間の三次元と時間の一次元の計四次元の世界で我々は生きており

その人生(特に夫婦間)ではいろいろ不可解なことが起きる

しかし、もし、我々が、もっと高次元の見方が出来れば人生の不可解も一挙に氷解するのではないかと思える

そしてその結果は吉丁虫の名のごとく、大いに吉なのである。

これこそが、作者の言いたかったことなのではないだろうか。


今津大天「俳句の対話術」より





「夫婦」面白いものですね。

日ごろは側にいて 何も気にならないで 一緒の空気を吸い 食べ物を食べて

それが 当たり前と暮らしている

それが 微妙なすれ違いがあったとしても 当たり前と受け止めてうけとめている

それを作者は「吉」と言う

人生ってこんなものなのでしょう。





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句鑑賞 尺取虫

2012-07-14 21:05:07 | 句鑑賞 Ⅰ(土)






             尺取虫や世間見えぬと立ち上がり





                         柴田由乃



                    句集 「余生小粋に」より






尺取虫が後ろ脚で半分立ち上がった姿を
世間が見えないから
もっとよく見ようととして立ち上がった姿を
捉えた ユーモアー溢れる句である

揚句は 尺取虫の立ち上がる姿を句材とし
その姿に何かを求める
必死さを感じとった
尺取虫は「世間が見えぬ」と 立ちあがったのである

見逃せないのは
尺取虫の姿を見て誰もが感ずる
おかしみや 滑稽さの感覚を素直に昇華して
句にしたと言う点である
それこそが「世間みえぬと」の借辞の真骨頂なのである

俳句には表現のうまさ
技術 芸 というものも 必要だが

このような原感覚
驚きの念を失わない素直さが
最も必要とされるのではないだろうか。


今津大天  俳句の対話術 より







わずか数センチの尺取虫が
背伸びをしたところで どれだけのものが見えるように
なるのかしら

それを大仰に 詠ったところに
おかしみを おぼえます。

いや 皆 尺取虫でさえ 
必死に 世間からずれないように
世間の風を 乗り切って 生きているのです。

自分の感じたことを 素直に詠う

これこそ 俳句の真髄なのでは ないでしょうか。





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麻衾

2012-07-07 20:30:49 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





       麻衾吾を焼く炎美しき






                  柴田由乃   余生小粋により




「吾を焼く炎」とは、死んで火葬に付されることに他ならない。


しかし、死んでもいない自分が焼かれるのを、自分が見るわけがない。

とすると、夢か作り話ということになる。



仏教では現実界はもともとわれわれが思うほど現実ではない。

死後の一時期は「中有」と言って字のごとく、中途半端な、宙ぶらりんな存在なのだが

夢も存在の一種と考えられている。

したがって、夢は現代人が思うような、幻の世界とは違う。

インデアンも言うように 夢の世界は、過去の人々とも、

他の動植物や他の生命体とも心を通わせることが出来る時間空間を越えた世界なのだ。



とくに作者には夢や霊が幻ではなく

この世界と同じような現実性を持っていることを知れば

読者には気味悪い恐ろしい句も

作者には美しい感動的な情景であったことが分かるのである。



今津大天  俳句の対話術より




この作者は 第六感が すこぶる敏感にはたらいたりすることがある。

夢の世界ははたして ただ夢だけで終わるのであろうか。

いえいえ 何かを我々に教えてくれたりする。

そんな現実でもないつまり中有の世界 ましてや 自分が焼かれることを想像することは恐ろしい。

しかし いつかは そうゆう時が必ずくるのです。






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句鑑賞 滝

2012-06-16 20:06:38 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





        人の世はなぞなぞ遊び作り滝






           柴田由乃    句集「余生小粋に」より






揚句は「人の世は」と詠いだし
なんのことかと読者を訝しがらせて いえいえ
ただの「遊びよ」と肩透かしをくわせている

さて この句の眼目は「作り滝」である
なぞなぞ遊びながら
それは 誰かが作ったものでなくてはならない。
公園か庭園の作り滝をかんがえれば それが いかに危険にみえても
実は良く意匠を凝らして作られた庭なのである。

たしかに 先の見通せない人には、危険が一杯 一寸先も見えないかもしれない。
落とし穴があって怪我をするかも知れない しかし それこそが造化の神の技なのだ。

人の世というのは 危険が一杯
何で自分だけが不幸なのか。
何で 自分だけが損をするのか。
いえいえ そうでは ありません。

神様だけが我々に謎々をかけているのです。

ちなみに この世が神のリーラ(遊び)とは インドの古い教えでもある。



      今津大天 俳句の対話術より





   インドの古い教えに あるという。

     この世の ことは なぞなぞ遊びなのか


       日ごろの憂さも こうかんがえれば 少しは楽なのかも


         生きていくには 気持ちにも余裕をもって 行くものなのでしょう。






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山法師

2012-06-10 13:14:05 | 句鑑賞 Ⅰ(土)





       孤独なるゆゑに詩人よ山法師




        浜 明史




        句集 「人日」より




揚句では俳句と言わずに、詩という広がりのある言葉が使用されている。
それが、ともすれば陥りがちな我々の小さな発想をうちくだき、
新鮮な感覚を呼び覚ますのに大いに 力を発揮している

孤独と言う言葉も一層広い文脈で考えることが出来るだろう
孤独なるが故に詩人たらざるを得なかったという主張は
忘れがちな俳句の一面に光を投じたものだといえよう
写生とか二物衝撃とか、上手いとか下手とかいう以前に
己の孤独の営みとして
本来の意味以外に、山に籠もる孤独な求道者のイメージと繫がり合う。

人間は確かに孤独である
しかし、本当にそうなのか、
詩というのは、創造の行為である。

「詩人よ」という叫びは、孤独を越える叫びと取ることが出来るのではないだろうか。


今津大天 「俳句の対話術」より





山法師の花が 山の中に 白をみせております。

その白は 孤独な姿を感じさせています。

俳句を作るとき まさに 知恵をしぼりだし 言葉をしぼりだし つくります。

お偉い先生方も このような 孤独をあじあわれる のかな。











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第三の目

2012-06-02 10:08:28 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




          青陽や第三の目の老いにけり





               柴田由乃


               平成16年






「第三の目」とは よく仏像の額に丸いいぼのようなものがつけられているが
あれが 第三の目の象徴で
誰にも 本来備わっている 
高次元世界を見る能力を表す
仏はその能力を完全に開花させたという意味で
仏像にはその印が付けられているのである

私たちは 普段四次元の 時間 空間世界で生きていて
それに なじんでいる
従って高次元 異次元といっても 何のことかわからないし
現代では 頭から否定する人が大半であろう

しかし 真面目に人生を考え
仏陀やイエスなどの 努力に敬意を表すなら
やはり 高次元世界を避けて通る事は出来ないだろう

作者は 不思議なことに 生まれつき
異次元世界を見る 能力が人より強く現れているようである
或いは 神仏に祈って事象を左右することもあるようだ
ある時 こんな話を心理学の先生にすると
余りひどいようなら 精神科にかかるといいですよ
との アドバイスを受けた
科学や 学問が 人の目を曇らせる実例を見た思い出あった



この句はその 能力が このごろ少し衰えたかな
ということを 述べているようである。

誤解を避けるために すぐ付け加えると
この 能力は誰にも備わっているものだという
第六感や直感は誰にも覚えがあるが
「気のせいかな」で済ませしまうため
出番が少なく働きが弱くなってしまうのだ

俳句の霊感やインスピレーションも 第三の目の働きと言ってよいのではないか。

第三の目は魂の目である
これを 磨けばきっと 人生の様々な災難も避けることが出来
逆に 幸せを 招くことも 出来るのだ

風にそよぐ木の葉に
ふりそそぐ 日光の光の中で舞う 蝶のしなやかな動きに
心の隅にふっと浮かぶ思いに
霊感を感ずる繊細な目さえあれば
誰もが魂の目を磨くことが 出来るのではないだろうか。

今津大天
俳句の対話術より





由乃先生は
はっとみて いつも的確な ことを言ってくださっような 気がします。

そして「 あなたは 字ずらで 句をみていようですね」
そんな 言葉がおもいだされます。

自分でも きずかない ことを 言われたとき
あらためて そうだったのだ と おもい起こすことが おおかったように 思います。

そして 歯に衣を着せずにためになることなら
なんでも 言っていただけました。

そして 亡くなるときの最後の言葉は
「ごめんね」

それが 何を意味するものか 多々あることですが
それは 人を思う気持ちから出た 言葉ばかりです。


俳句を詠っていく上では
第三の目も 大事
そんな 心の目 ほしいですね。


句鑑賞 夕焼ける

2012-05-26 11:51:41 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




        智・義・勇の三つの大霊夕焼ける



           柴田由乃


         平成14年 「風土」より





安宅の関の句

揚句の「智・義・勇」のそれぞれは一体なにを指すのか
強いて区分けするとすれば
「智」は義経
「義」は富樫
「勇」は弁慶
と いうことになるだろう

今は失われたかにみえるこれらの三つの徳

逃亡者と追ってという極限の中で
いかにして これらの徳が発揮されたのか

評者は 特に富樫の義を重んずる 勇気をたたえたい。

頼朝の咎めを受ければ
死罪は免れないのに、勇気をもって一行を見逃す。

ここに死を越えた価値を信じたかつての日本人の 典型を見る思いがする。

戦後の日本は 超越的な価値を全否定して唯物主義の世界となった

義も勇も智さえない社会が
どんな社会か

今止め処なく落ちていく日本の社会を
はたして かの三霊はどのように 見ているのであろうか。

今津大天
俳句の対話術 より






今日は 義経に縁のある句を選んでみました。

富樫にとがめられ
泣く泣く 義経を打つ 弁慶

お能では「安宅」
歌舞伎では「勧進帳」として
おなじみの 出し物ですね。

特に 私は「能」の 弁慶が好きです。

そして わかっていながら 義経を逃がす 富樫

「カッコイイー」と思わず 声をかけたくなります。

揚句の 止めのことば
「夕焼ける」 取り合わせに心があって 句も忘れられないものになりました。

俳句鑑賞 柴田由乃の句より

2012-05-18 19:18:52 | 句鑑賞 Ⅰ(土)




        山の神地の神いづこ水澄めり




        柴田由乃




「徳山村の思い出」の前書きがある
 

徳山村はダム工事がほぼ完成した。
神社の神様や寺の仏様たちは村人と共に新しい土地に移られたのだろう。
だが村人がいなくなっても「山の神」「地の神」様たちは、今でもきっと奥深い山々に住んでいるにちがいない。
もちろん、今までのように村人をみつめる温かい眼差しはもう神々にはないだろう。

思えば、文明化とはその土地土地の神様を忘れることだったといえるのではないか。

今は文明が全地球化しているが山の神様や土地の神様はいわば地球の神様の一族なのだ。
いつか、揚句のように「山の神地の神いづこ」と地球に向かって叫ぶことがあるとすれば、

それは、地球にとってそして、人間にとってとても悲しい時なのではないだろうか。


今津大天 俳句の対話術より





徳山ダムは 水をなみなみと蓄えて完成しました。

その ダムの 水の中には かつて 山菜を取りに行き 紅葉の美しい村がありました。


もちろん 鎮守様も 鎮座されていました。

たとえ その 鎮守様が 移転されようと 人のいない村を守っていらっしゃるに
違いありません。

人の世のうつりかわりに 神様も たいへんです。

でも きっと大切にしているならば お守りくださることと 信じたいものです。






俳句鑑賞 新茶の香

2012-05-01 19:41:59 | 句鑑賞 Ⅰ(土)



   逝く人を羨みてをり新茶の香


            柴田由乃




死んでしまえば死ぬ心配も、死の恐怖もない。
生きる苦労もないという意味で
「逝く人」の境遇を羨ましく思うということだろう。

また、死後の世界には悩みがない
食べる心配がない

それだけでなく
もっとすばらしい浄土に住まうことが出来るとなれば
だれだって死者を羨むだろ。

とはいえ 大抵そのような確信がもてないからこそ
今を不安に生きているのだ
未来は何も死後とは限らない
明日のことすら わからない
わからないから 不安なのだ

しかし
未来より現在を大切にするという考えもある

揚句は「逝く人を羨む」 いう願望が
下五の 「新茶の香」という目の前の現実の幸せ
誰もが簡単に得ることが出来る幸せに
席を譲って行く様が描かれていると考えると
含蓄が深い


今津大天
俳句の対話術より







今日は 八十八夜です。
野山は 黄緑になってきました。

お茶の葉も 伸びてきました。
新茶の季節にはいりました。

今年も新茶をおいしくいただける

これが 幸せというものなのでしょう