気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

子どものそばにいる大人が ・・・

2010-01-08 18:00:40 | Weblog
「いろいろな教育を大人がしていくのだ」

      というふうに考えるのは間違いで

子どもと一緒に大人がいることによって

その大人から

  「子どもは主体的に学び取っていく」のだ

そういう力を子どもは持っているのだ

      ・・・ こういうふうに 私は見ています。


しかし、

このことを

子どもが本来ちゃんとした人格を持っている

というふうに考えて

 自然主義 というか

 放任主義 というか

 子どものしたいように放っておく

              というのは 大変な間違いです。

これがいわゆる

 過保護 とか

 過干渉 とかいう考え方になるからです。


大人が一緒にそばにいることによって

  大人が教え込むのではなく

子どもが大人から学び取る という

  こういう形で

  種が育っていゆくのだ

    ・・・ と 私は思っています。



こうなると

そばにいる大人が問題になる ・・・ わけです。

教育技術 だとか

何を教えるのか とか

どういう方法で遊ばせるのか とか

  そういういろいろ問題もあるでしょうが

それ以上に大切なのは

「その子どものそばに

  どのような考え方で

  どのような生き方をした人間がいたか」 が

問題になってくる ・・・ のです。


つまり

子どもを育てることの

  技術以前の問題として

育てる者が人間として

  どのような生き方であったか

 また

  どのような人であったか ・・・ が問題になってくるのです。










 


親は学校教育の基礎

2010-01-08 17:55:28 | Weblog
子どもたちが

最初に出会うのは

  親であると同時に先生 ・・・ なわけです。

親は

  そのまま先生 ・・・ なわけです。


従って

その時期に

きちっとした教育を受けなかった子どもは

  学校で教育をちゃんと受けられる

      ということは 絶対にできません。


家庭教育

 あるいは

保育園での教育がちゃんとできていない子どもは

  小学校に行っても

 さらに

  上の学校にいっても

生徒として

  まともに先生に接する姿勢がわかりませんから

                    ・・・ 教育が崩壊していきます。








ハラ(肚) ・・・ 大地の感覚

2010-01-08 15:36:10 | Weblog
ハラ(肚)は

  現実そのもの ・・・ です。


アタマから離れ

大地に

  どっしりと根を下ろした

ある意味で当り前の

  「生きている」という感覚と出会うこと ・・・ です。

アタマを活用するのは

        その先のこと ・・・ です。


大地の感覚が

  欠落していたら ・・・

どんなに素晴らしい

  天にも達する中心感覚を

    持っていたとしても ・・・ 宝の持ち腐れです。


まずは

すべての起点が

  自分自身の身体に眠っていることに

           気づくべきではないでしょうか。


手応えのある

自らの感覚に根ざした人生は

           そこからはじまる ・・・ のです。





















天かす ・・・ 6月選挙

2010-01-08 14:44:26 | Weblog
 「えび天というのは、えびの天ぷらですか」

   ・・・ 「はい、そうです」


 「それでは、天かすというのは天ぷらの かす ですか」

   ・・・ 「はい、そうです」

       「外ばかり大きくて

          中身の小さいのか、

            または まったく中身のないやつ ・・・ です」














オンリーワンで生きる

2010-01-08 14:18:09 | Weblog
学校でも

あるいは

仕事先でも

  ナンバーワンになる必要はありません。


オンリーワンは

  他を押しのける必要がなく

しかも

  マイペースで

常に

  オンリーワンであり続ける ・・・ ことができます。


納得できる人生を生きるには

  これが一番だ ・・・ と 思います。

自分らしく

力を尽くして生きるには

  これが一番だ ・・・ と 思います。










心空っぽ ・ 向こう任せ

2010-01-08 12:20:17 | Weblog
心が空っぽになって

  向こう任せ ・・・ です。


自分で

  どうしよう

  こうしようというのが

    なくなって空の時

          自然の力が働きます。


そうなった時に

細胞は喜んで

    そのように動きます。


そうすると

自然のエネルギーが入り

活力が出て

それだけで

  力になる ・・・ に決まっています。


エネルギーが

  向こうから入って来る ・・・ のです。


ですから

食べるから良い

  ということではない ・・・ のです。


体と心が

  パイプのようにがらん洞でないと

スーッと向こうのエネルギーは

            入らない ・・・ のです。


人間が頭で考えて

  ああじゃなきゃ

  こうじゃなきゃ と

    考えている間は 駄目 ・・・ です。










受身では治療効果が上がらない

2010-01-08 11:47:12 | Weblog
治療を行う場では

医者が患者に対して

  この人を治してあげようとすると

    医者と患者という立場ができてしまうので

患者の方は

    どうしても受身にならざるを得ません。


そして

患者が受身にあるうちは

  その範囲のレベルでしか

    治療効果は上がってこない ・・・ のです。


治療を与えるもの

受けるものとして

  捉えていく場合には

やはり

  そこに限界がある ・・・ ように思えます。


そういう意味において
 
私は ・・・


自分の健康は

  自分自身で責任を持つ ということ

また

「自然治癒力」は

  治療による癒しとして

    与えられるだけでなく

本来は

自分自身が主体となって

  働かせることができる
 
  ・・・ ということの重要性を
 

                ・・・ 実感します。












自由 ・・・ 意思と力 

2010-01-08 08:06:34 | Weblog
水が欲しいなら

地下に水があるのなら

そして

私たちが

水を必要としているのなら

  井戸を掘らなければなりません。


待つことでも

探し回ることでも

ダダをこねることでも

権利を主張することでも ・・・ ありません。


ただ

掘ることだけが

  必要なこと ・・・ です。

堀りさえするならば

水脈は

  確かに 私たちの内に流れています。


私たちは 自由です。


その自由は

何もしないで

  水を飲む自由 ・・・ ではありません。

水を求めて

  井戸を掘る自由 ・・・ のことです。


私たちが

井戸を掘る 意思と力 とを

  持っている限り ・・・
 
           私たちは 自由なのです。











過程が大切 ・・・ ??

2010-01-08 06:32:50 | Weblog
ちょっと勉強したという人は

  こんなことをよく言います。

「 結果が大切なのではなく、過程が大切なんだ 」 と。


???


過程が大切だというのは

  ただ過程だけが大切だ ・・・ ということです。

その過程を踏む自分に

  展望(ビジョン)がなかったら

    その過程にはなんの値打ちもありません。


多くの人々が

この言葉を

  自己合理化のために使っています。

目標が挫折したり

はっきりしなかったりする と

  彼らは言います ・・・

    「 過程が大切なのだ 」 と。

この言葉は

    「 それでも私はその過程を通じて

        段階を何段か踏んだじゃないか。

      たとえ 次の段階には登れなかったにしても ・・・ 」

  と言うのと同じこと ・・・ です。


しかし、しかし
 
  私は言いたい ・・・

    「 過程が大切なのでも

        結果が大切なのでもありません。

      大切なのは

        あなた自身です 」 ・・・ と。










子どもたちは 絶えずキョロキョロ ・・・

2010-01-08 05:10:25 | Weblog
今の日本の教育は

  過度の能力主義に

        毒されている ・・・ と思います。


その端的な表れは

  偏差値の教育 であり

  塾の教育 ・・・ です。


能力主義の根底には

  競争原理が貫いていますから

いつも

  「追いつき、追い越せ」 ・・・ です。


ですから

子どもたちは

  自分というものに安住できなくて

絶えず

  キョロキョロと

       外ばかり気にしています。


そこにあるのは

焦燥感と不安感 ・・・ です。


これでは

子どもたちが

  のびのびと育つ はずがありません。