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日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

もう一人の自分

2017-06-15 20:16:53 | ものの見方 考え方
こんばんは。
カラッカラっな毎日です、この辺りは。
いい加減、本当に降って欲しいですね。
広島はまだしも、四国の辺りですと、またもや水瓶といわれております早明浦ダムがそろそろ底をつくのではと、とつい危惧してしまいます。
帳尻合わせのように、また土砂降りならぬドッサ降りにならねばよいけれど、と心配にもなるこの頃です。
そんな日の朝のお日様がこちら。
相変わらず威勢よく昇って来ておるようですね。

                                 

昨日、此処で「今」を感じることが大事と申しましたが、それとはまた別の視点から少し話させていただければと思います。
同じ「今」でも、それこそ今此処に居る自分と、よく似た別の自分がやはり同じように居るのではないのかな、と感じたります。
俗に言う、パラレルワールドとか世界線といわれているものですね。
科学にそれほど強いわけではありませんので、あくまで自分自身が感じたことでしか語れませんので、そこのところは何卒ご容赦の程を。

それこそ自分だけかもしれませんけれど、今の自分でなければ、この自分はどんな自分が居るのだろうと考えたことは無いでしょうか。
日常を過ごしながらも、ふと今こうしている自分ではない、他の生き方をしている自分がいるのではないのかな、と。
それは、何も大袈裟なことばかりではなく、スーパーへ行って、こちらのお魚ではなく、向こうにあったお魚を選んだ位の違いとか。
いつも乗る電車を一本遅く、或いは早く乗ってみた違いであったりだとか。
そんな些細な違いでも、そこから先は同じような道筋を辿るのか、或いは左右に大きく分かれる程の違いとなってくるのか、そんな風に
考えたりすることがあります。

そうして、別の自分、もしかするとこれもよく言われる別の次元の自分が他にも存在するのではないのかな、と感じたりします。
向こうに居るそんな自分は、こちら側の自分をどのように思っているのだろうか、とふと考えてみたりもします。
こうして此処へ居る自分とどのくらいかけ離れているのか、あるいは殆どというくらい違いの無い自分であるのか。
違うのならば、生活そのものも違うのでしょうし、そうなると顔つきも変わってきているのでしょうね。
裕福であるならばそのような物腰が身についておるでしょうし、生活に追われているならば顔にそのようなやつれた風が見て取れるかも
しれません。

その両極端ともいえるような自分が存在するならば、そのどちらが本当の自分であるのか、もしかすると今こうしている自分は、偽者?の
自分なのではないのか、そんな風に考えたりもします。

                                 

作家の浅田次郎氏の小説が好きでよく読んでおりましたが、上に述べたような話を書いておられます。
もしかして今日のこの話は、そこからとってきたのか、と訝しがられるかもしれません。
確かに自分と似たような感覚を持っておられる方がいるのだなと感じたのは事実です。
ですけれど、その小説を拝読したからではなく、いつの頃からか、別の場所、というよりも別の次元へ存在するもう一人或いはより多くの
自分が居るのではないのか、そんな風に感じ出しておりました。

頭では今のこの自分が自分のことを考えているのですが、別の自分がやはりどこかでその別の自分を同じように考えているのではないのかな
と、これもまた、ふとした拍子に思ったりします。

                                

やはりどこかぶっ飛んでいるんでしょうね;。
でも、そんな別の自分を自分で思うとき、そのもう一人の自分も何故か愛おしく思えております。
決して交わることはない、そんなもう一人の自分なのでしょうけれど、そのもう一人だかその他大勢の自分だかが一つに重なることがあれば
これはこれでまた面白いのではないのかな、とそんな風にも空想する自分です。

                                

とりとめのない話を書き綴りましたが、そんなもう一人の自分、考えてみても面白いかもとも思います。
そしてそれは、これもまたいつぞや話しました、いつか自分がなりたかった自分であるならば、別の次元には既にそんな自分が存在している
のかもしれません。

                                 



煙にまいたような話でしたけれど、そんな本日もお付き合い頂きまして有難うございました。
                                        


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「今」を笑おう

2017-06-14 21:31:28 | ものの見方 考え方
こんばんは。
今日も晴天、よいお天気でした。
六月というよりも、五月くらいの爽やかな晴れの日みたいですね。
とはいえ、沖縄近辺ではかなりの雨量で降りすぎているようでもあり、なかなかうまくいかないようです。
太平洋高気圧が弱いのでしょうか。
でも、この高気圧が上がってくると、その分湿気も運んでくるみたで、それはそれでちょっと勘弁してもらいたいところでもあります。
そんな今日の朝日は、こちら。
まさに元気玉のお日様です。 

                              


こうして書きながら今日は何を書こうか、と考えることも多く、朝のうちにそうだ、今日の話題はこれにしようとか頭の中で文章を
考えていても、いざとなるとその考えたこと自体を忘れてしまったりしております。
我ながら、使えんなぁ;と思うことしきりです;。

ことほどさように常に何がしかを頭の中で考えているのが自分達なのでしょうね。
目の前のことを見ながらも、どうかすると全く別の事柄を考えていたりもします。
さすがに車を運転するときは、そのことに集中しておりますが。

何か作業をしていても、その事について考えながらも、過ぎたときのことを思い出して、あの時こうしていればとか、こちらを
選んでいれば、また違ったのではないのかとか、あるいはこの後のお昼には何食べようとか、「今」という、この時については考えて
おらず、いつも「今」のことではない部分ばかりを見ているようにも思います。

                               

うちのご近所には小学生やもっと小さい子供さんが多く休みの日ともなると、みんなしてわいわいキャーキャーと賑やかな声が
聞こえてきます。
この子たちは、「今」のこの時間、「瞬間」のこの時をその場でそのまま楽しんでおリ、どこかを考えたり思い煩ったりしていません。
「今」そのものを感じて、笑って、怒って、また騒いで、瞬間そのものを楽しんでいるようです。
何故そのように楽しいのか、と聞いたとしても答えは返ってこないでしょうね。
今そのものを感じてるので。
何故、と聞くこちら側の方が愚問です。

そう考えてみると、いつ頃から「今」そのものを味わうことを止めたのかなと、逆説的ではありますが考えたりします。
こうしなければいけない、ああでないといけない、とか自分や他者に対して何がしかのとらわれや制限を考えるようになった頃からかな
とも思います。

もっと自然に、今そのものを楽しんで感じていれば、自ずと笑いが出てきて、あれやらこれやらと思い煩う暇も隙もなくなるのかも
しれませんね。

                              

う~む、こう書いてきて、どうやらこれはそれこそ「今」の自分自身であると思いました。
笑ってないわ、最近;;。 
毎日、此処へ何がしかを書かせて頂いておりますが、一人で居る時間も長く、なかなか笑うことも少なくなっているようです。
こ難しい事を書き綴るよりも、どうやら笑えることを探すほうが「今」というこの時を楽しむのには手っ取り早いように思えますね。
明日はどうやったら笑えるか、その事を「考え」たいと思います;。
いや、「考え」るよりも、まずは「笑う」こと、だな^^。

                              


今日もこのブログにお付き合い頂きまして有難うございました。

                              
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クラウドな情報

2017-06-12 22:15:02 | ものの見方 考え方
こんばんは。
例年の梅雨時といえば、じめじめとしてその上にムシムシと鬱陶しい季節ですが、今年はこの辺りはなんとなく気温が低く、朝夕は
ひんやりと感じるくらいです。

                              

そんな今日は、ハロ、日暈(にちうん、ひがさ)が見られました。
このハロが見えると雨になるとよく効きますが必ずしもそうとは限らないようですね。

                              

真ん丸く写したいのですが、さすがに太陽を見ながらは写せませんので、携帯を上に向けて撮るとこんな感じになってしましました。
そんな虹色が空に見えている日でした。
                               



ところで、時たま突拍子もなく頭の中に、どうしてこんなことを覚えているんだろうというような事が浮かんで来る事はありませんか?
何の前触れも無く、というのか取り立てて大事なことでもなく、ましてやその事を覚えているということすら、忘れているような事とか。

これが勉強などでかつて自分が学んで知識として頭の中に記憶させようとしていたことなら、まだわかります。
忘れているようでも、頭のどこかに仕舞っていたのかも、と思えるからです。

でも、そのような事でもなく、ふいにごく日常の中の一こまとかが、まるで今目の前で繰り広げられている出来事のように鮮やかに蘇る
感じで思い出したりします。

自分ひとりだけのことかもしれませんし、誰にでもある普遍性のあるものではないとも思います。
ですけれど、どうしてそのようなことがあるのかな、とそんな古い記憶が頭をよぎった時に、いつも感じてしまいます。

                              

これまで何十年と生きてきて、その中で覚えたことはそれこそ忘れていることも含めれば、相当な量になるのではと思います。
それこそ自分が仕事をしたり生活をしたりする中で、頻繁にその知識なりを用いての作業等でしたら、日々のことですし覚えていても
当然ですよね。
ですけれど、普段全く覚えてもいないような事柄についてでも、瞬間閃いたように頭の中に浮かんできて、お!これだ!と感じる時が
あったりします。
申したようにその事について自分自身がかつて学習していたからこそ、普段はその事について考えもしなくとも、頭の記憶のどこかに
入っていて、考えたその時に、その記憶に自分がアクセスするのかもしれません。

でも、本当にそうなのかな、とか思ってしまいます。
歳を取ると、新しいことは覚えにくくなるというのは、自分自身身にしみて感じております。
ですけれど、古い記憶は不思議とよく思い出すというのか覚えていたります。
これも今申したように、新しいことを覚えられない分、古い記憶にアクセスしやすくなるからでしょうか。

                              

先になんでもないことを不意に思い出したりすると書きました。
それとは別に、これもまた何の脈絡もなく、これまで会ったこともないような人の顔が浮かんできたり、或いは行ったことの無い場所が
浮かんできたりします。
それは自分が忘れていたことが、今書いていたように思い出しただけではないのか、と言われるかもしれません。
確かにそうかもしれませんね。
ですけれど、その浮かんでくる顔なり場所なりは、自分がよく知る日本人としての顔ではなく、全く見知らぬどこかの国の人の顔だったり
或いは、見知らぬ異国の何処かだったりします。
自慢ではありませんが、これまで海外に出たことなど無く、見知った外国の方は全くおらず、異国の地も全く知りません。
記憶の彼方から呼び起こそうにも、その元の記憶自体が無い状態です。
一体どこから、そのような見知らぬ人やら場所やらが浮かんでくるのか皆目見当もつきません。

                              

今こうして此処へあれこれと書かせて頂いておりますが、よくわからないことがあれば、即座にネットからその情報なりを拾い出して
来て確認したりして、そこからの知識を利用させていただいたりもします。
よくいわれているクラウドサービスというものだと思います(この辺り、詳しくはないのでこれこそ曖昧かもしれません、すみません)
よくわからぬなりに使っている者がいうことではないのかもしれませんが、大元には膨大な情報が何処かにある状態なのでは、と自分の
勝手な想像ですが考えています。
その膨大な情報があるからこそ、どのようなことも即座にわかるのかな、とも思います。

これを先に書いたように自分の頭に置き換えてみたら、と考えてみました。
つまりは、一人の頭の中にある記憶だけではなく、それこそ様々な人々の頭の中に仕舞いこまれている記憶がこのクラウドのように
何処かへ膨大な量として存在しており、自分が何かを考えると即座にそこの場所へアクセスし、そこから瞬時に答えとしての情報が
返ってくるのではないのかな、と。
これは自分が勝手に考えた空想にしか過ぎません。
ですけれど、これもまた書いたように、不意に何の脈絡もなく頭の中に思いもかけない事柄が浮かんできたとき、それは自分が呼び起こそう
とした記憶や答えではなく、全く別の人がアクセスしてその情報を得ようとしていたものが、勝手に自分の頭の中に飛び込んできたものなの
ではないのかな、と。
よく息子がパソコンやらスマホを使っていて、フリーズしたりする時など「バグってる」とか言っておりましたけれど、そのような状態が
自分達にも起こっているのではないのかな、と思ったりします。
別の人が考えていたことが、どこかの不具合?でその人に答えが下りて行かず、全く別の人のこところへその情報が下りていったりする状態。
そうなると、その情報が下りてきた人自身は、自分が感じたように、見てもいない人やら場所が勝手に頭の中へ浮かんでしまったのかな、とか
思ったりします。
あくまで自分が考えたことでしかありませんけれど。

それでも、自分達が考える共通のことというのは、述べたように何処かへ膨大な情報が存在しており、皆がそこへアクセスすることにより取り
出している事柄なのではないのかな、とも考えます。

                                 

今日こうして書いたことこそ、まるで雲を掴むような曖昧模糊とした、まさに漠然とした空想、妄想にしか過ぎません。
それでも、漫画に描かれているように、何人かの人が物事を考えていて、その頭の上には吹き出しが描かれており、その中にポワ~ンという
感じで共通の答えが描かれているような、そんな場面、そんなことが実際にあるのなら、これもまた面白いことなのではないのかな、とも
感じます。

                            
なんだか本当にもわもわとした話ばかりに終始してしまいましたね。
こんな話、情報ももしかしたら、そんなクラウドの中から引っ張り出してきたのかも?



今日もブログへのお付き合い有難うございました。

   



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お店はどうがいい?

2017-06-11 23:37:44 | ものの見方 考え方
こんばんは。
梅雨に入ったとはいえ、なかなか雨も降らないといっておりましたが、今日は多少のお湿りはあったようです。
晴れている方が気持ちはよいですが、やはり水が無ければ作物は育ちませんね。
とはいえ、そんな気候も近年少しづつ変化してきているようです、この時期も過ぎてみなければどうであるのかわからないようです。
そんな今朝は、こんなお天気、どんよりとした曇りで始まりました。
けれど、夜に入ると星も見えてきております、明日はまた晴れなのかもしれません。
               
                              

そんな今日でしたが、夕方また散歩に出てみました。
歩くのは、うちから坂を上っていく住宅団地の辺りです。
此処は、元々山であったところを造成して作った団地で、広島市内にはそれこそ似たような団地がこれまでにも多くあることと思います。
その中でも、ここはかなり上らねばならず、言い方がおかしいのですが、ふもとというのか団地に入る道路から、その団地までは約3キロ
あると当の団地に住む弟夫婦に聞いたことがあります。
当然、此処へ住まう皆さんは車は必需品でもあり、運転出来なければ何事につけ不便であろうな、と感じます。

この団地には小さなコンビニが一軒あるだけで、あとは他にこれといったお店は無く、買い物や他の所用となると、やはり車で往復するのが
一番便利だと思いますし、ほとんどの方がそうしておられるでしょう。
バスも日に何十本と通っておりますが、通勤や通学に乗られる方々はこれもまた多くおられますが、大概の方は自家用車であれこれと用を
済ましておられるのではと思います。
でも、とつい考えてしまいます。
今の時点では皆さん、車も運転出来ますし、下まで行けばいくらでもスーパーもあり、買い物には不自由しない生活だと思います。
これから技術が進めば、車自体もより使い易くなってきているでしょうし、自動運転等が本格化すれば、一々に自分達で煩わしい運転
操作に気を使うことなく安全安心して、車に乗ることも出来るようになるかもしれません。
また仮に車に乗れなくなったとしてもバスがありますので、多少不便でもそれを利用すれば少々のことには大丈夫だろうとも思います。
ですが、此処へ徒歩で行ける範囲にお店があれば、どんなに便利だろうなとも僭越ながら考えます。
散歩に行くようして、ゆるゆると歩いて行ける場所にあるお店、歳を取ったとしても、それこそ運動がてら一石二鳥かもしれません。
                             

話は変わりますが、最近はネットでよく海外のドラマ等を見ています。
今はまっているのは、ニューヨークを舞台にした弁護士事務所のドラマです。
自分の頭の中で考えているアメリカというものを表現したような背景、或いはそのドラマの中での人々の着ているもの、食べ物、はたまた
その住まいであるとか、街の様子であるとか、そのようなことにも目を向けてみると結構面白いものだなと感じております。
ドラマの中でのその事務所は、ニューヨークといわれる場所の中でも、かなり大規模というのかいわゆるアッパークラスの人たちや会社を
顧客に持つ大手のところのようです。
そのようなこととは対照的に、主人公の一人として描かれている若手の新米弁護士の住まいは、自分にはそこがどこであるのかわかりませんが
同じそのニューヨークの中でも少し住む地域が違っているようで、これもまた観ているとその比較が面白く映ります。

それは何もこのニューヨークに限ったことではないのでしょうけれども。

そんなニューヨークのドラマを見ているからというのではありませんが、これもまた、たまたまネットでそのニューヨークの各街の紹介をして
いるようなサイトがあり、これもまた面白く、ついついあれこれとそれらの街について観ておりました。
ブロックというのか、ストリートというのか、区画が変わるとその街の雰囲気もガラリと変わり、住む人の層も全く異なるようにも見受けられ
ます。
先ほど書いたように、アッパーともいえるような人々の居る街や、それとは全く様相の違う場所もあったり千差万別です。
ですけれど、そこには常に暮らしがあり、暮らしがあればまずは食べるものを売る店があり、レストランがあり、或いは様々に暮らしに必要な
物を取り扱う店がそこ此処にあり、活気づいています。
ニューヨークを代表するような大きなデパートやブティックもありますが、それはごく一部の限られた場所であり、人々の住まう所にはそこに
根付いた、暮らしに必要な店が必ずあります。
だからこそ、人々はその街に住み、日々の生活を営んでいるといえるのでしょう。
また、その街にもよりますが、人々のそばには緑があり公園も多く在るようです。

                              

日本でも同じように都会であっても一歩中に入ると、途端に街の様相も変わることは同様かと思います。
それはどこでも似たようなものかもしれません。

ですけれど、地方といわれる場所はだんだんそのような光景も変わってきているのではとも感じます。
以前あった小さなお店は数が減ってきています。
その代わりに、同じような形態の商業施設、いわゆるショッピングモール等があちこちに進出し、その分だけ元からあったお店は立ち行かなく
なり、辞めざるをえないのかもしれません。
消費者としての自分達からすると、車さえあればそのようなところへ出かけて行けば、一度で多くの店へ立ち寄ることが出来、ウィンドウ
ショッピングも兼ねて楽しく過ごすことが出来便利だとも言えます。

しかしながら、そのような商業施設はそれこそ日本全国同じような物を同じように販売するだけで、どこへ行っても代わり映えはしないのでは
とも思います。
同じだから安心出来るといわれるかもしれませんが、面白みは無いのではとも思います。

小さなお店は、今の時代では経営という面からすると難しいところも多々あるのでしょう。
ですが、小さい分だけ、個性的に出来るというメリットもあるのではとも考えます。
お客さんの好みを知ってくれて、その人にはこれが良いと取り置きしてくれていたり、あるいは仕入れてくれていたり、融通が利くところも
大いにあるのではとも思います。

そんな風に考えると、先に書いたようにニューヨークのように、そこ此処で個性的な顔をした街が寄り集い、一つの都市を形成しているのと
いうのはとても大きな魅力だというのがよくわかる気がします。
そこでしか味わえない食べ物や、そこでしか買えない物等。
これもまた述べたように、ニューヨークに限らず世界中の素敵と言われている街では、同様のことがいえるのだろうと思います。

人々の生活が、暮らしがある場所。
集うところがある場所、徒歩で買い物に行けるお店がある場所、歳を取ってもそこへ行けば、誰かしらがいて、顔馴染みの誰彼と話が出来る
場所。

それが出来る場所、可能な場所が、今段々と少なくなってきているように思います。
その役目が、先ほど申したような大きな商業施設に取って替わられているのかもしれません、画一規格のようなショッピングモールに。
悪いばかりでは無いと思います。
雇用もそこで生まれるでしょうし、今では必要不可欠な場所になっているのかもしれません。
けれども、一日中車がひっきりなしに出入りし、夜は遅くまで煌々と明るく照らし出される巨大な豪華客船のような施設は要らないのでは、
とも考えてしまいます。
                                                           

散歩しながら、ついそんなことを考えた今日でした。
取りとめのない、一人よがりのオバサンな文章となってしましました、すみません。
そんな本日のブログへのお付き合い、有難うございました。
                             


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空を見上げて思ったこと

2017-06-09 22:45:16 | ものの見方 考え方
こんばんは。
昨日もそうでしたが、梅雨に入った途端、また晴れる日が続いております。
長雨はどうかな、とは申しましたがやはり梅雨時期には、降らないといけませんね。
そんな今日の朝日はこちら、眩しく輝いております。
遠方の山の辺り、たなびく霧も出ていたようでその分少し冷え込んだようですね。
    
                             

此処ではよくこのようにして、その日の朝日やら雲やら、或いは花などの写真を載せております。
どこでも見える、ごく普通の風景、空です。
ですが、その空も雲も特段、見ようとしなければ気づきもしないものばかりです。

                             

誰にでも見えているけれど、いつもそうしてあるが故に、逆に気にも留めないし、気にもしないものでしょう。
これがしかし、いつもと違うとどうなのでしょうか。
台風であったり、大雪であったり、はたまた日照りが続いてみたり。
普段と違う状況になって初めて、そのいつもの大切さに気づくのではと思います。                            

それはこんな風景だけではなく、自分の身近なところでも同様だと思います。
怪我をしてみたり、または病に罹ったりして、初めて健康の大切さを知ることもそうしたうちの一つだと思います。
或いは、普段なんとも思わずに使っているものが急に無くなったり壊れたりして、やっとその物の良さがわかったりします。

                             

無くしてみて初めてわかる、それらのこと。
本当は、それらはとても大事なことばかりだったのだと思います。
当たり前過ぎて、気づこうにも気づけなかった、そういうことなのではと思います。
                            
もしかすると、そんな普段気づきもしないけれど、大切なこと、大事なことだから、ある日それに気づかせてもらうために
雨が降ってみたり、物が壊れてみたりして自分達に知らせてくれているのかもしれませんね。

                             

話は変わりますが、今日はある本が読みたくて、街中の本屋さんに行ってみました。
最近はネットで注文すれば何でも手に入る時代ですが、本はやはり一度は自分の手に取って中身を確認してみたい方なので、足を
運んでみました。
最初の本屋さん、此処は市内でも割りと大きな部類ですが探しても自分の求める本は無く、もう一軒の本屋さんに行ってみました。
結局、此処にも置いてなく、欲しければそこで注文するか、またはやはりネットでの取り寄せとなるようでした。
その代わりにではありませんが、別の読みたいと思っていた本を手に取り見ることが出来ました。
そのもう片方の本は、美術書にも属するような本の扱いだったようで、かなり専門的なものでもあったらしく、そこで見ることが出来た
のはとても嬉しい思いでした。
とはいえ、その本、扱いが美術書並みというのかそのまま美術書でしたので自分で購入するにはとても無理な価格であるため、見せて
頂くに留めました。
しかしながら、やはりそのような本であるため、中身は美しい写真でどの頁も構成されており、見ているだけで癒される思いでも
ありました。

                            

そんなことをしていた今日でしたけれど、行き帰りのバスを待つ間、或いはバスに乗ってからも此処へあげたような空を見上げて
おりました。
暇人と言われれば、確かにそうです。
空を見上げる暇があるなら、もっと有意義なことに時間を割けと言われるかもしれません。
それも一理あります。
ですけれど、目の前ばかりにとらわれていると、大きな大事なことも見逃してしまう気がします。

空を見るだけで答えは降っては来ないかもしれません。
ですが思わぬ閃きが湧いてくるかもしれませんよ。

大勢の方がバスを待つ間、そんな事を感じていた自分でした。

                           


どうにも今日は、いつにもましての纏まりのない文章となってしまいましたね、申し訳ございません。
そんなブログへのお付き合い、本日も有難うございました。 
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