私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

ルーツ

2005-12-27 14:41:30 | 私のこと
私は、祖母が大好きだった。
祖母に可愛がられた記憶も、祖母に何かしてもらった記憶も何もない。
「わかば」という煙草を吸い、あの時代に生きた女性にしては自立の出来た人だと思った。
行きたい時に行きたいところへ出掛け、叔父や叔母の家を転々とした。
我が家にも、予定もなく来て、予定もなく帰っていくので、皆が振り回されていた。
だけど、何故か憎めなかった。
それよりも、自分に似ている。ずっと、そう思っていた。

短大の時のスピーチで祖母のことを話題にした。
極度の上がり症で、スピーチなんてとんでもなかったのだけれど、その時だけは、落ち着いて話すことが出来た。
その頃、祖母が遊びに来たのが最後になる。
「もう最後だ。」と言いながら、何度も遊びに来ていた。
知らない街なのに、ふらふらと買い物に出掛け、皆のものを買ってくる。
「出歩かないで。」母はそう言ったのだけれど、
「口と金があれば、どこにだって行ける。」祖母は、そう言い放った。

結局、祖母は、その後入院して、そのまま病院生活となった。
最後に、会った祖母は、私のことも判らず、私の持っていったお饅頭を「おいしそうだ」と言って食べた。
私の結婚式にも呼ぶことが出来ず、長女が産まれ、1ヵ月後に帰らぬ人となった。
産後で私は、お別れの挨拶すら出来ないままだった。
「死んだら、川に流してくれ。」祖母の言うとおり、遺灰を少し流してあげたかった。

母から聞く祖母は、祖父に振り回され苦労した人だった。
女学校の時の旅行で、他の人は草履を履いていて、自分だけは編み上げの靴を履いていて、靴を脱ぐのに時間が掛かって困った、そう話していた。
私の母よりも、開放的で、自由に生きていた。
お花を習い、踊りを習い、友達と旅行に出かけていた。
私が、小さい時に、祖父は亡くなったので、その後そうなったのかもしれないが・・・・

家の二階には、黒い足踏みミシンが置いてあって、箪笥には外国人の写真が飾ってあった。
綺麗なガラスの食器が並ぶ、食器棚。
そして祖父の残した、時計や指輪。
私が、生まれた年には、クリスマスツリーを買ってくれ、明治生まれなのに、ハイカラだったのだろう。

私の中には、祖母の
「口と金があれば、どこにだって行ける。」という言葉が生きていて、
一人でどこにでも行ける。
ポジティブな言葉は、時を経ても助けてくれる。
海外でも、物怖じすることなく、カバン一つで出掛けることが出来るだろう。

あの黒い素敵なミシンが、今の母を作り、私を作った。
クリスマスを愛する心は、子ども達に引き継がれている。
そんな風に、たくさんの物を貰った。
祖母にはお別れを言えなかったけれど、今も、私の心の中に、祖母は在る。
いいものは、ちゃんと引き継いでいこう、流れに逆らうことなく・・・・



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