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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国民の理想  

2021-10-27 09:25:56 | 文化

 

>デイリースポーツ >三雲孝江氏、皇室に対する国民の理想「重い部分がある」「覚悟持たなきゃ」 > デイリースポーツ 2021/10/26 16:03

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> キャスターの三雲孝江氏が26日、TBS系「ひるおび」にリモート出演し、この日結婚した、秋篠宮家の長女眞子さまと小室圭さんの結婚について思いを語った。 >お二人はこの日午前中に代理人が婚姻届を提出し結婚した。

 

本当にめでたし、めでたしですね。   

 

> 眞子さまの歩みをまとめたVTR明けにMCの恵俊彰は「国民に寄り添うという皇室のあり方、国民の理解っていうのがどういう部分なのかっていう難しさですね」と皇室と国民の関係についてコメント。

 

我が国の社会は縦社会 (序列社会) です。日本人の社会はお前と俺の社会にはならない。真子さま真子にはならない。それが日本人の難しさです。     

 

>三雲氏は「開かれた皇室ということがテーマ」になったと説明。 

 

縦社会では開かれた社会にはなりませんね。縦社会は内と外とを分けて考えるからです。    

 

>皇室に対して国民が理想を持ってしまい「時にはそれが重いこととなってしまっている部分がある」と分析した。

 

日本人の尊さは序列の中にある。それは序列メンタリティのなせる業ですね。序列のないところでは、日本人は無礼講になる。旅の恥はかきすてです。それは日本人にとって恐ろしいことです。真子さまにとっても恐ろしいことです。        

 

> 眞子さん、小室さんが幸せになることで、2人の決断が正しかったと証明できると提言。  

 

そうですね。わが国には個人主義の浸透が必要ですね。     

 

>一方で「わたしたちが皇室というものを考える、いろんな時代とともに変化を受け入れなきゃいけないんだなという覚悟も持たなきゃいけない」と国民も皇室の変化を受け入れる気持ちが必要とした。  

 

日本人の礼儀は序列作法に基づいています。礼儀正しい日本人には横社会 (階級社会) への変化は難しいことですね。   

 

>恵は「今回のことでいろんな問題提起というか、感じたことは多いんじゃないでしょうかね」とまとめた。  

 

色々な問題が提起されたら、その答えの公表も合わせて必要ではないでしょうか。

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。正一位になることはむずかしい。    

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

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小名木善行氏  

2021-10-26 16:19:01 | 文化

 

>歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに >小名木善行です。

>イズムというのは、「◯◯主義」のことを言います。 >よく語られるイズムに、個人主義と国家主義という言葉があります。 >個人主義は、いうまでもなく個人を中心に生きていこうという考え方です。 >国家主義は、国家意思を第一にする考え方ですが、実は両者は同じものです。

 

個人主義は個人の独立自由を重んじる主義。国家主義は国家を人間社会の中で第一義的に考え、その権威と意思とに絶対の優位を認める立場。国家主義の下では国家の為に個人の権利は下敷きにされている。      

 

>どういうことかというと、人間の体と同じです。 >人の体は、およそ36兆個の細胞でできています。 >そのひとつひとつの細胞の健康と、その個々の細胞の集合体である人体全体の健康は、相等しいものです。 >いくらひとつの細胞が元気でも、人体が死ねば終わりですし、人体が元気であっても細胞が癌化すればやはり寿命は縮みます。 >国家とは、個人の集合体なのですから、どちらが大事というものではなく、どちらもが大切です。 >つまり、個人と国家は運命共同体です。

 

そうですね。運命共同体には違いありませんが、個人の意思の価値には大きな違いがありますね。国家主義であれば、個人の自由はなくても成り立ちますからね。    

 

>ところが近年の日本や米国では、個人主義を「利己主義」と履き違えている人が増えています。  

 

日本人には個人がないのだから、個人主義は利己主義になるよりほかありませんね。   

 

>利己主義は、自己の利益のみを重視し、他の利益を軽視する考え方です。 >個人も国家も利己主義に陥れば、あたりまえのことですが、その国も個人も環境不適合になります。 >不適合なものを生かすためには、非道や暴力が必要になります。 >日本の近くにある自称大国が、その良い例です。 

 

自国のものは自国のもの、他国のものも自国のものですね。 

 

>環境不適合だから非道に走り、非道に走るからますます環境不適合になるのです。  

 

それは悪循環ですね。そうなれば、自滅の道しかありませんね。    

 

>この世は適者生存です。 >非道が環境になれば、人類そのものが淘汰されます。 >つまり、その自称大国が世界のリーダーになれば、人類そのものが淘汰の対象になります。 

 

そうですね。それは不都合なことですね。    

 

>13世紀のペストの大流行は、世界の人口を半分に減らしました。 >17世紀のペストの大流行のときも同じでした。 >そして21世紀のいま、同じことが起ころうとしています。 

 

悪疫の世界的流行は大国の非道と関係があるのでしょうかね。    

 

>その世界的に大流行して人口半減を起こした13世紀、17世紀のペストは、日本には被害をもたらしていません。 >理由は簡単です。 >当時の日本が非道の国ではなかったし、人々もまた非道を憎み、道理を大切にする高い民度を保持したからです。

 

ペストの大流行は、非道が原因であるとは限りませんね。    

 

>進化には、  1 淘汰  2 共生  3 適合 の3つの種類があります。 >淘汰は弱肉強食です。 >けれど歴史を振り返れば、強いものが必ずしも生き残るわけではない。 >むしろ、強さを誇るツワモノたちが必ず滅んできたのが歴史です。

 

強さを保ち続けるのは難しいことですね。   

 

>共生は、共に生きることですが、玉石混交、強者と弱者の共存は、実際には不可能です。 >弱者は一方的に食べられてしまうのが生物の世界です。 >だから子だくさんになって生存を図りますが、人間の世界では、むしろ強者の方が子だくさんです。 >これでは、共生は不可能で、弱者は完全に淘汰されてしまいます。

 

人間の世界では誰が強者なのでしょうかね。先進国は人口減少に悩んでいるようですがね。    

 

>以前にカンブリアの進化の爆発のことを書きましたが、結局、進化というのは「環境への適合」が果たすということができます。 >秦の始皇帝の時代は戦国期で、相次ぐ戦乱の時代に於いては、周囲の国すべてを敵に回しても勝つことができるだけの強さがものを言って、秦が中原を統一しています。 >けれどその秦が行った法治は、チャイニーズというわがままな人たちには結果として受け入れられず、つまり環境に不適合であったために、秦は統一後わずか15年で滅んでいます。

 

強さを保ち続けることは難しいことですね。    

 

>利己主義は、周囲との共和を欠き、周囲の環境と適合しません。 >適合しないから利己主義と呼ばれます。 >つまり利己主義は、周囲の環境との適合性がないから、滅ぶことになります。

 

そうですね。周囲を敵に回したら四面楚歌ですね。    

 

>利己主義であって、かつ滅びないためには、非道と暴力が必要になります。 >日本の近くにある自称大国が、まさにその域に入っています。 

 

そうですね。焚書坑儒が必要になりますね。  

 

>米国の大統領選は、テレビCMの戦いであると言われています。 >そしてそのCMは、互いのネガティブ・キャンペーンに終始します。 >ネガティブ・キャンペーンとカタカナ英語にしたら、いっけんかっこいいかもしれませんが、中身はただの、ののしりあいです。 >一国の、しかも米国という世界にものすごく大きな影響力を持った国の大統領選が、次元の低いののしりあいだということは、世界の指導者は、単にののしりあいに勝利した者、もっというなら、ののしりかたが上手な人だということになります。 >そういうことで、一国の大統領を決めるというのは、あまりにもかなしすぎることです。 

 

ののしり合いあいばかりではないようですね。

 

>なぜ米国の大統領選が、そうしたののしりあいになるのかというと、米国が「覇権国家」だからです。 >覇権国家では、権力は常に権力の拡大を求めます。 >これは国家最高権力者の意思の如何を問わず、国の成り立ちが覇権を求めるからです。 >そして覇権を得るためになら、何だってするようになります。 >そのために多くの人命が犠牲になろうが、ののしりあいが国是となろうが関係ない。 >これを定性進化といいます。 >サーベルタイガー [剣歯虎] の牙と同じです。

 

戦争を継続するのは大変なことですね。それが、大国の役割をはたすことになるのですかね。わが国はアメリカに期待を掛けていますね。それで良いのですかね。      

 

>筋力の増加を求める人が、ひたすら筋力の増加を図っていくと、その筋力に骨が耐えられなくなって筋力性の骨折を起こすのだそうです(そこまでの筋力になるためには、猛烈な特訓が必要ですが)。 >また、筋力がありすぎて、自立呼吸ができなるなる人もあるのだとか。

 

過ぎたるは及ばざるがごとしですかね。   

 

>時間をかけて筋力とともに骨の強化も図る、つまり全体をバランス良く成長させることで、そうした問題は起こらなくなるのだそうですが、いたずらに短期間での覇権ばかりを求めれば、最後は自滅してしまうわけです。  

 

伝統的な覇者の国は我々にとって危険ですね。

 

>我が国には、もともと○○主義というものはありません。

 

そうですね。〇〇主義は考えの内容ですからね。日本人には作法 (儀式) があって教え (教義) がない。だから形式に囚われやすい。      

 

>ときに皇道主義などという言葉が用いられることもありますが、我が国は〇〇主義などという言葉が生まれるはるか以前からあった国であり、あくまでも民の幸せこそが国の幸せであるとし、その頂点にある天皇(すめらみこと)は、民の安寧を神に祈る御存在であり、国家最高権威です。

 

日本人は人間序列に囚われていますね。一種の権威主義ですね。

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

 

>では、日本は◯◯主義(イズム)の代わりを何が果たしたのかと言うと、それが「責任」です。 >責任は、ひとりひとりが自覚し、自分で感じるものとしてきたのが日本です。 >実は、そこが諸外国における責任論との違いです。   

 

そうですね。諸外国では、個人が自己の意思を働かせて事態に対処しますね。しかるに日本人には意思がない。従って社会における責任の所在も不明である。  

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

>諸外国では、責任は、他から与えられるものです。

 

それは権力ですね。特定の個人に意思の優先権を与えることですね。 

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。・・・・・・・・・ どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)    

 

>泥棒をしたら、捕まえられて手首を切り落とされます。>それはクニが行うことであって、泥棒が自ら恥じて責任を取ることではありません。  

 

それは国が法に従って行うことですね。彼らには罪の文化があって、それは明文化されていますね。彼らに恥の文化はありません。恥の文化はわが国においても明文化されてはいませんね。         

 

>日本では、そうではなく、泥棒をしたら泥棒をした自分が、一生かかってでも責任をとるのです。 >若気の過ちは、生涯を通じて、別な何かで貢献することで責任をまっとうする。 >そういうことを「あたりまえ」の常識としてきたのが日本です。

 

明文化されていない内容には個人差がありますね。わが国では個人の平等は考えられませんね。      

 

>ですから我が国の歴史や、我が国のあり方を、歴史の浅い他の国と比肩したり、他の国を理想化したり、むやみに他国の文化ばかりを尊敬したりしても詮無(せんな)きことです。

 

個人の平等は必要ですね。明文化されていない内容は本人の独り善がりに終わりますね。    

 

>むしろ、長い歳月営まれてきた日本的な形を学び、身に付けていくところに、明日への希望があります。 >なぜならそこに「責任」があるからです。  

 

そうですね。だが、日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。それは解決能力がないからです。だから、義務ばかりで解決法のない日本式の責任は日本人自身にも敬遠されますね。与えられた責任を遂行しようとすれば解決手段を持たない牛馬と同じ境遇の苦しみを味わうことになるからです。  

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

 

>そして「責任」は、ITがいくら進んだとしても、代替できるものではありません。 >なぜならコンピューターはいくら発達しても責任を取ることができないからです。 >責任は人が取るもの。

 

思考を停止している物知りの人では、現実に対処することは不可能ですね。現実を直視して考える人が必要ですね。   

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>そして自分が取るものです。

 

自分の責任は自分で取るものですね。国の責任は国政の責任者が取るべきですね。しかるに、この国がひっくり返った時にもわが国の敗戦の責任者は出なかった。    

 

>こうすることで人々は、究極の環境適合を得ることができます。 >つまり日本的思考は、環境に適合し、未来永劫、繁栄の継続を得るのです。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>人類社会の未来は、この日本的「人間による責任の自覚」にすべてが託されていると言って過言ではありません。

 

日本人には意思がない。だから、能動がなくて受動ばかりがある生活をしている。能動の人には加害者意識 (罪の意識) もあるが、受動の人にはそれが薄い。だから日本人は責任のある指導者には不向きである。        

 

>お読みいただき、ありがとうございました。

 

大変参考になりました。どうもご苦労様でした。

 

 

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山崎真之輔氏  

2021-10-25 19:52:16 | 文化

 

>静岡朝日テレビ >「全国で戦っている野党系候補者の勇気、励ましになれば」 初当選から一夜明け山崎氏 参院静岡補選 > 静岡朝日テレビ 2021/10/25 11:54

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>24日投票が行われた参議院静岡選挙区の補欠選挙は、無所属で立憲民主党や国民民主党が推薦した山崎真之輔氏が初当選を果たしました。 >山崎氏は65万票あまりを集めて自民党や共産党の候補を破り、初当選を果たしました。 >【得票数】 > 山崎真之輔氏 65 789票 >若林洋平氏 602780票 >鈴木千佳氏 116554

>-喜びの声- >無所属(立憲・国民推薦)山崎真之輔氏:「巨大与党に対しまして無所属の一人間が立ち向かう。 

 

なにしろ自民党は野党が育てた巨大与党ですからね。   

 

>大変困難で厳しい道のりではありました」「今回の選挙戦を通じまして一番感じましたのは、とにかくもう政治を新しくしてくれ、変えてくれ、そういう声が予想以上に大きかった」 

 

そうですね。政治家には未来を先取りするセンスが必要ですね。我が国人は政治音痴ですからね。政治の指導者が既成事実の追認と他人・他国の後追いばかりしていては、わが国に立つ瀬はありませんね。

 

>投票率は4557%で、おととしの参院選と比べ489ポイント低くなりました。

 

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)  

 

>今回の参院補選は31日に行われる衆院選の前哨戦として全国的にも注目を集め、山崎氏には推薦した2つの野党の党首に加え、川勝知事がたびたび応援に入りました。 >当選から一夜明け、浜松市内の事務所で取材に応じた山崎氏は…。 >山崎真之輔氏:「信じられない気持ちですけど、それだけ注目がありましたし」  

 

おめでとうございます。夢は正夢でしたね。政治に対する日本人の態度を改めてくださいね。      

 

>そして、衆院選への影響について次のように述べました。>山崎真之輔氏:「全国にも波及するでしょうから、うまく私のこの結果を仲間に使って頂きたい」「全国で戦っている野党系の候補者もいるのでそういった方々の勇気、励ましになれば」  

 

柳の下に何時も泥鰌はおらぬ。

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

 

>また、山崎氏を応援した川勝知事は…。>川勝知事:「無事、彼を良識の府に送り出すことができたということで心から感謝しております」

 

どうもご苦労様でした。  

 

 

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Z世代  

2021-10-24 10:26:24 | 文化

 

>朝日新聞デジタル >Z世代、本当に政治無関心? 「意識が高いと…」「演説で心動いた」  > 朝日新聞社 2021/10/23 12:45

 (

> 【千葉】Z世代。 >1990年代後半生まれで、幼いころからインターネットに触れてきた若者を指す。 >日本では多くが「政治に無関心」とされるZ世代の1票を動かすには何が必要なのか、同世代の記者(22)が県内の大学生と会って考えた。 

 

 '日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。'  (ウスビ・サコ)   

 

> 「勉強していないと、発言や投票をしてはいけないように感じています」と千葉大4年の張葉月さん(23)。 >話しぶりは控えめだ。 >政治思想史を学んでおり、本来関心はあるはずだが、「『意識高い』とは思われたくない」。 >政治の話題はSNSでは一切発信せず、友達と語り合うことも少ない。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定がわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。    

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

> 《記者もよくわかる。 >学生時代の仲間とは今も政治や社会問題は話しづらい。 >「意識高い」とは褒め言葉ではなく揶揄(やゆ)する言葉だ。 >仲間から最も思われたくないことでもある》   

 

あるべき姿’ の内容を持たない人は、つかみどころのない人である。無哲学・能天気の人間である。      

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.    

 

> 同大2年の下津礼志さん(19)は「身近にコンテンツがあふれていて、わざわざ政治に興味を抱かない」と話した。 >ネットでは、検索すれば多くの情報が見つかる。 >しかし、主体的に情報を取りにいく習慣があまりなく、スマホ画面に自動的に表示されるニュースを見ることが多いという。  

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。   

 

> 学生の意見はなかなか表に出てこない。>同大大学院1年の生野克海さん(22)は、大学1年で読んだ米政治哲学者マイケル・サンデル氏の著作「これからの『正義』の話をしよう」に感銘を受け、「弱肉強食」の新自由主義や能力主義に疑問を抱くようになった。 > それでも、「意識高い」と見られることには抵抗がある。 >自らの意見は、SNSで発信はせず、仲のいい友人1人と話す程度だ。  

 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。

大学などの高等教育機関で勉学に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。

 

> 《学業、サークル活動、飲み会。 >コロナ禍でキャンパスライフが吹き飛んだのも今の大学生の特徴だ。 >縁遠いと感じてきた政治に何も思わなかったのか》 > 今回初めて投票するつもりだという学生もいた。 > 淑徳大4年生の中村翼さん(21)。

>コロナ禍での対面授業の制限、それでも減額されない授業料。 >疑問を募らせていたところに、インターネット上で好きな俳優らが投票を呼びかけた動画に背中を押された。 > 「今まで政治に不平不満は全然なかったけれど、コロナで考えが変わった」。 >ただ、投票する上で戸惑いもある。 >「正直、政党の色や候補者の考えをあまり理解できていない」 

 

日本人にとって政治の内容は難しいですね。   

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り) 

 

> 《Z世代はバブル後の「失われた30年」の中を生きてきた。 >右肩上がりを知らない。 >そのためか、記者の友人もインフラ系企業の正社員など「安定志向」が多かった》 > 淑徳大3年生の森川静穂子さん(21)は小学6年生だった2012年、安倍晋三氏が首相に返り咲いた。 >「政治といえば安倍政権が当たり前だった」。 >「ヤジばかりだった」という野党には、SNS上で過剰に批判している人たちと同様、「攻撃的」と距離を置く。 > 大学34年生は、就職の悩みに直面する時でもある。 >学生優位の「売り手市場」が続いた安倍政権への不満はなさそうだった。 > 経済成長を掲げたアベノミクス政策を多くが漠然と支持しており、同大3年生の斎藤輝(ひかる)さん(21)は「安定感がある自民党を信頼している」と話した。

 

何事につけお変わりのないことが何よりなことですね。日本人には未来の内容は想定外になっているからでしょう。日本人の未来は一寸先が闇である。         

 

> 《Z世代の共感を生んだ政治家はいないのか》 > 同大4年生の岸優斗さん(22)は、「投票に行ったのは(アイドルグループの)AKB48の総選挙くらい」。>「たかが自分の1票ではなにも変わらない」と淡々と語った。> ただ、親がファンで見ていたという野党党首のインターネット上での演説動画を自分も見たときは、「頑張ってほしいなとは思った」。 >熱弁に少し心を動かされたという。

 

政治哲学よりアクションの方が分かりやすいですね。   

 

>(上保晃平)

>     ◇

> 千葉大の関谷昇教授(政治思想史)の話  >若者が政治に無関心というのは事実誤認だ。 >仲間内で浮きたくないと、考えを表に出して共有しづらい状況にある。 

 

日本人にとっては自己の考え (非現実) を言い出すのは恥ずかしいことですね。この時に自分が一人になるからです。  

 

>若者が望む生き方は多様化している。>ただ、インターネットやテレビから得た断片的な情報を「自分事」として消化できていない面もあるのではないか。 

 

日本人には意思がない。だから、万事が受け身の暮らしになる。受け身の暮らしは自分事にならない。   

 

>イデオロギー的な話ではなく、若者が自分事として捉えられるような生活目線の言葉なら届くはずだ。

 

日本人には世界観がない。来るべき世界の内容 (非現実) は想定外となっている。   

 

> 淑徳大の矢尾板俊平教授(総合政策論・投票行動)の話  >若者の投票率を上げるには(1)若者向けの政策(2)気軽に政治の話や投票ができる雰囲気づくり――が重要で、教育現場などでの政治参加体験の積み重ねも必要だ。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>ボランティア活動や募金活動に参加するなど、若者の社会参加意欲はむしろ高い。 >若者が投票しやすい環境をつくる責任は大人の側にある。  

 

政治家には未来社会の内容を先取りする感覚が必要ですね。既成事実の追認と他人・他国の後追いばかりしていてはこの国の立つ瀬がない。   

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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開成OB

2021-10-23 06:43:53 | 文化

 

>ダイヤモンド・オンライン >「開成OBをすぐ調べろ」岸田首相の強すぎる母校愛に震える霞が関の狼狽 > 小倉健一 2021/10/22 06:00

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>岸田文雄首相が超名門・開成高校の出身であり、母校愛が強いことは「留意すべき点」として霞が関の省庁で受け止められている。 >省庁内で開成OBを探し、開成閥による岸田首相とのパイプづくりに奔走する霞が関の狼狽ぶりを詳報する。 >(イトモス研究所所長 小倉健一)

>「開成出身をすぐに調べろ」 >霞が関で密かに進む岸田首相の同窓探し  >「あなたはどこを出たの?」> 政治家やキャリア官僚、記者にまで学歴を問うことで知られた宮澤喜一元首相。 >武蔵高(旧制武蔵高等学校)、東京大学法学部を卒業し、「東大法にあらずんば大学にあらず」とばかりの学歴偏重主義に周囲が困惑したのは約30年前のことだ。 > こうした不毛な議論が今、権力中枢で再び起きようとしている。  

 

それは残念なことですね。わが国の序列制度は処世術 (損得勘定) にがっちりと組み込まれていますから、学歴偏重主義として簡単に葬り去ることは難しいですね。   

 

>背景にあるのは、岸田文雄首相のあまりに強すぎる母校愛だ。 

 

日本人の母校愛は一種の帰属意識ですね。その源は日本語に基づく序列体制ですね。      

 

>「誰か開成出身はいないのか。すぐに調べろ」。 >成績優秀者たちがそろう霞が関で9月末、経済官庁の中堅職員は上司にこう命じられた。 > 自民党総裁選で勝利した岸田首相の母校は名門私立・開成高校。東大合格者数で40年連続の全国1位という超エリート校は、意外にも首相の輩出が初めてとなった。 >東大出身者が多い霞が関官僚の中で、その「同窓」探しはひそかに進められた。 

 

不毛の同窓探しですね。無哲学ですが損得勘定につながっていますね。      

 

> 岸田氏は、小渕恵三内閣の建設政務次官時代に旧建設省内の「開成会」を立ち上げるなど母校愛が強い。 >20179月には政官界の開成OBで「永霞会」を発足させ、自ら初代会長に就いた。 > 母校を愛する気持ちは多かれ少なかれ人々が抱くものであり、もちろん自由だ。 >橋本龍太郎元首相が卒業した私立・麻布高校の「麻布閥」は有名である。 

 

同期・同窓が活発なのは無哲学・能天気の表れでしょうね。閥は無哲学な日本人を結束させる手短な手段となっていますね。パイプは閥で作られる。            

 

>岸田首相とのパイプづくりに霞が関が躍起になる本当の理由   > 今回、キャリア官僚たちが気にするのは、宮澤元首相以来30年ぶりに自民党の保守本流をうたう派閥「宏池会」(現・岸田派)から宰相が誕生したことに起因する。 > 無派閥の菅義偉前首相や少数派閥だった麻生太郎元首相がトップに立つことはあったが、宮澤氏以降の首相(自民党総裁)は現在の細田派か旧竹下派から輩出されている。 >それだけに岸田派とのつながりが弱まっていたことは否定できない。 >政界との「パイプ」を重視する官僚たちからすれば、最も有効な一手として見るのは、やはり「開成閥」のつながりということなのだろう。 

 

派閥の力が有力であるということは、それだけ政治家の政治哲学が弱いということでしょうね。

宮本政於の著書〈お役所の掟〉には、官僚絶対主義のことが出ています。以下は、著者(宮)と厚生省幹部(幹)との会話であります。

宮「憲法に三権分立がうたわれているのは、権力が集中すると幣害がおきるから、との認識に基づいているのでしょう。今の日本のように、官僚組織にこれだけ権力が集中すると幣害もでてきますよね」、幹「ただ、日本はこれまで現状の組織でうまく機能してきたのだ。それによく考えてみろ。いまの政治家たちに法律を作ることをまかせられると思うのか。そんなことをしたら日本がつぶれる」、「日本の立法組織にそれほど造詣(ぞうけい)が深くないのですが、私も認めざるをえません」、「そうだろう。『やくざ』とたいしてかわらないのもいるぞ」、「私もテレビ中継を見て、これが日本を代表する国会議員か、と驚いたことがなん度かあります。とくに、アメリカとか英国とは違い、知性という部分から評価しようとすると、程遠い人たちが多いですね。でも中には優秀な人がいるんですがね」、「政治は数だから。いくら優秀なのがひとりふたりいてもしようがない。ある程度の政治家たちしかいないとなれば、役人が日本をしょって立つ以外ないのだ」(引用終り)

 

> 環境省幹部が霞が関の実情を解説する。>「宮澤氏は周りを東大法卒で固め、時にそれ以外の人を見下すようなことがあった。  

 

宮澤喜一氏は 上と見るか・下と見るかのメンタリティ (考え方) の発達した人でしたね。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。 

我が民族の序列メンタリティは国がひっくり返った後にも変わりませんでしたね。新憲法の前文には、 ‘・・・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。’ と高らかに宣言しています。地位とは国際社会の序列順位の事で、国際問題に関する問答には関心を持たずにひたすら順位の向上を待ち続ける奇異な民族の代表として存在します。序列メンタリティが邪魔になって問答ができないのか、問答ができないために序列メンタリティから離れられないのか。英語の習得力が不十分なためか。  

 

>岸田首相はそんなことをしないと思うが、『開成愛』が強いことは留意すべき点として省庁で受け止められている。 >環境省は中井徳太郎事務次官をはじめ幹部に開成OBがいるからいいが、OBが主要幹部にいない省庁は『開成シフト』を急いでいるようだ」 

 

同じ日本人でありながら、話が良く通じないのは困りものですね。それは内外を区別する日本語の性質によるのでしょうね。          

 

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> 首相や日本銀行総裁も務めた、開成の初代校長である高橋是清氏は、生徒や教師にこう諭したという。 >「ひたすら前例にのっとることに努め、その結果がどうであるかは本人が関知しないなどというのは、つまり、記憶力と同時に思考力を育成しなかったことの結果というべきです」

 

そうですね。我が国の教育は、思考停止で暗記力だけを延ばす。そして、受け売り専門の物知りを育てる。ということでしょうね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>「新しい資本主義」を目指し、総選挙後に数十兆円規模の経済対策を狙う岸田首相。 >「本当に巨額の経済対策が必要なのか」と寄稿した矢野財務次官。 >どちらに当てはまるメッセージなのかは定かではない。   

 

人により考えはまちまちですからね。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。 

我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。

生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。

研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容は文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間となる。   

大学などの高等教育機関で勉学に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。 

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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