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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

なあなあ

2019-09-22 03:39:36 | 社会

>匿名希望 19/05/27 PM09 【印刷用へ】 >リンク引用 > (中略) 
> 「なあなあ」になると、まず後輩はあなたの言うことを利かなくなります。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) もある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので、文章にならない。文章にならないものには、意味がない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」 

>そもそも何も教わっていないのですから、言うことを聞く義理もありません。

そうですね。後輩は、自主・独立ですね。

> 「その行為の是非を決めるのは、自分自身である」という考えができあがっているので、今更他人の意見など聞く必要はないのです。>こうなると、雑談はするけど仕事の話は一切しない同僚、という存在になります。>あなたの仕事にも口出しをしてこなくなるので、一見するとあなたにとって楽な環境を作り上げることができたと思うかもしれません。>しかし、相手に何もしないということは、相手から尊敬されないということです。

そうですね。身分相応ですね。

> 困った時に、あなたを助けようという感情すらもたないかもしれません。

相手は、あなたのための墓穴を掘っているかもしれませんね。

> 上っ面の人間関係はできあがっていますが、信頼関係はつくられていないのです。

日本人には、意思がない。だから、意思疎通もありませんね。何を考えているかわからない状態では信頼関係は生まれませんね。

> 引用終わり
>-----------------------------------------
>まず仲良くなるためには、明るく話しかけやすい雰囲気をつくることはある程度重要であると思います。

そうですね。礼儀正しい日本人ですね。これは、意思の内容とは関係がありませんね。

>しかし、引用にもあるように、このままでは本当の信頼関係が生まれることはありません。

そうですね。意思の疎通がありませんからね。

> 後輩にしろ同期にしろ、お互いを高めあえる関係性でなければ良い関係とはいえません。

そうですね。それには、対話・議論が必要ですね。

>嫌われることを恐れて何も言わずにいるのは、組織を衰えさせる要因であり、それは嫌なことから目を背けて逃げているだけです。

そうですね。無言は、責任のある態度ではありませんね。

>自身もこのことを肝に銘じて、自分のためでなく組織のために言動を改めていきたいです。

それは、良いことですね。成功を祈ります。


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仕方がない

2019-09-21 11:54:54 | 政治
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カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。
>、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がない。だから、「仕方がない」と言う言葉が生きて来る。 
意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思 (will) がない。

>本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。

政治は、建設的な活動ですね。「仕方がない」は諦観であり、反建設的な態度です。何事も、お変わりのないことが良いことです。

>この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。

そうですね。日本人には意思がない。だから、決意もできない。

>日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。

そうですね。日本人は、かねてから ‘独裁者を出してはいけない’ と言っていますね。
日本人には意思がないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思は、未来時制の文章内容になるから意味がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。文章にならないから、意味も無い。
意思のある独裁者は、自己の意思を貫こうとする。だが、恣意の独裁者は、自己の恣意を貫こうとする。これは、日本人としても受け入れがたいことです。
自由は、意思の自由のことである。恣意の自由は、何処の国でも認められない。それは、’自由のはき違え’ になる。だから、恣意の人の社会においては、’不自由を常と思えば不足なし’ が正道となっている。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。

そうですね。日本人のいるところ全てに無意志が存在しますね。日本語と無意志は切っても切れない関係にありますね。

>、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)

そうですね。’方法がない’ と言うことは、とりもなおさず ’仕方のない’ ことですね。
我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要がありますね。さすれば政治を通して未来社会の建設を考えることも可能になるでしょう。
英文法には時制があって、英米人には意思がある。彼らは日本語を話す時でも、日本人特有の閉塞感に襲われることがない。彼らには、考え方がいくらでもあるからです。我々も彼らのやり方を取り入れて、自己の内容を自由に広く表明しよう。我々が表現の自由を獲得した暁には、日本語特有の良さと合わせて、わが国は ‘鬼に金棒’ の国になります。


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読書

2019-09-20 21:34:06 | 社会
> 『知識より 読書が大事 『検証・学歴の効用』』リンク
(略)
> 『高卒と大卒は何が違うのか』、『出世する大卒・しない大卒』、『大卒人材と読書』、『女子と学歴』、『専門学校への進学は「得」なのか』、『院卒という学歴は「使えない」のか』、という六つのテーマについての結果と考察が示されている。
(略)
>おそろしいことに、というべきか、やっぱり、というべきか、『出世する大卒・しない大卒』の章では、大学で学んだ知識は所得に反映されることはない、と結論づけられている。>それどころか、学部によっては、知識があった方が収入が少なくなるというマイナス効果すらあるらしい。>ほんまかいな、であるが、知識や情報というのは日進月歩であるから、ある程度はそういうこともあるのかもしれない。

‘学者に金持ちなし’ でしょうね。

>これら二つの章からわかることは、大卒者にとって重要なことは、学歴や大学時代に得た知識そのものではなく、自己学習できるかどうかである、ということだ。

そうでしょうね。自己学習は、大切ですね。この習慣により、自分に必要な知識が得られます。

>HONZ的にいちばん気になるのは、自己学習の中核である読書の効用を考える、という観点から描かれる『大卒人材と読書』だ。
>読書といっても雑多であるから、思想書、純文学、歴史・ノンフィクション・ドキュメンタリー、マンガ、ビジネス書、専門書、趣味・娯楽書、の7ジャンルに分けて考察されている。
>おおむね『読書に熱心だった人ほど、人材としての価値が高くなる』のではあるが、例外がある。
>マンガと趣味・娯楽書の二ジャンルについては、読書量と所得との間に負の相関、すなわち、たくさん読んでいた人ほど所得が低くなる傾向があるのだ。

文章の内容に矛盾が無ければ、その内容は哲学 (考え) になる。各人に哲学は、必要である。Everyone needs a philosophy. 哲学に励めば、その人は真摯 (真面目) な人間になる。
文章の内容に矛盾を含ませると、空想・妄想となる。その人の言動には意味がなく、人間は軽薄になる。
日本人は、無哲学・能天気の状態でいる。だから、お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になった。

>“読書界の鬼才”成毛眞の『そもそも知的な人間は漫画なんて読まないよ。』というPRESIDENT誌における発言が猛反発をくらったらしいが、少なくともマンガを読む習慣と収入には関係があるようだ。

そうでしょうね。

> 大学時代に学ぶ習慣を身につけた人は、その後も学び続けてキャリアアップしていける、というのと同じく、読書の習慣も持続する。>大学時代というのは、時間的な余裕がある。

ありますね。

>その間に、マンガや娯楽書を読むのではなく、まともな本を読みましょう、ということだ。

そうですね。
全ての考えは、文章になる。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。文章にならないものは、考えではない。空想・妄想であって、まともな内容ではない。
矛盾を含んでいない全ての文章は、正しい考えを示している。考えは、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。正しい考えは、哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学に、科学に関する哲学は科学哲学に、人生に関する哲学は人生哲学などなどになる。これらは、まともな内容である。

>HONZを読むような人にはよもやいまいとは思うが、あっちゃ~今ごろ言われてもなぁという人がもしいれば、気持ちを入れ替えて、HONZで紹介される魅力的な本をどんどん読んで遅れをとりもどしてもらいたい。

良い事があるかもしれませんね。

>もうひとつのおもしろい結論は、大学時代に専門書を読んでいた人は、将来、思想書やビジネス書も読むようになる、ということだ。>うれしいではないか。

そうですね。読書癖がつきますね。

>読書など単なる習慣に過ぎないという人もいる。>確かに単なる習慣だけれど、身につけておいて決して損ではない習慣なのである。

本の虫になるのですね。

>大学では、読書に代表されるように、学び方を学ぶ、ということが大事なのだ。

自己の論文を書く場合には、文献を読み漁る必要がありますね。これは、以後役に立つ練習ですね。

>ふだん、学生に厳しく指導していることを証明してもらえたようで、うれしく読み終えた。

それは、良かったですね。

>なんとか大卒の学歴、という言い方をするけれど、日本の大学の現状を考えると、正しくは、その大学にはいれたことを示す学歴、にすぎない。

そうですね。競争相手を追い落とすための技術の歴史ですね。教養と言うほどのこともない。

>おそらく、これが日本の大学における最大の問題点ではないかと常々思っている。

そうですね。わが国は、入学試験の成績を人間序列形成の為の判定に利用しているだけですね。

>そういったことも頭にいれた上で、『学歴と健全につきあう』必要があるという提言を心にしっかり刻み込んでおきたい。

我々日本人は、思考停止の状態から脱出する必要がありますね。これが、学歴と健全に付き合う道への第一歩になるでしょうね。

> ==引用終わり==



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ヘリくだり

2019-09-19 05:44:55 | 社会

>長周新聞リンクより > アメリカ大統領のトランプが令和初の国賓として招待され、属国の為政者としてポストを保障されている者たちが甲斐甲斐しく税金で接待に勤しんでいた。>相撲観戦に炉端焼き、宮中晩餐会、ドナルド&晋三で既に定番となった毎度のゴルフなど、その過剰な大歓迎ぶりには世界のメディアも唖然として「米大統領に媚びを売る日本の為政者」への認識を深めたようだ。

そうでしょうね。

>しかし、そもそも何のためにあそこまでやる必要があったのだろうか?

わが国では、序列関係の存在は、すなわち信頼関係の存在と考えられているからでしょう。

>  大統領選ではヒラリー勝利を確信して動いていたために、大慌てでゴルフクラブを握りしめて就任前のトランプに会いに行ってご機嫌をとったが、日本の為政者たちの米国の権力者に対するへりくだり方ときたら、とにかく異常なのである。

‘ヘリくだり’ も大切な序列関係の強化につながりますからね。

>原爆を投げつけられて感謝している者のDNAとでもいおうか、そのことによって戦後も戦争犯罪の罪を問われぬまま七光りたちに至るまでポストを与えられ、占領統治の駒として国を売り飛ばした者の性根が2代3代と引き継がれて今日に至っているのである。

そうですね。とにかく、我々日本人は、無哲学・能天気ですからね。全ては、日本人の序列メンタリティの賜物ですね。弁慶 (日本) と牛若丸 (アメリカ) の序列関係は、すでに京の五条の橋の上 (太平洋戦争) でついていますからね。昔話の伝統は、今も受け継がれています。

>軽薄かつ経年劣化もしながら--。

無哲学は、我々の軽薄そのものですね。我々の思考停止が原因です。過去は、疾く風化して幻となる。
非現実 (考え) の内容は、時制のある文章になる。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それぞれの世界は、何処までも展開が可能である。
人生の始まりには、非現実の三世界は白紙の状態である。白紙の状態は、誰しもが気になる所である。だから人間は、’考える人’ になる。そして、各人がめいめいに三世界の空白に内容を容れて行く。これが、各人の世界観 (world view) と呼ばれるものであり、これは哲学 (philosophy) である。各人に、哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 自己の世界観を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になる。
英文法には、時制というものがあり、英米人には、世界観がある。だから、批判精神もある。能天気にはならない。
日本語には時制がなく、日本人には世界観がない。それで、日本人には批判精神がない。思考を停止して、無哲学・能天気の状態でいる。

>こうした染みついた親分子分の関係、宗主国と属国の関係が続き、ロシアに向かっては「戦争しないとどうしようもなくないですか?」というような者や「右」を自称する者に限って、大概アメリカにはひれ伏しているのが現実である。

序列メンタリティの持ち主は、’大きくなったり・小さくなったり’ する必要がありますからね。それをやってみせるのです。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上と見るか・下と見るか’ の判断がまとまらないと、日常会話にも差支えが出て来る。だから、日本人にとって、世俗の上下判断は、強迫観念に域に達している。人を見損なってはいけない。無哲学の日本人は、親分子分の関係の中に精神的な安住の地を見つけているのでしょう。その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、ものの上下を知らない人は、礼儀正しい日本人にもなれない。礼儀正しい日本人は、けっして間違ったことをしていない人間の証とみなされているのかもれない。

>沖縄基地問題で同じように「アメリカと戦争しないとどうしようもなくないですか?」と発言する政治家など見たためしがないように、奴隷根性が叩き込まれた彼らは、恐らく鞭で打たれても米国にだけは喜んで媚びを売りに行くのである。

そうですね。政治家は、アメリカのポチになっていますね。

>日本人がレイプされようが、米軍機が墜落しようが、首都圏の制空権を握られようが、黙って従うのが習わしなのだ。

とにかく、政治家は、相手を喜ばせることが主眼ですからね。低能の序列熱か。

(略)


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悪者捜し

2019-09-18 20:43:12 | 社会
(略)
>●現実に起きたことに自分が対処するしかない

そうですね。

(略)
>「あいつがやったことが悪い」という思考から、「現実を変えていくにはどうすればいいか」という部分に意識を、集中力を向けていける。>あなたの現実に起こることについては、あなたの責任で対応していこう。

そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。 Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には、意思がない。意思 (will) は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。意思の無い人には、責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。だから、日本人は、自己の責任で対応することができない。’とかく、この世は無責任’ となる。
ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) 

>なぜ他人のせいにしてはいけないのか。>他人のせいにすると「失敗した自分にはなんの問題がない」ことになる。>そうすると失敗から何も学ぶことはできない。

日本人には、意思がない。だから、加害者意識がない。罪の意識がない。深刻な反省がない。失敗から何も学ばない。’過ちは、繰り返しませぬから’ というばかりでは、真の反省には至らない。

>どんな挑戦もどんな失敗も、必ず実り深い学びをもたらしてくれるものだが、「失敗が起きた責任は自分にある」という自省が、失敗から学びを取り出すには必要だ。

そうですね。失敗から学びを取り出すことが必要ですね。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

> 気づかないうちに多くの人が、この感情移入による「悪者捜しの罠」にはまって、自分の意識を過去や他人といった、変えられないことに縛られている。

そうですね。それは、非常に残念なことですね。日本人には、自己がない。だから、他者を探すことになりますね。意思の無いところには、方法 (仕方) がない。仕方がないから、無為無策でいる。

>未来や自分といった、変えられることに焦点を合わせるためにも、こういった構造のことを頭に止めておこう。

そうですね。日本人には自己がない。常に、事の次第・自然の成り行きを述べている。日本語は、意思の表現ができない構造になっていることを頭に止めておきましょう。

>あなた自身の成長や、チーム内でのコミュニケーションに、きっと役に立つはずだ。(引用終わり)

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分深く理解する必要がありますね。さすれば、自己の世界観と意思の内容を文章にして表現することが可能になり、外国人からも信用されるようになります。未来社会の建設に協力者を得て、人類の進歩に貢献できます。英米人は日本語を話すときでも、日本人特有の閉塞感に囚われることはありません。彼らには、考え方が色々あるからです。我々も彼らのやり方を取り入れて、いろいろな考え方を提示しましょう。


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