gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

思い通り

2019-09-17 11:38:00 | 社会

>349397 「中高生への過保護」が生む悪循環 ~手を離せず再び「枠」にはめようとする親たち~
>井垣義稀 ( 25 会社員 ) 19/09/16 PM11 【印刷用へ】
>いつになっても、子どものことが心配なのが親だと思います。
>しかし、単なる心配ではなく、さまざまな手を使って子どもを親の思いどおりに変えようと思うところから悲劇が始まります。

そうですね。悲劇ですね。我々には、自由が必要ですね。自由とは、意思の自由のことですね。ところが、日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。だから、我々には、意思決定が難しい。

ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日)

その代わりに日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章内容にならない。文章にならないものには、意味がない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
恣意の自由は、何処の国でも認められない。’自由のはき違え’ となるから認められない。それで、’不自由を常と思えば不足なし’ となっている。そして、日本人の自由を求める運動は ‘元の木阿弥’ に返る。

親の思い通りにするのは、親の恣意。 子供の思いどおりにするのは、子供の恣意。 どちらも認められませんね。時制のない考え方では、自由を得ることが難しい。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人は、仕方がないから無為無策でいる。これでは、たまらない、座して死を待つばかりである。
日本人は、思考を停止している。思考停止の人間に行動を起こさせるには、作法を教え込むに限る。これに従えば、自己の考えがなくても動作を継続できる。これは、思考停止の人間に対する一種の入れ知恵である。わが国では、子供に作法を厳しくしつける教育が発達している。これは、没個性の教育につながっている。

我々日本人は、日本語と英語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要があるのではないでしょうか。さすれば、自己の意思の表現が自由になり、我々の生活にも自由がついてきます。恣意のはびこる世界には、真の自由はありません。自由は意思と共にある。我々には、意思の表現を自由にするための語学の勉強が必要なっています。英米人は、日本語を話す時でも、日本人特有な閉塞感を体験することはありません。彼らには、考え方はいくらでもあるからです。我々も、彼らのやり方を取入れて、自分の意思を自由に表現できるように努力しましょう。

(略)
.


未来は暗い

2019-09-16 22:46:47 | 教育

>■今の教育のままでは日本の未来は暗い
>今の子どもたちが大人になる頃の日本は、どうなっているでしょうか。>モノづくりで世界のトップをキープし続けていられるでしょうか。

日本人は、目先・手先の内容に注意力を集中できるから、製品の仕上がりが良い。だから、日本人の技術に需要はあるでしょうね。

>食料やエネルギーの自給率が、急激に高まるなんてことが想像できるでしょうか。

それは、ないでしょうね。

>例えばアメリカでは、簡単な事務職はすべてインドで処理するようになっています。>インターネットのおかげで、単純な仕事は賃金の安い国で処理することが当たり前の世の中になっているのです。

そうですね。

>これからの日本の若者は、どうやって食べていくのでしょうか。

知的な人間になることが必要でしょうね。

> 極めて厳しい状況の中で、日本は生き残らなければならないのです。>今のままで放っておかれる日本の子どもたちに待っている未来は、明るいといえるのでしょうか。

新しい道を切り開く必要がありますね。これは、私達大人の責任ですね。

文部科学省の方々はもちろんのこと、それこそ産官学のトップを走る方々が総力をあげて連携し、日本の教育の大転換を図る必要があります。

何をどのように転換するのかが重要な問題ですね。

>■「なぜ」「どうして」と考えるのは人間の生存本能

そうですね。

>もちろん、簡単にできるとは思いません。

考えることは、難しいことです。英米流の高等教育が必要ですね。

>私の塾に通ってくる子どもたちでも、最初からすんなりと思考できるようになるわけではないのです。>中には、なかなかやる気にならない子どももいます。

そうですね。人様々ですからね。

>けれども、仮にやる気のない子どもがいたとして、その原因は何でしょうか。>おそらくその子は、これまでに考える楽しさ、頭を使う面白さを経験したことがないのです。

そうでしょうね。

>勉強なんてつまらないと頭から思い込んでいるのです。>そんな子どもにも可能性はあります。>その可能性を断ち切ってしまってはいけない。

そうですね。子供は、’何で・何で’ と常に大人に尋ねています。

>彼らも幼い頃には、さまざまなことに対して「なぜ?」「どうして?」と思ったに違いありません。>それは、人が人である限り、根源的に抱く疑問なのです。>あるいは生存本能に根ざしている、といっても間違いではないでしょう。

そうですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。その内容は、果てしなく展開が可能である。これは、世界観 (world view) と呼ばれるものである。人生の初めのうちは、の世界観も白紙の状態である。しかし、白紙の状態は誰しも気にかかることである。そこで、人間は ‘考える人’ になる。そして、’なぜ・どうして’ と考えて、その答えで各自の世界観を埋めて行く。これは、哲学 (考え) である。歴史に関する考えは歴史哲学、科学に関する考えは科学哲学、人生に関する考えは人生哲学、などなどとなる。だから、各人に、哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 自己の世界観に基づいて現実の内容を批判すれば、彼は批判精神の持ち主になる。
英文法には、時制というものがある。そして、英米人には、世界観がある。自己の哲学があって、批判精神がある。これが、彼らが精神的な力を発揮する原動力となっている。
日本語の文法には、時制というものがない。そして、日本人には、世界観がない。自己の哲学がなくて、現実を批判する精神がない。これが、我々日本人に関する問題です。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要があります。さすれば、我々も自己の世界観を文章にして示すことが可能になり国際的な理解を得ることも可能になります。自己の哲学に協力者を得て、未来社会の建設に着手することが可能になります。人類の進歩に大きく貢献することができるようになります。


.



鬼に金棒の国

2019-09-15 21:44:26 | 社会

我が国において、学生の暗記物の競争が激烈になるのは、それ相当の理由がある。
日本人は、思考を停止させている。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章の中で表現される。だが、日本語には、時制というものがないので、考え (非現実) の内容は表現できない。これが、思考停止の状態である。
現実の内容のみを表現すると、事の次第 (自然の成り行き) のみを語る人になる。いかにも子供じみている。
このような人は、無哲学・能天気である。これでは、格好がつかない。恰好をつけるための方策が必要である。それが、わが国の教育である。
思考停止の人間に対する教育とは、入れ知恵をすることである。徳目などを暗記物の種本として与えることになる。もちろん、本人の思考力はつかない。かくして、受け売り専門の人間が育成される。いわゆる日本型の知識人ということになる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

現実の中には、’あるべき姿’ がない。その内容は、常に千変万化している。
‘あるべき姿’ は、非現実 (考え) の中にある。だが、日本人の頭の中には、非現実の内容は入っていない。だから、現実の中で ‘あるべき姿’ を求めようと努力しています。そして、絶対に時流に流されまいと頑張っています。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」(引用終り)

全ての問題は、比較の問題になる。
AさんとBさんの比較も、A国とB国の比較も、問題にすることができる。これらは、現実同士の比較である。これらは、見ることのできる比較である。見ればわかる比較である。オリンピックゲームの成績のようなものである。誰もが認めることのできる結果である。現実の正解は、一つに限られている。序列の意義を大きく称えれば、’So, what? (それがどうした) ということになる。底の浅い見解となる。
それ以外に、日本人には問題にならない比較もある。現実と非現実の問題は、’今ある姿’ (things as they are) と ‘あるべき姿’ (things as they should be) の比較である。これが日本人の問題にならないのは、日本人には非現実の内容がないからである。日本人の判定によれば、見ることのできる内容は ’本当の事’ であり、見ることのできない内容は ‘嘘’ になる。そして、非現実の内容は嘘であり、嘘の内容は考慮の対象外になる。だから、日本人に考え(非現実) の内容はない。
しかしながら、我々日本人にとっても、非現実は実は大切な内容であります。それは、未来における我々の世界を表すことができるからです。非現実の内容は、変わらない。つまり、千変万化することはないから、時流に流されることがない。それで、我々の努力目標にすることができます。努力のむなしさを経験することがありません。
現実と非現実の比較は、批判精神と呼ばれています。世俗の上下争いでは、なかなか双方とも承服できないが、’あるべき姿’ と ‘今ある姿’ の比較なら承服できる人が多いでしょう。’あるべき姿’ の下に人々が結集すれば、離合集散を繰り返す議員の数も少なくなることでしょう。小異を残して大同につけ。(求大同、存小異) 現実に囚われすぎると、日和見主義 (機会主義) の輩になりやすい。

夢 (過去) と幻 (未来) が、この世 (現実) と共存する日本人の世界は、むなしい世界です。過去と未来を非現実の世界に入れることができれば、日本人の考えを哲学的にするのではないでしょうか。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切なことを十分深く理解することにより、自己の世界観と意思を他者に明確に伝えることが出来るものと考えられます。英米人は、日本語を話す時でも、日本人特有の閉塞感に襲われることはありません。考え方は、日本語のほかに幾らでもあるからです。我々は、彼らに倣って二刀流の使い手となり、鬼に金棒の国を作りましょう。


.




牛馬・奴隷

2019-09-14 03:51:34 | 社会

(略)
> 右向けといったらハイといって右を向き、左向けといったらハイといって左を向く。>そういう下役は、人間ではなくて牛か馬と同じです。

そうですね。日本人にアニマルにも、意思というものがない。

> 上役だけが人間、つまり一方は主人であって一方は奴隷なのです。

日本人の上役にも意思がない。しかし、上役には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。上意下達である。下位の者は、上位の者の恣意で動くのである。

>こういう関係の中では、下役はほんとうに仕事をしているとはいえないのです。> 人間と牛や馬、つまり獣(けもの)とどこが違うかといったら、人間は考えることができる、つまり、人間には創造性がある、ということです。

そうですね。非現実 (考え) の内容を文章として表現するには、文法に時制というものが必要ですね。

>この創造性ということのために、人間というものは楽しくやろうとしているわけです。>それを、上役だけが人間で、下役は牛か馬だから、お前たちは何も考えなくていいのだ、おれのいうとおりにすればいいのだ、というふうにもしやったとするならば、下役はこの創造性のはけ口を、どこかに探すに決まっています。>それがレジャーであったり、あるいは娯楽であったりするわけです。

そうですね。

> 何も娯楽やレジャーが悪いといっているわけではありません。> 仕事の中で抑えつけられるからそっちへ逃げるというのはどんなものだろうかといいたいのです。

そうですね。だが、仕方のない状態ですね。

> 勤め先で、いろいろ仕事の話をしてもシーンとしている人が、ひとたびマージャンとかあるいは魚釣りの話になったら、まるっきり人間が変わったようにイキイキとしてくるなどというのは、明らかにその人は仕事の上で考える余地を与えられていない証拠です。>つまり、牛馬扱いをされているわけです。>ところが、それでいいではないか、創造性を仕事のうえで発揮しないでも、レジャーで発揮したっていいじゃないか、という人があります。>その人は、仕事の報酬、つまり給料というものを、我慢をして仕事をするから、その償いとしてもらっているのだという考え方をしているのではないでしょうか。

そうでしょうね。だから、日本人は、’頑張って’、’ご苦労様’ と言い続けているのでしょう。

>つまり、仕事というものはおもしろくないものだ、いわれるとおりに動ていればいいんだと、そういうことになってくるわけです。> 私が東芝におりますときに、ある重役から「どうだい仕事おもしろいか」といわれました。>私は「ハァ、もうおもしろくておもしろくて、研究を三度の飯より楽しくやっております」とこう答えましたら、 「そうか、そんなら給料はいらんな」ここにも、仕事というものはおもしろくないものだという前提があるわけです。>それはとりもなおさず、考えること、創造性というものを認めていないということなのです。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。それぞれの世界は、はじめは白紙の状態である。しかし、白紙の状態は、誰しも気になることである。そこで、人間は、めいめいに ‘考える人’ になる。自分自身の手で、その空白を埋めて行く。三世界の内容は、何処までも展開が可能である。これは、世界観 (world view) と呼ばれているものである。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主ということになる。
英文法には、時制というものがあり、英米人には、世界観がある。だから、批判精神もある。
日本語文法には、時制がなく、日本人には、世界観がない。だから、批判精神もなく、時流に流されている。
非現実の内容を現実の内容にすることができれば、それは創造である。現実の内容を現実の内容として再現すれば、それは模倣である。特亜三国 (日本・中国・韓国) の民は、模倣が得意で、創造が苦手である。

>それから、レジャーというようなものでは肝心かなめのもうひとつのものが抜けています。>それは人間の社会性から来ている、喜ばれたい、という本性です。

そうですね。

> 人間は一人で生きているわけではありません。>このごろマイホーム主義とかいいますが、つまりこれは、奥さんがあり、子供があって、子供に喜ばれたい、奥さんに喜ばれたいと思って、一生懸家庭をつくっているわけなのでしょう。>ましてやそれが家庭ではなくて、勤め先の一緒に仕事をしている仲間、あるいはそのまわりの組織、あるいは国家、あるいは人類というようにだんだんひろがってきたらどうでしょう。

そうですね。しかし、日本人には世界観がないから、マスタープラン、グランド・デザインのような構想は、想定外となりがちですね。目先・手先の事柄に、とかく注意が集中しがちです。

> 結局、その喜ばれる範囲はちがうかもしれないけれども、要するに人間は、その本性として喜ばれたいという気持ちがあるのです。

それは、有りますね。

(略)
>このように、働きたい、考えたい、喜ばれたい、人間性はこういうところにあります。>これを生かしてやれば、意欲というものはますます強くなっていきます。>それを手足をくくってしまって自由を与えないでおいて、そして責任を果たせ、責任をとれといっているのは、いいことではないのです。

そうですね。自由とは、意思の自由のことである。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものが無い。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
意思の無い人には、責任がない。これはちょうど死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも、殺人罪に問われることはない。彼らには、殺意というものがないからである。意思の無い人 (日本人) には、加害者意識というものがない。罪の意識もない。だから、とかくこの世は無責任になる。

> 『石橋を叩けば渡れない。』生産性出版
(略)
> 創造力を発揮して、人を喜ばせる生き方を目ざしたい。

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に深く理解する必要がありますね。さすれば、我々は、自己の世界観と意思を文章にして広く世界に示すことができます。我々の考え (非現実) に国際的な賛同を得て、未来社会の建設に着手することが可能です。英米人は日本語を話していても、日本人特有の閉塞感に襲われることはありません。考え方は、いくらでもあるからです。現実の内容には、正解が一つしかない。しかし、非現実の内容には、正解が多数ある。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、人それぞれである。正解は無数にある。



.





意思と責任

2019-09-11 06:02:54 | 政治

問題を解決する時には、その方法が必要である。
そして、その方法は、意思のあるところにある。Where there’s a will, there’s a way.
ところが、日本人には、意思がない。
意思は、未来時制の文章内容である。そして、その未来時制は、文法の ’時制’ (tense) の中にある。英文法には、時制があって、日本語文法には、時制というものがない。だから、英米人には意思があり、日本人には、意思がない。その違いには、歴然としたものがある。
解決すべき問題が起こった時にも、日本人は注意力を ‘意思’ の内容に集中させることができない。そして、解決が遅れる。悪い場合には、自滅を余儀なくされることもある。
意思と解決法に関する例を下に三つ掲げます。

A ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) 

意思のある人には、責任がある。ところが、意思の無い日本人にも、’責任’ という言葉はある。解決方法も持たない人たちの間を ‘責任’ という言葉が独り歩きをする。言葉を持たないアニマルにその責任を問うようなものになる。そこには、牛馬の苦しみがある。だから、日本人にとって、’責任’ という言葉は、恐ろしい。

B 肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

思考を停止している人間には、上からの入れ知恵が必要になる。上から言われたことをただひたすらに繰り返して事の成否にかかわらず自己満足するのが日本人の習わしになっている。

C <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、言語における ‘時制’ の重要さを十分に深く理解しなくてはならない。
英米人は、日本語を話しても日本人特有の閉塞感に襲われることはない。彼らには、考え方は他にも幾らでもあるからへこたれることはない。
我々もこうした英米人のやり方に従って言葉を整えれば、自己の意思と世界観を表現することが可能になる。さすれば、外国人からも信頼され、自己の狙いにも賛同者が得られる。国際的に協力者を得て未来社会の建設に着手すれば、人類の進歩に多大な貢献できます。



.