カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
・> 、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。(引用終り)
合憲であるとよいと思うときには、現実は合憲に見えてくる。勝ち戦がよいと思うときには、現実は勝ち戦に見えてくる。一念で、そうあるべき “リアリィティ”は見えてくる。大本営発表のようなものか。便利な頭脳だな。
これで、心情的なイメージに合わせた世界が構築できるのか。それとも、矛盾に足元をすくわれて挫折するのか。
・> 、、、、、 西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。(引用終り)
任意の考えとは、恣意 (私意・我がまま・身勝手)のことか。日本人には意思が無いので、恣意が出る。滅私による対処はむずかしい。
・> 事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。(引用終り)
センテンスがあれば意味もある。矛盾があればこれを文中に指摘して淘汰も可能である。その考えは哲学に成る。
センテンスが無ければ意味もない。矛盾があっても指摘できない。バラバラな単語によりできた出鱈目は空想・妄想・幻想になって生き続け淘汰できない。
・> ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
センテンスが無ければ、意味もない。矛盾を指摘することもできない。そこで、勝手な解釈が横行する。結果的に矛盾を育むことになる。安倍首相は哲学者になれるか。日本人は、考える人になれるのか。
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