>ダイヤモンド・オンライン >【東大・京大や早慶、MARCH…】名門大学でしか得られない「学歴」を超えた「本当の価値」とは >びーやまの意見・ >20時間・
>「大学受験」は10代における最大のイベントです。
>残念な側面でもありますが、いい大学にいけば、なりたい職業になれる確率は上がり、将来の選択肢は増えるのが現在の日本です。
>それほどまでに大学受験の持つインパクトは大きくなっています。
>そんな難しい時代でも「自分らしい大学進学」をするために書籍:『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』が発売されました。
>本書は、きれいごとを抜きにして、「大学受験とはどういうものなのか」「人生とはどういうものなのか」を考えることができる受験の決定版です。
>本記事では発刊を記念して本文の一部を抜粋・再編集してお届けします。
>「大学に進学する意味」はなんなのか
>「大学に進学する意味」について、僕なりに考えていることをお話ししたいと思います。
> 結論から言うと、大学は「自分よりすごい人に出会うため」に行くものだと僕は思っています。
そうですね。日常とは違った人々に会えますね。
> 難関大学や名門大学にはすごい人がたくさんいます。
>「単純に勉強ができる人」「とんでもなく人望があって誰からも愛される人」「一見地味なのに個性的な一芸に秀でている人」「苦手なことに挑み続けて成長しようとする人」など、本当にさまざまです。
> 自分がこれまでいた狭い地元のコミュニティとは違い、日本中から、いや世界中から個性を持った人が同級生として集まってきます。
>これほど刺激的な空間はありません。
> そんな空間で、好きなことに熱中し、ときに失敗し、自分を磨くことができたらどれほど幸せなことでしょうか。
> 僕は大学以上に多様性のある場所はないと思っています。
>なぜなら、会社は面接がありますから会社に合わない人は入社できませんが、大学は入試の点数さえよければ来るものを拒みません。
>入学の条件が本当に公平なのです。
それは没個性の序列争いになっていますね。
> 僕は早稲田に入って、自分よりすごい人をたくさん見てきました。
>その度に刺激を受け、新しい自分に出会うことができました。
>僕が自分のことを「優秀だぞ!」とうぬぼれずにいられたのも、自分よりも優秀な人がたくさんいたからです。
> 受験生の皆さんも大学に入学したあとのことを想像してみてください。
>いろいろなバックボーンを持った優秀な人材から刺激を受けることができたら、人としてものすごく成長できそうですよね。
> 東大・京大や早慶、MARCHをはじめ、日本の大学には皆さんの想像を超えたすごい人たちがたくさんいます。
>それは同じ学生だけでなく、教授がすごかったりすることもあります。
>いずれにしても本当にいい刺激ばかりです。
>そしていい大学にいけばいくほど、そういった人たちに出会える確率は当然上がります。
>大学で「人として」成長する
> 僕は学歴が好きですし、学歴を肯定しています。
>しかし、学歴のためだけに大学に行ったのかと言われると、決してそんなことはありません。
> 学歴は幸せになる一要素としてはたしかに存在しますが、学歴があれば幸せになれるわけでもありません。
> ですから、僕としては、「学歴」と「経験」の二兎を全力で皆さんに追いかけてほしいと思います。
> 大学受験は大変なイベントであるがゆえに、入学後に燃え尽きてしまうことが多々あります。
>ですが、皆さんの大学入学はスタートラインでしかありません。
> それは、「気を抜くな」という意味ではなく、これからも皆さんのペースで勉強を続けてほしいという意味です。
> この「勉強」とは、これまでの受験勉強のように決められた科目があるものではありません。
>もっと広い意味での勉強です。
>授業を通して学べることも、部活やサークルで学べることも、アルバイトで学べることもすべて皆さんの力になっていきます。
>なにごとも勉強だと思って楽しんでください。
> また、大学生になると誰からも「勉強しろ」と言われなくなりますから、そこは自分でうまくモチベーションを保ちながらコントロールしてみてください。
>受験を乗り越えた皆さんならきっとできるはずです。
>「今がまさに受験生だ!」という人は、大学生になった自分の姿をイメージしながら勉強を続けていきましょう。
>皆さんのイメージが具体的であればあるほど、勉強がツラいときの起爆剤となります。
> 大学にいる「すごい人たち」から皆さんが刺激を受けれるように。
>そして、皆さん自身もまわりの人に刺激を与えられるように。
>頑張っていきましょう。
>びーやま[著]
>教育痛快バラエティ番組・YouTube『wakatte.TV』のツッコミ担当。
>早稲田大学教育学部卒。
>高校時代の偏差値は37だったが、1年間の浪人を経て早稲田大学に入学。
>大学時代は起業・自主退学・復学など、さまざまな経験をしたのち、大学受験のすばらしさに気づき現在に至る。
>甘いルックスと鋭いツッコミ(たまにポンコツ)で視聴者の心を掴んでいる。
>決め台詞は学歴モンスターの相方・高田ふーみんを制止する「ヤメロオマエ」。
>高田ふーみん[協力]
>教育痛快バラエティ番組・YouTube『wakatte.TV』にて「学歴至上主義」を貫く学歴モンスター。
>京都大学経済学部中退(現役合格)。
>学歴を絶対の価値基準とする偏った思想を持つヒール役として受験生や大学生を中心に人気を博している。
>決め台詞は「Fランやないか」。
子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。
英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。
英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。
子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。
英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。
未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。
自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。
それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。
深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。
事故の原因究明がうやむやにはできない様な心構えになる。
魂の救済を必要とする人も出て来る。
贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。
こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。
だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。
日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。
日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。
だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。
嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。
難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。
世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。
「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)
日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。
日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。
ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。
日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。
‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。
指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供と違う所である。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。
「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー)
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
日本人の無哲学・能天気はついに国際的にも知られるようになったようですね。
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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