>橋下徹氏 安倍氏の国葬に「国家の背骨の議論」が必要とし日本での国葬に「陛下のお言葉は必要」と私見 > スポーツニッポン新聞社 2022/09/30 19:03
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> 元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏(53)が30日、MBSの情報生番組「よんチャンTV」(月~金曜後3・40)に出演。 >27日に実施された安倍晋三元首相の国葬について持論を述べた。
> 橋下氏は菅義偉前首相の安倍氏への弔辞に「号泣しちゃった。
>心のこもったあいさつ」としつつも「今回の国葬の議論は国会の議決を取らなかった、税金を使ったという議論もあるけど、もっと奥深い国家の背骨の議論になると思う」と問題提起した。
そうですね。政治には政治哲学が必要ですね。政治哲学は国家の背骨に相当しますね。
我が国民は思考を停止しているから、無哲学・能天気になっています。ノンポリ・政治音痴では問題喚起は難しいですね。
> 橋下氏は「国葬は国家が特定の人物をまつる。 >それは民主国家だと嫌だという意見もあります。
そうですね。政治に個人崇拝が這いこむのを恐れているからでしょうね。
>国葬反対派はそれでいいんですよ。
人人により考えは違いますからね。
>国家が特定の人物の死を悼みまつるのはダメだと。 >民主主義の国ではダメだと考え方もある」と反対派の意見に理解を示した。
そうですね。
> その上で「国に貢献した人の死を国をあげて悼む。
それは国にとって大切なことですね。
>それから国の責任で命を奪ってしまった人、戦没者ですよ。 >そういう人たちは国をあげて死を悼む。
そうですね。国には、自己の危険を顧みず国を護る意思を示した戦死者の勇気を称える義務がありますね。
>僕はこれは国家の背骨として必要だと思う」と自身は国のために貢献した人に対して「国葬」を行うことは必要と持論を述べた。
そうですね。政治家には政治哲学が必要ですね。国には国を守る意思を持つ個人が何よりも大切ですね。
ところが、日本人には意思がない。個人の意思を追悼することが難しい。
死者の意思を称えるのではなくて、単に死者をともらう儀式にならざるを得ません。すると、祖先供養、ウナギ供養、針供養となって世俗風な行事に変身します。
> そして「アメリカでもヨーロッパでもどこの先進諸国でも皆それをやっているわけなんですよ」と指摘。
先進諸国は政治哲学のある国ですね。’あるべき姿’ の内容に実現の自己の意思を示した人々は高く評価されていますね。
>「しかし、日本は第二次世界大戦で軍国主義への復活を阻止しようと、国家をあげて特定人物をまつるということは全部禁止になった。 >77年間それをやってこなかった。
何時もながら日本人の見方は序列競争 (出世争い) としての見方ですからね。危険極まりないですね。
>特定の人物を国をあげて悼むことをやらなかった中で、一気に雰囲気で(安倍氏の)国葬だってやってしまったものだから象徴天皇制の国で国葬ってどういうものなんだと」と日本において国葬とはどういうものか議論が進まないまま、実施が決まってしまったとした。
そうですね。気分・雰囲気に囚われて立ち上がる国民には、政治哲学がないですね。だから、問答無用でやるしかない。
> 安倍氏の国葬には天皇、皇后両陛下と上皇ご夫妻は参列せず、使者として送った侍従が拝礼したが、橋下氏は「戦没者追悼式は陛下のお言葉が出るんですよ。
>それが国の儀式としての国葬なんじゃないかと」と国葬のあり方について語り「もちろん陛下がお言葉を述べるってことは他の葬儀では慣例上ないのかもしれないけど、象徴天皇制の日本での国葬ということでは僕は陛下のお言葉は必要と思っている」と語った。
そうですね。国のあるべき姿には陛下のお言葉は必要ですね。
> 「国葬の反対、賛成も細かな手続き論でなく国家として特定の人物の死を悼みまつるということはどうするの?って議論がなかったから、僕は今回、国葬は反対」とした。
そうですね。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止している人は、つかみどころのない人間になる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。
私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。
政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。
我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。
孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
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