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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

歴史修正主義 2/2

2020-08-26 16:30:31 | 文化

 

>さらに言えば、彼らの不満は、「モノを言う弱者」と彼らが勝手に思い込んできた人たちから厳しく責め立てられることで、さらに強いいら立ちや恐れ、感情的な反発を呼び起こしてきたようにみえます。>「嫌韓」本は世にはびこりますが、「鬼畜米英」本はまず見当たりません(ここには、加害と被害の過去が同居する、日本の「戦後」が抱えたもう1つのこじれた現実も投影されています)。 

 

日本人は韓国を嫌い、米英を好んでいますね。’鬼畜大好き’ ですね。  

 

> 思い起こせば、こうした現象が人口に膾炙(かいしゃ)した1990年代後半、日本は「失われた10年(否、20年、30年!)」の入り口に立っていました。>バブルがはじけ、政治は不安定を極め、就職氷河期と言われ、社会のレベルでも個人のレベルでも、徹底的に自尊心が傷つけられた時期でした。  

 

そうですね。わが国から成功物語が遠のいてしまった時ですね。

 

>そんなとき、〈自分は悪くない、責めるな〉〈日本は悪くない、誇りを持て〉といった文句は、たしかに慰めのメッセージに聞こえたのではないでしょうか。 >ときに痛快に響いたことでしょう。 

 

そうですね。落ち込んでいるときには、慰めが必要ですからね。  

 

>しかも、一面で責任論をめぐる国際社会のダブルスタンダードを突いていたのはたしかであって、曲がりなりにも論理を装うことができました。>もっともらしく聞こえたことでしょう。 

 

対症療法ですね。いずれ麻酔はさめることでしょう。  

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。(p.54)

、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 

西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)  

 

>■現代史の大きな流れの中で歴史問題を捉える

> さて、私がここで述べてきたのは、歴史研究の基本から得られる見方でした。 >身の回りで起きている特定の現象の意味や性格を、より大きな歴史的文脈に位置づけて読み解く、世界史のリテラシーです。 >現代史の大きな流れの中で今日の歴史問題を捉えれば、焦点はつねに加害の歴史にあることが、実に明確な姿となって浮かび上がってきます。 >そうした加害の歴史に、どう向き合うのか――。  

 

何よりも事実を求めるべきですね。それには、過去の人達の責任をその子孫に復讐しないことが必要ですね。博物館に略奪品の山を見ても、それを我が方に取り返そうと思わないことです。さすれば、過去の加害の事実は公に認められやすくなるでしょう。これが真実を求める人類の知恵というものだと思いますよ。    

 

> 少なくとも、そういう問題の所在をきちんと押さえておけば、思慮と分別を持ち合わせたふつうの“大人”――年齢や立場ではなく、社会的責任を担うと自覚のある人という意味で――たちが、歴史修正主義者が弄する詭弁に惑わされ、足をすくわれることはなかろうと思うのです。

 

そうですね。事実を求める人たちの世の中には徳政令 (借金の棒引き) が必要ではないでしょうか。過去の加害事実を明らかにして、その事実を恨まない事。これで歴史への勉強のみちが開けます。  

日本人には非現実 (考え) の内容がありません。ですから、’現実 vs 現実’ の比較しかできません。すると、’上と見るか・下と見るか’ の議論になって序列人間は熱中することになります。上下判断に嵌って身動きが取れません。世界の動きから取り残されることになりかねません。ですから、我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、考えの幅を広くすることが必要ではないでしょうか。具体的には、序列メンタリティから脱して、自己の意思と自己の世界観を得ることが必要です。さすれば、その発想の転換は自分自身を救うこともできるし、世界平和にも更なる貢献ができるようになると思いますね。  

 

 

 

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歴史修正主義 1/2

2020-08-26 15:54:34 | 文化

 

>359586 いま世界で「歴史問題」が炎上している理由  >匿名希望           20/08/25 AM10  >植民地主義忘却の世界史とグローバル化の背景リンク

>■日韓で炎上する歴史問題

> 日本には、戦争や植民地支配の責任問題はもう解決したと見る風潮がありますが、そんな理屈は韓国には通じません。>国家間の事情で過去を「解決済み」と処理したところで、被害や苦しみを受けた人々の記憶や事実それ自体は、決して消え失せることはないからです。 

 

そうですね。政治指導者と被害者とでは、考えが一致しませんからね。  

 

>そう遠くない昔に、日本はアジアを侵略し、植民地支配を行いました。 >その過去をめぐる「歴史認識」の違い、そこにあった加害の事実を否認する歴史修正主義の問題です。 

 

わが国の安倍内閣は歴史修正主義の実現を狙っているのではないでしょうか。  

 

>その根底にあるのは、〈足を踏んだ側はすぐ忘れるが、踏まれた側は忘れない〉という、私たちの誰もが抱くはずの、ごく当たり前の心情です。  

 

イングランドとアイルランドの関係が世界で最も有名ですね。   

 

> 歴史問題は、ほかにも世界の至るところで起こっています。>なかでも、7つの海を股にかけた大帝国を建設し、第2次世界大戦の戦勝国にして戦争責任の追及を免れたイギリスは、多くの歴史問題を抱えてきました。  

 

そうですね。イギリス人は、親から受け継いだ大きなお荷物がありますね。   

 

>イギリスは、戦争と植民地支配はもとより、奴隷貿易の時代にまでさかのぼり、およそ近代史上あらゆる類の加害の歴史に深く、そして長く関与してきた国です。 

 

そうですね。大英帝国には、やくざの繁栄のような感じのするものがありますね。

 

>■植民地主義の“忘却”から“記憶の回復”へ

> このように、世界で歴史問題が争点と化しているわけですが、ひと昔前までは、状況はずいぶんと違いました。 >冷戦の時代、国際社会は植民地主義に代表される他国・他民族支配に伴う加害事実や不正義を過度に追及することには後ろ向きでした。 

 

国際共産主義に対する各国の足並みをそろえることが主眼でしたね。  

 

>むしろ、問題含みの植民地支配責任問題などは棚上げにして、国家間のバランスを保つことに気を配ってきたと言えます。>さながら「植民地主義忘却の世界史」です。  

 

そうですね。実力主義の時代でしたね。   

 

>ところが、冷戦の崩壊が大きな契機となって、時代は大きく変わり始めます。 >このとき、普遍的な人権観念を論じる契機が生まれ、他方で旧植民地・途上国で民主化が着実に進展し、経済的にも政治的にも、その国際的立場を向上させていました。 

 

今世界は、‘衣食足りて礼節を知る’ 時代に入りつつありますね。    

 

>そうした変化の中で、歴史に虐げられてきた人々が、自分たちの“記憶”を取り戻そうとする動きが生まれてきたのです。>それでも、植民地主義の加害事実に向き合う試みは、現実には多くの困難を抱えています。 

 

どんなに公平な人も、自分の事については想定外になっていますからね。加害者の子孫にはしんどい課題となりましたね。    

 

>世界の歴史問題の末が物語るように、国際社会の主要国は、問題から目を背け続けています。  

 

適当な解決方法が見つからないからでしょうね。   

 

>ほうぼうから指弾された揚げ句に「遺憾の念」を表明することはあっても、植民地主義の“違法性”や加害の“罪”を認めるところまでは至らない、かたくなな姿勢を貫いています。  

 

そうですね。違法性や罪は不名誉そのものですし、謝罪すると相手から賠償を求められますからね。 

 

>■国際社会のこじれた現実を投影した日本の歴史問題

> 私たちが耳にする歴史修正主義者の言い分は、ざっくりと言えば、〈日本は戦争に負けた。だから他国からとやかく言われる。それは不公平だ。戦争だろうが植民地支配だろうが、みなやっていたではないか〉といった類いの文句です。  

 

そうですね。わが国の自業自得ですね。’負けると損’ は自明の事実ですね。       

 

>それは、〈東京裁判は不公平〉〈「慰安婦」制度などどこでもあった〉というような、「どっちもどっち」論や不平不満として表明されます。

 

そうですね。要は比較の問題ですね。現実 vs 現実の比較は ‘どっちもどっち論’ になり、きりがないですね。エンドレスになるので、やめるべきです。

現実 vs 非現実 (あるべき姿) の比較をして結論を出しましょう。この種の比較なら共に歩む道に関する合意が得られる可能性がありますね。建設的な努力になる道ですね。  

 

 

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