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道義国家と愛国心

2017-03-15 23:20:03 | 政治




>稲田氏の発言に出てくる「道義」とは、人のふみ行うべき道。
>つまり道徳と同義で、稲田氏が国会で発した「道義国家」は、安倍首相とともに憲法改正を推し進めようとしている極右団体「日本会議」の関係者がよく口に出す言葉である。

彼らは、旧来の道徳教育を好んでいますね。

>道徳を国家の軸に据えるということであり、この理念を示したのが、明治23年に発布された「教育勅語」。
>その道義・道徳を具体的に示したのが、籠池氏が言う「12の徳目」になる。

日本人は、無哲学・能天気であるから、哲学の習得は無理ですね。すると、徳目による教育をすることになりますね。
‘あるべき姿’ の世界は、個人個人でその内容を考えなくてはならないから、無哲学の日本人には難しい。
だから、個人個人が頭を働かせる必要がない方法による教育が必要になる。それが徳目の暗記する教育ということになる。

>教育勅語が説く12項目の徳目とは、親への孝養、兄弟・姉妹間の友愛、夫婦の和、友との信義、謙遜、博愛、修学、智能啓発、人格の向上、社会奉仕、順法、義勇。
>これだけなら、たしかに「何が悪いんだ」は説得力を持つ。

徳目による教育は、昔から中国で行われていましたね。’修身・斉家・治国・平天下’ と言ったように。あの方式をまねたのでしょう。

>だが、問題は12の徳目の先にある教育勅語のもっとも重要な部分――『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』――にある。簡単に言えば、≪もし国家に危険が迫れば正義と勇気の心をもって公=国家のために働き、皇室を助けよ≫ 。>現人神である天皇こそ絶対。

日本人の考えには、序列があって、非現実の内容がないのだから、現人神が絶対君主ということになりますね。

>進んで命を捧げよというのが戦前の国家方針だった。

上意下達ですね。上位の者の恣意に従って、下位が働くことですね。恣意には意味がないから、発言者には責任もない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>教育勅語は、「歪んだ愛国心」を育てるための“道具”だったと見るべきだろう。

そうですね。臣民を育てるための道具立てだったのでしょう。

>これは“悪い”に決まっている。

日本人には、自己の判断力がありませんからね。これは民族性でしょうね。

>だからこそ、衆参両院が教育勅語の廃止を決議しているのである(1948年=昭和23年)。

そうでしょうね。それで解決すれば問題はないのでしょうね。

>稲田氏も籠池氏も、目指しているのは愛国心に裏打ちされた道義国家。

愛国心は、悪党の最後の隠れ家となるので、気をつけなくてはいけませんね。

>両人を含め安倍首相や日本会議は、愛国心の醸成こそが「教育」だと信じている。

危険思想の持ち主とでも言うのでしょうかね。無哲学だから、結局そういうことになるのでしょう。

>理想としているが、戦前の日本の姿であることは言うまでもない。

徳目に頼らなければ教育ができないと、固く信じているところが問題ですね。

>教育勅語の理念が戦前の日本をどれだけ歪めたのか――。

日本語による思考ですからね。戦前・戦後はあまり変わっていませんね。理性の教育がありません。

>理解していないとすれば、彼らに政治や教育を語る資格はあるまい。

日本語脳で英語脳の内容を理解することは、難しいですね。
哲学の勉強と、政治哲学が必要ですね。徳目教育と政治音痴は廃止すべきですね。

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徳目による教育:  与えられた徳目を暗記する。異口同音を教育の目的とし、成果とする。没個性的。一人ひとりで考える必要はない。だから、個人固有の力を発揮できない。個人主義ない社会の教育である。一億総玉砕・一億総懺悔の危険がある。

哲学: 一人ひとりで考える。個人の考えを擁護する習慣が必要である。非現実 (考え) の内容で個人が相互に団結し、未来社会の建設を実現する。世界観を必要とする。

特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には時制がない。だから、非現実 (考え) の内容を文章化できない。世界観が持てない。非現実の内容を基として未来社会の建設ための団結が出来ない。民は ‘考える人’ になれない。付和雷同して、過ちを繰り返す。


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不適切であっても

2017-03-15 14:28:51 | 政治
処世術は、この世 (現実) の内容からなっている。今だけ、金だけ、自分だけの内容で、利己主義である。だが、個人間の利害対立により団結できない。
職業には貴賤がないが、人生には貴賤がある。処世術にたけた人間の行為は、不適切であっても、違法性がない。法の網の目を潜り抜ける方法にたけているからである。これは天皇の行為の真逆であって、純粋な人間の行為とは言えない。処世術の方向は、純粋の逆を向いているので、その達人は純粋でなく、処世術の追究には行き止まりがある。我々は、この世の心配りだけでは、精神的に閉塞する。
哲学は、非現実の内容からなっている。個人個人で内容が違うから、個人主義が必要である。世界観に基づく個人意見には、個人判断があるので価値が有る。永遠の内容を達成するために、利己の壁を越えて大勢の人が団結できる。’今だけ’ ではなくて、’永遠に’ である。’金だけ’ ではなくて、’目的の為に’ 金が必要になるのである。’自分だけ’ ではなくて、’万人のため’ である。
現実のみを知る人間は、哲学ができない。非現実の内容を受け入れる余地が脳裏にないから、無哲学・能天気でいる人間は英米の高等教育を受けると挫折する。留学にも魅力を感じない。目先・手先の判断ばかりで、究極の理解には無関心でいる。これでは、人を感心させるには至らない。力の結集もおぼつかない。自分だけに戻ってしまう。
我々日本人は英語をも勉強して、非現実の内容をも考えられるようにしよう。そして、世界に向かってこころを開こう。



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