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特殊相対論、ホーキング放射、ダークマター、ブラックホールなど

・時間について特殊相対論からの考察
・プランクスケールの原始ブラックホールがダークマターの正体であるという主張
 

その5・アインシュタイン コンベンション(規定)

2025-05-23 03:21:38 | 日記

アインシュタインの相対論は何と言っても相対性原理をベースにしています。

そうしてそれは「エーテルの否定から始まる相対性原理」でありますから「客観的な静止系の存在は認めない」のです。

さてそうであればそこから出てくる結論は「全ての慣性系は物理的に同等である」となります。

ちなみに特殊相対論は「慣性系の成立を前提としていて」そこでは「静止系」と「運動系」が議論の上では区別されています。

しかしながらその区別は単に形式上、あるいは名目上のものとアインシュタインは見なしています。

なんとなれば「特殊相対論のよってたつ一番目の原理は全ての慣性系は物理的に同等である客観的な静止系は存在しない」であるからです。

 

さてそのようなアインシュタインでしたが当時の物理学界隈では「光速不変」という実験事実、および理論的な解析が進んでいました。

他方で相変わらずニュートン力学は力学理論として認められていたので、そこにある矛盾=「光速についてはニュートン力学で成立している速度の加法則が成立していない」という事が問題でした。

アインシュタインはその問題を解くにあたってまずは「2つの慣性系の間を結びつける変換則を新たに作らなくてはいけない」と考えました。

そうして「その為には時間についてもう一度ゼロから考え直す必要がある」としたのです。

そのあたりの事情については1905年の論文の序文の記述が参考になりますので以下に示します。

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1905年の論文の序文から以下引用: 特殊相対性理論の運動学 : http://iitakashigeru.math-academy.net/einstein2019.pdf :

『・・・上述の話と同じようないくつかの例や、“光を伝える媒質”に対する地球の相対速度を確かめようとして失敗に終わったいくつかの実験をあわせ考えるとき、力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象は全く存在しないという推論に到達する。(注1)いやむしろ次のような推論に導かれる。

どんな座標系でも、それを基準にとったとき、ニュートンの力学の方程式が成り立つ場合そのような座標系のどれから眺めても(注2)、電気力学の法則及び光学の法則は全く同じであるという推論である。この推論は一次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている。(注3)そこでこの推論(その内容をこれから“相対性原理”と呼ぶことにする)をさらに一歩推し進め、物理学の前提として取り上げよう。

またこれと一見矛盾しているように見える次の前提も導入しよう。(注4
すなわち、光は真空中を、光源の運動状態に無関係な、一つの定まった速さ C を以て伝播する主張である。

静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点とし、運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達するためには、これら二つの前提だけで十分である。

ここに、これから展開される新しい考え方によれば、特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学には不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間の中の各点について、それらの点の“絶対静止空間に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる。

このような理由から、“光エーテル”という概念を物理学に持ち込む必要のないことが理解されよう。

これから展開される理論では――他のどんな電気力学でもするように――剛体の運動学をその基礎とする。なぜならば、どのような理論でも、そこに述べられることは、剛体(座標系)及び時計と電磁的過程との間の関係に関する主張であるからである。

動いている物体の電気力学を考究しようとするとき、我々が直面するいろいろの困難はすべて、上に述べたような事柄に対して、今までに十分な考察をしなかったことがその原因である。』<--引用注:この最後の一文にアインシュタインの強い自信と自負が現れています。

原典は(1)原論文の前書き
https://archive.md/hjDby#selection-2127.0-2131.8

で読むことができます。

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特に『これから展開される理論では――他のどんな電気力学でもするように――剛体の運動学をその基礎とする。なぜならば、どのような理論でも、そこに述べられることは、剛体(座標系)及び時計と電磁的過程との間の関係に関する主張であるからである。

動いている物体の電気力学を考究しようとするとき、我々が直面するいろいろの困難はすべて、上に述べたような事柄に対して、今までに十分な考察をしなかったことがその原因である。』というアインシュタインの主張には注目すべきであります。

というのも「従来は剛体(座標系)及び時計についての考察が十分ではなかった」とアインシュタインは主張しているからです。

 

さてそのように主張したアインシュタインがまずは考察の第一歩としたのが「同時である」という事の明確化と「それを使った距離的に離れた場所にある2つの時計の時刻合わせの方法」でした。

もちろんこの「運動学の章」での目的は「新しい変換則=ローレンツ変換を見出すこと」にあります。

そうしてそれをアインシュタインは「2つの時計の時刻合わせの手順を決める」という所から始めたのです。

 

ところでこのアインシュタインが考えた「同時である」という状況はまずは「ホームに到着した列車とホームに立つ人が持っている時計の時刻」について「その2つが同時である」という所から始まります。

この状況は実は「距離がほとんどゼロの場合にはイベントA(=列車の到着)に時計の時刻を当てはめる事ができる」という主張になっています。

まあ生活実感として「列車がホームに止まった時の時刻は手に持った時計で示せる」のであれば「その主張はそれほどはおかしくは無い」のですが「実はそれでも厳密さに欠ける」とはアインシュタインのコメントです。

 

さてそれで「距離がほとんどゼロ」ならば「見て分かる」のですが問題は「距離が離れて起きたイベントAとイベントBの同時判定」です。

アインシュタインは「これがそもそもの問題の始まりである」と認識したのです。(注5

それでアインシュタインは「距離が離れた場所で起きた2つのイベントが同時であるかどうかの判定の為には、そのイベントが起きた場所にあった時計の時刻を比較すればよい」としたのです。

そうして「2つの場所の時計が示した時刻が同じであれば2つのイベントは同時に起きたと判断できるとしたのです」。

それは「同時刻である」という事は「同時である」と言う主張です。

そうしてそれがアインシュタイン流の「同時である事の定義」となりました。

つまりは「同時」と「同時刻」はアインシュタイン流の特殊相対論に於いては「お互いに相手を規定しあう関係になった」と言えます。

 

さてそれでそうなりますと次には「その距離が離れた2つの時計の時刻合わせが終わっている事が必要」となります。

そうしてアインシュタインは「2つの時計の時刻合わせ」というのは「時刻合わせが済んだ2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指している事」としたのです。

まあそうですよねえ。

「同時」と「同時刻」を「同じ事」としたのですから「そうしなくては話が通じません」。

そうしてこれは先ほどの「ホームに着いた列車の時刻の例」で示した様に「距離がほとんどゼロである2つの時計の時刻合わせの場合」については「自明の事の様に見えます」。

つまりは「並べて置かれた2つの時計の針の位置が常に同じ場所を指している状態」が確認できれば「2つの時計の時刻合わせ終了とする事」にはそれほど問題は無いように見えます。

というのも「日常生活ではそのようにして2つの時計の時刻合わせをするから」ですね。

というよりも「それ以外の方法で2つの時計の時刻合わせが出来る」などという「経験」や「その様に主張する人もいなかった」と言った方が良いでしょう。(注6

「2つの時計の針の位置をずらして時刻合わせが終了だ」という様な主張は大抵の方にとっては「非常識な主張」となります。

さてそうであれば「距離がはなれて置かれた2つの時計の時刻合わせ」であっても「2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指していればよい」とするのは一見妥当な結論の様に見えます。(注7

 

さてそれで問題は「2つの時計について常に同じ位置を時計の針が指している事」を「どうやって保証するのか?」となります。

瞬間移動の技術があれば「2つの時計を並べて合わせておいてそのあとで一つをテレポートすればよい」のですがその技術は今の地球にはありません。

そうしてまた「速度が無限大であるタキオン通信機」があれば「それは実質、距離をゼロにできる」ので「2つの時計の針の位置が合っている事はそれを使えば確認できる」のですが、その技術も今の地球にはありません。

まあそう言う訳で「いつも同じ場所を時計の針が指している事の確認には光を使うしかあるまい」と「当時も今もそうなる」のでした。

 

さてそれでこの2つの時計の時刻合わせの前提をおさらいしておきます。

まずこの2つの時計は置かれている場所は離れていますが「それぞれの場所で時計が時刻を刻む速さは同じ」となります。

さてそれはまた「その慣性系内ではどの場所でも時間の進む速さは等しい」という前提となります。

ただし表示される時刻の値がそのままでは「2つの時計の時刻があっている事は保証できない」のです。

そうなりますとこれは「情報伝達の問題」となります。

「時計Aの時刻情報を時計Bに伝えて時計Bの時刻をその情報をベースに調整する事」が「2つの時計の時刻合わせでやるべき事」なのです。

さてそうであれば「親時計Aの時刻情報を子時計Bに伝える時にどれだけの時間が必要であったか」が確定できれば「時計Aの時刻を時計Bに転写できる事になる」のです。

 

時計Aが1時を指していた時、「時計Aは今1時だ」情報を10分かかって時計Bに伝えるのであれば時計Bはその情報を受けた時に自分の時刻を「1時10分にすればよい」のです。

何となれば「その時には時計Aの時刻は1時10分になっているから」ですね。

さてそうであれば「時計Aの時刻情報を10分かかって時計Bに伝える」のがポイントであって特に『10分かかって』の部分が重要です。

この「10分かかって」の「10分」というのは「この慣性系で時間が進む速さで計っての10分」です。

そうであれば「この10分」は時計Aで計っても時計Bで計っても同じ10分となっています。

ただし注意が必要なのは「どちらか一つの時計で計って10分」という所にあります。

 

さて当然アインシュタインもその様に考えました。

しかしながらここで一つ問題が持ち上がるのです。

時計Aから時計Bまで光で情報を運ぶとして「それはいったいどれくらいの時間がかかるのか」が決められないのです。

つまりは「何分かかったのか」が分からないのです。

時計Aと時計Bの間の距離Lは物差しで測ればOKです。

で光をAからBに出す。

それでその光はどれだけかかってAからBに飛んだのか?

それは普通は「光がBに着いた時の時計Bの時刻から光がAを出た時の時計Aの時刻を引けばわかる」となります。(注8

はい、確かにそれで分かるのですがその前提は「時計Aと時計Bの時刻合わせが終わっていれば」の話です。(注9

つまりは「この話は見事に循環論になっている」のです。(注10

 

さてアインシュタインは当然その事には気が付いています。

そうして「困った」のです。

つまりは「アインシュタインがローレンツ変換を目指して登ろうとしたルートには一つの障害物があった」のです。

そうしてその対応の為に1905年にアインシュタインが導入したのが「アインシュタイン コンベンション(規定)」でした。

以下それを再掲示しますと

光がAからBに到達するのに要する”時間”は、逆にBからAに立ち戻るのに必要な”時間”に等しいという要請を定義として前提におくことである。

それから

・・・これら2つの時計は(定義により)合っている(等しい時間を表している)という事にする。

と記述されている部分です。

このコンベンションのおかげで「形式上は」あるいは「手続き上は」循環論は回避される事になりました。

そうしてこの辺りの事についてのアインシュタインの見解は次のような記事でも確かめる事ができます。

 

『相対性理論 アルベルト・アインスタイン(1911年1月16日チューリッヒの自然科学会席上の講義)石原純訳』から「時刻合わせについての話の部分」を以下、参照します。: 

https://archive.md/YDtyt#selection-165.2-165.21 :

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『この関係は時間ではどうなるでしょうか。そこでは私達はそれほどうまく行かないのを見るでしょう。

従来私達はいつもこう云うて満足していました。時間は出来事の独立変数であると、かような定義では誰れもそれに基づいて事実上存在する出来事の時間値を測ることは出来ません。

ですから私達は、その定義に基づいて時間測定が可能であるように、時間を定義するように行ってみなければなりません。

私達はある坐標系 K の原点に一つの時計(例えばゼンマイ時計)をおくとしましょう。この時計で直接にこの点ならびにそのごく近所に起っている出来事を時間的に値いづけられることが出来ます。

K の他の点で起る出来事はしかしこの時計で直接に時を定めるわけにはゆきません。K の原点には時計の傍にいる観測者が光線に依ってその出来事の報知を受けとる時刻をしるすとしますと、この時刻は出来事自身の時ではなくて、出来事から時計に達するまでの光線の伝播時間だけ出来事の時刻から遅れて[#「遅れて」は底本では「運れて」]いるのです。

もし私達が K 系に対するその方向の光の伝播速度を知っているとすれば、出来事の時刻はその時計で定めることが出来るのでしょう。

けれども光の伝播速度の測定は私達の取り扱っている時間決定の問題がすでに解かれたときにのみ可能なのです。

すなわち一定の方向における光の速度を測るためには、光線の伝わる二点 A 及び B の間の距離と、そのほか A において光を送り出した時刻ならびに B において光の到着した時刻とを測らなければならなかったでしょう。

つまり諸処での(=あちらとこちらでの)時間測定が必要であるわけですが、それは私達の求める時間の定義が既に与えられた時にのみ実行し得るのでしょう。

しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。

そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途(=道すじ) B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。<--引用注:この部分がアインシュタインが導入した規定=慣例=コンベンションになっています)

この指定のお蔭で私達は K 系に対し種々の点に静止して列べられた同じ性質の時計を実際に合わせることが出来るようになります。

例えば二点 A と B とにある時計を次のことが成り立つように合わせましょう。

A において時刻 t(A の時計で測って)に一つの光線を B に向けて送り、それが時刻 t+a(B の時計で計って)に B に到着するとしますと、逆に時刻 t(B の時計で測って)B から A の方へ送られた光線は時刻 t+a(A の時計で測って)に A に来なければなりません。

これが K 系に配置されたすべての時計を合わせるための規定なのです。

もし私達がこの規定を満足させたなら、それで私達は実測物理学者の立場から一つの時間決定を求め得たのです。

ある出来事の時刻はすなわちかように与えられた規定に従って合わされた時計のうちで、その出来事の場処にあるものの示す時に等しいのです。』

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結局の所「2つの時計を使った光速の片道測定の話」は「その2つの時計の時刻合わせの話」となりその循環論を断ち切るためにアインシュタインは

『しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。

そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途 B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。』としたのです。

そうしてその様に導入した「アインシュタイン コンベンション」については「それはアインシュタインが持っていた相対性原理の主張から出てきたものでもある」という事を示した以下の様な記事もあります。

 

以前の記事で紹介した石原 純 氏(注11)でありますが氏の著書:相対性原理: http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/IshiharaJun/relativity.pdf :から以下、引用します。

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『ところでこの場合光の速さというのは一体何に対して云われているのであるかを明かにしなければなりません。それでなければ単に速さといっても無意味になってしまいます。しかし
もうここにはエーテルも絶対空間もないのですから,光の速さもやはり絶対な意味では云われないのでしょう。

A から見ての速さは A なる観測者もしくは A 空間に対するものです。B から見ての速さはやはりB に対するものです。そこで問題は A 及び B から見た光の速さはどちらが大きくてどちらが小さいであろうか,又はそう云う差別はないであろうかと云うことです。

アインシュタインはこれを経験に先だって単に思惟によりて判断すべきものとしたのでした。彼は即ち A と Bとの相対性をどこまでも保たせようとしました。

A と B とは全く対等な二人の観測者であります。

彼等が光の速さを測りてもし相異した結果になるとすれば,それは何故であるかを答える理由を私たちは見出すことが出来ません。

相異するとすれば一方の値が大きく他が小さくなければならない訳ですが,其のいずれが大きくてもよいという理由はない筈です。

A と B とは対等である以上,この両者から見た光の速さは等しいものでなければなりません。

アインシュタインはかような論理のもとに,
「すべて一様な真空のなかで光は,互に相対的に一様に動くあらゆる観測者から見て,同一の速度をもって伝わる」
という命題に到達したのです。

絶対空間の否定とそうしてこの光速度一定の命題とが彼の相対性原理の基礎をつくっていると云ってよいのであります。 』P80

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アインシュタインは自身が主張する相対性原理から「慣性系が違っていても光速は常に同一の値1Cになる」という考えをもっていました。

さてそのように考えるアインシュタインでしたから「一つの慣性系内で地点Aから地点Bに行く時の光速と帰りの光速が違う値になる」という主張はしない様に思われます。

 

さてそれで、ここで注意しなくてはならない事は上記2つの文献で言及されている光速は実は2つのものであって、それが区別されずに読まれますと混乱が生じる、ということです。

1911年の文献での主張

『しかし一つの速度特に光の速度を測ることが、任意の指定なしには原理的に不可能であると云うならば、私達は光の伝播速度に関してなお任意な指定をなしてもよいのです。

そこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途 B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。』

で言っている「光の伝播速度」は「時計Aあるいは時計Bで光が地点Aから地点Bに行くまでの、あるいは帰りに必要となった時間間隔で地点Aと地点Bとの間の距離を割って求めた値の事」です。

つまりは「一つの時計で計った片道光速の事」です。(注12

他方で石原文献に登場する「すべて一様な真空のなかで光は,互に相対的に一様に動くあらゆる観測者から見て,同一の速度をもって伝わる」=「光速度一定の命題」で言っている光速は「光の発射地点に置かれた時計で計った往復光速の事」であるのかそれとも「2つの時計で計った光速の事」であるのか不明なのです。

しかしどうやらアインシュタインは「往復光速も2つの時計で計った片道光速も1Cになる」と解釈するのが通説の理解の様です。

さてそうであればくれぐれもこの2つを混同されません様にご注意願います。

 

注1:1905年時点で考えるならば「力学ばかりでなく電気力学においても、絶対静止という概念に対応するような現象は全く存在しない」というアインシュタインの認識は妥当であったように思われます。

そうしてそれはまた「時代がアインシュタインに与えた限界」でもありました。

というのも「現代に至りては少なからずの実験が実は『客観的な静止系は存在している』という事を示しているから」であります。

しかしながら1905年時点では「静止エーテルを支持する実験結果は皆無だった」のです。

注2:低速状態の運動ではどんな運動でも「ニュートンの力学の方程式が成り立つ」と思われるので「そのような座標系のどれから眺めても」というと「単なる等速直線運動している座標系」という範囲を超えている様に見えますが、さて?

注3:「一次の程度の正確さで、既に実験的にも証明されている」<--エーテルが存在した場合、それがいろいろな実験によって観測されるはずだ、という予想に従って相当数の確認実験が行われたが、結果は全て否定的であった。

アインシュタインはその事を言っている模様。つまり「アインシュタインはそれらの実験についてよく知っていた」のである。

注4:「なぜ矛盾するのか」といいますれば「ニュートン力学で成立している相対性原理」それはガリレイ変換の上で成立しているものですが、それによれば『光速は光源の運動の影響を受けるから』であります。

つまり「ガリレイ変換を認める」ならば「光速は不変にはならない」ので「相対性原理の成立と光速不変は両立しない」とアインシュタインは言っているのです。

注5:そうしてここではとりあえず「その様な事を言い出したのはアインシュタインが最初である」としておきましょう。

この辺りは実は議論が分かれます。ローレンツやポアンカレも「時間が問題を解く鍵である」という認識を持っていたからです。

しかしながらここはアインシュタインの通ったルートの話をしていますので、ここでは一応アインシュタインに花を持たせておく事に致します。

注6:但しポアンカレのみは「運動系に於いてはその様にして2つの時計の時刻合わせが出来るのだ」と言ったのですが、あまり人気がなかった様です。

注7:しかしながら「実はここに落とし穴があった」という事が後日になって明らかになるのですから「事実は小説よりも面白い」のです。

注8:このやり方は通常の光速の片道測定の話です。

それでここにも落とし穴があって注目すべきは「一つの時計で計らなくてはならない10分の話」がいつのまにか「2つの時計の時刻の差分の話になっている所」です。

注9:この一文で「時刻合わせの定義」をしています。

そうしてそのロジックはアインシュタインが使ったロジックそのものになっています。

注10:物理に於いて物事をより根源的に解き明かそうとすると「循環論に陥る」というのは「ありそうな話」であります。

そうして「循環輪に陥らない様な話」は「大した事が無い話」なのであります。

注11:前述したように石原氏はアインシュタインとじかに接触し言葉を交わし議論をした方です。そうであれば確かにアインシュタインが自分で語った内容ではありませんが、それに準じて信頼性が保証される内容であることは確かでありましょう。:  https://archive.md/Dkb0R  :

注12:しかしながらアインシュタインは結局の所「往復光速は何時も1Cである」を認めています。

さてそうなりますとアインシュタインのそこで私達は真空中の光の伝播速度は一点 A から一点 B へゆく途で B から A への光線の伝播速度と同じ大きさであると定めます。という内容は結局「AからBに行く時もまた逆に帰る時もその光速は1Cである」となってしまうのです。

しかもこの時に注意すべきは「この『光速が1Cである』と主張する時につかう時計は時計Aあるいは時計Bのどちらか一方の時計で計った時間間隔を基に計算した値である」と言う点です。

つまりは「我々が実際場面で光速の片道測定をする時には2つの時計を使う」のですがアインシュタインは「1つの時計を使った片道光速の値でも光速はいつも1Cとなる」と主張している事になります。

さてそれはつまりは「全ての慣性系のX軸の時間軸はNT時間軸である」という主張の別の形の表現です。

それはまた「任意の慣性系を静止系として指定する事が出来る」=「全ての慣性系は物理的に同等である」=「客観的な静止系は存在しない」という主張でもあります。

そうしてその主張こそが「ローレンツ変換が主張している内容=運動系のX軸の時間軸はBT時間軸である」と一致していない「アインシュタインの主張」なのであります。

 

追記:アインシュタインの「時計合わせの定義」は「時刻合わせが済んだ2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指している事」というものでした。

この定義は「2つの時計の間の距離がほぼゼロの場合」には「自明である」様に見えます。

そうして問題は「距離が離れた場合」ですね。

アインシュタインは「その場合でも同じである」としました。

そうしてその前提に立ってアインシュタイン コンベンションを導入して「時計合わせの手順とした」のです。

そのコンベンションとは「上がり方向と下り方向の光速は同じである」と言うものでした。

しかしながら「運動系に於いてはその前提は成り立たない」とはローレンツ変換が示している事です。

しかしながらローレンツ変換は同時に「2つの時計の時刻あわせの条件式はアインシュタイン同期式でよい」とも主張しています。

さてこれは一見すると矛盾です。

アインシュタインが「上がり方向と下り方向の光速は同じである」として導入した条件式が「上がり方向と下り方向の光速は違っていてもそのまま成立する」とローレンツ変換は言っているのです。

さてそれで、「その矛盾を解く鍵は距離が離れた場合の時刻合わせの定義」にあります。

その定義では「時刻が合っている」とは「時刻合わせが済んだ2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指している事」とされてきました。

しかしながら実際は運動系に於いては「距離が離れている場合の時刻合わせ」では「2つの時計の針はローレンツの局所時間分だけずれていなくてはいけない」のです。

そうしてその結果として運動系に於いてもアインシュタイン同期の条件式が上がり方向と下り方向の光速は違っていてもそのまま成立する」という事になっているのです。

 

追記の2:1905年の論文でアインシュタインが提示している2つの式について

一つ目はアインシュタイン同期の条件式です。それはこういうものです。

tB=(tA’-tA)/2 ・・・①式

そうしてまた光速の定義式として次の式を「経験が往復光速を教えるもの」として提示しています。

2*(距離A~B)/(tA’-tA)=1C ・・・②式

ここで(距離A~B)は2つの時計が置かれた場所の間の距離です。

光が往復した距離をかかった時間で割れば光速になる、と言う式です。

ただしこの時の往復時間は時計Aで測定となります。(②式ではそうなっています。)

さてそれで②式から

2*(距離A~B)=(tA’-tA)*1C

従って

2*(距離A~B)/1C=(tA’-tA)

これを①式に代入すると

tB=(tA’-tA)/2

=2*(距離A~B)/1C/2

=(距離A~B)/1C

はい、何の事は無い1905年の論文でアインシュタインが主張している事は

時計Bの時刻は2つの時計の間の距離を光速で割った値でよい

と言っているだけなのであります。

もちろん時計Aを光がでた時刻がtAですから光が時計Bに届いた時刻tBは

tB=tA+(距離A~B)/1C ・・・③

となるのです。

さてこの式は結局の所「2つの時計を使った片道光速の測定ではその値は常に1Cとなる」といっている事になります。

というのも③式を変形すると

tBーtA=(距離A~B)/1C

ひっくり返して

1/(tBーtA)=1C/(距離A~B)

従って

(距離A~B)/(tBーtA)=1C

さてそうであれば結局の所アインシュタインは「2つの時計で計った片道光速は(実際の上り光速あるいは下り光速の値とは関係なく)常に1Cである」と主張している事になるのです。

そうしてその主張にはローレンツ変換も「その通りである」と同意するのです。

しかしながらその同意には「距離が離れた場合の時刻合わせの(暗黙の)定義の変更」が必要です。

変更された定義では運動系に於いては「時刻が合っている」とは「時刻合わせが済んだ2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指している事」ではなくて「2つの時計の針はローレンツの局所時間分だけ常にずれている事」となるのです。(注11

さてそうであれば1905年のアインシュタインの論文では「明示はされていません」が「暗黙の了解」として「距離が離れた場合の時刻合わせの定義」=「時刻合わせが済んだ2つの時計の針の位置は常に同じ場所を指している事」が前提となっています。

しかしながら「その定義が実際は運動系に於いては成立していなかった」というのが「アインシュタインが犯したミス」という事になります。

そうしてその事はそのまま「運動系においては同時=同時刻は成立していない」という事にもなるのです。

ちなみに「時計の時刻合わせについてのその様な概念的なミスがあった」にもかかわらず「アインシュタイン同期の条件式が運動系でもそのまま使える」というのは驚くべき事の様に思えます。

 

注11:但し静止系に於いてはローレンツの局所時間分はゼロとなりますので「静止系での時刻合わせの定義は従来通りでよい」となります。

しかしながら時刻合わせの定義として「2つの時計の針はローレンツの局所時間分だけ常にずれている事」を使いますと「静止系、運動系の区別なく一つの時刻合わせの定義でOK」となるのです。

さてそうであればこそ「動き回っている地球上での時刻合わせ」については「2つの時計で計った光速が1CとなっていればそれでOK」となるのです。

なんとなれば「それでローレンツの局所時間分だけズレる必要がある場合は自動的にズレている事になるから」です。

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「相対論・ダークマターの事など 記事一覧」

「その2:ダークマター・相対論の事など 記事一覧」

https://archive.md/us5bq


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