アーカイブ  勝田元死刑囚と刑事 取調室の1年3カ月

2008-08-02 | 死刑/重刑/生命犯

毎日新聞 2008年4月30日 地方版(中部)
明日への伝言:
昭和のあの日から 勝田元死刑囚と刑事 取調室の1年3カ月
 ◇償いの心生んだ経本
 1983年1月31日。名古屋市千種区で警察官から奪った拳銃を使い、昭和区の銀行駐車場で強盗しようとした男が逮捕された。当時の愛知県警捜査1課強行班係長、山崎蔵(おさむ)さん(76)=岐阜県多治見市=が、対面した男の顔から読み取ったのは、凶悪犯に特有の「陰影」だったという。本格的な取り調べを始めて6日目、男が認めた殺人は8件に上った。警察庁指定「113号事件」の犯人、勝田清孝・元死刑囚と山崎さんの取調室での「対決」は、それから1年3カ月にわたって続く。
 京都府出身の勝田元死刑囚が最初の殺しに手を染めたのは72年9月。京都市山科区のアパートでホステスを殺害して現金1000円を奪った。その後、▽77年8月までに大阪府と名古屋市で女性を狙った強盗殺人4件▽77年12月と80年7月に神戸市と名古屋市で改造猟銃による強盗殺人2件▽82年10月に滋賀県で警察官から奪った拳銃による殺人1件を起こした。優秀な消防士でもあった勝田元死刑囚が戦後犯罪史に名をとどめた動機は何か。88年の名古屋高裁判決は「虚飾に満ちた愛人との生活を維持するために大金の入手を図った」と指摘した。
 取り調べは県警本部で休まず続けられ、83年も残り2日となっていた。勝田元死刑囚が「山崎さんにも家族がおるだろう。暮れと正月くらい休んでくれ」と声をかけてきた。「被害者と遺族に恨まれるのは仕方ないが、刑事さんの家族にまで恨まれたら立つ瀬がない」
 山崎さんが「ばかやろう、休んどれるか」と答えると、勝田元死刑囚は立会人を務める山崎さんの部下を見やってさらに言った。「部下のことも考えろ」。この言葉に応じる気になった山崎さんに、勝田元死刑囚は本の差し入れを求めた。山崎さんが渡した中の一冊は「般若心経」だった。
 短い年末年始を家族と過ごし、取調室に戻った山崎さんに、勝田元死刑囚は「紙をくれ」と頼んだ。渡した紙と筆で、勝田元死刑囚が経本も見ずに般若心経をすらすらと書くのを見て、山崎さんはその記憶力に舌を巻いた。「初めて経文を読んだが、よく分かった。自分は消防士として『右手』で人の命を助け、『左手』で人をあやめた。こんな人間にお釈迦(しゃか)様は何て言うだろう」。名古屋拘置所に移監された勝田元死刑囚が写経の傍ら、「せめてもの償いに」と始めたのは点訳奉仕だった。
 公判で弁護側は「死刑は執行法を明確に定めた法律がなく執行に根拠がない」と死刑判決違憲論を展開した。だが高裁は「わが国犯罪史上にも類例を見ない残虐非道な犯行であり、極刑をもって臨むしかない」と1審・名古屋地裁に続いて死刑を言い渡した。
 山崎さんはこの控訴審に証人として出廷した。警察官としては異例な弁護側の情状証人だった。法廷で、勝田元死刑囚と般若心経の出会いを証言した。
 山崎さんは「刑事は法の執行者。死刑が法で定められている以上、死刑に相当する犯罪には死刑判決が下されるよう捜査しなければならない」と言う。一方で「罪は憎んでも人を憎んではいけない。勝田(元死刑囚)が人として出廷を求めるなら、人として対応したかった」と振り返る。
 最高裁で勝田元死刑囚の死刑が確定したのは94年。執行は00年11月30日。拘置中に養子縁組し藤原に姓を変えていた。52歳だった。
 現在、刑の厳罰化の流れが強まっているとされる。一方で、死刑の是非を巡る論議も尽きない。【永海俊】
==============
毎日新聞 2008年4月30日 地方版
 明日への伝言 アーカイブ
 ・5月14日 昭和のあの日から 博物館・明治村 構想25年、ある建築家の悲願
 ・4月30日 昭和のあの日から 勝田元死刑囚と刑事 取調室の1年3カ月


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。