松本智津夫の「遺骨」はどこへ…? 骨から社会の変化が見えてくる 葬法は時代を映す鏡である 2018/7/23 岡本亮輔

2018-07-23 | 文化 思索

2018/07/23 現代ビジネス メディア・マスコミ 不正・事件・犯罪 宗教
松本智津夫の「遺骨」はどこへ…? 骨から社会の変化が見えてくる 葬法は時代を映す鏡である
 岡本 亮輔 北海道大学准教授
 松本智津夫元死刑囚の遺骨のゆくえが話題になっている。
 国は四女側の「太平洋に散骨」という案を推しているようで様々な議論を呼んでいる。
 今でも日本では、遺体を焼き、骨を墓に納めるのがもっとも一般的な葬法だろう。
 だが、良くも悪くも歴史に名を残した人物の葬法はこれまでも問題になってきたし、散骨はそうした人物の葬法としてしばしば用いられてきた。そして近年では、一般の人々の葬法としても広がりを見せている。
*散骨の2つのかたち
 あらためて確認しておくと、散骨とは、遺骨を粉々に砕き海や山などにまく葬法だ。自宅の家の庭や思い出の場所にまく場合もある。日本では檀家になっている寺にある先祖代々の墓に納骨し、その墓を守ることが子孫の務めという考え方が強い。
 その分、骨のありかがわからなくなってしまう散骨は奇異に見られてきたが、20世紀末から徐々に広がってきた。散骨は、墓への埋葬と異なり、故人の場所が固定されないのが特徴だが、大きく2つのタイプに分けられるだろう。
 1つ目の忘却タイプは、例えばアドルフ・アイヒマンである。ナチスの幹部であり、アウシュヴィッツ強制収容所所長も務め、ホロコーストに深く関与した人物だ。
 第2次大戦後はアルゼンチンに逃亡していたが、イスラエルの諜報機関モサドが極秘作戦で連行し、エルサレムで裁判にかけられた。この裁判を傍聴したハンナ・アレントが、アイヒマンを陳腐な悪と評したことも知られている。
 アイヒマンには死刑判決が下され、1962年5月、絞首刑に処され、その遺灰は地中海にまかれた。
 近年ではウサマ・ビン・ラディンも同様だ。2011年5月2日、パキスタンの潜伏先の邸宅を米海軍の特殊部隊が急襲し、銃撃戦の後に殺害された。
 遺体は空母カール・ビンソンに収容され、海軍上層部だけが立ち会う形で水葬にされたと発表された。遺体は洗浄され、白い布をかけて板の上に置かれ、その板を傾けて海に落とされたという。
 こうしたアイヒマンやビン・ラディンの例は、遺骨や遺体の場所の特定不可能にすることで、その後の聖地化や遺骨のシンボル化を防ごうとするものだ。できるだけ早く、死者の記憶を胡散霧消させようとするものと言えるだろう。
 もう1つの慰霊顕彰タイプは偉大な政治家や芸術家に対して行われるものだ。例えばジャワハルラール・ネルーである。
 ネルーは、マハトマ・ガンディーとともにインド独立運動を指導し、インド初代首相となった。ネルーは、空からの散骨によって土や塵とともに降り注ぎ、インドの大地の一部になりたいという遺言を残していた。
 ガンディーの場合も同様で、ガンジス河とヤムナー河の合流点で流骨式が行われ、100万人が集まったという。
 ヤムナー河では、日本人の流骨も行われたことがある。1972年6月14日、日本航空ニューデリー墜落事故が起きる。その犠牲となった日本人女性の遺体がインドで火葬され、その一部が河に流されたのである。
 中国の周恩来も本人の意思で散骨された。1976年、周はガンで死去。妻の鄧穎超(とう・えいちょう)の手で、万里の長城や黄河に散骨された。散骨は、宗教を批判する思想を掲げる共産主義思想と相性の良い葬法と言える。
 鄧小平は唯物主義者としての遺言を残していた。それにしたがい角膜は寄贈、遺体は医学研究のために献体され、遺骨は中国共産党旗で覆い、後に東シナ海で散骨されたのである。
 偉人たちの散骨は、形の上では忘却タイプに似ているが、逆に、散骨によって大地や海にすき間なくその人物の記憶が定着することを目指すものだ。骨をまくことでその人物の記憶を偏在させ、強く記憶しようとする葬法なのである。
*盗まれる有名人の骨
 忘却タイプであれ慰霊顕彰タイプであれ、遺骨がシンボルとして潜在力を秘めていることを示唆している。
 キリスト教では聖人たちの遺骸やその一部を聖遺物として崇敬する習慣があるし、仏教において釈迦の骨とされる仏舎利も同じような位置づけだ。骨や灰というモノが、その人を臨場感をもって想起させるのだろう。
 実際、しばしば有名人の骨は盗まれる。
 1971年、前年割腹自殺を遂げた作家・三島由紀夫の遺骨が多磨霊園から盗まれた。墓の構造上、1人で盗み出すのは不可能であり、複数犯説が唱えられている。
 三島自身は、生前、自分の遺骨を海が見える富士山麓に埋めてほしいと望んでおり、あらかじめ分骨されていたという。
 1980年、陶芸家として初めて文化勲章を受けた板谷波山の骨壷も盗難にあっている。この時は2人組の犯人が逮捕されたが、目当ては波山自身が焼いた骨壷であったようだ。
 ちなみに、作家・志賀直哉の骨も盗まれているが、やはり骨壷が著名な陶芸家・濱田庄司の作であった。
 不思議なのは、近衛文麿の遺骨の消失だ。日本屈指の名家・近衛家30代当主であり、3度総理大臣を務めたが、A級戦犯に指定され、青酸カリで自殺を遂げた。遺体は、京都市の大徳寺にある近衛家廟所に納められた。
 同寺の檀家は近衛家だけであり、廟は2000平方メートルに及ぶ。そして1980年、文麿の未亡人の納骨のため、35年ぶりに墓が開かれたが、そこにあるはずの文麿の骨がなかったのだ。この事件には、近衛家の遠戚の細川護煕元総理も立ち会っていた。
 しかし、骨壷が目当てだったわけではない。
 というのも、近衛家では「骨は土に返す」という考えが受け継がれており、そもそも骨壷は用いられず、布に包んで直接土の上に置かれていたのである。とはいえ、30〜40年で骨が土に還るはずはなく、理由は分かっていない。
*散骨の変化
 散骨という新しい葬法は、戦後、芸能人を通じて一般の人々の間でも静かに広がってゆく。
 1987年、石原裕次郎が亡くなった時には、兄の慎太郎が海を愛した弟のために散骨を計画した。だが当時は、墓地や埋葬に関わる法律に触れる恐れがあるとされ、断念せざるを得なかった。
 その後、1990年代に法務省が、散骨は祭祀であり、節度をもって行われる限りは問題なしとする見解を示し、厚生省も、非公式ではあるが、墓地埋葬法はそもそも散骨を想定しておらず、明らかな法律違反ではないとした。
 こうした動きもあり、1996年には、やはり海を愛した漫才師・横山やすしの遺骨が、遺族とボート仲間によって、厳島神社近くの海に散骨されている。
 2001年には、日本郵船が仏具大手「はせがわ」と組んで、国際航路での散骨ビジネスに着手している。従来、散骨は日本近海に限られていたが、全世界の海が対象になったのだ。第2次大戦で夫が南洋に散った未亡人からの依頼などもあったようだ。
 その後もビジネス化は進み、今ではほとんどの都道府県に散骨を行う会社がある。イオンでも海洋散骨のサービスを提供しており、遺族が散骨するプランだけでなく、代理で散骨してもらえるプランもある。散骨後には、散骨証明書と記念アルバムも送ってもらえるようになっている。
 海洋散骨とともに樹木葬も広がっている。これは墓石ではなく、樹木を墓標とするものだ。散骨のように遺灰や骨をまくわけではないが、墓標が植物である分、「自然に還る」というイメージが強い。
 近年では、木や花だけでなく、噴水なども備わった屋内型ガーデニング納骨堂のようなものも誕生している。
 こうした新しい葬法の展開の理由として、伝統的な仏教や神道とは異なる宗教観の広がりを挙げることもできるだろう。
 だが、それよりも直接的に関わるのは家族の変容だ。核家族化が進み、「家で墓を受け継ぎ守る」という考え方が希薄化した現代では、永続する石の墓の管理は時に負担になる。その点、散骨は事後の管理が不要で手軽なのである。
 葬法はまさに時代を映す鏡であり、骨のゆくえは社会のゆくえと密接に関わっているのである。
<筆者プロフィール>
岡本 亮輔 RYOSUKE OKAMOTO
 北海道大学大学院観光創造専攻・准教授。専攻は宗教学と観光社会学。1979年東京生まれ。立命館大学文学部卒。筑波大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。著書に『聖地と祈りの宗教社会学――巡礼ツーリズムが生み出す共同性』(春風社、2012)、『聖地巡礼――世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書、2015)。共編著に『聖地巡礼ツーリズム』(弘文堂、2012)、『宗教と社会のフロンティア』(勁草書房、2012)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書、2017)。共訳書に『宗教社会学―宗教と社会のダイナミックス』(明石書店、2008)。

 ◎上記事は[現代ビジネス]からの転載・引用です
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