山岡荘八著『日蓮』

2007-01-08 | 日録

HP 読書note に 『日蓮』 up した。

p220~
 釈尊が生まれたときもそうであった。
 それゆえにこそ釈尊は、こうして無限にくり返されてゆく業火からのがれる道はなかろうかと、城を捨てて山に入っていったのである。
 そして何を発見されたか?
 この宇宙本然の姿を凝視しているうちに、自分だけが救われるということはあり得ないという「事実」に気づかれたのだ。
 もともと宇宙は人も物もふくめた一つの巨大な生命体であった。片手の指尖(ゆびさき)に小さな傷をこうむっても、それは全身の痛みとなり、片足の不如意だけでも完全な歩行のさまたげになった。
 そのことに気づかれた瞬間に、当然のこととして釈尊の悲願はわが身の不幸から衆生済度(人間救済)の実践へと飛躍し高められていったのである。

p290~
 日蓮の眼に涙のかわく間もないほど哀れにうつる衆生のさまが、現状維持派には、よろこんで布施を貢ぐ善男善女に見えているのだ。それではどこまでいっても相交わることのない平行線であった。
 といって、そのまますてて置ける日蓮ではなかった。狂僧と呼ばれることも、石を投じられることも考えきった覚悟の前であった。

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(日本聖書協会新共同訳)新約聖書 コリントの信徒への手紙〔1〕 12,12~
12. 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
25. それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 
26. 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27. あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。


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