【介護社会】
<たすけあい戦記>(7) 「仕事」持ちいきいき
中日新聞2010年1月8日
わたし、思っていることをうまく話せないかもしれません。それでもいいですか? 実は事故で頭をけがしちゃったので。ちょっと前にあったことも忘れちゃうんです。体も不自由で、左半分が動きません。この体になって嫌なことあるでしょうってたまに聞かれます。でもね、嫌なことはないです。だって、仕方がないじゃん。悔しいけれど。
1992年の暮れ、静岡県掛川市の岩倉松枝(71)は、自宅近くで4トントラックにはねられた。脳に損傷を受けて1カ月半も意識が戻らず、左半身まひが残った。
気付いたときは病院のベッドでした。不思議でした。一人で起き上がることもできない。体が動けばどんなにいいだろうって毎日思います。食事だって、掃除だって、孫の面倒だってみてあげられるのに。情けないねえ。毎日、自分の体に業(ごう)が沸き(腹が立ち)ます。
観葉植物の農園を経営する夫の広治(75)と長女夫婦、孫2人との3世代同居。夫と長女の和美(49)が身の回りの世話をし、孫もリハビリを手伝う。
お父さんは私が事故をして1年半、仕事を休んで介護してくれた。仕事が趣味なのに「植物は挿し木をすればまたよみがえるけど、私の女房に代わりはいない」って。うれしかった。病院の先生たちは「松枝さんのおうちは、みんなが松枝さんを大事にしてくれていいね」って言ってくれます。だけど、そのぶん、みんなに申し訳ないなあって思うの。一人で留守番しているとトイレが我慢できなくて、もれちゃうことがあります。あれは恥ずかしいねえ。娘が何も言わずに下着を替えてくれるけど、申し訳なくて。「ごめんねえ」ってしか言えないです。
退院して数年後。右手を器用に動かす松枝を見て、和美が洗濯物をたたむことを頼んだ。リハビリの一環だった。事故後、初めて任された仕事に松枝はいきいきした。
事故からもう18年。先生は「普通ならもっと動かなくなるのに、症状が安定している。松枝さんのリハビリの努力だ」って言ってくれるけど、家族がいてくれるから、やれるんです。洗濯物を上手にたためると孫が褒めてくれるんですよ。そんな時思います。おばあちゃんはね、みんなに迷惑かけてばかりだけど、本当は家族の役に立ちたいんだよ。洗濯物をたたむことくらいでもやらせてほしいんだよって。
孫の何倍もの時間をかけ、右手だけで洗濯物をたたみ終えた。積まれた服やタオルを見て孫の史織(24)が思わず声を上げる。「これ、おばあちゃんがやったの? すごいじゃん」。松枝は顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
つらいなあって思うこともあるけれど、私は生かされた。だから、いまは生きてたいなって思うんです。(文中敬称略)
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【介護社会】
<たすけ合い戦記>(8)喜ぶ顔を日本中に
中日新聞2010年1月9日
介護士袖山卓也(37)は約20年前の仲間の死を、今も思い出す。
名古屋市内の高架下。高校時代、猛スピードのバイクでコンクリート壁に向かい、寸前で止まるチキンレース。激突した直後に「大丈夫や」と笑って立ち上がった彼の訃報(ふほう)を翌日知った。
通夜の会場で母親が棺おけにしがみつき泣き叫んでいた。好き勝手やって死ぬのは自由かもしれない。だが、母親の震える背中を見て「死ぬのなんて怖くない」とうそぶく自分にむなしさが募った。
共同便所のアパート暮らし。進学校にいたが、貧しさが親への反発となって毎夜、バイクで突っ走り、けんかに明け暮れていた。その日から、人の命を助ける側に回りたいと思った。
浪人して名古屋大医療技術短大(現名古屋大医学部保健学科)に入学。卒業後、病院で検査技師として働き始めたが、試験管を振る日々は求めた「現場」ではなかった。放送大学で学び直し、23歳で介護施設に再就職した。
そこに、気になるおばあさんがいた。重度の認知症で、目も足も不自由だった。両手は何かを探すように、いつも宙をさまよっていた。ある日、彼女はふいに車いすを降り、床をはいずりだした。何かを探しているように。思わず床にひざをつき、一緒に手を床にはわせて声を掛けた。
「ないですねえ」
「…ないかね」
落ち着いてもらおうと、とっさにうそをついた。「おばあさん、ありましたよ」。車いすに座らせ、おばあさんの手に自分の手をそっと置いた。おばあさんは手を額に押し当て、口を開いた。
「ありがとう」
それ以来、彼女の両手が宙をさまようことはなくなった。時にはあいさつも返すようになった。「認知症だって気持ちは伝わる」。そう確信した。
27歳になり、デイサービス施設の立ち上げを任された。じいちゃん、ばあちゃんにいつも笑っていてほしい。始めたのが自作のお笑いショーだった。連想ゲームや懐メロもちりばめる。
「毎日寒いね、雪も降ったね」「雪と言えば…♪富士の高嶺(たかね)に降る雪も…」。懐かしいメロディーに合わせてスタッフが踊りだすと、お年寄りたちもつられて手拍子をし、笑みが広がる。
「施設というと体の介護だけに思われがちだけど“笑い”で心のリハビリも促したい」
2004年、32歳で施設を去り新たな挑戦を始めた。自分が社長かつ独り社員の有限会社「笑う介護士」。各地での講演と施設での現場指導。本当は現場に居続けたかったが、自分一人が向き合えるお年寄りはせいぜい100人程度だ。「日本中のお年寄りに笑っていてほしい」という夢が背中を押した。
自分の信じる介護のあした。思いを共有できる仲間が増えれば、夢もきっと実現できるはずだ。講演で伝える言葉がある。
「介護は愛だ」(文中敬称略)
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【介護社会】
<たすけ合い戦記>(9)母の遺産は家族愛
2010年1月10日
予想外の返答だった。「無理や。見れん」。ひと呼吸置き、父は続けた。「母さんは子どもを世話できるような状態やないんや」。明子(46)には衝撃だった。3人姉妹の長女。母の深刻な病状に気付いていなかったことに、うろたえた。
石川県能美市で生まれ育った3人とも地元に嫁ぎ、両親とは折あるごとに電話し、孫の顔を見せに出向きもしていた。父・小山嘉孝(72)の表情から差し迫った状況を知ったのは1996年、2人目の出産を控えた妹の佳子(43)のために、明子が「上の子の面倒をしばらく見てやって」と頼んだときだった。
母・外茂子(ともこ)は当時50代で、アルツハイマー病とパーキンソン病を併発。嘉孝は心配を掛けまいと娘らに病状を知らせず、1人で介護していた。「まさかそんなに具合が悪いとは。大事なことが何も見えていない」。嫁ぎ先が一番実家に近い明子の焦りは募った。
母の異変は、娘たちが実家を離れた後。職場でパニックとなり、過呼吸で倒れた。座布団をかばんと思って小脇に抱え、買い物に出たことも。自転車の乗り方を忘れ、家の前で押したり引いたりもした。
嘉孝は深まる孤独感に独り苦しんでいた。ある時、車窓に広がる夕日がまぶしかった。「きれいやなあ」。相づちを求めた助手席の妻は無表情。「何を言っても独り言やなあ」。沈黙の空間で大きなため息をついた。
「昼間に母さんの面倒を見てくれんか」。次女佳子が2人目を出産して間もなく、今度は父親が長女明子に相談してきた。相当な覚悟を悟った。「3人の子育てに追われていることを知らないはずがないのに」。父は公務員。断れば退職するつもりだろう。「大げさに言えば『わが子か、母親か』という選択だった」
長女は1人でトイレにも行けなくなった母親の介護を始めた。実家に行ったまま、子どもらの帰宅時も留守ばかりに。その姿に妹たちも、それまで遠慮して言い出せなかった言葉が出た。「何か手伝おうか」。次女佳子は実家に夕食の一品を届けるようになった。三女の昌恵(37)も加わった。
冬のある日、妹2人がおでんを持ち寄り「考えることは一緒やねえ」と笑いあった。深刻な母の病状とは裏腹に、ほのぼのとした空気が親子の間に再び生まれた。
2005年11月、母親は66歳で亡くなった。
いまは特別養護老人ホームに勤める長女明子は、母と似た症状の人を目にすると、記憶がよみがえる。「食事のとき、寝ているように目を閉じ、介助しても飲み込めない人がいる。首がすわらず、ぐらんとする。ソファに座っていた母を思い出して、家族と同じ目線になるんですよ」
あれから丸4年。父親の夕食には今も誰かが届けた一品が添えられる。「母さんがみんなを引き寄せてくれた」。父と娘はそう信じている。(文中敬称略)
=第3部終わり(取材班 秦融、後藤厚三、前口憲幸、岡村淳司、小笠原寛明、浅井俊典)
◆【介護社会】<たすけあい戦記>(6)江村利雄「市長の代わりはおっても、夫の代わりはおらへんねや」