【米大統領来日】「すし外交」しゃり噛む音も「ジツリ、ジツリ」 同盟強化もビジネスライク

2014-04-24 | 政治

【米大統領来日】「すし外交」しゃり噛む音も「ジツリ、ジツリ」 同盟強化もビジネスライク
 産経ニュース 2014.4.24 07:11
 安倍晋三首相が23日夜、米国のドキュメンタリー映画の舞台ともなった東京・銀座のすし店「すきやばし次郎」にオバマ大統領を招いたのは、万事にビジネスライク(事務的・実務的)なオバマ氏を夜の街に引っ張り出すことで、首脳同士の良好な関係を内外にアピールする狙いがある。
 ただ、それが両首脳の個人的な信頼関係構築につながったかというと「初めからそこまで期待していない」(外務省幹部)のが本音だ。日本側もそこはあくまでビジネスライクに割り切り、すし店での夕食会で両首脳は実利的に北朝鮮や中国など東アジア情勢などについて意見交換した。
 オバマ氏は外交辞令や会談でのジョークなどを好まず、本題だけを話したがることで知られる。昨年2月に訪米した安倍首相との昼食会でも、バイデン副大統領らがワイングラスを傾ける中で、オバマ氏の前にはミネラルウオーターの瓶だけが置かれていた。
 「彼はビジネスライクだけど、それは仕事をするという意味では別にいい」
 安倍首相は最近、周囲に淡々とこう漏らした。そこには米大統領を18年ぶりに国賓として日本に迎える高揚感はない。昨年2月のオバマ氏との初会談前日に「明日はがちんこ勝負になる」と意気込んでいたのとは対照的なぐらいだ。
 それもそのはず、安倍首相はもうオバマ氏に対し、小泉純一郎元首相とブッシュ前大統領のようにケミストリー(相性)が合い、肝胆相照らす間柄となることは望んでいない。
 もともと市民運動家(人権派弁護士)出身でリベラル色の濃いオバマ氏と、名門政治家の家系に生まれて帝王学を学んできた安倍首相とでは共通項が少ない。
 ただそれだけでなく、安倍首相が距離を置く背景には、キャメロン英首相、メルケル独首相をはじめ「世界中でオバマ氏とケミストリーが合う首脳はいない」(政府高官)との認識がある。それどころか「オバマ政権自体がイスラエル、サウジアラビア、インド…と同盟国や友好国と全部関係が悪い」(外務省幹部)というのが実態だ。
 一方、日米関係は昨年12月の安倍首相の靖国神社参拝以降、多少ギクシャクしたが、最近は「かなりよくなった」(日米外交筋)。オバマ氏自身の仲介で首相と韓国の朴槿恵(パククネ)大統領との初会談も実現し、「米側も日韓の歴史問題を取り上げる必要がなくなった」(同)こともあり、関係修復段階はほぼ過ぎ去った。
 むしろ、米国が靖国参拝に「失望」を表明したことで、安倍政権側がオバマ政権を見切った部分がある。
 失望表明は米国が求めたTPP交渉への参加を決断し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題を動かすなど「短期間にこれだけ日米関係を進めた政権はない」(外務省筋)という安倍政権を傷つけた。しかもそれは中国、韓国の反日攻勢を勢いづかせただけで東アジアの緊張緩和に何らつながらず「全く戦略的でない」(政府高官)からだ。
 日米韓3カ国首脳会談の際にもこんなことがあった。
 安倍首相は自身のアイデアで朴氏に韓国語で「お会いできてうれしい」と呼び掛け、日韓対話に前向きで友好的な日本を世界に印象付けた。米側はラッセル国務次官補もライス大統領補佐官も好意的だったが、オバマ氏はやはりビジネスライクだった。首相は周囲にこう振り返った。
 「オバマ氏の態度は特に変わらなかった。彼の関心事項はTPPだね」
 日米同盟は日本にとって死活的に重要だ。ただ、安倍首相としては、オバマ氏との信頼関係よりもTPPをはじめ日米間の諸課題の実務的な前進によって、同盟強化を図ろうと実利的に判断したのだろう。(阿比留瑠比) 
 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します
....................
 〈来栖の独白〉
それもそのはず、安倍首相はもうオバマ氏に対し、小泉純一郎元首相とブッシュ前大統領のようにケミストリー(相性)が合い、肝胆相照らす間柄となることは望んでいない。もともと市民運動家(人権派弁護士)出身でリベラル色の濃いオバマ氏と、名門政治家の家系に生まれて帝王学を学んできた安倍首相とでは共通項が少ない。
 大いに同感。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
オバマ大統領 訪日のねらいは / リバランス政策 / ミシェル夫人、同行せず 2014-04-23 | 政治 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
米政府機関一部閉鎖 / 3000人が一時帰休に=ロッキード / オバマの社会主義的な政策の象徴「オバマケア」 2013-10-05 | 国際 
――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
『帝国の終焉 「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ』日高義樹著 2012/2/13第1刷発行 2012-10-02 |  
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
『知の武装 救国のインテリジェンス』手嶋龍一×佐藤優 2014-03-04 |   
――――――――――――――――――――――――――――――――――― 
安倍首相「オバマ米大統領とケミストリーが合った」・・・ / 【アベノパフォーマンス】 田中良紹 2013-03-07 | 政治 
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28 |   

        

 (抜粋)
●序章  官邸デモの本当の敵
1960年安保闘争との違い
p13~
 60年安保闘争と現在の野田政権打倒デモは、反政府デモという意味では同じですが、中身はまったく異なります。
 60年安保闘争では、運動に参加している人たちは日米安保条約の条文など読んでおらず、冷戦下の世界情勢のなかでどのような意味をもつのかも理解していませんでした。運動は組織化され、学生は主催者が用意したバスに乗り込み、労働者は労働組合の一員として参加し、女子学生が亡くなったことで激化しました。
 安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、讀売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞7社共同宣言」を出すと、運動は一気に萎んでいったのです。

●第1章 岸信介と安保闘争の真相
  1.安保闘争神話の大ウソ
「岸信介=対米追随」の誤り
p21~
 しかし、これほどの反対運動にもかかわらず、5月20日未明に衆議員で強行採決された新安保条約案は、参議院の議決がないまま6月19日に自然成立し、批准を阻止することは出来ませんでした。
 一方で、この混乱の責任を取って岸信介内閣は7月15日に総辞職します。この運動は、もともとは日米安保改正阻止から始まりました。しかし、運動が盛り上がっていく過程で徐々に、A級戦犯として訴追されながら政界へ復帰し、“昭和の妖怪”とまで呼ばれた岸信介の政権を打倒することへ目的が変質していきました。そのため、岸内閣の退陣により、ある種の達成感が生まれ、急速に運動は萎んでいくのです。
P22~
「アメリカは自分の力を借りに来る」
 ここでは、その暗闘を、岸信介を主人公としてストーリーを語ることで、明らかにしていこうと思います。
 まず岸信介とはどんな人だったのでしょうか。
 岸は東京帝国大学法学部を卒業後、1920年に農商務省に入り、1936年に満州国にわたり、国家運営の要職を歴任しました。1941年には東条英機内閣に商工大臣として入閣。日米開戦時の大臣であり、戦時中は物資動員の責任者も務めました。
 そのため、岸は1945年9月11日にA級戦犯として逮捕され、巣鴨拘置所に拘置されます。戦犯として有罪判決を受けて処刑されるのを待つだけの身に置かれていたのです。
 巣鴨に拘置されている間に、岸がとんでもない切れ者だったことを示すエピソードが残されています。
P23~
 岸が拘置所内で書いた『獄中日記』の1946年8月10日のページには、こう記されています(口語訳)。
「パリ講和会議におけるソ連外相モロトフと米国国務長官バーンズの対立は、冒頭の演説からたがいの悪口の言い合いとなった。ソ連の機関紙『プラウダ』は『バーンズの挑戦』という見出しをつけ、全ページを使ってその全訳を掲載し、国民の注意を呼び起こそうとした。(略)ソ連は平和会議をわざと長びかせ、そのあいだにバルカン半島や地中海方面に勢力を伸ばしてしまおうという計画を立てており、一日も早く平和的な国際関係を樹立しようと望む米国や英国とは完全な対立関係にある」
 さらに、『岸信介証言録』には、巣鴨拘置所内に収監されていた当時の心境がこう述べられています。
「冷戦の推移は、巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、首を絞められずに(死刑にならずに)すむだろうと思った」
 米ソの冷戦が深刻化すれば、自分の命は助かるだろうと予見しているのです。
p24~
 当時の日本は、終戦直後で経済も崩壊し、皆食べるのに精いっぱいの状態で、一般の日本人は海外の動静など知る由もありません。まして東西冷戦が始まりつつあることを知っていた人はほとんどいませんでした。
 それにもかかわらず、岸は拘置所にいながら、「アメリカとソ連の対立が深まれば、アメリカは日本を利用するために、自分の力を刈りに来るだろう」と正確に予測し、そこに望みを託しているのです。“昭和の妖怪”とまで称される岸の凄味の片鱗が、ここに現れています。
 現実は岸の読み通りに進みます。
p25~
 しかし、アメリカの戦略目的が冷戦の勃発によって「ソ連と対抗すること」に変化すると、アメリカは対日政策を180度転換し、「日本の経済力・工業力を有効利用する」という方針に変更しました。
p26~
 占領地で次々と共産政権を築くソ連への対抗は急を要する事態でした。そのため、戦時中の指導者を含む戦犯らが次々に釈放され、岸信介も1948年12月24日に釈放されます。サンフランシスコ講和条約の発効にともない、政治家や将校たち25万人以上の公職追放が解除され、岸も政治的権利を回復しました。
 占領終結後の1952年10月に行われた最初の国会議員選挙では、衆議院の議席の42%を追放解除者が占めることになりました。
 岸は1952年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を掲げて日本再建連盟を設立し、会長に就任します。その後、自由党に入党し、公認候補として衆議院議員に当選しました。しかし、対米追随路線を進む吉田茂首相と衝突し、自由党から除名され、1954年に鳩山一郎とともに日本民主党を結成し、幹事長に就任します。そして、同年12月、吉田茂の「バカヤロー」発言で内閣総辞職、鳩山一郎内閣が誕生し、翌年2月の総選挙で日本民主党が第一党となり、改めて岸が幹事長を務める鳩山一郎内閣が発足しました。
 ここで注意していただきたいのは、岸はこの段階からすでに明確に「自主路線」を志向していることです。しかも、対米協調を基本とする吉田茂に反発して党を割っています。
p27~
安保という不平等条約
 新たに誕生した鳩山内閣は、ソ連との国交回復を政権の重要課題としながら、同時に日米間の重要課題として、「防衛分担金」の負担軽減を掲げます。
 当時の日本の国家予算は1兆円ですが、そのなかから在日米軍維持費に毎年550億円も支払っていました。日本にとっては極めて重い負担だったのです。なぜこのようなことになったのかというと、鳩山一郎の前の吉田首相が、アメリカからの要求を無抵抗に受け入れていたからです。
 鳩山内閣は防衛負担金削減を目標に掲げただけでなく、実際に行動しました。(略)
 鳩山内閣の次の目標は、日本に駐留している米軍そのものの削減でした。しかし米軍の削減は分担金減額に比べればはるかに難題でした。
 というのも、冷戦の深刻化によってますます日本に駐留する米軍の存在は重要になっていたからです。(p28~)そもそもアメリカが日本を占領した目的は、「日本国内に自由に軍隊を置くこと」で、1951年に、吉田茂が密室で調印した「旧安保条約」第1条にはこうあります。

第1条「アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその付近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」 

p30~
岸信介CIA工作員説の真相
 実はこの政界の動きには、アメリカの諜報機関CIAが密かに関与していました。
 米国のジャーナリスト、ティム・ワイナーは、著書『CIA秘録』で、アメリカのダレス国務長官は自由民主党結党の3か月前に、岸信介・日本民主党幹事長に会い、「もし日本の保守政党が一致して共産主義者とのアメリカの戦いを助けるなら、(経済的)支援を期待してよい」と明言したと述べています。(略)
 このことをもって、岸信介という人は長らく「CIAのエージェント(工作員)だ」「対米追従路線だ」と信じられてきました。
p31~
 首相就任2か月後の参議院内閣委員会で、岸は「日米安保条約、日米行政協定は全面的に改定すべき時代にきている」と宣言します。後で述べますが、ここで岸は旧安保条約だけでなく「日米行政協定」にも言及していることを覚えておいてください。
 岸は安保改定の交渉を進めるため、まずマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と会談し、次のような考えを述べます。
「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を、日本に返還することなども提案した。
 さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った」(岸信介証言録)
p35~
 在日米軍の削減だけでなく、沖縄・小笠原諸島の返還にまで踏み込んでいるのです。
 同年6月には訪米し、ダレス国務長官に次の点を主張します。
「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」(同前)
 岸の強い態度に今度は逃げられないと思ったのでしょうか。ダレスは「旧安保条約を新しい観点から再検討すること」に合意します。
 ここから岸がとった戦略は次のようになります。
 先ほど、岸は旧安保条約だけでなく、「日米行政協定」にも触れていると述べました。行政協定というのは、条約に付随し、政府が立法機関である国会の承認を必要とせずに、外国と締結できる協定のことです。
 旧安保条約は5条から成りますが、基本的には抽象的な理念が述べられているに過ぎません。一方の日米行政協定は29条から成り、在日米軍や分担金、裁判権などに関する具体的な取り決めはこちらに記されています。
 日米行政協定にはこう書かれています。
p36~

「日本国は合衆国に対し、安全保障条約第一条にかかげる目的の遂行に必要な施設および区域(=基地)の使用を許すことに同意する」

「日本国および合衆国は、(略)前記の施設および区域を日本国に返還すべきこと、または新たに施設および区域を提供することを合意することができる」 

 アメリカは日本国内に自由に基地を設置できるが、返還については「合意することができる」と言っているだけで、嫌なら合意しないだけの話です。
 本丸は行政協定にあるのです。
 岸は「二段階論」を考えていました。つまり、安保条約を改定して、その後、行政協定を改定する方針です。行政協定は国会の承認が不必要ですし、条項の多さを考えれば、この方針は理に適っています。安保条約を改定した後、米側と「在日米軍削減」について、じっくりと協議すればいいのです。
 ところが、この方針に真っ向から反対したのが、池田勇人(国務省=副総理級)、河野一郎(総務会長)、三木武夫(経済企画庁長官)の3人で、全員が「同時大幅改定」を主張したのです。しかし、行政協定まで同時に大幅に改定することは、現実問題として実現不可能でした。
 なぜこの3人は岸に無理難題をふっかけたのでしょうか。
p40~
 もう一つの謎は、財界のトップから資金が出ていることです。なぜ学生運動に財界が手を貸したのでしょうか。
 実際に財界から資金提供を受けたと証言しているのが元全学連中央執行委員の篠原浩一郎で、『60年安保 6人の証言』でこう述べています。
 「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、今里広記・日本精工会長さんたちが、とにかく岸さんではダメだということで岸を降ろすという勢いになっていたんですね。(略)」
 財界は、学生たちの純粋な情熱を、“岸降ろし”に利用したということです。
p41~
 ここで私が注目するのは、中山素平と今里広記の2人です。彼らは経済同友会の創設当初からの中心メンバーですが、(略)
 経済同友会といえば池田勇人の首相時代を支えた財界四天王のひとり、フジテレビ初代社長の水野成夫も経済同友会で幹事を担っていました。池田勇人は大蔵官僚出身で石橋政権時代から岸内閣でも大蔵相だったこともあり、財界とは密接な関係を築いていました。
 国際政治という視点から見れば、CIAが他国の学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供して、反米政権を転覆させるのはよくあることです。“工作”の基本と言ってもよく、大規模デモではまずCIAの関与を疑ってみる必要があります。
 1979年のイラン革命、2000年ごろから旧共産圏で起きたカラー革命、アメリカから生まれたソーシャルメディアを利用したつい最近のアラブの春など、アメリカの関与を疑わざるを得ない例はいくらでもあります。
岸政権打倒のシナリオ
p42~
 確証がある訳ではありませんが、私が考えた1番ありうるシナリオは、次のものです。
1、岸首相の自主自立路線に気づき、危惧した米軍およびCIA関係者が、政界工作を行って岸政権を倒そうとした。
2、ところが、岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3、そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモ後押しの手法を使った。
p43~
4、ところが、6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しも立ったこともあり、翌16日からはデモを抑え込む方向で動いた。

 安保闘争がピークに達した6月17日に、一斉に「暴力を排し議会主義を守れ」と「7社共同宣言」を出した新聞7社も、当然のことながらアメリカの支配下にあったことは疑いようがありません。(略)
 岸が軽く見ていた60年安保闘争は、外部からの資金供給によって予想以上の盛り上がりを見せ、岸はそれに足をすくわれることになりました。
 岸の望んだ形ではなかったかもしれませんが、それでもこの時締結された新安保条約は、旧安保条約に比べて優れている点がいくつかあります。
p44~
 一方で、安保条約と同時に、日米行政協定は日米地位協定へと名称を変えて締結されましたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態は、ほとんど変わっていません。岸が本当に手をつけたかった行政協定には、ほとんど切り込めず、しかもその後50年にわたって放置されてきたのです。
 いわば60年安安保闘争は、岸ら自主路線の政治家が、吉田茂の流れを汲む対米追随路線の政治家とアメリカの反政府デモ拡大工作によって失脚させられ、占領時代と大差ない対米従属の体制がその後の日本の歴史にセットされた事件だったといえるのではないでしょうか。
 しかし、岸は改定された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項をしっかりと組み込んでいました。
p45~
 60年安保改定で、安保条約は10年を過ぎれば、1年間の事前通告で一方的に破棄できるようになったのです。自動継続を絶ち、一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄されることになります。おそらくここには自主路線の外務官僚も一枚かんでいたのでしょう。必要であれば、再交渉して新たな日米安保条約を締結し直せばいいわけです。(略)
 岸はこう述べています。
 「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(『岸信介証言録』)
p46~
 2.岸信介とCIAの暗闘
CIAは岸を警戒していた
 岸という人は、これまで世間ではまったく誤解されてきましたが、アメリカからの自立を真剣に考えた人でした。アメリカを信用させ、利用しながら、時期を見計らって反旗を翻し、自主自立を勝ち取るという戦略に挑みました。その意志に気づいたアメリカ側は、「岸降ろし」を画策し始めます。
 では、日本が安保闘争で揺れていた時代、アメリカ側では何が起きていたのでしょうか。今日では、さまざまな資料から、当時のアメリカの様子が窺えるようになっています。
 岸が第1に採った戦略は、アイゼンハワー大統領と直接的な関係を築くことでした。
p47~
 岸は1957年6月に訪米して、アイゼンハワー大統領を表敬訪問しています。ここでアイゼンハワーは岸をゴルフに誘います。ダレス国務長官はゴルフをやりません。このときの様子を岸はこう述べています。
 「ワシントンのヴァ―ニングトリーという女人禁制のゴルフ場にいったのです。プレーのあと、ロッカーで着替えをすることになって、レディを入れないから、みな真っ裸だ。真っ裸になってふたりで差し向かいでシャワーを浴びながら、話をしたけれど、これぞ男のつきあいだよ」(『岸信介の回想』)
 こういった裸のつきあいは外交上でも大きな意味をもちます。このゴルフ以降、岸は大統領との直接的なつながりをもち、非常に親密な関係を築くことに成功しました。
 それまで、日米関係はダレス国務長官が牛耳っていましたが、岸がアイゼンハワーと数時間の間でもダレス抜きで直接言葉を交わし、個人的な関係でつながったので、それ以降、ダレスは岸にあまり強く切り込めなくなったのです。現実の外交の現場では、こうした人間的なファクターが影響することは、意外に多いものなのです。
 しかし、いくら大統領の支持を得て、CIAから資金提供を受けていようとも、、徐々にアメリカ側は岸の真意に気づき始めます。期待を裏切って、対米自主路線を突き進む岸に対して、アメリカは慌てます。その様子が当時のさまざまな記録から見えてきます。
p51~
「中国との関係改善」は虎の尾
 しかし、なぜ岸はこれほどアメリカから警戒され、嫌われたのでしょうか。
 実はアメリカの“虎の尾”は、「在日米軍の撤退」以外にもう1つあります。「日本と中国の関係改善」です。
 日米戦争が勃発したのは、日本が中国大陸に侵攻して利権を独り占めにしようとしたことが1つの原因です。第2次大戦が終結した後、中国は共産主義国になり、ソ連と国交を結んでしまったために、結局、アメリカは中国に手を出せなかったのです。日本にとって中国は隣国なので、日本国内には常に中国との関係改善をめざし、利益を得ようとするベクトルが存在します。
 しかし、アメリカは中国を潜在的なライバルとみなしており、中国が共産主義的な色彩を帯びたときは封じ込めようとし、軍事力が強くなれば対抗しようとしてきました。
p52~
 中国をめぐっては、日米対立が起きやすい構造があるのです。
p53~
 それでも岸は、中国との関係改善に突き進みます。1957年7月、岸内閣は「中国への貿易を規制する中国特別措置を遵守することはできない」と表明。翌年3月には、中国との間で「第4次日中民間協定」を結び、民間通商代表部の設置に合意します。日中貿易の拡大に進み始めるのです。
p54~
 対米追従路線の池田首相でも、対中国の関係改善を図ろうとすると、アメリカの逆鱗に触れてしまうのです。中国問題で、日本が独自に先行することはアメリカにとっては許しがたい行為なのです。
p55~
 「在日米軍の削減」と「中国との関係改善」という2つの“虎の尾”を踏んだ岸に対しては、アメリカが総攻撃をかけて、政権の座から引きずり下ろしたということが、これで納得いただけるのではないでしょうか。
 第2章で詳しく述べますが、田中角栄が失脚させられたのも、アメリカを出し抜いて日中国交正常化を実現したことが1つの原因でした。鳩山由紀夫首相も「東アジア共同体構想」で中国重視の姿勢を示していました。
 中国問題が相変わらずアメリカの“虎の尾”であることは、現代においてもなんら変わっていないのです。
...............


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。