「日本人妻たちも同じ戦争の被害者だから」 韓国人の反発にめげずに書き上げた博士論文
2023年8月10日 中日新聞
<連載 ナザレ園の記憶~韓国で生きた日本人妻~>㊦
日本に動員された父の後押し
慶州キョンジュナザレ園の日本人妻らの証言を記録したドキュメンタリー作家の金キム鐘旭ジョンウクさん(63)には、背中を押された存在があった。戦時中、日本の炭鉱へ動員された経験がある父、商振サンジンさん(1923~2017年)だ。
「父もナザレ園のハルモニ(おばあさん)たちも、同じ時代の戦争や植民地支配の被害者だった」
韓国南東部・慶尚北道キョンサンプクトの農村で暮らした商振さんは、1942年ごろから終戦まで西日本の炭鉱で働いた。結婚を控えた2番目の兄が動員対象になり、家族会議で「自分が兄の名前で代わりに行く」と申し出たという。鐘旭さんはそんな父の体験を聞いて育った。
炭鉱の現場は過酷だった。ガス爆発で約80人が死亡する事故が起こり、商振さんも遺体を運ぶ作業を手伝った。危険な坑道に入るのを免除されようと、職場で定期的に肺の写真を撮る際に影が映るように細工したのが発覚し、逆さまにつるされて棒でたたかれる拷問を受けた。手を下したのは朝鮮人。日本人に言われるがままの同胞の姿に悔しさが募った。
金商振さん=金鐘旭さん提供
炭鉱から逃げようとして電気拷問を受けたこともある。食事は粗末で、賃金は受け取った記憶がない。
それでも、仕事に慣れると日本人の班長と親しくなり、休みの日に家へ招かれたこともあったという。バスや汽車で移動する道中、車内で新聞や本を読む日本人の姿が印象に残った。「日本人は炭鉱で働く人でも字が書けた。自分は朝鮮の字も知らないので故郷の両親に手紙すら書けず、恥ずかしかった」
日本の敗戦で故郷に戻った商振さんは、一念発起して勉強を始める。師範大学を卒業し、小学校の教師になった。「植民地になった原因は自分たちにある。日本の長所を学び力を付けなければいけない」と口癖のように語っていた。
そんな商振さんは、息子から聞いたナザレ園の日本人妻たちの境遇に共感した。「その時代に韓国人と結婚し、思いがけず解放(植民地支配の終結)を迎え、苦労された。戦争で被害を受けるのは弱者だ。彼らのことを記録して伝えるべきだ」と助言した。
鐘旭さんは2008年ごろ、撮りためた写真やインタビュー記録の展示会を開こうと模索した。だが「韓国の(元慰安婦の)ハルモニがいるのに、なぜ日本人を取り上げるのか」と拒否され、実現しなかった。それでもくじけず、慶州大大学院で14年、写真や記録を盛り込んで日本人妻に関する博士論文をまとめた。
当事者がこの世を去っても、論文や写真は残る。鐘旭さんは「自分たちのことを伝えてほしい」と願ったハルモニとの約束を果たすため、記録の整理を続けている。いつか日本でも展示会を開きたいと考えている。 (慶州市で、木下大資)
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1945年の終戦前に朝鮮人と結婚し、現在の韓国へ渡った日本人妻らが晩年を過ごす社会福祉施設「慶州ナザレ園」が南東部の慶尚北道慶州市にある。両国の交流が深くなった現在は「日韓夫婦」も珍しくないが、彼女たちは日本の植民地支配や朝鮮戦争など激動が続いた時代を生きた。入所者の大半が他界し、風化しつつある記憶に触れようと現地を訪ねた。
慶州ナザレ園 1972年にキリスト教徒で福祉事業家の故金龍成(キム・ヨンソン)氏が開設した。朝鮮戦争で夫が戦死したり、貧困にあえいだり苦境にあった日本人妻らの帰国を支援。80年代までに147人を送り出した。その後も日本人妻らを順次受け入れ、多いときには30~40人が共同生活を送った。
◎上記事は[中日新聞]からの転載・引用です