執行前「生かされ感謝」=「殺人マシン」林泰男死刑囚 “愛”求め出家=岡崎一明 <教団エリートの「罪と罰」(4)>

2018-07-27 | オウム真理教事件

誰より多くサリンを撒いた「殺人マシン」林泰男の意外な素顔 <教団エリートの「罪と罰」(4)>
2018.7.26 11:30 週刊朝日#オウム真理教
 医師、弁護士、科学者……「宗教国家」を夢想した麻原彰晃の下には、高学歴で才能あふれるエリートが集まっていた。26日に死刑が執行された、恋人と逃亡続けた「殺人マシン」林泰男と幼少期の不遇から“愛”求め出家した岡崎一明。地下鉄サリン事件から17年となった2012年、最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』では、オウム真理教を徹底取材。麻原の操り人形として破滅へと堕ちていった彼らの、封印されたプロファイルをひもとく――。
*  *  *
■恋人と逃亡続けた「殺人マシン」

 
<林泰男(はやし・やすお)>
(1)生年月日:1957年12月15日
(2)最終学歴:工学院大二部電気工学科
(3)ホーリーネーム:インディンナ
(4)役職:科学技術省次官
(5)地下鉄サリン事件前の階級(ステージ):正悟師
 「殺人マシン」と呼ばれた男の素顔は、意外なものだった。
 東京・渋谷生まれ。中学3年の時、高校受験ために戸籍謄本を取り寄せ、朝鮮国籍だった父が日本国籍を取得していたことを知った。日本人として育った自分の心の奥底には、朝鮮半島の人々への差別意識があるのではないか――。そんなことを考え、悩みを深めていったという。
 都立高校の定時制から、工学院大学電気工学科へ進学。成績はトップクラだった。20歳のとき、父を亡くしたことがきっかけで宗教への関心が芽生え、1983年に卒業した後は、3年ほどかけてインドやペルー、ブラジルなどを旅した。
 一方で、一人で暮らす母を気にかけ、頻繁に電話をかけたり訪ねたりしていた。
 旅を終えてしばらくすると、「体が硬直して縮む」ようになった。あちこちの病院を受信したが原因は分からなかった。同じ頃、交際していた女性とも別れ、精神的に不安定になる。そんな中で麻原の著書と出会い、87年には「オウム神仙の会」に入信し、勤めていた電気会社を辞めて88年12月に出家した。
 当初は麻原や教団幹部の運転手や、説法を録音して編集する仕事をしていた。だが、電気工事や高電圧端末処理などの資格を持っていたため、科学技術省次官として教団施設の電気工事を担うようになる。
 やがて、科学技術省の近くの警備小屋に配属された女性信徒と恋仲になった。「ワーク」の後で一緒にビデオを見たり、穴の開いた靴下を繕ってもらったりしたという。
 地下鉄サリン事件の実行役を断らなかったのは、恋人の存在が頭をよぎったからだ。
「断ったら制裁がある。恋人との仲がばれて私は殺され、家族にも累が及ぶ」
 と考えたという。他の実行犯が、「救済のためには殺人も許される」と教団の教義をあげ、麻原の指示は絶対だったと主張する中では異色の動機だった。麻原のことは「最終解説者だと信じていなかった」という。
 事件当日の未明、上九一色村の教団施設に実行役の5人が集まった。サリンの袋は11袋あり、他の人より1袋多い3袋を引き受けた。地下鉄日比谷線の上野駅から電車に乗り、電車を下りる間際に、サリンが入った袋を傘で少なくとも4回突き刺したという。同事件では13人が亡くなったが、そのうちの9人がこの車両だった。
 事件後は一緒に逃げた恋人がホステスなどをして稼いだ金で、東京や名古屋、京都、沖縄を転々とした。警察には「逆襲を狙っているのでは」と警戒され、マスコミからは「殺人マシン」と呼ばれたが、恋人とジョギングやケーキ作りを楽しんでいた。
 事件から1年9カ月後、沖縄県の石垣島で逮捕。地下鉄サリン事件のほか、松本サリン事件で使われた噴霧車製作に関与したとして殺人幇助(ほうじょ)罪などに、新宿駅に青酸ガス発生装置を仕掛けたとして殺人未遂罪に問われた。
 多くのサリンを引き受けた理由について、他の実行犯らは公判で、
「みんながいやがる仕事を引き受けるのが彼だった」
 と語った。二重の袋の内袋が破れ、中身がしみ出た袋も引き取っていた。
 こうした“骨惜しみをしない性格”は裁判でも認められ、一審の裁判長は求刑通りの死刑判決を下しつつ、
「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であった」
 と指摘した。2008年2月に上告が棄却され、死刑が確定した。

■幼少期は不遇“愛”求め出家

 
<岡崎一明(おかざき・かずあき)>
(1)生年月日:1960年10月8日
(2)最終学歴:山口県立小野田工業高校
(3)ホーリーネーム:アングリラーマ
(4)脱走した90年当時の階級(ステージ):大師
 親から高い教育の機会を与えられた高学歴のエリートが多い中で、不遇な幼少期をすごした。
 山口県生まれ。1歳半で養子に出され、名字は岡崎から佐伯に変わった。
 そのことを知ったのは、中学3年の時。養父母から、
「炭坑の風呂で、子どもをあげてもいいという人がいたのでもらった」
 と打ち明けられた。
 養父は短気で、けんかをしては職を転々とした。そのため、中学卒業まで神奈川県や広島県など、何度も転校を余儀なくされた。
 プロテスタントの教会に通ったこともある。「家族のように接してくれるから」だ。愛情に飢えていた。
 高校卒業後は、建設会社や教材販売会社などを渡り歩き、滋賀県内の製薬会社に勤めているときに、雑誌で麻原の存在を知った。
 電話をかけると麻原が出て、誘われるまま1985年に「オウム神仙の会」に入会。87年に出家した。ようやく「居場所」をみつけた思いだったという。教団では、麻原、女性幹部I・Hに次ぐ3番目の「成就者」となった。
 89年2月には、信徒の田口修二さんを殺害、11月には坂本弁護士一家殺害事件に手を染めた。
 それから約3カ月後、総選挙に出馬しているさなかに2億円余りの選挙資金を奪い、妻と一緒に教団から脱走。カネはすぐに取り返されたが、山口県に戻って学習塾を開いた。この時に岡崎姓に戻った(のちにまた別の名字に改姓)。
 その後、坂本夫妻の長男の遺体を埋めた長野県の写真に、地図と見取り図をつけて神奈川県警などに匿名で送った。警察から事情を聴かれたが、オウムの犯行ではないとウソをつくと、「簡単に信じてくれた」という。教団からは、事件の「口止め料」として約850万円が支払われた。
 95年、地下鉄サリン事件後に受けた任意の事情聴取で、坂本弁護士一家殺害への教団の関与と実行役の名前を打ち明け自首した。
「麻原のような怪物がこの世に二度と生まれてこないためにも、すべての真相を積極的に話します」
 公判では力強くそう語る一方、麻原に逆らえなかったと繰り返した。
 地下鉄サリン事件で自首した林郁夫受刑囚が、死刑でなく無期懲役になったように、自首による減刑を求めた。しかし、過去の聴取で関与を否認したため「自首は自己保身にすぎない」とされ、死刑判決が言い渡された。
 ※週刊朝日 臨時増刊『オウム全記録』(2012年7月15日号)

 ◎上記事は[dot.]からの転載・引用です
――――――――――――――――――――――――
サリン散布の林元死刑囚、執行前「生かされ感謝」=遺族に謝罪の気持ちも
2018年07月27日 05時42分 時事通信
 地下鉄サリン事件の散布役で、26日に死刑執行されたオウム真理教の元幹部林(小池に改姓)泰男元死刑囚(60)は、執行の約2週間前、接見した弁護人に「生かされ感謝している」と話していた。取材に応じた弁護人が27日までに明らかにした。最期まで事件の遺族に謝罪の気持ちを抱いていたという。 吉田秀康弁護士によると、元代表松本智津夫元死刑囚ら7人の刑が6日に一斉執行されると、林元死刑囚は翌週の執行を覚悟したようで、「この手紙が届く頃には、もう生きていないと思います」との手紙を仙台拘置支所から寄せた。8日に投函(とうかん)されたものだったという。 最後の面会となった13日は、入浴を済ませ、笑顔で接見室に姿を現した。遺族や被害者への謝罪の気持ちを持ったままだったといい、「生かされていることに感謝している」と話していたという。 【時事通信

 ◎上記事は[@niftyニュース]からの転載・引用です
――――――――――――――――――――――――
勝手気ままな「フリーマン」端本悟 証言を拒んだ「沈黙の男」横山真人 <教団エリートの「罪と罰」(6)>
東大卒の死刑囚・豊田亨 麻原の「浮揚」信じた物理の秀才・広瀬健一 <教団エリートの「罪と罰」(5)>
執行前「生かされ感謝」=「殺人マシン」林泰男死刑囚 “愛”求め出家=岡崎一明 <教団エリートの「罪と罰」(4)>
「人のために尽くしたい」と出家して2カ月で殺人者に…<教団エリートの「罪と罰」(3)>土谷正実 中川智正
「グル(麻原彰晃)の指示なら、人を殺すことも喜び」<教団エリートの「罪と罰」(2)>新実智光 早川紀代秀
超有能な彼らはなぜ麻原彰晃の元に集まったのか? <教団エリートの「罪と罰」(1)>遠藤誠一 井上嘉浩
------------


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。