井上靖著『後白河院』

2018-05-12 | 本/演劇…など

〈来栖の独白 2018.5.12 Sat〉
 あっさり読み終えるつもりが、結構(?)手間取った。何度も、前の頁に戻って読み返しなどした。安部龍太郎氏の『浄土の帝』と重なって、面白さが倍加した。概要のみ、書き留めておきたい。
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井上靖著『後白河院』 昭和47年6月15日第1刷り発行 筑摩書房
 概要
・第1部 摂関家の家司だった平信範の日記「兵範記」より。1156年保元の乱から1160年平治の乱まで。
・第2部 後白河院の譲位後の妃である建春門院に仕えた建春門院中納言の日記「たまきはる」より。1168年から1176年建春門院の逝去まで。 
・第3部 後白河院の側近を務めた吉田経房の日記「吉記」より。1177年の鹿ヶ谷事件から1185年に平家が滅亡し、義経が都に凱旋するまで。
・第4部 九条兼実の日記「玉葉」より。1185年の平家滅亡から1192年後白河院崩御まで。兼実は一貫して後白河院と距離を置いていたが「政をしろしめすお立場は院おひとりだけのものであり、それはご自分おひとりでしかお守りになれないものである」「後白河院だけは六十六年の生涯、ただ一度もお変わりにならなかったと申し上げてよさそうである」と、多くの公卿や武家を相手に孤独な闘いを続けてきた後白河院に敬意を表している。

 貴族から武士へと権力が移行していく激動の時代に権力を保持し続けた後白河院は、即位から4年目で約束通り息子(二条天皇)に皇位を譲り、院政を開始する。そして二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代にわたって院政を執り続けた。
 出家して法皇となった後白河院は、力をつけてきた平家を討伐しようと密かに計画を進めるが、失敗に終わり(鹿ヶ谷の陰謀)平清盛によって幽閉されてしまう。しかし、これを耐え忍んだ後白河院は清盛が死去すると政治の表舞台に返り咲き、平家討伐を裏から操った。その後も多くの政敵によって幽閉されたり流罪にされたりするのだが、不死鳥のように復活する。
 源平の戦いで木曽義仲が京に入ると聞けば義仲の元へ行き、源頼朝が立てば頼朝に義仲追討を命じ、平家を倒した源義経が京に戻れば官位を与え、それに頼朝が怒れば、頼朝に義経追討の命令を出す…と、見事にそれぞれの勢力を手玉に取っている。強運の持ち主でもある。
 後白河院の立場からすれば、朝廷の権力を守るために武家社会に抵抗するのは当然だろう。武家の言いなりにならず、権謀術数の限りを尽くして朝廷権力を保持した後白河院。激動の平安末期を強かに生き延び、66歳で大往生を遂げた。
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『とめどなく囁く』 「聴覚障害者の五輪、デフリンピックに・・・」 『浄土の帝』 2018.4.20
 〈来栖の独白〉追記
 山本周五郎さんの『ながい坂』を読了したのが、今月4月3日だった。あとは軽いものをと思い、桜木紫乃さんの『ホテルローヤル』を買っておいたのだが(桜木さんは現在、新聞小説連載中で、中々の力量を感じさせる)、短編を2作読んで、放り出した。
 何を読もうか、読めばいいのかと暫し寂しい思いをしていたところ、数年前、途中まで読んで止めていた安部龍太郎著『浄土の帝』を書棚から見いだし、現在、それを読んでいる。半分ほど、読んだところ。
 安部龍太郎氏の作品は、新聞連載で『等伯』を読み、心を揺るがされた。大変な力量を感じさせた。だが、『浄土の帝』は読めば心が滅入るばかりで、諦めたのだった。
 いま再び手に取り読んでいるが、落ち着いて(先を急がず)読めば、流石、安部龍太郎氏作品。趣き、深い。
 崇徳上皇(兄)と後白河帝(弟)の失意、無念、悲哀が胸に迫る。信西法師、美福門院の権勢、暗躍など、「ああ、安部龍太郎氏はここまで到達したのか」と私も感じ入る。
 断片になるが、心に染みた部分、書き写してみたい。

    

浄土の帝
p248~
 洛中を華やかに彩った紅葉も散り果てた頃、右京大夫が一人の僧を案内してきた。
 墨染めの衣を着ているが、頭はざんばら髪にして髭もたくわえている。肩幅の広いがっしりとした体付きで、手は武士のように節くれ立っていた。
「それがしの縁者で佐藤義清(のりきよ)と申します。今は出家をとげ、西行と名乗って山野を遊行しております」
 右京大夫が烏帽子に手を当て、いささか得意げに紹介した。
 西行法師はこの年39歳。鳥羽院の北面の武士という恵まれた地位を捨てて出家したのは、33歳の時である。
 それ以後漂泊しながら物した和歌が認められ、洛中でも評判になりつつあった。
「そちの名は兄君から聞いたことがある。前の乱で仁和寺に逃れられた時、いち早く馳せ参じたそうだな」
p250~
「何のお役にも立てぬ身ですが、源平の武士が狼藉に及ぶようならば、一命を賭してお守り申し上げるつもりでございました」
 西行と崇徳上皇とは、歌道を通じて交誼を深めた間柄である。
 その結びつきは主従の絆よりも強く、上皇が危難に遭われたと知ると、じっとしていられなかった。
 この時上皇の無念と世の理不尽を嘆いて作ったのが、

  かかる世に影も変はらず澄む月を
    見る我が身さへうらめしきかな

 という一首だった。
「兄君も心有る者と賞しておられた。私からも礼を言う」
「この間、主上よりご下問をいただきました時に、ご返答申し上げることができませんでした。あるいは義清ならばと思い、高野山の草庵から呼び寄せたのでございます」
 右京大夫は縁者だけに俗名で呼ぶ習慣が抜けていない。西行も面映ゆげな表情をしたばかりで、それを咎めようとはしなかった。
「ならば教えてくれ。この世を極楽浄土にするにはどうすればよい」
p251~
「それは無理でございましょう」
 西行は迷いなく答え、しばらく思案してからこう付け加えた。
「されど、人の心に極楽浄土を築くことはできるものと存じます」
「人の、心にか」
「はい。すべては人の心から生じるものでございます」
「そのために、私は何をすればいい」
「揺るぎなきものに従い、心の王となっていただきとうございます」
 その言葉は、帝のお心を強く打った。 揺るぎなきものとは何か。心の王とはどうあるべきか、西行は一切語らない。
 だがこれまで五里霧中だった行手に、ひと筋の燭光を見出した思いをしておられた。

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