「死刑執行 国会会期中も」小川法相/確定から六ヶ月以内←憲法が残酷な刑罰を禁止している趣旨/光市事件

2012-01-25 | 死刑/重刑/生命犯

法相・小川敏夫氏インタビュー 死刑執行「逃げるつもりない」
産経ニュース2012.1.25 01:18
 現在の確定死刑囚は130人にもなる。新たに法相に就任した小川敏夫氏(63)は執行に前向きな姿勢を示しており、産経新聞などのインタビューに、執行が避けられる傾向にあった国会中も「逃げるつもりはない」などと語った。
 × × × 
 --死刑執行に対する考えは
 「やりたいかやりたくないかといえば、やりたくないのが心情だ。だが、死刑の執行は法相の職責。法律で定められた職務を執行しないことは、許されない」
 --国会会期中は執行がない傾向がある
 「開会中に執行すると、質問されるから嫌だと逃げるつもりはない」
 --平成22年に元法相の千葉景子氏が省内に設置した死刑制度の勉強会への考えは
 「勉強会では、昔からある制度の存否に関する意見を聞くことが多かった。回を重ね同じ意見を聞くのは効率的ではない。存否ではなく、死刑の執行方法、確定死刑囚の処遇の問題については議論を進めたい」
 --取り組みたい政策課題は
 「検察への信頼回復と、ロースクールを中心とする法曹養成制度。法曹養成は当初理念と離れた状況にある。職域を拡大し、いい人材を輩出できる制度を実現したい」
 --おとり捜査など新たな捜査手法を導入すべきだと考えるか
 「現状は、新たな捜査手法がないと捜査ができないというまでの状況ではない。ただ、取り調べの可視化を導入すると、合理的に証拠を収集する捜査手法が必要だという議論がある。しっかり検討したい」
 --可視化は全事件、全過程で必要か
 「全事件、全過程といえば、交通違反など軽微な事件もあり、技術的に難しく、効率的にも悪い」
 --人権救済機関の設置について
 「反対される立場の方の意見を最大限尊重して、なるべく早く法案を成立させたい」(上塚真由)
=============================
光市母子殺害事件、最高裁で上告審弁論
日本経済新聞2012/1/23 21:55
 1999年に起きた山口県光市の母子殺害事件で殺人罪などに問われ、差し戻し控訴審で死刑判決を受けた元少年(30)の上告審弁論が23日、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)であった。弁護側は「母性に甘えた未熟な犯行」として死刑回避を主張、検察側は上告棄却を求めた。初公判から12年を経た異例の公判はようやく結審し、今春にも判決が言い渡される。
 犯行態様や被害者数、年齢などを死刑の選択基準に挙げた最高裁の「永山基準」に照らし、落ち度のない母子2人の命を奪った責任の重さと、年齢や反省の度合いなどの情状面をどう判断するかが焦点。死刑の適否を巡り2度目の最高裁判決に注目が集まりそうだ。
 少年法は18歳未満への死刑を禁じており、犯行当時18歳1カ月だった被告に死刑を適用するかを巡り司法判断は割れた。差し戻し前の一、二審は更生可能性を考慮し無期懲役を選択したが、最高裁は「特に酌量すべき事情がない限り死刑とすべきだ」として審理を差し戻し、広島高裁が改めて死刑を言い渡した。
 差し戻し審で弁護側は「母親のように甘えたくて抱きついた」「乱暴したのは生き返りの儀式」などの新主張を展開。この日の弁論でも「甘えたかったが拒絶されパニック状態になり、父親からの虐待経験もあって過剰反応をした」と主張した。乱暴も「母へのゆがんだ性愛と現実逃避が理由」として、殺意や強姦目的を否定した。
 安田好弘弁護士は「被告は『一審で殺意や強姦目的を認めたのは、死刑を求刑され怖くなり、認めないと死刑にされると思ったからだ』と話している。新供述が真実だ」と述べ、死刑回避と差し戻しを求めた。
 検察側は「犯行の動機・態様は極めて悪質で、遺族の処罰感情も峻烈(しゅんれつ)。年齢などを総合考慮しても死刑判決は正当で、上告は速やかに棄却されるべきだ」と訴えた。
 死刑求刑に対する二審の無期懲役判決を不服とした検察側上告に対し、最高裁が二審を破棄して差し戻したのは、連続射殺事件の永山事件、広島での仮出獄中の強盗殺人事件に続き3件目。これまでの2件はいずれも差し戻し審で死刑が確定した。
 二審判決によると、被告は99年4月14日、配水管検査を装って被害者宅に上がり込み、本村弥生さん(当時23)を殺害、乱暴し、長女の夕夏ちゃん(同11カ月)も殺害したほか、財布を盗むなどした。
=============================
転倒 永山基準/死刑執行命令と法相の義務/「確定から6ヵ月以内に執行」は、訓示規定に過ぎない/裁判員制度2011-03-01 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
 〈来栖の独白2011/03/01
 死刑制度の周縁で、一部思い込みのような解釈が蔓延しているのではないか、と少し気になった。「〔1〕永山基準 〔2〕死刑執行と法相の義務~死刑執行は6ヵ月以内 〔3〕裁判員制度」の3点について、安田好弘弁護士の論説などを援用しながら考えてみたい。

〔1〕永山基準
  「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
  2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
 光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
 ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。

〔2〕死刑執行に法務大臣の法的義務は存在しない~「6ヵ月以内」は訓示規定に過ぎない 
 千葉景子法相による死刑執行に抗議する 弁護士・フォーラム90 安田好弘
2010年7月28日の執行・執行抗議集会から
 
◎法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない
 今回、千葉さんが、「死刑執行するのは法務大臣の義務だ」と言っています。実は、過去、法務省はそのようには言っていませんでした。これを言い始めたのは、後藤田元法相です。彼が1993年3月に死刑執行を再開した後に、自己の行為の正当化のために言い出したことです。彼に対しては、志賀さんや倉田哲治弁護士などが直接会って、執行をしないようにと話をし、彼はそれに対してよく考えてみるとか、団藤さんの本も実際に読んでみるとか、言っていたわけです。ところが彼は死刑を執行し、法務大臣には死刑執行をする法的義務がある、だから執行しないのは怠慢だし、執行しないならば法務大臣を辞めるべきだと、そもそも執行しない者は法務大臣に就くべきではない、と言い出したのです。今回の千葉さんも、詰まるところ同じことを言っているのです。
 私たちはその当時から、法務大臣には死刑執行の法的義務はないのだと言い続けてきました。これはスローガンとして言っていたわけではなく、法的根拠を持って言ってきたわけです。刑事訴訟法の475条第1項を見ていただければわかりますが、死刑執行は法務大臣の命令による、としか書いてないわけです。法務大臣が死刑執行をしなければならない、とは書いていません。これは法務大臣以外の者が死刑執行を命令してはならないという制限規定です。第2項に6ヵ月以内に執行命令を出さなければならない、となっていますが、これは法務省自らが訓示規定と言っているわけでして、絶対に守らなければならないというものではないわけです。
 法務省が言っていますが、法務大臣の死刑執行はどういう法的性質のものかというと、死刑執行を法務大臣の権限としたのは(権限です。義務とは言っていない)、死刑執行は極めて重要な刑罰なので、政治的責任を持っている人間しか命令してはならないものだ。法務大臣は政治的責任を負っているのだから、いろいろの社会的状況を考慮して、政治的な決断として執行を命令するのだ、という言い方をしています。ここからは義務だという発想は出てこないのです。法務省設置法という法律がありまして、法務省の責任や役目を示したものですが、3条、4条にはっきり書いてありますが、法務省の任務に、「基本法制の整備」、「刑事法制に関する企画立案」とあります。彼らの責務として法体制を改革したり改善したり、法律を新しく制定したり、法律を改正したり、ということがあるわけです。ですから法務大臣は死刑執行をすることが義務ではなく、死刑制度について改善したり、新しい死刑制度に関する企画を出したり、その企画が通るまで死刑執行を停止すると、いったようなことが法務大臣の義務としてあるわけです。千葉さんの発言は、これを完全に無視した発言であるわけです。
 さらに言いますと、官吏服務紀律という勅令がありまして、昭和22年に一部改正されており、国務大臣はこれに従わなければならないとされています。その1条には「国民全体の奉仕者として誠実勤勉を主とし法令に従い各職務をつくすべし」とあって、権限を行使する場合は、公僕として法律に則って職務を果たせという職務規範はあっても、死刑執行を命令しなければならないというような、羈束(キソク=つなぎとめる、拘束する)的に、必ず一定の行為を行わなければならないというような職務規範は予定されていないわけです。このように、法の規定からしても、また過去の法務省の理解ないしは解説からしても、法務大臣に死刑執行命令をする義務があるというのは、間違い以外何ものでもないと考えます。この点についても議論しなければならないと、私は思っています。

死刑執行命令を発する権限と義務
 刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならないが、再審請求などの期間はこれに含まれない。また、大臣によって決裁の頻度は異なり、賀屋興宣や左藤恵等、在任中に発令の署名をしなかった大臣の例もある。第3次小泉改造内閣の法相杉浦正健が就任直後の会見で「私の心や宗教観や哲学の問題として死刑執行書にはサインしない(杉浦は弁護士出身、真宗大谷派を信仰)」と発言したところ各所から批判を浴び、わずか1時間で撤回するという騒動が起きた(ただし、在任中は死刑執行命令を発しないで、結果的に最初の信念を貫き通した形となった)。
 判決確定から6ヶ月という規定は、日本国憲法制定後に、「今までのように死刑執行まで時間がかかりすぎるのは、死刑執行を待つ恐怖が長く続くことになって残酷であり、新憲法の趣旨にも反する」という理由で作られたもので、「犯罪者に対する厳正な処罰のために、6ヶ月で執行しなければならない」とする解釈は、本来の趣旨ではない。判決確定から6ヶ月以内に執行されない事例がほとんどであり、実効性のない規定になっている。 
                    .........................
 第002回国会 司法委員会 第49号昭和二十三年六月二十八日(月曜日)   午前十時二十五分開会 
  本日の会議に付した事件 ○刑事訴訟法を改正する法律案(内閣送付)

〈前段 略〉
 四百七十五條は現行法の五百三十八條に相当する規定でございまして、死刑の執行に関する規定であります。その第二項の規定は全く新らしい規定でございまして、即ち法務総裁が死刑執行の命令をするのは、判決確定の日から六ヶ月以内にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がなされまして、その手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、只今申上げました六ヶ月の期間にこれを算入しないということにいたしたのであります。現在におきましては、死刑の判決が確定いたしましてから相当な日数を経過いたして後に、初めて死刑執行の命令が出ておるのでありまするが、すでに死刑の判決を受けた者に対して、長い期間その執行をいたしませんで、いつまでも眼の前に死刑ということを考えながら拘禁されておるということは、如何にも残酷でありまして、憲法が残酷な刑罰を禁止しておる趣旨にも反すると考えまして、死刑の判決が議定した後は、その確定の日から六ヶ月以内に法務総裁は、その執行の命令をしなければならない、というふうに規定いたしたわけでございます。勿論但書にございまするように、再審とか非常上告とか、恩赦というようなことについては、十分な考慮が拂われるわけでございます。
 次に四百七十六條は、現行法の五百四十條に相当いたしておりまして、「法務総裁が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない。」ということにいたしたのであります。
 四百七十七條は現行法の五百四十一條に相当いたしておりまするが、第一項におきまして、死刑の執行の立会人に新たに監獄の長又はその代理者というものを附加いたしまして、現行法におきましては、立会は檢察官と裁判所書記であつたわけでありまするが、更に愼重を期しまして、監獄の長又はその代理者も立会わなければならないということにいたしたのであります。
 四百七十八條は現行法の五百四十二條に相当いたしておりまして、死刑執行始末書に関する規定であります。
 四百七十九條は現行法の五百四十三條に相当いたしまして、死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態にあるとき、又は死刑の言渡を受けた者が女子であつて懷胎しておる場合には、法務総裁の命令によつて、その執行を停止しなければならない、という規定を設れたわけでございます。而してこの執行を停止いたしました場合に、その後において心神喪失の状態が回復した場合、又は出産がありました場合に、改めて法務総裁の命令がなければ執行をすることができない、というふうに規定いたしたわけであります。第四項におきまして、四百七十五條第二項の規定を準用することにいたしまして、この場合においても、心神喪失の状態が回復した日、又は出産の日から六ヶ月以内に執行の命令をしなければならないということにいたしたのであります。その趣旨は四百七十五條第二項において御説明いたしました通り、長い期間死刑を眼の前の置いた拘禁を継続するということは、余りにも残酷ではないかという考えから出ておるわけであります。
 四百八十條は、現行法の五百四十四條に相当いたしております。即ち体刑の言渡を受けた者が、心神喪失の状態にありまする場合には、その心神喪失の状態が回復するまで、執行を停止しなければならない、という規定であります。
〈以下 略〉 

〔3〕裁判員制度~死刑粗製乱造時代の始まり
国家と死刑と戦争と【2】
弁護人・被告人の抵抗を潰す「司法改革」
 「司法改革」という言葉を皆さんご存じかと思います。その「司法改革」の要として裁判員制度の導入があると説明されています。この裁判員制度の導入を言いだしたのは、最高裁でも法務省でもありません。それは、内閣に設置されている「司法改革推進本部」---内閣直属の機関が、突然言いだしたわけです。その理由とするところは「広く国民に司法を開放し、国民の司法に対する信頼を獲得する」と法律の冒頭で謳っています。司法の公正を維持するというのではなく、司法の国民的な信頼を維持する、つまり国家的な司法に切り替えるということなんです。簡単に言ってしまえば、国民を総動員する司法をつくり上げようということです。そして裁判員制度の実現のために必要であるとして出てきたのが「公判前整理手続」の導入と「新たな国選弁護人制度」の導入であるるわけです。国民の皆さん方に裁判員になって協力してもらうのだから、なんとしてでも裁判は迅速にしなければならない。裁判員に対し、せいぜい3~5日くらいの拘束期間で裁判を終わらせなければならない。そのためには、その裁判の前の段階で弁護人と裁判所と検察官が「公判前整理手続」という手続きを行って、下ごしらえする。つまり争点とか証拠の整理をすべて密室で事前に終わらせたうえで裁判にかけるという制度を、彼らは作り上げたのです。談合裁判なんです。公判を数日で終わらせるためには、この公判前整理手続を新設するだけでは間に合わない。それで、さらに拙速裁判(彼らは「裁判の迅速化」と呼んでいますが)、つまり連日開廷、継続審理、主尋問と反対尋問は同日中に行わなければならない、ということを定めたのです。これによって死刑事件はどういうことになっていくのでしょうか。
 皆さん方もおわかりだと思いますが、死刑事件は長い時間と多大の調査、そしてまず本人自身が事件と正面から向き合う、そういう態勢が整って初めて真相が解明されます。長い時間をかけて初めて被告人自身が裁判で当事者として自ら主張し、自らの権利を守っていこうとすることができる、ということは私たちが過去何度も体験してきたことです。しかし、この「公判前整理手続」あるいは「裁判の迅速化」によって、その機会が完全に奪われてしまうわけです。例えば昨年、神戸で行われた裁判では、「公判前整理手続」が行われて、起訴されてからわずか3ヵ月で死刑判決が出ました。公判は数回だったようです。本件は控訴されないまま確定しています。
 それから次に新たな国選弁護人制度の導入です。これは、弁護人が公判前整理手続に出頭しない恐れがある場合、あるいは出頭しても中途で退席する恐れがある場合、あるいは公判についても同じですが、そのような場合には、裁判所は新たな国選弁護人を選任することができるという規定が設けられたのです。ですから例えば大道寺さんたちがやろうとした、弁護人を解任して弁護人不在の状態で、とにかく裁判を進行させないということは、およそできなくなってしまったのです。弁護人が裁判所の不当な訴訟指揮に対して抗議する、その抗議あるいは抵抗の手段として残されていた法廷のボイコットという手法が、完全に封じられてしまった。弁護人が法廷をボイコットすると、直ちに裁判所の言いなりになる国選弁護人をつけられて裁判を終結させられてしまうわけです。
 私たちは麻原彰晃さんの裁判のとき、当時弁護人は12名おりましたが、1度だけですが全員が裁判を欠席したことがありました。ボイコットしたわけです。裁判所は私どもの事務所に電話してきてなんとか出廷してくれと言ってきました。私たちは全員それを拒否して出なかった。これまでならば、彼らはそれ以上のことはできないわけです。結局その日の裁判は取りやめになりました。裁判所はそれに懲りたのか、いくらかは反省して訴訟指揮を緩めてきました。しかし今後はそのようなことはできない。裁判所の権限が強化されて、そういうときは弁護人に出頭命令が出され、それだけでなく在廷命令が出るわけです。そしてそれに従わなければ、直ちに科料という制裁に処せられることになります。(中略)
 どういう場合にそれができるかというと、例えば弁護人が公判前整理手続事実関係について否認するという意思を表明した場合、裁判所がその手続に被告人を呼び出して直接被告人に対して「本当に否認するのか」と問いただす、つまり言外に弁護人の言うことに従わずにさっさと認めたらどうか、と問いただすことができる。当然被告人は裁判官の顔色をうかがって「否認する」とは言い切れない。結局「争いません」と言わざるをえない。裁判所は弁護方針にまで直接介入・干渉することができるわけです。また、こういう場合、裁判所は、弁護人と被告人に対し、連名で書面を出せと要求することができることになりました。結局、弁護人は被告人の意思に従わざるをえず、被告人は裁判所の意向に従わざるをえない。そういう制度に新刑事訴訟を変えてしまった。
 皆さん方は、これまで死刑事件にかかわってこられておわかりと思いますが、事件を起こした人というのは、その起こした瞬間から、すでに自分の命を捨てています。1日も早く処刑されてこの世から消えることを彼自身は願っている。そういう中で、弁護人が一生懸命彼を励まし、一つ一つ事実について検証していこう、検察官が出してくる証拠について確認していこうよと呼びかけても、被告人からは「とにかく裁判を早く終わらせてくれ」と求められるわけです。そういうことを新しい法律が見越して、被告人がそういう状態にいる間に裁判を終わらせてしまおうというのが、この新しい法律の狙いです。
「裁判員制度」の導入は徴兵制と同じ
 すでに言いましたとおり、裁判は、公判前整理手続や新たな国選弁護人制度の下で完全に争う場面そのものが剥ぎ取られた上で公判が始まります。判決は市井の裁判員6名と裁判官3名の9名の多数決によって決められるので、当然社会の世論がそのまま裁判に反映されることになります。有罪無罪から始まって死刑か無期かに至るまで、多数決、つまり今のc。今の世の中では8割近い人が死刑を容認しています。マスコミの事件報道の氾濫により、殆どの人が治安が悪化していると思い込んでいます。さらに多くの人が犯罪を抑止するためには厳罰が必要だと確信しています。そういうものがそのまま法廷に登場するわけです。それだけでなく、被害者の訴訟参加によって被害者の憎しみと悲しみと怒りがそのまま法廷を支配するのです。法廷が煽情化しないはずがありません。感情ほど強烈なものはありません。感情に対しては反対尋問も成立しません。感情は理性を凌駕します。まさに法廷はリンチの場と化すのです。
 従来キャリア裁判官によって裁判制度は維持されてきました。なぜキャリア裁判官制度を私たちは選択したか。キャリア裁判官でなければ維持できない原則が司法にあるのです。それは、世論に影響されない、政治的な圧力にも影響されない、そして無罪推定の原則の下に事実を認定し、法の下に量刑を判断する---それはアマチュアではだめで、専門的な教育を受け、トレーニングを積んだ職業的な技能と倫理観に支えられた専門家によって初めて公正な裁判が維持できるという制度設計、戦前あるいは過去の裁判制度の弊害を見たうえでの私たちの知恵として、安全弁として職業裁判官制度を選択してきたのです。
 もちろん今の裁判官が高邁な思想や堅固な職業意識で支えられているわけではありません。現在、彼らの意識の中には無罪推定の原則はありません。検察官の言うとおりに事実を認定し、99,9%の事件について有罪判決を出す、チェック機能さえ有していないのが現在の司法裁判官の実態です。彼らは腐敗し堕落しきっているのですが、裁判員制度の導入によって、私たちが従来のキャリア裁判官制度に託した理念や思想さえも破壊してしまおうというわけです。これを単純に言ってしまえば、「司法の規制緩和」以外の何ものでもない。裁判員制度は規制緩和の一環として導入されたと言われています。それは、裁判制度を、商業的あるいは資本主義的な目的のために、有効に活用しようというのです。まさに司法そのものが国家政策を推進するものとしての新しい役割を与えられたわけです。
 ここでぜひ皆さんに考えていただきたいのですが、今の日本の法律の中で、私たち一般市民が国家的な権力行使行為に強制的に駆り出されるという法律は存在しません。強制的に義務を課せられるというはありますが、それはせいぜい徴税の義務とか、もっぱらサービスを提供させられる義務なのです。しかし、今回はサービスの提供ではない。裁判という権力を行使する機関の一員として私たちは義務づけされて国家行為をさせられるのです。参加しなければ10万円という科料を科せられます。これは戦後始まって以来の法律です。よく考えてほしい。死刑判決、それは行政府に対する殺人命令です。つまりそれは銃をかまえてその引き金を引くのと同じことです。それは、敵対する市民に向かって銃の引き金を引くのと同じこと、つまり戦闘行為そのものです。私たちは「判決」という、いかにもスマートな国家行為に参加させられるようにみえて、実はそうではない。敵を拉致して財産を没収する(これが罰金刑です)、捕虜として拘禁して強制労働をさせる(懲役刑の宣告はまさにそれです)、これを私たちは今回の裁判員制度によっていや否応なしにやらされる。これは徴兵制度そのものではないかと私は思うのです。裁判員になる確率は3500人ないし4000人に1人といわれています。しかし現在の自衛隊の規模で、徴兵制を導入するとなると、連れて行かれる人を全人口で割れば数字に大きな差はないだろうと思います。裁判員制度に動員される私たちと徴兵制に駆りだされる私たちと、型は違っても基本的に同じ構造を持っていると思います。
 話は元に戻ります。どうして彼らは、最高裁だけでも毎年16億ものカネをつぎ込んで、談合しマスコミを買収してまでも裁判員制度を実現しようとするのか。私はその裏に21世紀の徴兵制の導入、そしてさらに裁判員制度の導入によって抵抗する被告人・弁護人の排除、そして国民から拍手喝采を受ける刑罰の実現という、彼らが絶対に実現したいものがある。だからこそ、これほどまでに裁判員制度導入についてあからさまな宣伝行為というよりは情宣活動をやっているんだと思います。
.........................
『年報死刑廃止08』【犯罪報道と裁判員制度】ー安田好弘弁護士の話抜粋
 一つ理解していただきたいんですが、裁判員裁判が始まると言われていますが、実はそうではないのです。新しく始まるのは、裁判員・被害者参加裁判なのです。今までの裁判は、検察官、被告人・弁護人、裁判所という3当事者の構造でやってきましたし、建前上は、検察官と被告人・弁護人は対等、裁判所は中立とされてきました。しかし新しくスタートするのは、裁判所に裁判員が加わるだけでなく、検察官のところに独立した当事者として被害者が加わります。裁判員は裁判所の内部の問題ですので力関係に変化をもたらさないのですが、被害者の参加は検察官がダブルになるわけですから検察官の力がより強くなったと言っていいと思います。(中略)
 司法、裁判というのは、いわば統治の中枢であるわけですから、そこに市民が参加していく、その市民が市民を断罪するわけですね、同僚を。そして刑罰を決めるということですから、国家権力の重要な部分、例えば死刑を前提とすると、人を殺すという国家命令を出すという役割を市民が担うことになるわけです。その中身というのは、確かに手で人は殺しませんけれど、死刑判決というのは行政府に対する殺人命令ですから、いわゆる銃の引き金を引くということになるわけです。
 今までは、裁判官というのは応募制でしたから募兵制だったんです。しかも裁判官は何時でも辞めることができるわけです。ところが来年から始まる裁判員というのは、これは拒否権がありませんし、途中で辞めることも認められていません。つまり皆兵制・徴兵制になるわけです。被告人を死刑にしたり懲役にするわけですから、つまるところ、相手を殺し、相手を監禁し、相手に苦役を課すことですから、外国の兵士を殺害し、あるいは捕まえてきて、そして収容所に入れて就役させるということ。これは、軍隊がやることと実質的に同じなわけです。(略)
 裁判員裁判を考える時に、裁く側ではなくて裁かれる側から裁判員裁判をもう一遍捉えてみる必要があると思うんです。被告人にとって裁判員というのは同僚ですね。同僚の前に引きずり出されるわけです。同僚の目で弾劾されるわけです。さらにそこには被害者遺族ないし被害者がいるわけです。そして、被害者遺族、被害者から鋭い目で見られるだけでなく、激しい質問を受けるわけです。そして、被害者遺族から要求つまり刑を突きつけられるわけです。被告人にとっては裁判は大変厳しい場、拷問の場にならざるを得ないわけです。法廷では、おそらく被告人は弁解することもできなくなるだろうと思います。弁解をしようものなら、被害者から厳しい反対尋問を受けるわけです。そして、さらにもっと厳しいことが起こると思います。被害者遺族は、情状証人に対しても尋問できますから、情状証人はおそらく法廷に出てきてくれないだろうと思うんです。ですから、結局被告人は自分一人だけでなおかつ沈黙したままで裁判を迎える。1日や3日で裁判が終わるわけですから、被告人にとって裁判を理解する前に裁判は終わってしまうんだろうと思います。まさに裁判は被告人にとって悪夢であるわけです。おそらく1審でほとんどの被告人は、上訴するつまり控訴することをしなくなるだろうと思います。裁判そのものに絶望し、裁判という苦痛から何としても免れるということになるのではないかと思うわけです。(略)
 つまり、刑事司法は従来、本当は人を生かし、自由を守り、命を守り、そして名誉と財産を守るシステムだったはずのものが、実は人を破壊し、専ら人に苦痛を与える場所というふうになっているわけです。そういうものを防ぐために、少なくとも理性と法で支配される場、少なくとも事実が公正に評価される場、人が人として評価される場でなければならないのですが、ますますそれと逆行していく。その最たるものが裁判員裁判ではないかと思うんです。
,.............................
裁判員制度のウソ、ムリ、拙速
 憲法13条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定め、同18条後段は「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と定め、同19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と定め、さらに同29条1項は「財産権は、これを侵してはならない」と定めている(このうち「良心の自由」については、政府は立案段階で指摘を受け、これに違反しないよう政令で辞退事由を設けることを約束している)。
 ところが裁判員法によると、くじにより裁判員候補者とされた者は、具体的な事件ごとに行われるくじに当たって裁判所から呼出しを受けたときは、自分の仕事や予定を放り出してでも、裁判員選任期日に出頭しなければならない。


◆「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
1、三人の元少年に死刑判決が出た木曽川・長良川事件

2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの

3、裁判の重罰傾向について
4、裁判員制度と死刑事件について
=============================
光市事件 差し戻し審 口頭弁論/広島女児殺害事件 司法官僚が行使する「人事権」の絶大な影響力2012-01-24 | 死刑/重刑/生命犯 問題
---------------------------------------------


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。