goo blog サービス終了のお知らせ 

日本の死刑状況について

2006-11-17 | 死刑/重刑/生命犯

 今週初めだったか、FORUM90よりリーフレットが届いた。開封もせずゴミ箱へ捨てていたのだが、今朝ゴミ出しのとき気になって中を検めた。

 安田好弘弁護士さんの投稿記事があった。〔日本の死刑状況について ある無期懲役者の手紙から〕というタイトル。無期懲役者とは、K君のことだった。そうかぁ、彼の高裁判決から10年か、と当時を思い出した。1996年12月16日の言い渡しだった。安田さんも2審弁護を引き受けていた。白いワイシャツを腕まくりして熱弁を振るっていたのが、目に鮮やかだった。安田さん解任の後だったが、カトリック名古屋正義と平和委員会として私は減刑(一審死刑)を求める署名を高裁へ提出した。大高緑地アベック殺人事件被告K君は、高裁で無期懲役となった。少年たちがアベックを連れまわした挙句殺害した事件だった。「綱引きだぜ」と言ってロープで首を絞めた。被害死者二人。

 リーフレットの安田さんの記事。先ごろの監獄法の改正により発信が可能になったK君からの手紙が引用されていた。

 手紙を読んで私は、もし死刑廃止に一分の是があるとするなら、K君の生きて今ある姿、それが廃止の理由として挙げられるようならいいな、と思った。死刑廃止の論拠として「冤罪で死刑にしては取り返しがつかない」という理由は存置論からも容認されそうだが、記事中のK君の手紙を読み進むうち、(有実の人だけれど死刑でなく)生き直すチャンスを貰えてよかったね、と思わず独り言しそうになった。真剣な内省とともに、遺族に対し謝罪の報奨金(作業金)送付に至る長い道のりが綴られていた。きれいごとや見せ掛けから遠く離れているように思われた。

 K君の手紙から抜粋(大半略)

 《強がりではなく、一審当時のわたしには死刑になって死んでいくことは決して難しいことではありませんでした。まわりの状況や雰囲気などで、一審の途中からもう自分は死刑になると勝手に確信していたのですが、自分が死刑になって死んでいくということに対してはほとんど抵抗はありませんでした。もう終わった、と自分の人生に対しての諦めの気持ちもあったのですが、それまで精一杯かっこをつけて強がって生きてきたわたしにとっては、たとえ自分が死刑になったとしてもジタバタせず、最後のツッパリで清く死んでいくことしか頭になかったのです。むしろわたしは自分が死ぬということよりも、みんなの記憶の中から自分が消えてしまうんじゃないか、ということに対してのほうに抵抗があったように思います。たとえ私が死んだとしても、せめてわたしのことを忘れないでほしいという気持ちは強くもっていましたし、そのためにもうどうせ悪くされるのなら、たくさんの人の記憶に残るように思いきり悪のまま清く死んでいこうとしていたのだと思います。ほんとうになんて馬鹿な、と思うでしょうが、それまでのわたしは自分の命さえ大切にしていませんでしたし、そういう生き方しかしてこなかったのです。》

 安田さんは言う。「この10年で死刑判決は過去に比べて2倍ないし3倍に増大している」と。また、「10年前の判決は原則として死刑は避けるべきであるという考えに貫かれていました。とりわけ少年については特別の場合でないかぎり死刑にすべきではない、ということでした。ところが今年の6月の光市の事件では、原則として死刑にすべきである、少年についてはそれのみをもって死刑を回避すべき理由にはならない、死刑を回避するなら死刑を回避すべきそれなりの事由がなければならない、と判示したわけです。つまり原則と例外を逆転したわけです。 これについてはいろいろな見方がありますけれど、おそらく裁判員制度を見据えて死刑を回避するかもしれない裁判員に対してタガをはめた。あなたが死刑を回避するなら、回避すべき特別な事情がないとダメですよ、という基準を宣言したのだと言われています」。

http://www.k4.dion.ne.jp/~yuko-k/kiyotaka/colum10-yasuda.htm

 ここまで書いて、中途半端な抜粋では読んでくださる方から誤解を招くだけのように思われてきた。K君の心の道程が写しきれないからだ。更生の姿も、写せていない。


コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。