「復活の主日」2016/3/27Sun.「松坂屋美術館」ミッフィ展 「ヤマザキマザック美術館」コレクション展

2016-03-27 | 日録

〈来栖の独白 2016.3.27 Sun.〉
 松坂屋Museum。ミッフィ展を観た。可愛い、無垢の世界。よかった。昔、この四角い絵本をGさんから戴いた。
 本日は、美術館巡り。ヤマザキマザック美術館へも。コレクション展をやっていた。
 カラヴァッジョ『エマオの晩餐』(復活後のキリストが2人の弟子と宿屋の主人に自分の正体を明かすシーンが光と影で表現されている)に因んで描かれた、晩餐に与っている少年の絵も観た。折しも、今日はイースター。好いタイミング。「神に感謝」。

 (ルカ24章13節~43節)
 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。 
 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 
 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 
  「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。 
  わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 
  ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。 
  そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。 
 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。 
 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。 
  一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。 
 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。 
 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。 
  そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。 
  こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕 
  彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。 
  そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕 
  彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。 
  彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 
  イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。  *強調(太字・着色)は来栖
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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
 2016年3月27日  復活の主日 C年 (白)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った(ヨハネ20・1)

   

     復活したイエスとマグダラのマリ  手彩色紙版画 アルベルト・カルペンティール(ドミニコ会 日本)
  復活の主日・日中のミサの福音朗読箇所は、毎年ヨハネ福音書20章1-9節が読まれる(場合によって各年の復活徹夜祭の福音を朗読することも可能)。ヨハネの朗読箇所は、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」とマグダラのマリアが単独で行ったと述べる。これは、マタイが「マグダラのマリアともう人のマリア」、マルコが「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」と複数の女性の名が挙げられていること、ルカでは「婦人たち」(ルカ23・55)が墓に行ったことをまず述べ、あとで、彼女たちは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」(24・10)と説明されている。これらを見ると、まず女性たちが墓に行き、天使からイエスの復活を最初に告げられること、複数の女性たちと記す、マタイ、マルコ、ルカでも必ずマグダラのマリアが筆頭に挙げられていることがわかる。そして、ヨハネ福音書では、マグダラのマリアが単独で墓に行ったと述べられ、最初にイエスの復活の証人となる。ヨハネ福音書における彼女の強調は、きょうの朗読箇所のあとの部分で、特別に復活したイエスがマグダラのマリアに現れたというエピソード(ヨハネ20・11-18)をもってきていることと関連がある。
  きょうの表紙絵は、朗読される箇所のあとに続く、こちらのマグダラのマリアへの復活したイエスの現れの叙述に対応している。それは、きょうの箇所の初め「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」に予告されている内容なので、これら20章1-18節の全体を味わうために有意義な絵といえるだろう。ちなみに、このマグダラのマリアへの現れの箇所(ヨハネ20・11-18)は復活の火曜日とマクダラのマリアの記念日(7月22日)の福音朗読で読まれるが、主日に朗読される箇所ではないので、きょうの日のここまで続けて味わうのも意義がある。
  そして、キリスト教美術の中では、この場面は、ヨハネ20章17節で、イエスがマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」と告げる言葉のラテン語「ノリ・メ・タンジェレ」を表題とする絵として、数多く作品がある。場面そのものがドラマチックである。「わたしの主」が墓から取り去られていることに気づき、捜しているマリアに、まず、天使たちが「なぜ泣いているのか」と尋ねる(13節)、再び、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と訊く人が現れるが、マリアはそれがイエスだとは分からない(14節)。園丁だと思う。しかし、イエスが「マリア」と呼びかけると、気づく。彼女は振り向いて「ラボニ(先生)」と返す(16節)。続いて、イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとに上っていないのだから」と言い、イエスがこれから御父のところへ上ることを弟子たちに言うように命じる(17節)。マリアは弟子たちのところに行き「わたしは主を見ました」と告げ、イエスに言われたことを伝える(18節)。そして、そのあとのイエスの言葉(命令)は、我々に対するメッセージをも含んでおり、黙想にいざなう問いかけに満ちている。
  多く見られる絵では、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言うイエスの姿は、マリアのほうではなく、反対側のほうに向かっている。イエスのほうが別の方向に向かいながら、半身振り向いて、マリアに語りかけるという構図である。それがこれから父のところへ上ろうとしていることを示すものとなっていると考えられる。カルペンティール師のこの絵では(このような作例も歴史的にはある)、イエスの身体は、マリアのほうに向かっている。マリアはその前にひざまずいている。「マリア」と呼び、その呼び声でイエスと知り、「ラボニ(先生)」と呼び返したその出来事をこの向かい合わせの構図のうちに鮮やかに感じることができる。マリアは早速、両手をイエスのほうに上げて、すがりつこうとしている。しかし、イエスは左手でそれを制止する。まさに「わたしにすがりつくのはよしなさい」のしぐさ。そして、イエスの右手は天を指し示している。これは「まだ父のもとに上っていないのだから」、言い換えれば、これから「父のところへわたしは上る」ということを意味しているのある。このことこそを弟子たちに伝えるように命じている。このようにこの絵の描写はヨハネ20章16~17節の内容全体を表現している点で出色のものといえよう。
  もう一つ、カルペンティール師のこの作品で見逃せないのが、背景である。二人が出会う石畳の地面の向こうには緑豊かな木々が密生し、その向こうには城壁と屋根がひしめき合っている町、その向こうには山、右側には、太陽が上っている。緑の木々は永遠のいのち、町は神の国、山は天に近い、神との出会いの場所、そして太陽は神の光、神の力の象徴であろう。イエスの復活がまさしく「わたしたちの主」の現れ、新しい創造、神の国の決定的実現であることをこれらの背景は暗示している。
  この一場の光景そのものが明るく、喜びにあふれている。
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