長崎市長射殺:被害者1人でも極刑があり得るという「厳罰化」の流れ

2008-05-27 | 死刑/重刑/生命犯

長崎市長射殺:死刑判決は選挙への影響重視
 長崎市長射殺事件で死刑を言い渡した長崎地裁判決は、選挙期間中に候補者を殺害し、選挙に多大な影響を及ぼしたことを重要視したと言える。その一方、過去の事件に照らしても、被害者1人の事件で死刑を選択した基準に不明快さも残る。

 過去に死刑を選択する上で重視されてきたのが、殺害された被害者数とされている。1人の場合は懲役刑のケースが圧倒的に多いが、日弁連によると、被害者1人での死刑確定は25件で計26人いる。大半が身代金やわいせつ目的誘拐殺人か、殺人などでの仮出所中の場合などだ。静岡県三島市の女子短大生殺害事件(08年3月確定)や、宇都宮市の実弟殺害事件(同4月確定)などがそれに当たる。

 今回の事件では、候補者の殺害で、期日前や不在者投票などで前市長に投票した計1万5435票(全投票数の約8%)が無効になるなど選挙が混乱。判決はこうした影響を「市民の選挙権の行使を著しく妨害し、民主主義社会では到底許し難い」と指摘し、極刑選択の“よりどころ”としている。

 しかし、死刑の判断基準とされ、特に殺害された被害者の数を重視した「永山基準」(83年)や、過去の死刑判決と比較して、今回の判決が示した「死刑か無期か」の境目は判然としないとの見方もある。被害者1人でも極刑があり得るという「厳罰化」の流れに影響を与える可能性もある。来年5月から始まる裁判員制度ではこうした事件も対象となることから、裁判員になった市民が難しい判断を迫られるケースもありそうだ。【阿部弘賢】

 ◇ことば 永山基準
 最高裁が83年7月に永山則夫元死刑囚に対する判決で示した。事件の罪質▽動機▽事件の態様(特に殺害手段の執拗=しつよう=性、残虐性)▽結果の重大性(特に殺害された被害者の人数)▽遺族の被害感情▽社会的影響▽被告の年齢▽前科▽事件後の情状--を総合的に考慮し、刑事責任が極めて重大で、やむを得ない場合に死刑も許される、としている。

毎日新聞 2008年5月26日 21時07分(最終更新 5月26日 23時43分)

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市長射殺死刑 計画性認め政治テロ断罪
 昨年四月、選挙運動中だった長崎市の伊藤一長市長を射殺したとして、殺人や公選法違反(選挙の自由妨害)などの罪に問われた暴力団幹部に対し、長崎地裁は求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は判決を不服として控訴した。

 被害者が一人で、殺人の前科がない被告に対する死刑判決は異例だ。銃器を使った凶悪犯罪に対しては厳罰で臨む姿勢を示したものといえる。

 松尾嘉倫裁判長は、犯行を「冷酷、残虐で卑劣極まりない。銃犯罪の恐怖を全国に広げ、自治体の不安を増大させた。選挙権の行使を妨害し、民主主義を根底から揺るがす行為だ」と非難した。

 事件が起きたのは昨年四月十七日だ。JR長崎駅前の選挙事務所に戻ろうとした伊藤前市長に、被告は至近距離から拳銃で二発撃ち、死亡させた。被爆地長崎の代表として、国内外で平和を訴えてきた現職市長が市長選の最中に射殺された事件は、社会に大きな衝撃を与えた。

 判決理由で松尾裁判長は「被害者に命を奪われる理由は何一つない。暴力団の銃犯罪の典型で、行政対象暴力として類例のない極めて悪質な犯行だ」と指摘した。

 焦点だった犯行の動機については「市道での車の事故に絡む補償金も市から得られず、自暴自棄になっていた」とした上で、「メンツとプライドを失い、市に対して募らせた憤まんをトップである市長への怒りに変え、四選を阻止することで恨みを晴らすとともに、世の中を震撼(しんかん)させる事件を起こして自らの力を誇示したいと考えた」と述べた。

 弁護側は最終弁論で「殺意は犯行直前に生じた」と計画性を否定していたが、判決は「待ち伏せた上、ちゅうちょすることなく射殺しており、かなり以前から計画し犯行に臨んだと考えるのが自然だ」と指摘し、強固な殺意を認定した。

 今回の判決は、検察側が「まさに『選挙テロ』」と指摘した社会的影響の大きさを重視し、民主主義の根幹への挑戦であることが厳しく断罪されたといえよう。

 長崎市長射殺事件は、自治体に不当要求を突きつける「行政対象暴力」の実態を浮き彫りにし、法改正が進む契機になった。

 また、相次ぐ暴力団による銃犯罪の厳罰化にもつながった。政治家が暴力にさらされ、自由に活動できないようでは民主社会は成り立つまい。

 ましてや、銃器を使ってのテロ行為は断じて許されるものではない。判決の重みをかみしめたい。〈山陽新聞 社説 2008/05/27〉

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http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/690dcf5a4689fd1a77c0aa930f6fea0a

〈来栖のつぶやき〉

 国民にとって最高の政治参加・権利である「選挙」と「民主主義」を謳った判決文の説得力は、圧倒的だ。民主主義へのテロを断固許さないとの危機感は、私なりに分かるつもりである。また

“市への憤まんを募らせ、その首長である伊藤を逆恨みした。同人の市長選への出馬表明を知るや、同人を殺害し、当選を阻止することで、同人及び市への恨みを晴らすとともに、世の中を震撼(しんかん)させるような大事件を引き起こすことによって自らの力を誇示し、暴力団幹部としての意地を見せようと考えたと推認できる。”

 には、思わず戦慄した。

 その上で、主文に目をやる。悲しみ、虚脱感に襲われる。死刑とは冷厳に人の命を奪う究極の人権侵害であり、民主主義社会の下では、本件被告人も排除されず尊重されねばならぬ一員である。

 厳罰化は、どこまで進むのだろうか。司法が一人の人の命や更生にあっさり見切りをつける風潮の中で、果たして国民に人命重視の精神が育まれるのだろうか。厳罰化によって世の中がよくなっただろうか。どんどん殺伐とし、命の失われる犯罪が目に付くように思う。

 いま一つ、遺族の以下の言葉(朝日新聞)は、裁判員制度の問題点を「当事者の実感」から浮き彫りにした。

> 公判前整理手続きを経て、初公判から約4ヶ月で判決を迎えたスピード審理だったが、誠さんは「心の整理が追いつかないまま、審理だけが早かった。遺族は蚊帳の外に置いていかれたような印象で、必ずしもプラスではないと感じた」と首をひねった。


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