【さよなら平成】安倍晋三首相が本音で語る「平成」 政治の反省、自然災害、天皇・皇后両陛下への思い…
2019.4.30 14:30:20
安倍晋三首相は、平成最後の日(4月30日)に合わせて、夕刊フジの独占インタビューに応じた。昭和から平成への「御代替わり(みよがわり)」を振り返り、平成の政治改革や小選挙区制導入、自民党政治の反省、民主党政権の悪夢、バブル崩壊後の「失われた20年」といわれる経済低迷、阪神・淡路大震災や東日本大震災といった自然災害の脅威、いつも国民の幸せを祈り続けてこられた天皇・皇后両陛下への思いなど、本音で語った。
■「金丸事件」発端に大きな政治改革
--「平成」への改元時の思い出は
「当時、父(=安倍晋太郎元外相)が自民党幹事長で、私は秘書をしていた。昭和天皇が御体調を崩され、皇居には連日、御快癒を祈る国民の方々の記帳の長い列ができていた。改めて、陛下の存在の大きさを認識していた」
--昭和64(1989)年1月7日午前、昭和天皇が崩御され、同日午後、新元号「平成」が発表された(=平成は8日から)。幹事長室に事前連絡はあったのか
「なかった。小渕恵三官房長官(当時)の記者会見で新元号を知った。ただ、『昭和天皇の崩御』という事実の方が大きかった。私は29(54)年に生まれて、『ずっと昭和が続いていく』ような気がしていた。まさに、これは1つの時代が、激動の時代が終わりを告げるのかと思った」
--当時の竹下登首相の様子は
「いつもニコニコしている方だったが、前年9月に昭和天皇が吐血されてから、非常に緊張感を持っていたと思う。昭和天皇の御存命中に、新憲法下では初めてとなる御代替わりに向けて、ある意味、極秘で準備を進めなければならなかった。大変困難なことだっただろう」
--昭和の終わりから平成の初めにかけて、政界絡みの疑獄事件が続き、「政治改革」が叫ばれた
「大きな政治改革の流れができたのは『金丸事件』(平成5=1993=年)だと思う。東京地検特捜部の家宅捜索で、金丸信元副総裁の自宅から金の延べ棒が出てきたのには、心底驚いた。私は父が他界して、地元・山口で活動していたが、支援者から厳しいお叱りをいただいた」 「金丸事件を受けて、当時の自民党最大派閥・竹下派内で、激しいエネルギーのぶつかり合い(=派閥内抗争)が起こった。結果、竹下派分裂、宮沢喜一内閣の不信任案可決、自民党の野党転落へとつながった」
--小選挙区制導入が浮上した
「中選挙区制時代、自民党議員の敵は社会党などの野党議員ではなく、同じ選挙区の自民党議員だった。政策論争ではなく、サービス合戦になり、政治腐敗につながった。小選挙区制導入や、連座制導入などで、政治活動にかかる費用は激減した」
--「政治家が小粒になった」とも言われる
「それは、『最近の若い者は…』と同じだ(苦笑)。私も最初の選挙は中選挙区制で、中選挙区制論者だった。小泉純一郎元首相と『小選挙区制は日本には合わない』と反対していた。ただ、今から考えると、中選挙区制の方が政治活動や選挙運動は苛酷だった。『中選挙区制に戻すべき』という人は、その激しさを知らない。同時に『政治家が小粒になった』と言われないように、それぞれが努力すべきだ」
--平成の30年間で、首相は18人。1人あたり2年もない
「小泉首相時代、私は官房副長官としてマレーシア訪問に同行した。首脳会談の冒頭、マハティール首相が『私のカウンターパートである日本の首相はあなたで何人目だ。覚えきれないくらいだ。ぜひ、あなたは長くやってもらいたい』と言われたのを覚えている」 「明確なビジョンのもと、腰をすえて国内政策や外交を進めていくには、ある程度の期間、首相を務めることが大切だ。1年程度で達成できる政策はそうない。私は幸い、5回の国政選挙で勝利を与えていただいた。国民の信任を得てこそ、力強い外交も展開できる。実際、ある首脳は『1年ごとに首相が代わっていたときは訪日するつもりはなかったが、あなたが長く務めているので訪日したい』と言ってきた。その意味で、国民の方々に感謝したい」
--平成には「失われた20年」と言われるほど、日本経済が厳しい時期もあった
「平成はバブル景気で幕を開け、その崩壊後、長期間にわたってデフレに苦しむことになった。企業の売り上げや利益が増えず、給料は下がった。行き過ぎた円高で、大企業は生産拠点を海外に移す一方、中小企業はついていけず、工場を閉めた。リーマン・ショック(同20=2008=年)や、東日本大震災(同23=11=年)もあった。経済の低迷が続くなかで、雇用も失われた」
■アベノミクスで雇用も大幅改善
--就職氷河期世代(同5=1993=年から同16=2004=年くらいまでに卒業期を迎えた世代)は、かわいそうだ
「当時、働きたいと思う若い人たちに、十分な仕事を用意することができなかった。政治の責任で解決していく。具体策を示す」
--自民党の2度目の下野(同21=09=年)にも、経済低迷は影響している
「自民党にも原因があって、『一度、民主党にやらせてみては』という空気があった。だが、民主党政権は、できもしない政策を掲げて、その帳尻合わせのために七転八倒した。現実の経済状況に正しい判断ができず、円高はどんどん進み、なすすべがなかった。金融政策も分からず、機動的な財政政策もできない。そもそも、政権中枢に『人口が減少するのだから、成長なんてできない』と考えた人たちが多かった」
--自民党は同24(12)年に政権を奪還した
「私は『日本は成長する能力を持っているが、経済政策を間違っていた。今度こそ、日本経済を成長させる』という認識と決意のもと、同24年の自民党総裁選と、政権奪還した同年の衆院選で『日本を取り戻す』とスローガンを掲げた。大きな『あきらめの壁』を打ち破るということこそ、日本を取り戻すことだと考えていた」
--アベノミクスの「三本の矢」(機動的な財政政策、大胆な金融政策、投資を喚起する成長戦略)は注目された
「これまでとは次元の異なる経済政策を実行し、平成最後の6年間で『デフレではない』という状況をつくり、雇用も大幅に改善した。若者の就職内定率も、高卒、大卒ともに過去最高の水準となっている。中小企業者の倒産件数も、政権交代前より3割、減らすことができた」
■国民の幸せ祈り続けられた天皇・皇后両陛下
--世論調査では、野党勢力への支持が低い
「政治の世界には、批判勢力の存在は必要だ。ただ、批判するだけなら簡単だ。自分たちに『代替案』がなければ、万が一、野党から与党になっても、呆然(ぼうぜん)と立ち尽くすしかなくなる。われわれは政権奪還のとき、明確なプログラムを示した。経済も、外交も、安全保障もそうだ。ぜひ、野党の方々は『政権をとってどうするのか?』を語ってほしい」
--平成の時代は、自然災害も多かった
「阪神・淡路大震災(同7=1995=年)があり、東日本大震災、熊本地震(同28=2016=年)もあった。昨年の西日本豪雨も甚大な被害だった。気候の変動もあり、異次元の災害が起きている。さまざまな危機への対応を通じて、多くの教訓を学び、今日の危機管理対応、国民の命を守る防災・減災、国土強靱(きょうじん)化に結びつけてきた。無責任な『コンクリートから人へ』といったスローガンではなく、国民の命を守る責任感で政策を進めていきたい」
--国民が危機にあるとき、天皇・皇后両陛下の御存在は大きかった
「天皇・皇后両陛下は、大きな災害があったときは必ず被災地を訪問され、自ら膝を折って被災者を励まされた。災害がないときも、常に国民の安寧を祈り続けてこられた。東日本大震災のとき、天皇陛下は『これからの日々を生きようとしている人々の、雄々しさに深く胸を打たれています』と述べられた。私は今年の施政方針演説に、明治天皇の『敷島の 大和心の 雄々しさは 事ある時ぞ 現れにけり』という御製を引かしていただいた。天皇・皇后両陛下はいつも、この『雄々しき国民』とともに、おられたのだなと思います」(矢野将史、村上智博、松村友二)
◎上記事は[zakzak]からの転載・引用です *強調(=太字)は来栖
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